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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 126

ページ: 126

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【欄外】    豊橋市史談 (山田宗偏と小笠原忠知)                   二百廿四 【本文】             ⦿山田宗徧と小笠原忠知 山田宗偏   山田宗偏(やまだそうへん)と云(い)ふ人(ひと)は前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べた如(ごと)く茶道(ちやどう)の達人(たつじん)で其(その)流(りう)は宗偏流(そうへんりう)として一つの流派(りうは)に一 般(ぱん)から認(みと)め       られて居(を)る位(くらゐ)有名(ゆうめい)なものであるが此(この)人(ひと)は元(もと)京都(けうと)二 本松(ほんまつ)長徳寺(てうとくじ)と云(い)ふ真宗大谷派(しんしうおほたには)の寺僧(じそう)道玄(どうげん)の子(こ)で名(な)は        周覚(しうかく)後(のち)に周学(しうがく)と称(せう)したが本姓(ほんせい)は仁科氏(にしなし)である其(その)山田(やまだ)と云(い)ふのは後(のち)に母方(はゝかた)の姓(せい)を冒(おか)して称(せう)したものであ       るが出生(しゆつせい)は寛永(かんえい)元年(がんねん)である其(その)後(のち)父(ちゝ)道玄(どうげん)は摂津(せつゝ)の茨木御坊(いばらきごぼう)に転住(てんぢう)したが老後(らうご)其(その)寺(てら)を養子(やうし)の周恵(しうけい)と云(い)ふ人(ひと)       に譲(ゆづ)つて自(みづか)らは如何(いか)なる縁故(ゑんこ)があつたものか今(いま)分(わか)り兼(か)ぬるが宗偏(そうへん)が廿六 歳(さい)の時(とき)に此(この)吉田(よしだ)へ隠居(いんきよ)したの 《割書:宗偏父と共|に吉田に住|す》  であるソコで宗偏(そうへん)も亦(ま)た父(ちゝ)に従(したがつ)て此(この)地(ち)に住(ぢう)した併(しか)し之(これ)より先(さき)宗偏(そうへん)は六 歳(さい)の時(とき)から茶道(ちゃどう)に入(い)つて小堀(こほり)        遠州(ゑんしう)の門人(もんじん)となり其(その)印可(いんか)を受(う)けたのは十六 歳(さい)の時(とき)であつたとも亦(ま)た廿二 歳(さい)であつたとも両様(れうやう)の記録(きろく)が 《割書:小堀遠州に|学ぶ》  あるが其(その)後(のち)遠則(ゑんしう)の師匠(しせう)たる古田織部(ふるたをりべ)にも就(つ)ひて学(まな)むだに拘(かゝは)らずドウモ意(い)に満(み)つる処(ところ)がなかつたので正(せう)        保(ほ)四年 即(すなは)ち此(この)吉田(よしだ)に転住(てんぢう)する二ケ年 程(ほど)以前(いぜん)から更(さら)に千宗旦(せんそうたん)の門(もん)に入(い)つたのである此(この)宗旦(そうたん)と云(い)ふ人(ひと)は諸(しよ) 《割書:千宗旦の門|に入る》   君(くん)も能(よ)く御承知(ごせうち)の如(ごと)く彼(か)の千 利休(りきう)(宗易)の孫(まご)で利休(りきう)の長子(やうし)は道安(どうあん)次男(じなん)は宗淳(そうじゆん)之(これ)は少庵(せうあん)と云(い)つた人(ひと)であ       るが此(この)少庵(せうあん)の嫡子(ちやくし)が即(すなは)ち此(この)宗旦(そうたん)である之(これ)より宗偏(そうへん)は其(その)教(おしへ)を受(う)くる事(こと)九 年(ねん)であつたから其(その)間(あひだ)は此(この)吉田(よしだ)に        転住(てんぢう)はしたものゝ矢張(やはり)多(おほ)くは京都(けうと)に出(い)でゝ鳴瀧(なるたけ)及(およ)び衣棚(きぬだな)の辺(へん)に庵(いほり)を設(もを)けて居(を)つたと云(い)ふ事(こと)であるが遂(つひ)       に利休(りきう)茶道(ちやどう)の薀奥(うんおう)を究(きは)め皆伝(かいでん)となつたのである其(その)時(とき)利休(りきう)的伝(てきでん)の印証(いんせう)として伝来(でんらい)の四 方釜(ほうがま)を与(あた)へられた 力口斉の号 ので爾来(じらい)其(その)庵(いほり)を四 方庵(ほうあん)と号(ごう)した又(ま)た力口斉(りきゐさい)一に如竿子(じよかんし)とも号(ごう)したが其(その)力口斉(りきゐさい)と号(ごう)した訳(わけ)は咄々(とつ〳〵)力囲(りきゐ)希(き)       と云(い)ふ語(ご)から出(い)でたもので利休(りきう)辞世(じせい)の喝(かつ)の中(なか)にも力囲希咄(りきゐきとつ)の語(ご)があるのである即(すなは)ち師匠(しせう)の宗旦(そうたん)が咄々(とつ〳〵) 《割書:宗徧忠知に|仕ふ》   斉(さい)と号(ごう)した処(ところ)から宗徧(そうへん)は力口斉(りきゐさい)と号(ごう)することになつたのであるが口(ゐ)の字(じ)は即(すなは)ち囲(ゐ)の字(じ)の略(りやく)である 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千八号附録   (明治四十五年三月十二日発行) 【本文】       かくて明暦(めいれき)元年(がんねん)宗徧(そうへん)は其(その)三十二 歳(さい)の時(とき)に初(はじ)めて茶道(ちやどう)を以(もつ)て此(この)地(ち)の城主(じようしゆ)小笠原忠知(おがさはらたゞとも)に仕(つか)ゆることとなつた       のであるが其(その)紹介人(せうかいにん)は吉良上野介(きらかうづけのすけ)であつたと云(い)ふ事(こと)である此(この)時(とき)宗偏(そうへん)は三十 石(こく)五 人扶持(にんふち)であつたが其(その)二        男(なん)宗屋(そうをく)は後(のち)に百 石(こく)を与(あた)へられて江戸本所(えどほんじよ)三ツ目(め)に住(ぢう)したのである宗偏(そうへん)は当時(たうじ)此(この)地(ち)悟眞寺内(ごしんじない)の竹意軒(ちくゐけん)に        居(を)つたと伝(つた)へられてあるが勿論(もちろん)江戸(えど)にも多(おほ)く出(い)で遠江(とふとうみ)浜名郡(はまなぐん)の大福寺(たいふくじ)などにも久(ひさ)しく滞留(たいりう)して居(を)つた 《割書:不審庵の号|を継ぐ》  との事(こと)である而(しか)して宗偏(そうへん)は曩(さき)に其(その)師(し)宗旦(そうたん)から利休(りきう)以来(いらい)千家(せんけ)累代(るゐだい)の庵号(あんごう)たる不審庵(ふしんあん)並(ならび)に宗旦(そうたん)の用(もち)ゐたる        庵号(あんごう)今日庵(こんにちあん)とを共(とも)に譲(ゆづ)られたのであつて此(この)事(こと)は茶家(ちやけ)の間(あひだ)に宗旦(そうたん)没前(ぼつぜん)四 年(ねん)の事(こと)であると伝(つた)へられてある        果(はた)して然(しか)りとすれば明暦(めいれき)元年(がんねん)頃(ころ)の事(こと)で丁度(ちようど)宗偏(そうへん)が其(その)師(し)から皆伝(かいでん)を許(ゆる)された当時(たうじ)の頃(ころ)であるように推断(すゐだん)      せられるのである併(しか)し千家(せんけ)に其(その)子孫(しそん)があるにも係(かゝは)らず宗徧(そうへん)が特(とく)に此(この)利休(りきう)の正系(せうけい)を継(つ)いで不審庵(ふしんあん)を名乗(なの)       るに至(いた)つたに就(つい)ては後(のち)に彼之(かれこれ)と唱(とな)へたものもあつた様子(やうす)で今尚(いまなほ)当市(たうし)曲尺手(かねんて)の高須芳(たかすよし)三 郎氏方(らうしかた)に蔵(ざう)せら 《割書:利休茶道具|図絵》  れてある宗偏(そうへん)が当市(たうし)の浄円寺主(ぜうゑんじしゆ)に贈(おく)つた書状(しよぜう)に徴(ちよう)しても其(その)何分(なにぶん)を窺(うかゞ)ひ知(し)る事(こと)が出来(でき)るのであるモツト       モ宗徧著(そうへんちよ)の利休茶道具図絵(りきうちゃどうぐずゑ)と云(い)ふ書物(しよもつ)に元禄(げんろく)十五 年(ねん)素堂(そどう)と云(い)ふ人(ひと)が書(か)いた叙文(ぢよぶん)があるが其(その)中(なか)に        宗偏夫何人也、曰、千氏宗旦老人之高弟、而究宗易居士少庵翁所授受之道、以譲於不審庵之人也、        雖然、以旦老之子孫有数多、漫不新其号、因旧呼四方庵有年干茲矣、 去甲寅之冬(●●●●●)、応或人之需、而        昇四方庵之額、且依門人之勧、而茶亭挑不審庵之額、従是号宗易居士四世之不審庵者也       とあるので宗偏(そうへん)が公然(こうぜん)不審庵(ふしんあん)を称(せう)したのは延宝(えんほう)二 年(ねん)の冬(ふゆ)からであるのを知(し)ると同時(どうじ)に其(その)事情(じぜう)も大(おほい)に分(わか) 茶道便蒙抄 るように思(おも)はるゝのである又(ま)た同(おな)じ茶道便蒙抄(ちやどうべんもうしよう)と云(い)ふ書物(しよもつ)の叙(ぢよ)の中(なか)にも        中世有紹鷗、以点茶法鳴干世、紹鷗以是伝之利休、利休滋添潤色、其法隆盛、所重干列国諸侯、児        童踊利休、走卒知千氏、世以為点茶百世宗師也、利休伝之少庵、少庵伝之嗣子宗旦、宗旦性好隠逸 【欄外】    豊橋市史談 (山田宗偏と小笠原忠知)                   二百廿五

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(山田宗偏と小笠原忠知) 二百二十四 【本文】 ⦿山田宗偏と小笠原忠知 山田宗偏という人は前章で申し述べたように茶道の達人で、その流派は宗偏流として一つの流派に一般から認められている位有名なものであるが、この人は元々京都二本松長徳寺という真宗大谷派の寺僧道玄の子で、名は周覚、後に周学と称したが、本姓は仁科氏である。その山田というのは後に母方の姓を冒して称したものであるが、出生は寛永元年である。その後父道玄は摂津の茨木御坊に転住したが、老後その寺を養子の周恵という人に譲って自らはいかなる縁故があったものか今分かりかねるが、宗偏が26歳の時にこの吉田へ隠居したのである。そこで宗偏もまた父に従ってこの地に住んだ。しかしこれより先、宗偏は6歳の時から茶道に入って小堀遠州の門人となり、その印可を受けたのは16歳の時であったとも、また22歳であったとも両様の記録があるが、その後遠州の師匠たる古田織部にも就いて学んだにもかかわらず、どうも意に満つるところがなかったので、正保4年即ちこの吉田に転住する2ヶ年程以前から更に千宗旦の門に入ったのである。 この宗旦という人は諸君もよく御承知のように彼の千利休(宗易)の孫で、利休の長子は道安、次男は宗淳、これは少庵と言った人であるが、この少庵の嫡子が即ちこの宗旦である。これより宗偏はその教えを受けること9年であったから、その間はこの吉田に転住はしたものの、やはり多くは京都に出て鳴瀧及び衣棚の辺に庵を設けていたということであるが、遂に利休茶道の蘊奥を究め皆伝となったのである。その時利休的伝の印証として伝来の四方釜を与えられたので、爾来その庵を四方庵と号した。また力口斎、一に如竿子とも号したが、その力口斎と号した訳は「咄々力囲希」という語から出たもので、利休辞世の喝の中にも「力囲希咄」の語があるのである。即ち師匠の宗旦が「咄々斎」と号したところから、宗偏は「力口斎」と号することになったのであるが、囗の字は即ち囲の字の略である。 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千八号附録(明治四十五年三月十二日発行) 【本文】 かくて明暦元年、宗偏はその32歳の時に初めて茶道を以ってこの地の城主小笠原忠知に仕えることとなったのであるが、その紹介人は吉良上野介であったということである。この時宗偏は三十石五人扶持であったが、その二男宗屋は後に百石を与えられて江戸本所三ツ目に住んだのである。宗偏は当時この地悟真寺内の竹意軒にいたと伝えられてあるが、勿論江戸にも多く出て遠江浜名郡の大福寺などにも久しく滞留していたとのことである。 そして宗偏は曩にその師宗旦から利休以来千家累代の庵号たる不審庵並びに宗旦の用いた庵号今日庵とを共に譲られたのであって、このことは茶家の間に宗旦没前4年のことであると伝えられてある。果たして然りとすれば明暦元年頃のことで、丁度宗偏がその師から皆伝を許された当時の頃であるように推断されるのである。しかし千家にその子孫があるにもかかわらず、宗偏が特にこの利休の正系を継いで不審庵を名乗るに至ったについては、後に彼これと唱えたものもあった様子で、今尚当市曲尺手の高須芳三郎氏方に蔵されてある宗偏が当市の浄円寺主に贈った書状に徴しても、その何分を窺い知ることができるのである。 もっとも宗偏著の『利休茶道具図絵』という書物に元禄15年素堂という人が書いた序文があるが、その中に 「宗偏は何人なりや。曰く、千氏宗旦老人の高弟にして、宗易居士少庵翁の授受するところの道を究めて、以って不審庵に譲るの人なり。然りといえども、旦老の子孫数多有るを以って、漫りにその号を新たにせず、旧に因って四方庵と呼ぶこと年有り。去る甲寅の冬、或人の需めに応じて四方庵の額を昇げ、且つ門人の勧めに依って、茶亭に不審庵の額を挑く。これより宗易居士四世の不審庵と号する者なり」 とあるので、宗偏が公然不審庵を称したのは延宝2年の冬からであるのを知ると同時に、その事情も大いに分かるように思われるのである。また同じく『茶道便蒙抄』という書物の序の中にも 「中世に紹鷗有り、点茶の法を以って世に鳴る。紹鷗是を以って利休に伝え、利休滋々潤色を添え、その法隆盛し、列国諸侯に重んぜらる。児童踊り利休、走卒千氏を知る。世以って点茶百世の宗師と為すなり。利休これを少庵に伝え、少庵これを嗣子宗旦に伝う。宗旦性隠逸を好み」 【欄外】 豊橋市史談(山田宗偏と小笠原忠知) 二百二十五

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Yamada Sōhen and Ogasawara Tadatomo) 224 **Main Text:** ⦿Yamada Sōhen and Ogasawara Tadatomo Yamada Sōhen was, as mentioned in the previous chapter, a master of the tea ceremony, and his school is recognized as the Sōhen-ryū, a distinct tea ceremony school that has gained general recognition for its fame. This person was originally the son of Dōgen, a monk at Chōtoku-ji temple of the Jōdo Shinshū Ōtani sect at Nihonmatsu in Kyoto. His name was Shūkaku, later called Shūgaku, and his original family name was Nishina. The surname Yamada was adopted later from his mother's side. He was born in Kan'ei 1 (1624). Later, his father Dōgen moved to Ibaraki Gobō in Settsu Province, but in his old age he transferred the temple to his adopted son Shūkei. For reasons that are now unclear, when Sōhen was 26 years old, Dōgen retired to this Yoshida. Consequently, Sōhen also followed his father and came to live in this area. However, prior to this, Sōhen had entered the way of tea at age six and became a disciple of Kobori Enshū. Records vary as to whether he received certification at age 16 or 22. Afterward, despite also studying under Furuta Oribe, who was Enshū's teacher, he was somehow not satisfied, so in Shōhō 4—about two years before moving to Yoshida—he entered the school of Sen no Sōtan. This Sōtan was, as you all well know, the grandson of the famous Sen no Rikyū (Sōeki). Rikyū's eldest son was Dōan, and his second son was Sōjun, also known as Shōan. This Shōan's eldest son was precisely this Sōtan. Sōhen studied under him for nine years. During this period, although he had moved to Yoshida, he frequently went to Kyoto and established hermitages in the areas of Narutaki and Kinutana. Eventually he mastered the profound secrets of Rikyū's tea way and received full transmission. At that time, as proof of the Rikyū tradition, he was given the hereditary Shihō kettle, and from then on he called his hermitage Shihō-an. He also took the name Rikii-sai, alternatively Jokanja. The reason for taking the name Rikii-sai derives from the phrase "totsu totsu rikii ki," and Rikyū's death poem also contains the phrase "rikii ki totsu." Since his master Sōtan took the name "Totsu totsu-sai," Sōhen came to use "Rikii-sai," where the character 囗 is an abbreviation of 囲. **Left Page** **Margin:** San'yō Shimbun No. 4008 Supplement (Published March 12, Meiji 45) **Main Text:** Thus, in Meireki 1 (1655), when Sōhen was 32 years old, he first entered service with the tea ceremony under Ogasawara Tadatomo, the lord of this domain. His introducer was said to be Kira Kōzuke-no-suke. At this time Sōhen received a stipend of 30 koku and support for 5 retainers. His second son Sōoku later received 100 koku and resided in Mitsume, Honjo, Edo. Sōhen is said to have lived at Chikui-ken within Goshin-ji temple in this area at that time, though he of course frequently went to Edo and stayed for long periods at places like Daifuku-ji in Hamana District, Tōtōmi Province. Sōhen had previously inherited from his master Sōtan both the Fushin-an, the hereditary hermitage name of the Sen family since Rikyū, and Kyōnichi-an, the hermitage name used by Sōtan. This is said among tea families to have occurred four years before Sōtan's death. If this is true, it would have been around Meireki 1, precisely when Sōhen received full transmission from his master. However, despite the Sen family having descendants, the fact that Sōhen specifically inherited Rikyū's orthodox lineage and came to use the name Fushin-an apparently caused some controversy later, as can be inferred from a letter that Sōhen sent to the head priest of Jōen-ji in this city, which is still preserved at the home of Mr. Takasu Yoshisaburō in Kanejaku-te in our city today. Moreover, in Sōhen's work "Rikyū Tea Utensil Illustrated Guide," there is a preface written in Genroku 15 (1702) by someone called Sodō, which states: "Who is Sōhen? He is a distinguished disciple of the elder Sōtan of the Sen family, who mastered the way transmitted by Sōeki and Shōan and inherited Fushin-an. However, since Sōtan had many descendants, he did not rashly change the name, and continued to be called Shihō-an for years. In the winter of the previous year of Kinoe-Tora [Enpō 2, 1674], responding to someone's request, he raised the plaque of Shihō-an, and following his disciples' recommendation, hung the plaque of Fushin-an at his tea house. From this time he became known as the fourth-generation Fushin-an of Sōeki." From this we know that Sōhen publicly began using the name Fushin-an from the winter of Enpō 2, and the circumstances become much clearer. Also, in the preface of another work called "Chadō Benmō-shō," it states: "In the medieval period there was Jōō, who became famous in the world through the method of tea preparation. Jōō transmitted this to Rikyū, and Rikyū added further refinements, making the method flourish and earning respect from lords of various provinces. Children danced [in joy at the mention of] Rikyū, and even servants knew of the Sen family. The world considered him the tea master of a hundred generations. Rikyū transmitted this to Shōan, and Shōan transmitted it to his heir Sōtan. Sōtan by nature preferred reclusion..." **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Yamada Sōhen and Ogasawara Tadatomo) 225