Code4Lib JAPAN ✕ みんなで翻刻

コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 128

ページ: 128

翻刻

【欄外】    豊橋市史談  (小笠原氏歴代と吉田の情勢)                 二百廿八 【本文】        今年吉田城主分知舎弟二人、小笠原丹後守長定領三千石、於長山村庁屋、家老吉田八兵衛住吉田        城内、代官後藤金太夫住長山、小笠原外記領二千石、於西川村定庁屋       とあるから此(この)時(とき)長定(ながさだ)の方(はう)は宝飯郡(ほゐぐん)の長山村(ながやまむら)外記(げき)の方(はう)は八 名郡(なぐん)の西川村(にしかはむら)に新(あらた)に分与(ぶんよ)された領地(れうち)の役所(やくしよ)を        設(もを)けたものと思(おも)はれる而(しか)して長矩(ながのり)と云(い)ふ人(ひと)は寛永(かんえい)元年(がんねん)の生(うまれ)で幼名(ようめい)千勝丸(せんかつまる)夫(それ)から名(な)を忠根(たゞもと)と云(い)ひ長頼(ながより)と        改(あらた)め更(さら)に長矩(ながのり)と変(へん)したのであるが最初(さいしよ)民部(みんぶ)と称(せう)し正保(せうほ)元年(がんねん)十二月廿九日 従(じゆ)五 位下(ゐか)に叙(ぢよ)せられ山城守(やましろのかみ)に 《割書:長矩自写の|経文》   任(にん)せられたのである此(この)人(ひと)がまだ廿七 歳(さい)の時(とき)に亡母(ぼうぼ)の十七 回忌(くわいき)に方(あた)つて其(その)功徳(くどく)の為(ため)に自写(じしや)して納(をさ)めた法(はふ)        華経(けきよう)が今(いま)も尚(なほ)臨済寺(りんざいじ)に遺(のこ)つて居(を)るが其(その)奥書(おくがき)に        慶安三年歳在庚寅十月初八日値予慈母法源院日心大師淑霊十七回諱之辰要酬乳恩之万一手自漸写法        華八軸金文了謹奉献真前伏冀頓証仏果及一切群生出離苦海直上覚場                               小笠原山城守源忠根焼香謹書之       とある而(しか)も其(その)経文(きようもん)を見(み)るに毎巻(まいくわん)頗(すこぶ)る細密(さいみつ)で全(まつた)く謹書(きんしよ)してあるのみならず其(その)後(のち)寛文(かんぶん)三年七月に其(その)父(ちゝ)忠(たゞ)        知(とも)が卒(そつ)した時(とき)も長矩(ながのり)は亦(ま)た今(いま)の臨済寺(りんざいじ)を移転(いてん)改築(かいちく)して其(その)菩提(ぼだい)を吊(ともら)ひそれが為(ため)には村(むら)の百 姓(せう)にも特典(とくてん)を        与(あた)ふる事(こと)を触(ふ)れしめた事(こと)は前章(ぜんせう)既(すで)に瓦町開発(かわらまちかいはつ)の条(くだり)で申述(もうしの)べた如(ごと)くである之(これ)等(ら)から推(お)して考(かんが)へて見(み)ると       長矩(ながのり)と云(い)ふ人(ひと)は余程(よほど)心(こゝろ)の優(やさ)しい孝心(かうしん)の深(ふか)い人(ひと)であつたと推断(すゐだん)する事(こと)が出来(でき)ると思(おも)ふ其(その)他(た)此(この)人(ひと)は神仏(しんぶつ)に        対(たい)する崇敬(すうけい)も厚(あつ)かつた様子(やうす)で其(その)頃(ころ)今(いま)の大字(おほあざ)中(なか)八の神明社(しんめいしや)は勿論(もちろん)まだ城内(じようない)にあつたのであるが之(これ)に初(はじ)め 《割書:神明社の石|華表》  て石(いし)の鳥居(とりゐ)を寄進(きしん)したのも矢張(やはり)此(この)長矩(ながのり)であるそれは寛文(かんぶん)十三 年(ねん)九月廿八日の事(こと)であるが現今(げんこん)の鳥居(とりゐ)は        其(その)後(のち)地震(ぢしん)の為(ため)に仆(たほ)れて修理(しうり)したものであるモツトモ当時(たうじ)の寄進札(きしんふだ)は今(いま)も尚(なほ)同社(どうしや)に保存(ほぞん)されて居(を)るので       ある 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千十四号附録   (明治四十五年三月十九日発行) 【本文】       サテ長矩(ながのり)は相続後(さうぞくご)間(ま)もなく奏者番(そうしやばん)となり(《割書:寛文三年|十月廿六日》)寛文(くわんぶん)六 年(ねん)七月十九日から寺社奉行(じしやぶぎやう)を兼(か)ねたが寛文(くわんぶん) 長矩卒す  は十三 年目(ねんめ)に延宝(えんほう)と改(あらた)まり其(その)六 年(ねん)二月八日 病(やまひ)を以(もつ)て卒(そつ)したのである年(とし)は五十五 歳(さい)で矢張(やはり)臨済寺(りんざいじ)に葬(ほうむ)ら       れたのであるが泰雲院宝峯正印居士(たいうんゐんほうほうしやうゐんこじ)と号(ごう)するのである而(しか)して其後(そのご)は嫡男(ちやくなん)の長祐(ながのり)が相続(さうぞく)したのである        元来(がんらい)此(この)小笠原氏(をがさはらし)は前(まへ)にも申述(まうしの)べた如(ごと)く忠知(たゞとも)が初(はじ)めて宗家(しうけ)から分(わか)れたような訳(わけ)であるから云(い)はば忠知(たゞとも)が        其(その)祖(そ)であるが其(その)人(ひと)以来(いらい)四 代(だい)の間(あひだ)相継(あひつ)いで此(この)地(ち)の城主(ぜうしゆ)であつたので前後(ぜんご)通(つう)じて凡(およ)そ五十三 年(ねん)になるので       ある即(すなは)ち其後(そのご)の大河内家(おほかうちけ)を除(のぞ)いては此(この)家(いへ)が最(もつと)も長(なが)く此(この)地(ち)を治(おさ)めて居(を)つた訳(わけ)である然(しか)るに当時(たうじ)は御承知(ごしやうち)       の如(ごと)く徳川(とくがは)の天下(てんか)も極(きは)めて太平無事(たいへいぶじ)の時(とき)であるから波瀾(はらん)と云(い)ふような事(こと)は全(まつた)くないので御話(おはなし)すべき事       も甚(はなは)だ少(すくな)いのであるが併(しか)し民政上(みんせいじやう)に関(くわん)しては稍々(やゝ)残(のこ)つて居(を)ることもあるので之(これ)から追々(おひ〳〵)に申述(まうしの)ぶる考(かんがへ)で 小笠原長祐 あるがサテ此(この)長祐(ながすけ)は正保(しやうほ)元年(ぐわんねん)の生(うまれ)で幼名(ようめい)は千 代松(よまつ)後(のち)長治(ながはる)長教(ながのり)などゝ名乗(なの)つた寛文(くわんぶん)三 年(ねん)十二月廿八日 従(じう)       五 位下(ゐげ)能登守(のとのかみ)に叙任(ぢよにん)し延宝(えんほう)六年三月 晦日(みそか)父(ちゝ)の遺領(ゐれう)を襲(つ)いで七 年(ねん)九月 朔日(ついたち)に壱岐守(いきのかみ)と改(あらた)めたのである然(しか)       るに其(その)翌年(よくねん)将軍(せうぐん)家綱(いへつな)は薨(こう)じて御承知(ごせうち)の五 代将軍(だいせうぐん)綱吉(つなよし)が舘林(たてばやし)から入(はい)つて宗家(しうけ)を襲(つ)いだのであるが此(この)年(とし)か       ら年号(ねんがう)が天和(てんわ)と改(あらた)まり天和(てんわ)は四 年目(ねんめ)に貞享(ていけう)となり貞享(ていけう)は又(また)五 年目(ねんめ)に元禄(げんろく)となつたのである 元禄時代   蓋(けた)し先(ま)づ之(これ)が徳川時代(とくがはじだい)に於(お)ける天下太平(てんかたいへい)の極度(きよくど)で風俗(ふうぞく)は頗(すこぶ)る華美(くわび)に流(なが)れ元禄時代(げんろくじだい)と云(い)へば誰(たれ)も知(し)らぬ 吉田の花火 ものゝない江戸全盛(えどぜんせい)の時(とき)であるが其(その)驕奢(けうしや)の風(ふう)は地方(ちはう)までも流(なが)れ来(きた)つたもので御承知(ごせうち)の吉田(よしだ)の花火(はなび)な       ども全(まつた)く此(この)頃(ころ)から盛大(せいだい)になつたのである勿論(もちろん)此(この)花火(はなび)は吉田神社(よしだじんしや)の祭礼(さいれい)に於(おい)て行(おこな)はれたのであるが元(もと)同(どう)        社(しや)の神官(しんくわん)であつた石田家(いしだけ)に遺(のこ)つて居(を)る記録(きろく)に依(よ)つて見(み)ると初(はじ)めて建物(たてもの)(《割書:花火の|一 種》)の大(おほ)きなのが出来(でき)たのは      元禄(げんろく)十三 年(ねん)の事で長(ながさ)拾三 間(げん)幅(はゞ)三 間半(げんはん)で其(その)費用(ひよう)は廿四 両(れう)かゝつたとしてある又(また)同(どう)祭礼(さいれい)に要(えう)する大字(おほあざ)本町(ほんまち) 笹踊の装束 の山車(だし)に幕(まく)の出来(でき)たのも元禄(げんろく)十六年の事(こと)であるとしてあるが萱町(かやまち)から出(で)る笹踊(さゝをどり)の装束(せうぞく)も元(も)と木綿(もめん)の浴(ゆか) 【欄外】    豊橋市史談  (小笠原氏歴代と吉田の情勢)                 二百廿九

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(小笠原氏歴代と吉田の情勢) 二百二十八 【本文】 「今年吉田城主分知舎弟二人、小笠原丹後守長定領三千石、於長山村庁屋、家老吉田八兵衛住吉田城内、代官後藤金太夫住長山、小笠原外記領二千石、於西川村定庁屋」 とあるから、この時長定の方は宝飯郡の長山村、外記の方は八名郡の西川村に新たに分与された領地の役所を設けたものと思われる。 そして長矩という人は寛永元年の生まれで幼名千勝丸、それから名を忠根と言い、長頼と改め、更に長矩と変したのであるが、最初民部と称し、正保元年12月29日従五位下に叙せられ山城守に任せられたのである。この人がまだ27歳の時に亡母の17回忌にあたって、その功徳のために自写して納めた法華経が今もなお臨済寺に遺っているが、その奥書に 「慶安3年歳在庚寅10月初8日値予慈母法源院日心大師淑霊17回諱之辰要酬乳恩之万一手自漸写法華8軸金文了謹奉献真前伏冀頓証仏果及一切群生出離苦海直上覚場 小笠原山城守源忠根焼香謹書之」 とある。しかもその経文を見るに毎巻頗る細密で全く謹書してあるのみならず、その後寛文3年7月にその父忠知が卒した時も、長矩はまた今の臨済寺を移転改築してその菩提を弔い、そのためには村の百姓にも特典を与えることを触れさせた事は前章既に瓦町開発の条で申し述べた通りである。これらから推して考えてみると、長矩という人は余程心の優しい孝心の深い人であったと推断することができると思う。 その他この人は神仏に対する崇敬も厚かった様子で、その頃今の大字中八の神明社は勿論まだ城内にあったのであるが、これに初めて石の鳥居を寄進したのもやはりこの長矩である。それは寛文13年9月28日のことであるが、現今の鳥居はその後地震のために倒れて修理したものである。もっとも当時の寄進札は今もなお同社に保存されているのである。 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千十四号附録(明治45年3月19日発行) 【本文】 さて長矩は相続後間もなく奏者番となり、寛文6年7月19日から寺社奉行を兼ねたが、寛文は13年目に延宝と改まり、その6年2月8日病を以って卒したのである。年は55歳でやはり臨済寺に葬られたのであるが、泰雲院宝峯正印居士と号するのである。そしてその後は嫡男の長祐が相続したのである。 元来この小笠原氏は前にも申し述べた通く忠知が初めて宗家から分れたような訳であるから、言わば忠知がその祖であるが、その人以来4代の間相継いでこの地の城主であったので、前後通じて凡そ53年になるのである。即ちその後の大河内家を除いてはこの家が最も長くこの地を治めていた訳である。然るに当時は御承知の通く徳川の天下も極めて太平無事の時であるから、波瀾というようなことは全くないのでお話しすべき事も甚だ少ないのであるが、しかし民政上に関しては稍々残っていることもあるので、これから追々に申し述べる考えである。 さてこの長祐は正保元年の生まれで幼名は千代松、後に長治、長教などと名乗った。寛文3年12月28日従五位下能登守に叙任し、延宝6年3月晦日父の遺領を襲いで7年9月朔日に壱岐守と改めたのである。然るにその翌年将軍家綱は薨じて御承知の5代将軍綱吉が館林から入って宗家を襲いだのであるが、この年から年号が天和と改まり、天和は4年目に貞享となり、貞享はまた5年目に元禄となったのである。 蓋しまずこれが徳川時代における天下太平の極度で、風俗は頗る華美に流れ、元禄時代と言えば誰も知らぬもののない江戸全盛の時であるが、その驕奢の風は地方までも流れ来たもので、御承知の吉田の花火なども全くこの頃から盛大になったのである。 勿論この花火は吉田神社の祭礼において行われたのであるが、元同社の神官であった石田家に遺っている記録によって見ると、初めて建物の大きなのができたのは元禄13年のことで、長さ13間幅3間半で、その費用は24両かかったとしてある。また同祭礼に要する大字本町の山車に幕のできたのも元禄16年のこととしてあるが、萱町から出る笹踊りの装束も元と木綿の浴 【欄外】 豊橋市史談(小笠原氏歴代と吉田の情勢) 二百二十九

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Ogasawara Family Generations and Yoshida's Circumstances) 228 **Main Text:** "This year the lord of Yoshida Castle divided [his domain] among two younger brothers: Ogasawara Tango-no-kami Nagasada received 3,000 koku, with administrative offices at Nagayama village; chief retainer Yoshida Hachibe lived within Yoshida Castle, deputy Gotō Kintayū lived in Nagayama; Ogasawara Geki received 2,000 koku, with administrative offices established at Nishikawa village." From this, it appears that at this time Nagasada established administrative offices for his newly granted territory in Nagayama village in Hōi district, while Geki did so in Nishikawa village in Yana district. Naganori was born in Kan'ei 1 (1624), with the childhood name Senkatsumaru. He later took the name Tadamoto, then changed it to Nagayori, and finally to Naganori. He was initially called Minbu, and on December 29, Shōhō 1 (1644), he was granted junior fifth rank lower and appointed Yamashiro-no-kami. When this man was still 27 years old, on the occasion of his deceased mother's 17th memorial anniversary, he personally copied and dedicated a Lotus Sutra for her spiritual merit. This sutra still remains at Rinzai-ji temple, and its postscript reads: "Keian 3, year of the Metal Tiger, 8th day of the 10th month, on the occasion of the 17th memorial of my beloved mother, Hōgen-in Nisshin Daishi's noble spirit, to repay even one ten-thousandth of her maternal kindness, I personally and gradually copied this eight-scroll Lotus Sutra in gold letters, respectfully dedicating it before her, humbly praying for her immediate attainment of Buddhahood and for all sentient beings to escape the sea of suffering and directly reach the place of enlightenment. Ogasawara Yamashiro-no-kami Minamoto Tadamoto, burning incense, respectfully wrote this." Moreover, examining the sutra text, every scroll is extremely detailed and completely written with care. Furthermore, when his father Tadatomo died in the 7th month of Kanbun 3 (1663), Naganori also relocated and rebuilt the current Rinzai-ji temple to pray for his soul, and for this purpose he issued proclamations granting special privileges to the village farmers, as I already mentioned in the previous chapter on the development of Kawara-machi. From these examples, I believe we can conclude that Naganori was a person of very gentle heart and deep filial piety. Additionally, this person showed deep reverence for gods and Buddha. At that time, the Shinmei Shrine of present-day Naka-hachi district was still located within the castle grounds, and it was also Naganori who first donated a stone torii gate to it. This occurred on September 28, Kanbun 13 (1673), but the current torii was repaired after the original fell due to an earthquake. The donation plaque from that time is still preserved at the shrine. **Left Page** **Margin:** San'yō Shimbun No. 4014 Supplement (Published March 19, Meiji 45/1912) **Main Text:** Now, Naganori became a sōshaban (master of ceremonies) shortly after his succession, and from July 19, Kanbun 6 (1666), he also served concurrently as jisha-bugyō (magistrate of temples and shrines). Kanbun changed to Enpō in its 13th year, and he died of illness on February 8, Enpō 6 (1678), at the age of 55. He was buried at Rinzai-ji temple with the posthumous name Taiun-in Hōhō Shōin Koji. Afterward, his eldest son Nagasuke succeeded him. Originally, as I mentioned before, this Ogasawara family began when Tadatomo first separated from the main family, so Tadatomo was, so to speak, its founder. From his time, four generations served consecutively as lords of this area, totaling approximately 53 years. Except for the later Ōkōchi family, this house ruled this area the longest. However, as you know, the Tokugawa realm was extremely peaceful at that time, so there were no upheavals to speak of, and there is very little to discuss. Nevertheless, some matters remain regarding civil administration, which I plan to describe gradually. Now, this Nagasuke was born in Shōhō 1 (1644), with the childhood name Chiyomatsu, later taking names like Nagaharu and Naganori. On December 28, Kanbun 3 (1663), he was appointed to junior fifth rank lower as Noto-no-kami. On the last day of the 3rd month of Enpō 6 (1678), he inherited his father's domain, and on September 1st of the 7th year, he changed his title to Iki-no-kami. However, the following year, Shogun Ietsuna died, and the well-known 5th shogun Tsunayoshi entered from Tatebayashi to succeed the main family. From this year the era name changed to Tenna, Tenna became Jōkyō in its 4th year, and Jōkyō became Genroku in its 5th year. Indeed, this was the height of peace throughout the realm during the Tokugawa period. Customs became quite luxurious, and the Genroku era represents the peak of Edo prosperity that everyone knows. This extravagant trend spread even to the provinces, and the famous Yoshida fireworks also became grand from this time. Of course, these fireworks were performed during the festival of Yoshida Shrine. According to records preserved by the Ishida family, who were formerly shrine priests there, the first large building was completed in Genroku 13 (1700), measuring 13 ken long and 3.5 ken wide, costing 24 ryō. The festival float curtains for Honmachi district were also completed in Genroku 16 (1703), and the costumes for the bamboo grass dance from Kayamachi were originally cotton yukata... **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Ogasawara Family Generations and Yoshida's Circumstances) 229