Code4Lib JAPAN ✕ みんなで翻刻

コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 125

ページ: 125

翻刻

【欄外】    豊橋市史談  (小笠原壱岐守)                    二百廿二 【本文】 《割書:家光薨去家|綱継ぐ》  べき点(てん)があるものであると思(おも)ふ然(しか)して其(その)四年四月には将軍(せうぐん)家光(いへみつ)は薨去(こうきよ)せられて家綱(いへつな)が其後(そのあと)を継(つ)ぎ四 代(だい)        目(め)の将軍(せうぐん)に任(にん)せられたのである例(れい)の由井正雪(ゆゐせうせつ)の変(へん)のあつたのは此(この)年(とし)で御承知(ごせうち)の松平伊豆守信綱(まつだひらいづのかみのぶつな)が漸(やうや)く        全盛(ぜんせい)の時代(じだい)とも云(い)ふべき時(とき)に相成(あひな)るのであるサテ慶安(けいあん)も四年 継(つゞ)いて承応(せうおう)と改(あらた)まり之(これ)も僅(わづか)二年で明暦(めいれき)と       なり明暦(めいれき)も三年で万治(まんぢ)、 万治(まんぢ)も同(おな)じく三年で寛文(かんぶん)となつたのであるが其(その)寛文(かんぶん)三年七月廿六日(《割書:藩翰譜二十|九日となす》) 忠知の卒去 に忠知(たゞとも)は六十五 歳(さい)で卒去(そつきよ)せられたのである今(いま)も其(その)墳墓(ふんぼ)は二 連木(れんぎ)の臨済寺(りんざいじ)に存在(そんざい)して居(を)ることであるが元(がん) 臨済寺    来(らい)此(この)臨済寺(りんざいじ)と云(い)ふ寺(てら)は忠知(たゞとも)がまだ杵築(きづき)に居(を)つた頃(ころ)に建立(こんりう)したもので吉田(よしだ)に移封(いほう)になつて間(ま)もなく此(この)寺(てら)       をも此処(こゝ)に移転(いてん)したのであるが三 河聞書(かはきゝがき)にはそれを承応(せうおう)二年の事(こと)であると書(か)いてある而(しか)して此(この)寺名(じめい)を        初(はじ)めは宗玄寺(そうげんじ)と云(い)つて飽海(あくみ)に置(お)いたものであるが忠知(たゞとも)卒去(そつきよ)の翌年(よくねん)即(すなは)ち寛文(かんぶん)四年に嫡子(ちやくし)長矩(ながのり)が父(ちゝ)菩提(ぼだい)の 《割書:日東玄陽禅|師》   為(ため)に今(いま)の位置(ゐち)に移転改築(いてんかいちく)したものであると伝(つた)へられて居(を)るトコロで又(ま)た此(この)臨済寺(りんざいじ)の開山(かいざん)と云(い)ふものが        日東玄陽禅師(につとうげんようぜんし)と云(い)ふ人(ひと)で頗(すこぶ)る有名(ゆうめい)なものである此(この)人(ひと)は肥前国(ひぜんのくに)白石(しらいし)の生(うまれ)で九 才(さい)の時(とき)其(その)郷(きょう)の福泉寺(ふくせんじ)と云(い)ふ        寺(てら)に入(い)つて僧(そう)となつたが後(のち)四 方(はう)を遊歴(ゆうれき)して伊勢国(いせのくに)龍光寺(りうくわうじ)に入(い)つて虎伯大宣(こはくだいせん)と云(い)ふ僧(そう)の教(おしへ)を受(う)くること七       年一日 円覚経(えんかくけふ)を読(よ)むで大悟(たいご)する処(ところ)があつて其(その)師(し)の虎伯(こはく)は遂(つひ)に之(これ)に印可(いんか)を授(さづ)けたと伝(つた)へられてある而(しか)し       て其(その)印可(いんか)は今(いま)も尚(な)ほ臨済寺(りんざいじ)に保存(ほそん)せられて居(を)るのであるが其後(そののち)禅師(ぜんし)は江戸(えど)に出(い)で駒込(こまごめ)の龍光寺(りうくわうじ)に住(ぢう)し        頗(すこぶ)る三 代将軍(だいせうぐん)家光(いへみつ)の帰依(きえ)を受(う)けたのであるソコで小笠原忠知(をがさはらたゞとも)が前(まへ)に申述(もうしの)べた如(ごと)く初(はじめ)て宗玄寺(そうげんじ)を杵築(きづき)に        建立(こんりう)した時(とき)に此(この)人(ひと)を招(せう)じて其(その)始祖(しそ)としたのであるが寺(てら)が此(この)地(ち)に移転(いてん)せられた時(とき)禅師(ぜんし)も亦(ま)た来(きた)り住(ぢう)した       のである寺伝(じでん)によるを寛文(かんぶん)七年十月 年(とし)七十七で寂(じやく)されたと云(い)ふことである序(つひ)でだから此処(こゝ)に一寸(ちよつと)申述(もうしの)べ 《割書:神宮寺の寺|格》  て置(お)きたいと思(おも)ふが大字(おほあざ)紺屋(こんや)の神宮寺(じんぐうじ)と云(い)ふ寺(てら)は寺伝(じでん)によると慶長(けいてう)元年(がんねん)重信(ぢうしん)と云(い)ふ僧(そう)が古(ふる)くからあつ       た長禅寺(てうせんじ)と云(い)ふ寺(てら)を再興(さいこう)して改宗改名(かいしうかいめい)したものである而(しか)して重信(ぢうしん)と云(い)ふ僧(そう)は本姓(ほんせい)は小久保氏(こくぼし)尾張国(をはりのくに)知(ち) 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       多郡(たぐん)の生(うまれ)で寛文(かんぶん)廿年二月 寂(ぢやく)した人(ひと)であるが承応(せうおう)二年六月二日 付(つけ)で毘沙門堂(びしやもんどう)門跡(もんぜき)公海大僧正(こうかいだいせうぜう)から此(この)寺(てら)の        寺格(じかく)を定(さだ)めた文書(ぶんしよ)が今(いま)も寺(てら)に遺(のこ)つて居(を)ることである即(すなは)ち此(この)事(こと)のあつたのは忠知(たゞとも)城主(じようしゆ)たるの当時(たうじ)になるの       であるが寺歴(じれき)の上(うへ)には大(おほい)に資料(しれう)となるべきものであるから此処(こゝ)に吹聴(ふいてう)して置(お)く次第(しだい)である 《割書:瓦町開発の|覚書》   又(ま)た大字(おほあざ)瓦町(かわらまち)に「瓦町開発覚(かわらまちかいはつおぼへ)」と云(い)ふ記録(きろく)が遺(のこ)つて居(を)るが之(これ)は延享(えんけう)以後(いご)に書(か)き留(と)めたものであると思(おも)は       るゝが其(その)中(なか)には頗(すこぶ)る参考(さんこう)になるべき記事(きじ)がある此(この)記事(きじ)はツマリ瓦町(かわらまち)の開(ひら)け初(はじ)めからの事(こと)を細(こま)かに書(か)い       たものであるが其(その)中(なか)に        一寛文弐年寅年小笠原先壱岐守様御代仁連木村親弥八郎新村御願仕候処新村御立候儀不相叶無是非         罷在候翌卯年壱岐守様御逝去被遊山城守様御家督相渡寛文四辰年仁連木村ニ御菩提所臨済寺御建         立被遊候ニ付其時之御代官合澤勘右エ門殿ゟ当村御菩提所御建被遊候ニ付何にても願之義有之候         ハヾ相叶可被下由に被仰出候故右奉願候新村御立被下候様にと奉願候得者難叶義に候得共此度々         願に候間勝手次第相立候様にと被仰付辰年切除いたし屋敷割仕十王坂上ゟ東坂口迄両側に百姓弐         拾人斗出し往還ゟ少引込居屋敷広囲申筈に仕候処町在方ゟ屋敷望申者多罷成御地頭様え御願申上         候故被仰出候者往還並に家を作り町に相建申様にと被仰付候而屋敷割三度迄割直町並に仕候       とある之(これ)によると初(はじ)めて瓦町(かわらまち)を起(こ)こした時(とき)の事情(じぜう)が明(あきらか)に分(わか)るのであるが同時(どうじ)に其(その)頃(ころ)は新(あらた)に村(むら)を起(おこ)すと        云(い)ふことは容易(ようい)に許(ゆる)さなかつたものであると云(い)ふ様子(やうす)も伺(うかゞ)ひ知(し)ることが出来(でき)るのみならず急(きふ)に新開地(しんかいち)が出(で)        来(き)て盛(さかん)に移住者(いぢうしや)のあつた有様(ありさま)などが知(し)られるのである其(その)他(た)此(この)記録(きろく)の中(なか)にはまだイロ〳〵参考(さんこう)となるべ       き事(こと)があるのであるが余(あま)り細密(さいみつ)に過(す)ぐるように思(おも)ふから話(はなし)は之(これ)に留(とゞ)めて之(これ)より彼(か)の茶道(ちやどう)に於(おい)て有名(ゆうめい)な       る山田宗徧(やまだそうへん)と云(い)ふ人(ひと)のことに就(つい)て少(すこ)しく申述(もうしの)ぶることに致(いた)したいと思(おも)ふのである 【欄外】    豊橋市史談  (小笠原壱岐守)                    二百廿三

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談 (小笠原壱岐守) 二百二十二 【本文】 べき点があるものであると思う。そしてその4年4月には将軍家光は薨去され、家綱がその後を継ぎ4代目の将軍に任ぜられたのである。例の由井正雪の変があったのはこの年で、ご承知の松平伊豆守信綱が漸く全盛の時代とも言うべき時に相なるのである。さて慶安も4年続いて承応と改まり、これもわずか2年で明暦となり、明暦も3年で万治、万治も同じく3年で寛文となったのであるが、その寛文3年7月26日(藩翰譜では29日とする)に忠知は65歳で卒去されたのである。今もその墳墓は二連木の臨済寺に存在していることであるが、元来この臨済寺という寺は忠知がまだ杵築にいた頃に建立したもので、吉田に移封になって間もなくこの寺をもここに移転したのであるが、三河聞書にはそれを承応2年のことであると書いてある。 そしてこの寺名を初めは宗玄寺といって飽海に置いたものであるが、忠知卒去の翌年即ち寛文4年に嫡子長矩が父の菩提のために今の位置に移転改築したものであると伝えられているところで、またこの臨済寺の開山というものが日東玄陽禅師という人で頗る有名なものである。 この人は肥前国白石の生まれで9歳の時その郷の福泉寺という寺に入って僧となったが、後に四方を遊歴して伊勢国龍光寺に入って虎伯大宣という僧の教えを受けること7年、一日円覚経を読んで大悟するところがあって、その師の虎伯は遂にこれに印可を授けたと伝えられてある。そしてその印可は今もなお臨済寺に保存されているのであるが、その後禅師は江戸に出て駒込の龍光寺に住し、頗る3代将軍家光の帰依を受けたのである。そこで小笠原忠知が前に申し述べたごとく初めて宗玄寺を杵築に建立した時にこの人を招じてその始祖としたのであるが、寺がこの地に移転された時禅師もまた来て住んだのである。寺伝によると寛文7年10月、年77で寂したということである。 ついでだからここに一寸申し述べて置きたいと思うが、大字紺屋の神宮寺という寺は寺伝によると慶長元年重信という僧が古くからあった長禅寺という寺を再興して改宗改名したものである。そして重信という僧は本姓は小久保氏、尾張国知 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏はその博覧の知識と不尽の精力を傾け豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際 [文字が途切れている] 【左頁】 【欄外】 この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈する 【本文】 多郡の生まれで寛文20年2月に寂した人であるが、承応2年6月2日付で毘沙門堂門跡公海大僧正からこの寺の寺格を定めた文書が今も寺に残っていることである。即ちこのことのあったのは忠知城主たる当時になるのであるが、寺歴の上には大いに資料となるべきものであるからここに披露して置く次第である。 また大字瓦町に「瓦町開発覚」という記録が残っているが、これは延享以後に書き留めたものであると思われるが、その中には頗る参考になるべき記事がある。この記事はつまり瓦町の開け初めからのことを細かに書いたものであるが、その中に 「一、寛文弐年寅年、小笠原先壱岐守様御代に連木村親弥八郎新村お願い仕り候ところ、新村お立て候儀相叶わず、是非無く罷り在り候。翌卯年壱岐守様ご逝去遊ばされ山城守様お家督相渡り、寛文四辰年に連木村に御菩提所臨済寺お建立遊ばされ候につき、その時の御代官合澤勘右衛門殿より当村御菩提所お建て遊ばされ候につき何にてもお願いの儀これ有り候はば相叶えて下さるべき由に仰せ出され候故、右お願い候新村お立て下され候ようにとお願い候えば、叶い難き儀に候えども此の度々のお願いに候間、勝手次第相立て候ようにと仰せ付けられ、辰年切り除きいたし屋敷割り仕り、十王坂上より東坂口まで両側に百姓弐拾人ばかり出し、往還より少し引き込み居屋敷広く囲み申すはずに仕り候ところ、町在方より屋敷望み申す者多く罷り成り、お地頭様へお願い申し上げ候故、仰せ出され候は、往還並びに家を作り町に相建て申すようにと仰せ付けられ候て、屋敷割り三度まで割り直し町並みに仕り候」 とある。これによると初めて瓦町を起こした時の事情が明らかに分かるのであるが、同時にその頃は新たに村を起こすということは容易に許されなかったものであるという様子も伺い知ることができるのみならず、急に新開地ができて盛んに移住者のあった有様などが知られるのである。その他この記録の中にはまだいろいろ参考となるべきことがあるのであるが、あまり細密に過ぎるように思うから話はこれに留めて、これより彼の茶道において有名なる山田宗徧という人のことについて少しく申し述べることにいたしたいと思うのである。 【欄外】 豊橋市史談 (小笠原壱岐守) 二百二十三

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Ogasawara Iki-no-kami) 222 **Main Text** ...are points that I believe merit consideration. In the fourth month of that fourth year, Shogun Iemitsu passed away, and Ietsuna succeeded him, becoming the fourth shogun. The famous rebellion of Yui Shōsetsu occurred in this year, during what could be called the height of the era of the well-known Matsudaira Izu-no-kami Nobutsuna's power. The Keian era continued for four years before changing to Jōō, which lasted only two years before becoming Meireki. Meireki also lasted three years before becoming Manji, and Manji similarly lasted three years before becoming Kanbun. On July 26 of Kanbun 3 (though the Hankanfu records it as the 29th), Tadatomo died at the age of 65. His grave still exists today at Rinzai-ji temple in Futsurenji, but originally this Rinzai-ji temple was built by Tadatomo when he was still at Kitsuki, and shortly after his transfer to Yoshida, he moved this temple here as well. The Mikawa Kikigaki records this as having occurred in Jōō 2. Initially, this temple was called Sōgen-ji and was located in Akumi, but it is said that in the year following Tadatomo's death—that is, in Kanbun 4—his eldest son Naganori moved and rebuilt it at its present location for his father's spiritual benefit. The founding abbot of this Rinzai-ji was a person called Zen Master Nittō Gen'yō, who was quite famous. This person was born in Shiraishi, Hizen Province, and at age nine entered a temple called Fukusen-ji in his hometown to become a monk. Later he traveled in all directions and entered Ryūkō-ji in Ise Province, where he studied under a monk called Kohaku Daisen for seven years. One day while reading the Engaku Sutra, he achieved great enlightenment, and his master Kohaku finally granted him certification. This certification is still preserved at Rinzai-ji today. Afterward, the Zen master went to Edo and resided at Ryūkō-ji in Komagome, receiving considerable devotion from the third shogun Iemitsu. So when Ogasawara Tadatomo first built Sōgen-ji at Kitsuki as mentioned earlier, he invited this person to be its founder, and when the temple was moved to this location, the Zen master also came to reside there. According to temple records, he died in the tenth month of Kanbun 7 at the age of 77. While I'm on the subject, I'd like to mention briefly that the temple called Jingū-ji in the large district of Kon'ya was, according to temple tradition, rebuilt and renamed in Keichō 1 by a monk called Jūshin, who restored an old temple called Chōzen-ji that had existed from ancient times. This monk Jūshin was originally of the Kokubo family, born in Chita District, Owari Province... **Margin:** Toyohashi Mayor Ōguchi Kiroku has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling the Toyohashi City History for over a year, and now as the manuscript nears completion... [Text cuts off] **Left Page** **Margin:** This Toyohashi City Historical Discourse is published once a week (Tuesdays) and presented to readers of the Sanyō Shimbun. **Main Text** ...and died in the second month of Kanbun 20. A document dated the second day of the sixth month of Jōō 2, issued by Kōkai Dai-sōjō, the monzeki of Bishamon-dō, determining this temple's rank, still remains at the temple today. This occurred during Tadatomo's time as castle lord, and as it provides valuable material for temple history, I present it here. Also, in the large district of Kawaramachi, there remains a record called "Kawaramachi Development Memorandum," which I believe was written down after the Enkyō period, and contains quite valuable reference material. This record details the early development of Kawaramachi, and includes the following passage: "Item: In Kanbun 2, the year of the Tiger, during the reign of the former Ogasawara Iki-no-kami, Oya Yahachirō of Nitsurengi village petitioned to establish a new village, but permission to establish the new village was not granted, and the matter remained unresolved. In the following year of the Rabbit, Iki-no-kami passed away and the house was succeeded by Yamashiro-no-kami. In Kanbun 4, the year of the Dragon, when the family temple Rinzai-ji was built in Nitsurengi village, the deputy magistrate of that time, Aizawa Kan'emon, announced that since the family temple was being built in this village, any petitions would be favorably considered. Therefore, we petitioned again for the establishment of a new village. Although it was a difficult matter, since this was a repeated petition, we were told we could proceed at our discretion. In the Dragon year, land was cleared and lots were divided, with about twenty farmers settled on both sides from Jūō Hill to the eastern slope entrance, with residences set back slightly from the highway and enclosed in spacious plots. However, many people from the town and countryside desired lots and petitioned the lord, who then ordered that houses be built along the highway to form a proper town. The lots were redistributed three times to create a proper townscape." From this, we can clearly understand the circumstances when Kawaramachi was first established, and at the same time, we can perceive that establishing new villages was not easily permitted in those days. We can also learn about the rapid development of new settlements and the influx of many settlers. While this record contains much more that would serve as reference material, I think it would be too detailed to continue, so I will end this topic here and proceed to discuss the famous tea master Yamada Sōhen. **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Ogasawara Iki-no-kami) 223