Code4Lib JAPAN ✕ みんなで翻刻

コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 124

ページ: 124

翻刻

【欄外】    豊橋市史談  (水 野 監 物)                    二百二十 【本文】        も不和成(ふわなり)水野(みづの)いかで大言(たいげん)の如(ごと)くなるべきや又(また)城内(じようない)に蓄(たく)はへ有(あ)る所(ところ)の武器(ぶき)他(た)の及(およ)ぶ所(ところ)に非(あら)ずと監物(けんもつ)常(つね)        に申(もを)せど是(これ)監物(けんもつ)心得違(こゝろえちが)ひ也(なり)何程(なにほど)武器(ぶき)が有(あ)るとも人和(じんわ)を得(え)ざれば役(やく)に立(たゝ)ず無(な)きも同然也(どうぜんなり)監物(けんもつ)は巳(おの)れが         武勇(ぶゆう)に誇(ほこ)り人(ひと)を侮(あなど)り失礼過言(しつれいくわげん)をかへりみず言(い)ひ度(たき)まゝの大言(だいげん)をはくゆへ近郡隣国(きんぐんりんこく)の将士(せうし)みな不和(ふわ)な        り其上(そのうへ)領地(れうち)の土民(どみん)まで信伏(しんふく)するもの一 人(にん)もなし監物(けんもつ)の大言(だいげん)は無益(むえき)のみならず却(かへつ)て害(がい)を求(もとむ)る所(ところ)也(なり)とい        はれたり       之(これ)に依(よ)ると忠善(たゞよし)と云ふ人(ひと)は余程(よほど)剛情不遜(ごうぜうふそん)で思(おも)ひ切(き)つた事を云ひ放(はな)つ性質(せいしつ)であつたと見(み)へる併(しか)し乍(なが)ら主(しゆ)        家(け)に対(たい)しては誠忠(せいちう)を尽(つく)したもので其(その)結果(けつくわ)尾張家(をはりけ)などに向(むか)ても前(まへ)に申述(もをしの)べた話(はなし)の如(ごと)く偵察(ていさつ)を怠(おこた)らなかつ       た事と思(おも)はるゝが一 方(はう)には又(ま)た頗(すこぶ)る快豁(かいかつ)の処(ところ)があるので何処迄(どこまで)も捨(す)てられぬ人物(じんぶつ)であつた事と思(おも)ふ矢(や)        張(はり)同書(どうしよ)の官巻(くわん)十三と巻(くわん)二十とに見(み)ゆる話(はなし)であるが左(さ)の記事(きじ)の如(ごと)きは其(その)真面目(しんめんもく)が躍如(やくぢよ)として見(み)られるよう       に思(おも)ふのである         水野監物(みづのけんもつ)は青山大膳(あおやまだいぜん)と至(いたつ)て懇意(こんい)にて平生(へいぜい)互(たがひ)に武道(ぶどう)の義(ぎ)を語(かた)り合(あ)ひけるが或時(あるとき)大膳(だいぜん)云(いひ)けるは拙者(せつしや)帰国(きこく)        の節(せつ)は貴殿(きでん)の御城下(ごじようか)を通行致候(つうこういたしそうろ)其節(そのせつ)何卒(なにとぞ)御城内(ごじようない)拝見申度候(はいけんもをしたくそろ)と云(いふ)監物(けんもつ)答(こたへ)て拙者(せつしや)より望(のぞ)む所也(ところなり)必(かならず)御(おん)         立寄有(たちよりある)べし麁茶(そちや)一 服進(ぷくしん)ずべしと云(いふ)其後(そののち)大膳(だいぜん)其(その)城下(じようか)を通行(つうこう)の時(とき)案内(あんない)申入(もをしいれ)けれ監物(けんもつ)在城(ざいじよう)にて悦(よろこ)び城内(じようない)        へ入(い)れ厚(あつ)くもてなして後(のち)二の丸(まる)の櫓(やぐら)へ同道(どう〴〵)し監物(けんもつ)やがて太鼓(たいこ)を三つ打(うち)ければ武者(ぶしや)百 騎(き)ばかり城内(じようない)よ        り大手前(おほてまへ)へ一 連(れん)に乗出(のりいだ)す其(その)時(とき)貝(かい)を吹(ふか)ければ其(その)武者(ぶしや)即時(そくじ)に搦手(からめて)の方(ほう)へ廻(まはつ)て陣取(ぢんど)る其(その)速(すみや)かなる事(こと)飛鳥(ひてう)        の如(ごと)し大膳(だいぜん)大(おはい)に感(かん)じける此(この)時(とき)監物(けんもつ)是(これ)が今日(こんにち)の馳走(ちさう)也(なり)と云(いひ)ければ貴殿(きでん)は拙者(せつしや)が城下(じようか)を通行(つうこう)する事なけ        れば何(なに)も見(み)せ申(もを)す事できず残念(ざんねん)の至(いた)り也(なり)と大膳(だいぜん)いはれける由(よし)米津(よねづ)十 太夫(だゆう)物語(ものがた)り也(なり)         水野監物(みづのけんもつ)下屋敷(しもやしき)へ行(いつ)て家中(かちう)の者(もの)の乗馬見物(ぜうばけんぶつ)すべしと馬場(ばゞ)に出(いで)られける時(とき)に中小姓(なかこせう)の挟箱持(はさみばこもち)一 人馬場(にんばゞ) 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千二号附録   (明治四十五年三月五日発行) 【本文】         辺(へん)を徘徊(はいかい)しけるが監物(けんもつ)出(いで)られし音(おと)に驚(おどろ)き挟箱(はさみばこ)を馬場(ばゞ)に捨置(すておき)逃去(にげさり)けり監物(けんもつ)是(これ)を見(み)て此(この)挟箱(はさみばこ)は誰(たれ)のかは         知(し)らねどもかり申(もをす)とて手(て)にて戴(いただ)き会釈(ゑしやく)して腰(こし)を掛(かけ)られける時(とき)にふたを明け(あ)けさせて見(み)られしに焼飯(やきめし)三        つ反古(ほぐ)に包(つゝみ)草鞋(わらぢ)二 足(そく)あり監物(けんもつ)見(み)られて殊(こと)の外(ほか)機嫌(きげん)よく其(その)挟箱(はさみばこ)の主(ぬし)を呼出(よびいだ)し其(その)方事(はうこと)心掛(こゝろがけ)よき武士也(ぶしなり)侍(さむらひ)        は腹(はら)へりては武辺(ぶへん)もならず然(さ)れば食物(しよくもつ)草鞋(わらぢ)は武士第(ぶしだい)一のものなり其(その)方(はう)不勝手(ふかつて)と見(み)へて焼飯(やきめし)の色黒(いろくろ)し         精(しら)けにいたし候(そうら)やうに加増(かぞう)申付(もをしつく)べしとて其場(そのば)にて米(こめ)三石 加増(かぞう)致(いた)しけるとなり             ⦿小笠原壱岐守 小笠原忠知  正保(せうほ)二年正月十一日 水野監物忠喜(みづのけんもつたゞよし)が岡崎城(をかざきじよう)に移封(いほう)になつた代(かは)りとしてこの此(この)吉田(よしだ)に封(ほう)せられて来(き)たのは小(をが)        笠原壱岐守忠知(さはらいきのかみたゞとも)で矢張(やはり)四万五千石を領(れう)したのである此(この)人(ひと)は彼(か)の信濃守長時(しなのゝかみながとき)の曾孫(そうそん)であるが其(その)家(いへ)は元来(がんらい) 小笠原長時  源氏(げんぢ)で源頼義(みなもとよりよし)の三 男(なん)新羅(しんら)二 郎義光(らうよしみつ)から出(い)でゝ居(を)ると云(い)ふことである世々(よゝ)信濃(しなの)の国(くに)に居(を)つたが長時(ながとき)は天(てん) 小笠原秀政  文中(ぶんちう)深志(ふかし)の城(しろ)(《割書:今の|松本》)にあつて武田信玄(たけだしんげん)の為(ため)に敗(やぶ)られ越後(ゑちご)に逃(のが)れたのである其(その)孫(まご)秀政(ひでまさ)は後(のち)に徳川氏(とくがはし)に属(ぞく)       し慶長(けいてう)十八年 再(ふたゝ)び父祖累代(ふそるいだい)の所領(しよれう)である松本(まつもと)に封(ほう)ぜられたが元和(げんな)元年(がんねん)五月七日 年(とし)四十七で大坂役(おほさかえき)に於(おい)       て天王寺(てんわうじ)の戦(たゝかひ)で討死(うちじに)したのである其(その)三 男(なん)が即(すなは)ち此(この)忠知(たゞとも)で寛永(かんえい)三年十二月 大番頭(おほばんがしら)に任(にん)し同(どう)九年四月二十       四日 奏者(そうしや)の事(こと)を兼(か)ね仝年(どうねん)十月十一日 豊後国(ぶんごのくに)杵築(きづき)の城(しろ)を賜(たまは)つて譜代(ふだい)の列(れつ)に加(くは)はつたのであるが今度(このたび)杵築(きづき)       から此(この)吉田(よしだ)に移封(いほう)になつた次第(しだい)である        元来(がんらい)寛永(かんえい)と云(い)ふ年号(ねんごう)は二十年 迄(まで)続(つゞ)いて其(その) 二十一 年目(ねんめ)に正保(せうほ)と改(あらた)まつたのであるが正保(せうほ)は僅(わづか)に四年で其(その) 《割書:魚町権現社|の朱印請願》  五 年目(ねんめ)が慶安(けいあん)となつたのである其(その)慶安(けいあん)の二 年(ねん)四月に魚町権現社(うをまちごんげんしや)の為(ため)に祠官信徒(しくわんしんと)等(ら)から朱印(しゆいん)の下付(かふ)を寺(じ)        社奉行(しやぶぎよう)に請願(せいぐわん)した事(こと)があつたが其(その)扣書(ひかへしよ)は今(いま)も尚(なほ)鈴木延路氏(すずきのぶぢし)の倉車(そうこ)に遺(のこ)つて居(を)るが之(これ)は頗(すこぶ)る参考(さんこう)となる 【欄外】    豊橋市史談  (小笠原壱岐守)                    二百廿一

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談 (水野監物) 二百二十 【本文】 も不和であり、水野がどうして大言の通りになるだろうか。また城内に蓄えてある武器は他の及ぶところではないと監物は常に申していたが、これは監物の心得違いである。どれほど武器があっても人和を得なければ役に立たず、無いのと同然である。監物は自分の武勇に誇り、人を侮り、失礼過言を顧みず言いたい放題の大言を吐くゆえ、近郡隣国の将士はみな不和である。その上領地の土民まで信服するものは一人もない。監物の大言は無益なのみならず、かえって害を求めるところであると言われた。 これによると忠善という人は相当剛情不遜で、思い切ったことを言い放つ性質であったと見える。しかしながら主家に対しては誠忠を尽くしたもので、その結果尾張家などに向かっても前に申し述べた話のように偵察を怠らなかった事と思われるが、一方にはまた頗る快豁なところがあるので、どこまでも捨てられぬ人物であった事と思う。やはり同書の巻十三と巻二十に見える話であるが、左の記事のようなものはその真面目が躍如として見られるように思うのである。 水野監物は青山大膳と至って懇意にて、平生互いに武道の義を語り合っていたが、ある時大膳が言うには「拙者帰国の節は貴殿の御城下を通行いたします。その節何とぞ御城内拝見申したく候」と言う。監物答えて「拙者より望むところなり。必ずお立ち寄りあるべし。粗茶一服進ずべし」と言う。その後大膳がその城下を通行の時、案内を申し入れたところ、監物は在城にて喜び城内へ入れ厚くもてなして後、二の丸の櫓へ同道し、監物がやがて太鼓を三つ打てば、武者百騎ばかり城内より大手前へ一連に乗り出す。その時貝を吹けばその武者即時に搦手の方へ回って陣取る。その速やかなこと飛鳥の如し。大膳大いに感じた。この時監物「これが今日の馳走なり」と言えば「貴殿は拙者が城下を通行することがなければ何も見せ申すことができず残念の至りなり」と大膳は言われたという。米津十太夫物語なり。 水野監物が下屋敷へ行って家中の者の乗馬見物をしようと馬場に出られた時に、中小姓の挟箱持ち一人が馬場 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千二号附録 (明治四十五年三月五日発行) 【本文】 辺りを徘徊していたが、監物が出られた音に驚き挟箱を馬場に捨て置き逃げ去った。監物これを見て「この挟箱は誰のかは知らねども、借り申す」とて手にて戴き会釈して腰を掛けられた時に、蓋を開けさせて見られたところ、焼飯三つ反古に包み草鞋二足あり。監物見られて殊の外機嫌よく、その挟箱の主を呼び出し「その方事、心掛けよき武士なり。侍は腹が減っては武辺もならず、されば食物草鞋は武士第一のものなり。その方不如意と見えて焼飯の色黒し。白米にいたし候ように加増申し付けるべし」とてその場にて米三石加増いたしたという。 ⦿小笠原壱岐守 小笠原忠知 正保二年正月十一日、水野監物忠善が岡崎城に移封になった代わりとしてこの吉田に封せられて来たのは小笠原壱岐守忠知で、やはり四万五千石を領したのである。この人はかの信濃守長時の曾孫であるが、その家は元来源氏で源頼義の三男新羅二郎義光から出ているということである。世々信濃の国にいたが、長時は天文中深志の城(今の松本)にあって武田信玄のために敗られ越後に逃れたのである。その孫秀政は後に徳川氏に属し、慶長十八年再び父祖累代の所領である松本に封ぜられたが、元和元年五月七日、年四十七で大坂役において天王寺の戦いで討死したのである。その三男が即ちこの忠知で、寛永三年十二月大番頭に任じ、同九年四月二十四日奏者の事を兼ね、同年十月十一日豊後国杵築の城を賜って譜代の列に加わったのであるが、今度杵築からこの吉田に移封になった次第である。 元来寛永という年号は二十年まで続いてその二十一年目に正保と改まったのであるが、正保は僅かに四年でその五年目が慶安となったのである。その慶安の二年四月に魚町権現社のために祠官信徒等から朱印の下付を寺社奉行に請願したことがあったが、その控書は今もなお鈴木延路氏の倉庫に残っているが、これは頗る参考となる 【欄外】 豊橋市史談 (小笠原壱岐守) 二百二十一

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Mizuno Kenbutsu) 220 **Main Text** ...were at odds with him. How could Mizuno's boasts come true? Also, Kenbutsu constantly claimed that the weapons stored in the castle were beyond what others could match, but this was Kenbutsu's misunderstanding. No matter how many weapons one has, without harmony among people they are useless - as good as having none. Kenbutsu boasted of his own martial prowess, looked down on others, and without regard for rudeness or excessive words, spoke whatever boastful claims he pleased. Therefore, all the military officers of neighboring districts and provinces were at odds with him. Moreover, not a single person among the common people of his domain trusted him. Kenbutsu's boasting was not only useless but actually invited harm. From this, it appears that Tadayoshi was quite stubborn and arrogant, with a nature that led him to speak his mind recklessly. However, he was loyal to his lord's house, and as a result, he seems to have maintained surveillance against houses like the Owari family, as in the story mentioned earlier. On the other hand, he had quite a generous spirit, making him someone who could never be completely dismissed. These are also stories found in volumes 13 and 20 of the same work, and I think records like the following reveal his true character quite vividly. Mizuno Kenbutsu was very close to Aoyama Daizen, and they usually discussed matters of martial arts together. Once, Daizen said: "When I return to my domain, I will pass through your castle town. At that time, I would very much like to tour your castle." Kenbutsu replied: "That is exactly what I would wish. Please be sure to stop by. I shall offer you simple tea." Later, when Daizen passed through the castle town, he sent word requesting a visit. Kenbutsu was at the castle and was delighted, welcoming him into the castle and entertaining him well. Afterward, he accompanied him to a turret in the second bailey, and when Kenbutsu struck a drum three times, about a hundred mounted warriors rode out in formation from the castle to the area before the main gate. When a conch shell was blown, those warriors immediately circled to the rear attack route and took positions. Their speed was like flying birds. Daizen was greatly impressed. At this time, Kenbutsu said, "This is today's entertainment." Daizen reportedly said, "Since you do not pass through my castle town, I have nothing to show you - most regrettable indeed." This is from the tales of Yonezu Jūdayū. When Mizuno Kenbutsu went to his lower residence to watch his retainers practice horsemanship and came out to the riding ground, a page carrying a document box was wandering around the riding ground... **Left Page** **Margin:** Sanyō Shimbun No. 4002 Supplement (Published March 5, Meiji 45) **Main Text** ...area. Startled by the sound of Kenbutsu coming out, he abandoned the document box in the riding ground and fled. Seeing this, Kenbutsu said, "I don't know whose document box this is, but I shall borrow it," and respectfully lifted it with his hands, bowed, and sat down. When he had the lid opened and looked inside, there were three rice balls wrapped in waste paper and two pairs of straw sandals. Seeing this, Kenbutsu was exceptionally pleased and called out the owner of the box, saying: "You are a warrior with admirable preparation. A samurai cannot perform martial duties on an empty stomach, so food and straw sandals are a warrior's most important possessions. You appear to be in straitened circumstances, as your rice balls are dark in color. I shall grant you an increase so you can have white rice." He immediately granted a three-koku increase in rice stipend. ⦿ Ogasawara Iki-no-kami **Ogasawara Tadatomo** On January 11, Shōhō 2, when Mizuno Kenbutsu Tadayoshi was transferred to Okazaki Castle, the one who was enfeoffed at this Yoshida in his place was Ogasawara Iki-no-kami Tadatomo, who likewise held 45,000 koku. This person was the great-grandson of Shinano-no-kami Nagatoki, and his family originally descended from the Genji line, specifically from Shinra-Jirō Yoshimitsu, the third son of Minamoto no Yoriyoshi. For generations they resided in Shinano Province, but Nagatoki was based at Fukashi Castle (present-day Matsumoto) during the Tenbun era and was defeated by Takeda Shingen, fleeing to Echigo. His grandson Hidemasa later served the Tokugawa clan and in Keichō 18 was again enfeoffed at Matsumoto, the hereditary domain of his ancestors. However, on May 7, Genna 1, at age 47, he died in battle at Tennōji during the Osaka campaign. His third son was this Tadatomo, who was appointed ōbangashira in December, Kan'ei 3, also served as sōja from April 24, Kan'ei 9, and on October 11 of the same year was granted Kitsuki Castle in Bungo Province, joining the ranks of the hereditary vassals. This time he was transferred from Kitsuki to this Yoshida. Originally the era name Kan'ei continued for twenty years, changing to Shōhō in the twenty-first year, but Shōhō lasted only four years, with the fifth year becoming Keian. In the fourth month of Keian 2, shrine officials and devotees petitioned the magistrate of temples and shrines for the grant of a vermillion seal for Uomachi Gongen Shrine. The draft of this petition still remains in Mr. Suzuki Nobuji's storehouse and is quite valuable for reference. **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Ogasawara Iki-no-kami) 221