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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 127

ページ: 127

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【欄外】    豊橋市史談 (山田宗偏と小笠原忠知)                    二百廿六 【本文】        不慕栄利、祇甘淡泊以点茶為楽矣、宗偏遊彼門有年干茲、直伝其衣鉢、而以得継利休家法之正脉也 《割書:宝永五年四|月二日歿》  とあるのである而(しか)して宗偏(そうへん)は宝永(ほうえい)五年四月二日八十五 歳(さい)を以(もつ)て江戸(えど)に於(おい)て歿(ぼつ)し浅草東本願寺(あさくさほんぐわんじ)中(ちう)の願龍(ぐわんりう)        寺(じ)に葬(ほうむ)つたが今(いま)も其(その)墓(はか)は現存(げんぞん)して居(を)るモツトモ名人忌辰録(めいじんきしんろく)には善龍寺(ぜんりうじ)に葬(ほうむ)るとしてあるから私(わたくし)も此(この)頃(ごろ)        上京(ぜうきよう)を幸(さいはひ)に浅草(あさくさ)の東本願寺(ひがしほんぐわんじ)に行(い)つて尋(たづ)ねて見(み)たが矢張(やはり)善龍寺(ぜんりうじ)ではなくて願龍寺(ぐわんりうじ)の方(はう)に墳墓(ふんぼ)があるの       である併(しか)し現在(げんざい)のものは明治(めいじ)廿九年七月 福島良(ふくしまれう)三 郎(らう)と云(い)ふ人(ひと)の建立(こんりう)したもので基石(きせき)丈(だけ)は古(ふる)くて当初(たうしよ)か       らのものと思(おも)はるゝが墓碑(ぼひ)は全部旧形(ぜんぶきうけい)を認(みと)むる事(こと)の出来(でき)ぬのは甚(はなはだ)以(もつ)て遺憾(ゐくわん)に思(おも)ふのである而(しか)して宗(そう) 茶道要録   偏(へん)の著書(ちよしよ)には前(まへ)にも申述(もうしの)べた茶道便蒙抄(ちやどうべんもうしよう)、 利休茶道具図絵(りきうちやどうぐづゑ)と並(ならび)に茶道要録(ちやどうえうろく)などがあるが孰(いづ)れも茶道(ちやどう)に        関(くわん)する事(こと)を詳録(せうろく)したもので従来(じうらい)極秘口伝(ごくひこうでん)であつたものゝ大部分(だいぶゞん)を此(この)人(ひと)が初(はじ)めて之等(これら)の書物(しよもつ)で開放(かいはう)した       もので其(その)道(みち)の人(ひと)には勿論(もちろん)普通人(ふつうじん)に対(たい)しても容易(ようい)ならざる便宜(べんぎ)を与(あた)ふる事(こと)であるが此処(こゝ)らは大(おほい)に宗偏(そうへん)の        主義(しゆぎ)を知(し)る事(こと)が出来(でき)るのである又(ま)た宗偏(そうへん)が此(この)地(ち)に遺(のこ)した事柄(ことがら)を調査(てうさ)して見(み)るのに遺憾(ゐくわん)な事(こと)には矢張(やはり)湮(ゑん) 《割書:湊町神明社|の庭園》   滅(めつ)に皈(き)したるものが多(おほ)いのであるが先(ま)づ本市(ほんし)大字(おほあざ)湊(みなと)の神明社(しんめいしや)境内(けいだい)大字(おほあざ)飯智光庵(ゐちくわうあん)の境内(けいだい)などは其(その)設計(せつけい)に 呉竹の清水  成(な)つたもので今(いま)でも多少(たせう)其(その)面影(おもかげ)が忍(しの)ばるゝのである又(また)大字(おほあざ)松山(まつやま)正林寺(せうりんじ)前(まへ)にある呉竹(くれたけ)の清水(しみづ)と云(い)ふのは        宗徧(そうへん)遺愛(ゐあい)の清水(しみづ)であるが今(いま)は其(その)痕跡(こんせき)があるかドウか殆(ほとん)ど分(わか)らぬ位(くらゐ)である併(しか)し宗偏(そうへん)遺愛(ゐあい)の器具(きぐ)では今尚(いまな) 《割書:宗偏自作の|木像》  ほ当市内(たうしない)の諸家(しよけ)に蔵(ざう)せられて居(を)るものが少(すくな)からぬ事(こと)であるが其(その)中(なか)でも大字(おほあざ)札木(ふだぎ)小原卯平氏(をはらうへいし)所蔵(しよざう)の宗偏(そうへん)        自作(じさく)弥陀(みだ)の木像(もくざう)は最(もつと)も見事(みごと)な物(もの)で其(その)背後(はいご)に「貞享(ていきよう)五年戊辰六月下旬六十二 歳(さい)作之(これをつくる)宗徧(そうへん)」と彫刻(てうこく)して       ある又(ま)た同人所用(どうにんしよよう)のもので伝来(でんらい)の正(たゞ)しきものが妙円寺(みよいゑんじ)にも保存(ほぞん)されて居(を)る尚(なほ)茲(こゝ)に一つ申述(もうしの)べたいと思(おも)       ふのは大日本人名辞書(だいにほんじんめいじしよ)宗偏伝(そうへんでん)の中(なか)に当時(たうじ)茶道(ちやどう)が流行(りうこう)して殊(こと)に遠州流(ゑんしうりう)の如(ごと)きは利休(りきう)の素志(そし)に反(はん)し茶道(ちやどう)を        以(もつ)て一 種驕奢(しゆきようしや)の媒介(ばいかい)となして珍器珍宝(ちんきちんほう)を弄(もてあそ)ばねば茶人(ちやじん)でないようにするので宗旦(そうたん)は深(ふか)く之(これ)を歎息(たんそく)し 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       て或時(あるとき)書面(しよめん)を以(もつ)て此(この)事(こと)を小堀遠州(こほりゑんしう)へ談(だん)じた処(ところ)が遠州(ゑんしう)の答(こたへ)にそれは尤(もつとも)ではあるが之(こ)れ決(けつ)して私意(しゐ)ではな       い内命(ないめい)の出(い)づる処(ところ)があつて治国平天下(ぢこくへいてんか)の基礎(きそ)を堅(かた)むる為(ため)であるとの事(こと)であつた然(しか)るに宗旦(そうたん)は飽(あ)くまで       も之(これ)では茶道(ちやどう)の本旨(ほんし)に反(はん)すると云(い)ふので真(しん)の茶道(ちやどう)を江戸(えど)に流布(るふ)せむことを欲(ほつ)したのであるが恰(あたか)も其(その)時(とき)小(を) 宗偏と忠知  笠原忠知(がさはらたゞとも)は大(おほい)に天下(てんか)の悪弊(あくへい)を矯正(きようせい)するのに志(こゝろざし)があつて宗旦(そうたん)を召(め)したのである然(しか)るに宗旦(そうたん)自(みづから)は老年(らうねん)で       あるからと云(い)ふので其(その)高弟(かうてい)たる宗偏(そうへん)を以(もつ)て小笠原家(をがさはらけ)に薦(すゝ)むるに至(いた)つたのであると云(い)ふ事(こと)が書(か)いてある       のである其(その)説(せつ)の出所(でどころ)は何(いづ)れであるか今(いま)能(よ)く分(わか)らぬから直(たゞ)ちに之(これ)を信(しん)ずる事(こと)も出来(でき)ぬではあるが私(わたくし)は        頗(すこぶ)る趣味(しゆみ)を以(もつ)て此(この)説(せつ)を迎(むか)ふる者(もの)である如何(いか)にも当時(たうじ)に於(お)ける徳川幕府(とくがはばくふ)の政策(せいさく)としては小堀遠州(こほりゑんしう)の答(こた)へ       たような事(こと)もあつたであろうと思(おも)ふ又(ま)た之(これ)と同時(どうじ)に忠知(たゞとも)及(およ)び宗偏(そうへん)が当時(たうじ)茶道(ちやどう)の上(うへ)に取(と)つた処(ところ)の方針(はうしん)も        分(わか)るように思(おも)ふのである従(したがつ)て宗偏(そうへん)は今日(こんにち)尚(な)ほ茶道(ちやどう)に於(お)いては利休(りきう)正統(せいとう)の極秘(ごくひ)を伝承(でんしよう)せるものと称(せう)せら       れて居(を)る次第(しだい)である尚(なほ)宗偏(そうへん)の茶道(ちやどう)に於(お)ける系統(けいとう)を知(し)る上(うへ)には幸(さいはひ)に大日本人名辞書(だいにほんじんめいじしよ)の巻首(くわんしゆ)に其(その)系図(けいづ)が掲(かゝ)       げてあるから就(つい)て見(み)られたならば概要(がいえう)を会得(ゑとく)する上(うへ)には好都合(こうつごう)であろうと思(おも)ふ尚(なほ)序(ついで)だから一寸(ちよつと)申添(もうしそ)へ       て置(お)くが宗徧(そうへん)の「ヘン」の字(じ)は徧(へん)が正当(せいたう)であるようであるが自筆(じしつ)のものにも偏(へん)の字(じ)を書(か)いたのがあるか       ら双方(そうほう)孰(いづ)れをも用(もち)ゐた事(こと)と思(おも)ふ現(げん)に前(まへ)に申述(もうしの)べた浅草(あさくさ)の墓標(ぼひよう)には偏(へん)の字(じ)が刻(ほ)つてあるのである            ⦿小笠原氏歴代と吉田の情勢 小笠原長矩 サテ忠知(たゞとも)は寛文(かんぶん)三 年(ねん)の七月に卒(そつ)して其(その)家督(かとく)を継(つ)いだのが嫡男(ちやくなん)の長矩(ながのり)であるが其(その)年(とし)十月九日 付(づけ)で父(ちゝ)の遺(ゐ) 小笠原長定  領(れう)の内(うち)四万石を領(れう)し残(のこり)五千石は其(その)内(うち)弟(おとゝ)の丹後守長定(たんごのかみながさだ)に三千石、 外記長秋(げきながあき)に二千石を分(わか)ち与(あた)へたのである 小笠原長秋 る此(この)事(こと)に就(つい)て三 河聞書(かはきゝがき)に 【欄外】    豊橋市史談 (小笠原氏歴代と吉田の情勢)                 二百廿七

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(山田宗偏と小笠原忠知) 二百二十六 【本文】 「栄利を慕わず、ただ淡泊を甘んじ、点茶を以って楽しみとするのみ。宗偏はその門に遊ぶこと年あり、直接その衣鉢を伝えられ、利休家法の正統を継ぐことを得たのである」 とある。そして宗偏は宝永5年4月2日、85歳で江戸において亡くなり、浅草東本願寺内の願龍寺に葬られたが、今もその墓は現存している。もっとも『名人忌辰録』には善龍寺に葬るとしてあるから、私もこの頃上京の際に浅草の東本願寺に行って尋ねてみたが、やはり善龍寺ではなくて願龍寺の方に墳墓があるのである。しかし現在のものは明治29年7月、福島良三郎という人の建立したもので、基石だけは古く当初からのものと思われるが、墓碑は全部旧形を認めることができないのは甚だ遺憾に思うのである。 そして宗偏の著書には前にも申し述べた『茶道便蒙抄』、『利休茶道具図絵』と並んで『茶道要録』などがあるが、いずれも茶道に関することを詳録したもので、従来極秘口伝であったものの大部分をこの人が初めてこれらの書物で開放したもので、その道の人には勿論、普通人に対しても容易ならざる便宜を与えることであるが、ここらは大いに宗偏の主義を知ることができるのである。 また宗偏がこの地に遺した事柄を調査してみるのに、遺憾なことにはやはり消滅してしまったものが多いのであるが、まず本市大字湊の神明社境内、大字飯智光庵の境内などはその設計になったもので、今でも多少その面影が偲ばれるのである。また大字松山正林寺前にある呉竹の清水というのは宗偏遺愛の清水であるが、今はその痕跡があるかどうか殆ど分からない位である。 しかし宗偏遺愛の器具では今なお当市内の諸家に蔵されているものが少なからずあることであるが、その中でも大字札木小原卯平氏所蔵の宗偏自作弥陀の木像は最も見事な物で、その背後に「貞享5年戊辰6月下旬62歳作之 宗偏」と彫刻してある。また同人所用のもので伝来の正しきものが妙円寺にも保存されている。 なおここに一つ申し述べたいと思うのは『大日本人名辞書』宗偏伝の中に、当時茶道が流行して殊に遠州流のようなものは利休の素志に反し、茶道を以って一種驕奢の媒介となして珍器珍宝を弄ばねば茶人でないようにするので、宗旦は深くこれを歎息し 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏はその該博なる知識と不尽の精力を傾け、豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略成るに際 【左頁】 【欄外】 この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 ある時書面を以ってこのことを小堀遠州へ談じたところが、遠州の答えにそれは尤もではあるが、これ決して私意ではない、内命の出る処があって治国平天下の基礎を堅めるためであるとのことであった。然るに宗旦は飽くまでもこれでは茶道の本旨に反すると言うので、真の茶道を江戸に流布させることを欲したのであるが、恰もその時小笠原忠知は大いに天下の悪弊を矯正するのに志があって宗旦を召したのである。然るに宗旦自らは老年であるからと言うので、その高弟たる宗偏を以って小笠原家に薦めるに至ったのであるということが書いてあるのである。 その説の出所はいずれであるか今よく分からないから直ちにこれを信ずることもできないではあるが、私は頗る趣味を以ってこの説を迎える者である。いかにも当時における徳川幕府の政策としては小堀遠州の答えたようなこともあったであろうと思う。またこれと同時に忠知及び宗偏が当時茶道の上に取ったところの方針も分かるように思うのである。 従って宗偏は今日なお茶道においては利休正統の極秘を伝承せるものと称せられている次第である。なお宗偏の茶道における系統を知る上には幸いに『大日本人名辞書』の巻首にその系図が掲げてあるから就いて見られたならば概要を会得する上には好都合であろうと思う。 なお序だから一寸申し添えておくが、宗偏の「ヘン」の字は徧が正当であるようであるが、自筆のものにも偏の字を書いたのがあるから双方いずれをも用いたことと思う。現に前に申し述べた浅草の墓標には偏の字が刻ってあるのである。 ⦿小笠原氏歴代と吉田の情勢 さて忠知は寛文3年の7月に卒してその家督を継いだのが嫡男の長矩であるが、その年10月9日付けで父の遺領の内4万石を領し、残り5千石はその内弟の丹後守長定に3千石、外記長秋に2千石を分かち与えたのである。このことについて『三河聞書』に 【欄外】 豊橋市史談(小笠原氏歴代と吉田の情勢) 二百二十七

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Yamada Sōhen and Ogasawara Tadatomo) 226 **Main Text:** "[Sōtan] did not pursue fame or profit, but simply enjoyed frugality and took pleasure in tea preparation. Sōhen studied in his school for years, directly inheriting his teachings and obtaining the orthodox transmission of the Rikyū family methods." Thus it is written. Sōhen died in Edo on April 2, Hōei 5 (1708) at the age of 85, and was buried at Ganryū-ji temple within Higashi Hongan-ji in Asakusa, and his grave still exists today. Although the "Meijin Kishin-roku" states he was buried at Zenryū-ji, when I recently went to Tokyo and visited Higashi Hongan-ji in Asakusa to inquire, it was indeed at Ganryū-ji, not Zenryū-ji, where the tomb is located. However, the current monument was erected in July 1896 by someone named Fukushima Ryōsaburō. Only the foundation stones appear to be old and from the original period, but the tombstone itself cannot be recognized as having the old form, which I find quite regrettable. Sōhen's writings include the previously mentioned "Chadō Benmō-shō" and "Rikyū Tea Utensil Illustrated Guide," along with "Chadō Yōroku" and others. All of these provide detailed records of tea ceremony matters, and this person was the first to make public through these books much of what had traditionally been extremely secret oral transmissions. This provided extraordinary convenience not only to practitioners of the way but also to ordinary people, and here we can greatly understand Sōhen's principles. When investigating the things Sōhen left in this area, regrettably many have indeed disappeared, but first, the grounds of Shinmei Shrine in Minato district of our city and the grounds of Ichiikō-an in the same district were designed by him, and even today one can somewhat glimpse their former appearance. Also, what is called Kuretake Spring in front of Shōrin-ji temple in Matsuyama district was Sōhen's beloved spring, but now one can hardly tell whether any traces remain. However, among Sōhen's beloved utensils, quite a few are still preserved in various households in our city. Among these, the wooden statue of Amida Buddha carved by Sōhen himself, in the collection of Mr. Ohara Uhei of Fudagi district, is the most magnificent piece, with "Made in the late June of Jōkyō 5, year of Boshin, at age 62, Sōhen" carved on its back. Authentic items used by him are also preserved at Myōen-ji temple. Now, one thing I would like to mention is that in the Sōhen biography in the "Dai Nihon Jinmei Jisho" (Great Dictionary of Japanese Names), it states that tea ceremony was popular at the time, and schools like Enshū-ryū went against Rikyū's original intentions, making tea ceremony a kind of medium for luxury, where one could not be considered a tea master without handling rare utensils and treasures. Sōtan deeply lamented this, **Margin:** Toyohashi Mayor Mr. Ōguchi Kiroku has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling the history of Toyohashi City for over a year, and now as the manuscript is nearly complete... **Left Page** **Margin:** This Toyohashi City Historical Discourse is published once weekly (on Tuesdays) and presented to readers of San'yō Shimbun **Main Text:** and once sent a written communication about this matter to Kobori Enshū, to which Enshū replied that while this was reasonable, it was not his personal intention, but came from higher orders to strengthen the foundation for governing the country and bringing peace to the realm. However, Sōtan maintained that this completely went against the true purpose of tea ceremony, and wished to spread the true tea way to Edo. At precisely that time, Ogasawara Tadatomo, having great ambition to correct the evil customs of the realm, summoned Sōtan. But since Sōtan himself was advanced in years, he came to recommend his distinguished disciple Sōhen to the Ogasawara family. While I cannot determine the source of this account and therefore cannot immediately believe it, I find this theory quite fascinating. Indeed, as policy of the Tokugawa shogunate at that time, there may well have been circumstances like those Kobori Enshū described. At the same time, I think we can understand the policies that Tadatomo and Sōhen adopted regarding tea ceremony at that time. Consequently, Sōhen is still today said to preserve the most secret orthodox traditions of Rikyū's tea way. Fortunately, for understanding Sōhen's lineage in tea ceremony, there is a genealogical chart at the beginning of the "Dai Nihon Jinmei Jisho," which would be convenient for grasping the general outline. Incidentally, I should mention that the "hen" character in Sōhen's name should properly be 徧, but since there are examples of his own handwriting using 偏, I believe he used both forms. Indeed, the tombstone in Asakusa I mentioned earlier has the 偏 character carved on it. ⦿The Ogasawara Family Generations and Yoshida's Circumstances Now, Tadatomo died in the seventh month of Kanbun 3 (1663), and his heir was his eldest son Naganori. On October 9 of that year, he received 40,000 koku from his father's hereditary domain, with the remaining 5,000 koku divided between his younger brothers: 3,000 koku to Tango-no-kami Nagasada and 2,000 koku to Geki Nagaaki. Regarding this matter, the "Mikawa Kikigaki" states: **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Ogasawara Family Generations and Yoshida's Circumstances) 227