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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 123

ページ: 123

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【欄外】    豊橋市史談  (水 野 監 物)                    二百十八 【本文】       のが水野監物忠善(みづのけんもつたゞよし)である此(この)人(ひと)の事に就(つい)ては次章(じせう)に申述(もをしのべ)ることに致(いた)したいと思(おも)ふ             ⦿水野監物 《割書:水野忠善吉|田に封せら|る》   寛永(かんえい)十九年九月六日 之(これ)まで此地(このち)の城主(じようしゆ)であつた水野隼人正忠清(みづのはやとのせうたゞきよ)は信州(しんしう)松本(まつもと)の城(しろ)に移転(いてん)になつて其後(そののち)に        此地(このち)の城主(じようしゆ)となつたのが水野監物忠善(みづのけんもつたゞよし)であることは前章(ぜんせう)に申述(もをしの)べた如(ごと)くであるが此(この)忠善(たゞよし)と云ふ人も亦(ま)た 《割書:水野忠政 |水野忠守 》   水野左衛門太夫忠政(みづのさゑもんたゆうたゞまさ)の後裔(こうえい)である即(すなは)ち忠政(たゞまさ)の四 男(なん)に織部正忠守(おりべのせうたゞもり)と云ふ人があつたが其(その)又(ま)た二 男(なん)に監物(けんもつ) 水野忠元   忠元(たゞもと)と云ふのがあつて其(その)忠元(たゞもと)の嫡子(ちやくし)が此(この)忠善(たゞよし)である忠元(たゞもと)は若(わか)き頃(ころ)より二 代将軍(だいせうぐん)秀忠(ひでたゞ)に仕(つか)へて大坂(おほさか)両度(れうど)       の役(えき)にも従(したが)つたが忠善(たゞよし)は父(ちゝ)に継(つ)いで寛永(かんえい)七年十二月二十六日に叙爵(ぢよしやく)したのである徳川実記(とくがはじつき)には其日(そのひ)の        条(くだり)に「水野監物忠善(みづのけんもつたゞよし)従(じゆ)五 位下(ゐか)に叙(ぢよ)せられ左近将監(さこんせうげん)に改(あらた)む」と記(しる)してある其後(そののち)同(どう)十二年十一月二十二日 駿(する)        河国(がのくに)田中城(たなかじよう)四万石に封(ほう)せられたが此(この)田中城(たなかじよう)と云ふのは御承知(ごせうち)の通(とほ)り今(いま)の藤枝(ふぢえだ)町の東(ひがし)に接(せつ)して居(を)る処で        尚(な)ほ城趾(じようし)が残(のこ)つて居(を)るのである其処(そこ)から忠善(たゞよし)は今度(このたび)此(この)吉田(よしだ)に移封(いほう)せられて四万五千石に加増(かぞう)になつた 《割書:忠善岡崎に|移さる》   次第(しだい)であるが此人(このひと)は此地(このち)に在城(ざいじよう)せること僅(わづ)かに五 箇年(かねん)で正保二年正月十一日 岡崎城(をかざきじよう)五万石に移封(いほう)せられた       のである其後(そののち)延宝(えんほう)四年八月二十九日 年(とし)六十四で卒去(そつきよ)されたのであるが右(みぎ)の次第(しだい)であるから此(この)忠善(たゞよし)の事       に就(つい)ては余(あま)り申述(もうしの)ふることもないが只(ただ)た此(この)人(ひと)の代(だい)に民屋(みんをく)を移転(いてん)して総門(そうもん)を取拡(とりひろ)げ番所(ばんしよ)を設(もを)けたと云ふ事 忠善の言行 が三 州吉田記(しうよしだき)に記載(きさい)されて居(を)る又(ま)た此(この)人(ひと)の言行(げんこう)に就(つい)ては彼(か)の幕臣(ばくしん)の真山増誉(まなやまぞうよ)が著(ちよ)の明良洪範(めいれうこうはん)と云ふ書(しよ)        物(もつ)の中(なか)に少(すこ)しく載(の)せられて居(を)るので甚(はなは)だ味(あぢは)ふべきものがあると思(おも)ふから其(その)二三を抄録(しやうろく)して見(み)ようと思(おも)       ふモツトモ之(これ)は岡崎(をかざき)に転(てん)じてから後(のち)の話(はなし)ではあるが其(その)続篇(ぞくへん)の巻(まきの)一に 《割書:明良洪範の|事記》    水野監物忠善(みづのけんもつたゝよし)兵学(へいがく)は小幡景憲(こはたかげのり)が軍法(ぐんはう)の書(しよ)に水野抄(みづのしやう)と号(ごう)せし一 巻(くわん)を家(いへ)の兵書(へいしよ)とし剣術(けんじゆつ)は一 刀流(たうりう)小野家(をのけ) 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】        の至極(しごく)を伝(つた)へ弓馬(きうば)は元(もと)より達人也(たつじんなり)或時(あるとき)唯(たゞ)一 人(にん)尾州(びしう)名古屋(なごや)へ行(ゆ)き城中(じようちう)へ忍(しの)び入(い)りをちこち見(み)て歩(ある)きけ        るを尾州公(びしうこう)見付(みつ)けられ何者(なにもの)なるか召捕(めしと)るべしと下知(げち)し給(たま)ふ是(これ)は矢倉(やのくら)より見付(みつけ)られて下知(げち)し給(たま)ふ也(なり)水(みづ)         野監物(のけんもつ)其(その)様子(やうす)を早(はや)くも察知(さつち)して直(たゞち)に城中(じようちう)を出(い)で立置(たておき)し駿馬(しゆんば)に打乗(うちの)り一さんに馳出(はせいた)し終(つひ)に岡崎(をかざき)へ帰(かへ)ら        れける尾州公(びしうこう)大(おほ)ひに怒(いか)り残念(ざんねん)に思召(おぼしめ)され此(この)返報(へんほう)をいかにしてかせんと御工夫(ごくふ)有(あ)らせられて先(ま)づ忍(しの)ひ        に達(たつ)したる者(もの)を三 人撰(にんえら)み出(だ)され其(その)者共(ものども)に御内意(ごないゝ)を仰聞(あふせきけ)られて岡崎(をかざき)へ遣(つか)はされける三 人(にん)の者(もの)は岡崎(をかざき)へ         行(ゆ)きとくと城中(じようちう)の様子(やうす)をうかゞひ置(お)きて或夜(あるよ)風雨(ふうゝ)はげしき夜(よ)密(ひそ)かに城内(じようない)へ忍(しの)び入(い)り城内(じようない)に在(あ)る所(ところ)の         武器(ぶき)を密(ひそ)かに城外(じようぐわい)へ取出(とりいだ)し大手(おほて)の前(まへ)へ積置(つみお)きてやがて名古屋(なごや)へ帰(かへ)りけるさて岡崎(をかざき)にては夜中(やちう)とい        ひ殊(こと)に風雨(ふうゝ)烈(はげ)しき晩(ばん)の事故(ことゆゑ)誰一人(たれひとり)知(し)る者(もの)も無(な)ければ翌日(よくじつ)夜明(よあ)けてより衆人(しうじん)見付(みつ)け大(おほ)ひに驚(おどろ)きける中(なか)        に水野監物(みづのけんもつ)一 人(にん)は心附(こゝろづ)きたる事(こと)あれば一 言(げん)の詮議(せんぎ)もせず早々(さう〳〵)城内(じようない)へ取入(とりい)れさせ必(かなら)ず沙汰(さた)すべからず        と衆人(しうじん)を制(せい)しける此(この)岡崎(をかざき)は尾州(びしう)の押(おさ)へなれば種々(しゆ〳〵)の手当(てあて)ありけると也       と云(い)ふような事(こと)がある今日(こんにち)から見(み)ると随分(ずゐぶん)滑稽(こつけい)な話(はなし)であるが当時(たうじ)尾州公(びしうこう)は将軍(せうぐん)の叔父(おぢ)たるにも拘(かゝは)らず        江戸(えど)に於(おい)ては万(まん)一それが異心(ゐしん)でもあうた場合(ばあひ)にはと云ふので此(この)水野忠善(みづのたゞよし)を岡崎(をかざき)に封(ほう)じて所謂(いはゆる)尾張(をはり)の押(おさ)       へとしたものであると見(み)へる殊(こと)に其(その)後半(こうはん)の話(はなし)の如(ごと)きは如何(いか)にも当時(たうじ)に於(お)ける武家(ぶけ)の裏面(りめん)が分(わか)るようで        甚(はなは)だ面白(おもしろ)く覚(おぼ)ゆるのであるが尚(なほ)其(その)後(のち)に左(さ)の如(ごと)き記事(きじ)がある         又(また)水野監物(みづのけんもつ)同国(どうこく)西尾(にしを)の城主(じようしゆ)増山正利(ますやままさとし)に無礼過言(ぶれいくわげん)を申(もを)せし事あり其(その)時(とき)増山正利(ますやままさとし)さだめて憤発(ふんぱつ)するなら        んと人々(ひと〳〵)思(おも)ひ居(ゐ)たるに正利(まさとし)一 向取(かうと)り合(あ)はず莞爾(につこ)として監物殿(けんもつどの)の武辺話(ぶへんばな)しはいつも勇々(ゆう〳〵)しき事(こと)に候と         賞(せう)して居(を)られければ水野(みづの)あひ手(て)の無(な)き喧嘩(けんくわ)はできざれば自然(しぜん)と水野(みづの)謷(そし)り止(や)みぬ其(その)後(のち)正利(まさとし)云(いひ)けるは監(けん)         物(もつ)事(こと)もし尾州勢(びしうぜい)何万人なりとも岡崎(をかざき)より先(さき)へは一 寸(すん)も入(い)れずなとゞ平生大言(へいせいだいげん)をはけど近郡隣国(きんぐんりんこく)の者(もの) 【欄外】    豊橋市史談  (水 野 監 物)                    二百十九

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談 (水野監物) 二百十八 【本文】 のが水野監物忠善である。この人のことについては次章に申し述べることにしたいと思う。 ⦿水野監物 水野忠善吉田に封ぜらる 寛永十九年九月六日、これまでこの地の城主であった水野隼人正忠清は信州松本の城に移転になって、その後にこの地の城主となったのが水野監物忠善であることは前章に申し述べた通りであるが、この忠善という人もまた水野左衛門太夫忠政の後裔である。即ち忠政の四男に織部正忠守という人があったが、その又二男に監物忠元というのがあって、その忠元の嫡子がこの忠善である。忠元は若い頃より二代将軍秀忠に仕えて大坂両度の役にも従ったが、忠善は父に継いで寛永七年十二月二十六日に叙爵したのである。『徳川実記』にはその日の条に「水野監物忠善従五位下に叙せられ左近将監に改む」と記してある。その後同十二年十一月二十二日、駿河国田中城四万石に封せられたが、この田中城というのは御承知の通り今の藤枝町の東に接している処で、なお城跡が残っているのである。そこから忠善は今度この吉田に移封されて四万五千石に加増になった次第であるが、この人はこの地に在城すること僅かに五箇年で、正保二年正月十一日、岡崎城五万石に移封されたのである。その後延宝四年八月二十九日、年六十四で卒去されたのであるが、右の次第であるからこの忠善のことについては余り申し述べることもないが、ただこの人の代に民屋を移転して総門を取り拡げ番所を設けたということが『三州吉田記』に記載されている。 忠善の言行 またこの人の言行については、あの幕臣の真山増誉が著した『明良洪範』という書物の中に少しく載せられているので甚だ味わうべきものがあると思うから、その二三を抄録してみようと思う。もっともこれは岡崎に転じてから後の話ではあるが、その続篇の巻一に 明良洪範の事記 水野監物忠善、兵学は小幡景憲が軍法の書に水野抄と号せし一巻を家の兵書とし、剣術は一刀流小野家 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏はその該博なる知識と不尽の精力を傾け豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際[...] 【左頁】 【欄外】 この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 の至極を伝え弓馬は元より達人なり。ある時ただ一人尾州名古屋へ行き城中へ忍び入りあちこち見て歩いているのを尾州公見つけられ何者なるか召し捕るべしと下知し給う。これは矢倉より見つけられて下知し給うなり。水野監物その様子を早くも察知して直ちに城中を出で立て置きし駿馬に打ち乗り一散に馳せ出し遂に岡崎へ帰られける。尾州公大いに怒り残念に思し召され、この返報をいかにしてかせんと御工夫有らせられて、先ず忍びに達したる者を三人選み出され、その者共に御内意を仰せ聞けられて岡崎へ遣わされける。三人の者は岡崎へ行きとくと城中の様子をうかがい置きて、ある夜風雨激しき夜、密かに城内へ忍び入り城内にある所の武器を密かに城外へ取り出し大手の前へ積み置きてやがて名古屋へ帰りける。さて岡崎にては夜中といい殊に風雨烈しき晩のことゆえ誰一人知る者も無ければ、翌日夜明けてより衆人見つけ大いに驚きける中に水野監物一人は心づきたることあれば一言の詮議もせず早々城内へ取り入れさせ必ず沙汰すべからずと衆人を制しける。この岡崎は尾州の押えなれば種々の手当ありけるとなり。 というような事がある。今日から見ると随分滑稽な話であるが、当時尾州公は将軍の叔父たるにも拘らず江戸においては万一それが異心でもあった場合にはということで、この水野忠善を岡崎に封じて所謂尾張の押えとしたものであると見える。殊にその後半の話の如きは如何にも当時における武家の裏面が分かるようで甚だ面白く覚えるのであるが、なおその後に左の如き記事がある。 また水野監物同国西尾の城主増山正利に無礼過言を申せし事あり。その時増山正利定めて憤発するならんと人々思い居たるに、正利一向取り合わず莞爾として監物殿の武辺話はいつも勇ましきことに候と賞して居られければ、水野相手の無き喧嘩はできざれば自然と水野謗り止みぬ。その後正利云いけるは監物事もし尾州勢何万人なりとも岡崎より先へは一寸も入れずなど平生大言をはけど近郡隣国の者 【欄外】 豊橋市史談 (水野監物) 二百十九

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Mizuno Kenbutsu) 218 **Main Text** ...was Mizuno Kenbutsu Tadayoshi. I would like to discuss this person in the next chapter. ⦿ Mizuno Kenbutsu **Mizuno Tadayoshi Enfeoffed at Yoshida** On September 6, Kan'ei 19, Mizuno Hayato-no-shō Tadakiyo, who had been the castle lord of this place until then, was transferred to Matsumoto Castle in Shinshū, and the one who subsequently became castle lord of this place was Mizuno Kenbutsu Tadayoshi, as I mentioned in the previous chapter. This Tadayoshi was also a descendant of Mizuno Saemon-dayū Tadamasa. Specifically, Tadamasa's fourth son was called Oribe-no-shō Tadamori, and his second son was Kenbutsu Tadamoto, whose legitimate heir was this Tadayoshi. Tadamoto served the second shogun Hidetada from his youth and participated in both Osaka campaigns. Tadayoshi succeeded his father and was granted court rank on December 26, Kan'ei 7. The Tokugawa Jitsuroku records for that day: "Mizuno Kenbutsu Tadayoshi was granted the rank of junior fifth rank lower and changed his title to Sakon-shōgen." Later, on November 22 of the same 12th year, he was enfeoffed at Tanaka Castle in Suruga Province with 40,000 koku. This Tanaka Castle, as you know, is located adjacent to the east of present-day Fujieda town, and the castle ruins still remain. From there, Tadayoshi was transferred to this Yoshida with an increase to 45,000 koku. However, this person resided at this location for only five years, and on January 11, Shōhō 2, he was transferred to Okazaki Castle with 50,000 koku. He later passed away on August 29, Enpō 4, at the age of 64. Given these circumstances, there is not much to say about this Tadayoshi, except that during his time, civilian houses were relocated, the main gate was expanded, and guard stations were established, as recorded in the "Sanshū Yoshida-ki." **Tadayoshi's Words and Deeds** Regarding this person's words and deeds, some are recorded in a book called "Meiryō Kōhan" written by the shogunal retainer Manayama Zōyo, which I find quite instructive, so I would like to excerpt a few passages. Although these are stories from after his transfer to Okazaki, in volume one of the sequel: **Records from Meiryō Kōhan** Mizuno Kenbutsu Tadayoshi made a volume titled "Mizuno-shō" from Obata Kagenori's military treatises his family's military text, learned the ultimate techniques of the Ittō-ryū from the Ono family in swordsmanship... **Margin:** Mayor Ōguchi Kiroku of Toyohashi City has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling the history of Toyohashi City for over a year, and now as the draft is nearly complete... **Left Page** **Margin:** This Toyohashi City Historical Discourse is published once a week (Tuesdays) and presented to readers of the Sanyō Shimbun. **Main Text** ...and was naturally a master of archery and horsemanship. Once, he went alone to Owari Nagoya and snuck into the castle, wandering around looking here and there, when the Lord of Owari spotted him and ordered "Whoever this is should be captured!" This order was given after spotting him from a turret. Mizuno Kenbutsu quickly sensed the situation and immediately left the castle, mounted a swift horse he had stationed outside, galloped away at full speed, and finally returned to Okazaki. The Lord of Owari was greatly angered and regretful, wondering how to retaliate. He first selected three men skilled in stealth, conveyed his secret intentions to them, and sent them to Okazaki. The three men went to Okazaki, carefully observed the castle's situation, and one stormy night secretly infiltrated the castle, quietly removed all the weapons from within the castle, piled them in front of the main entrance, and then returned to Nagoya. Since it was the middle of the night and particularly stormy in Okazaki, no one noticed. The next morning when people discovered this, everyone was greatly shocked, but Mizuno Kenbutsu alone, having some understanding of the situation, ordered the weapons to be quickly returned to the castle without any investigation and strictly forbade any discussion of the matter. Since Okazaki served as a check against Owari, various precautions were in place. Such incidents occurred. From today's perspective, this is quite a humorous story, but at the time, despite the Lord of Owari being the shogun's uncle, Edo was concerned about the possibility of rebellious intentions, so they stationed this Mizuno Tadayoshi at Okazaki as a so-called check against Owari. The latter half of the story in particular reveals the behind-the-scenes nature of warrior houses of that time, which I find quite interesting. There are further records as follows: Also, Mizuno Kenbutsu once made disrespectful and excessive remarks to Masuyama Masatoshi, the castle lord of Nishio in the same province. At that time, everyone thought Masuyama Masatoshi would surely become angry, but Masatoshi paid no attention and smiled, praising that "Kenbutsu-dono's martial stories are always so valiant." Since Mizuno had no one to fight with, his slander naturally ceased. Later, Masatoshi said that Kenbutsu claimed that even if tens of thousands of Owari forces came, he wouldn't let them advance even an inch beyond Okazaki - such was his usual boastful talk, but those from neighboring districts and provinces... **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Mizuno Kenbutsu) 219