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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 129

ページ: 129

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【欄外】    豊橋市史談  (小笠原氏歴代と吉田の情勢)                 二百三十 【本文】       衣(た)であつたのを元禄(げんろく)に入(はい)つて絹(きぬ)のサラサ染(そめ)に改(あらた)め其(その)十七年に至(いた)つて緞子(どんす)のものが出来(でき)た様子(やうす)であるそ       れのみならず右(みぎ)の記録(きろく)の中(なか)には其(その)頃(ころ)此(この)笹踊(さゝおどり)を噺(はや)す為(ため)に大太鼓(おほたいこ)や小太鼓(こだいこ)の打手(うつて)の中(なか)に頗(すこぶ)る名人(めいじん)が出来(でき)た       と云ふ事が詳(くわ)しく記(しる)してあるが今日(こんにち)それを読(よ)むで見(み)ると如何(いか)にも当時(たうじ)が太平無事(たいへいぶじ)であつて其(その)極(きよく)一 般(ぱん)の        風潮(ふうてう)が遊佚(ゆういつ)に傾(かたむ)いた様子(やうす)が伺(うかゞ)ひ知(し)られるように思(おも)ふのである然(しか)るに此(この)時代(じだい)と云ふものは之(これ)と同時(どうじ)に又(ま)       た一 方(ぱう)に於(おい)て文物(ぶんぶつ)の隆盛(りうせい)を極(きは)めたもので殊(こと)に将軍(せうぐん)綱吉(つなよし)と云(い)ふ人(ひと)は学問好(がくもんづき)であつた処(ところ)から種々(しゆ〴〵)の計画(けいぐわく)を 貞享書上  も試(こゝろ)みたが兼(かね)て申述(まうしの)べてある如(ごと)く各(かく)諸侯(しよこう)は勿論(もちろん)麾下(きか)の士(し)より郷士(がうし)などに至(いた)るまで其(その)家系(かけい)の調査(てうさ)をなさ       しめたのである其時(そのとき)諸侯(しよこう)旗本(はたもと)などから書(か)き上(あ)げたものが所謂(いはゆる)貞享書上(ていけうかきあげ)と称(せう)するので今日(こんにち)も尚(なほ)頗(すこぶ)る史料(しれう)       となるものとなつて居(を)るかゝる様(やう)であつたから此(この)風(ふう)も亦(ま)た当時(とうじ)各地方(かくちはう)に波及(はきう)したものであるが長祐(ながすけ)が 市勢調査   貞享(ていけう)五年 即(すなは)ち元禄(げんろく)元年(ぐわんねん)に町奉行(まちぶげふ)西脇清次郎(にしわきせいじらう)と云ふ者(もの)に命(めい)じて吉田市中(よしだしちう)の市勢調査(しせいてうさ)をなさしめたのも亦(また)       何分(なにぶん)は其(それ)が影響(えいけう)とも見(み)るべきもので其時(そのとき)の取調書(とりしらべしよ)の写(うつし)と云(い)ふものは今(いま)も幸(さいはひ)に残(のこ)つて居(を)るのであるが此(この)       時(とき)には吉田(よしだ)市街(しがい)各町(かくちやう)の地図(ちづ)をも調製(てうせい)せしめたのである其事(そのこと)は矢張(やはり)調書(てうしよ)の中(なか)に記録(きろく)してあるが之(これ)に就(つい)て 《割書:元禄元年吉|田の地図》   甚(はなは)だ愉快(ゆくわい)なる話(はなし)があるのは先年(せんねん)大字(おほあざ)曲尺手(かねのて)の大辻太平君(おほつぢたへいくん)が或(ある)古物商(ふるものしやう)で本具(ほんぐ)の中(なか)に吉田(よしだ)の古地図(ふるちづ)十 余枚(よまゐ)       があるのを見(み)て之(これ)を購(あがな)はれた併(しか)し当時(たうじ)はそれ程(ほど)古(ふる)い大切(たいせつ)のものと思(おも)はれなかつた様子(やうす)であつたが        其話(そのはなし)を私(わたし)は市会議員(しくわいぎゐん)の若杉房次郎君(わかすぎふさじらうくん)から伝聞(でんぶん)したから早速(さつそく)人(ひと)を大辻君(おほつぢくん)の処(ところ)へやつて其(その)地図(ちづ)を借覧(しやくらん)し段(だん)        段(〴〵)と取調(とりしら)べて見(み)ると之(これ)こそ全(まつた)く此(この)元禄(げんろく)元年(がんねん)のものであると云(い)ふことが分(わか)つたのであるかく断定(だんてい)するには       勿論(もちろん)色々(いろ〳〵)な拠(よりどころ)のある事であるが大字(おほあざ)船町(ふなまち)にも旧来(きうらい)其(その)町(まち)丈(だけ)の古地図(ふるちづ)の写(うつし)が保存(ほぞん)されて居(を)つて之(これ)には庄屋(せうや)        藤(とう)十 君(くん)の副書(そへがき)があるそれに拠(よ)ると其(その)原図(げんづ)は本町(ほんまち)問屋(とんや)七 郎右衛門(らうゑもん)の所有(しよゆう)で寛政(くわんせい)十二 年(ねん)八 月(ぐわつ)船町(ふなまち)に借受(かりう)け       て複写(ふくしや)したものであるが当時(とうじ)の鑑定(かんてい)では少(すくな)くも元禄(げんろく)以前(いぜん)のものであろうと記(しる)してあるのである而(しか)も此(この) 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】        図(づ)と大辻氏(おほつぢし)所有(しよゆう)の地図(ちづ)の中(うち)船町(ふなまち)の部(ぶ)と合(あは)せて見(み)ると一二の精粗(せいそ)はあるが全然(ぜん〴〵)一 致(ち)するものであるモツ       トモ庄屋(せうや) 藤(とう)十 氏(し)が之(これ)を複写(ふくしや)した当時(たうじ)は元禄(げんろく)元年(ぐわんねん)に市勢調査(しせいてうさ)のあつた事(こと)も分(わか)らず従(したがつ)て西脇清次郎(にしわきせいじらう)の調査(てうさ)        書(しよ)と云(い)ふものをも見(み)られなかつた事(こと)であろうから只(たゞ)漠然(ばくぜん)と少(すくな)くとも元禄(げんろく)以前(いぜん)のものであろうと鑑定(かんてい)さ       れたのである併(しか)し今日(こんにち)此(この)西脇(にしわき)の調査書(てうさしよ)と此(この)地図(ちづ)とを比較対照(ひくわくたいせう)して見(み)ると右(みぎ)私(わたくし)の申述(まうしの)べた事(こと)は動(うごか)すべか       らざるものがあることを信(しん)ずるのであるモツトモ右(みぎ)申述(まうしの)べた大辻氏(おほつぢし)の地図(ちづ)とても果(はた)して其(その)当時(たうじ)の原本(げんほん)な       るや又(また)は後(のち)の複写(ふくしや)になつたものなるやは少(すこ)しく明言(めいげん)に苦(くるし)む処(ところ)であるが兎(と)に角(かく)右(みぎ)の如(ごと)くとすれば此(この)地(ち)に        於(お)ける各町分図(かくちやうぶんづ)で今(いま)残(のこ)つて居(を)るものゝ内(うち)では最旧(さいきう)のものとなすべきであると思(おも)ふサテ此(この)話(はなし)は以上(いじやう)の如       くであるが右(みぎ)調書(てうしよ)と地図(ちづ)とに拠(よ)れば当時(たうじ)吉田(よしだ)の総町数(そうちやうすう)は廿四ケ町(ちやう)で戸数(こすう)は僅(わづか)に壱千しかなかつたもの       であるが各町(かくちやう)の延長幅員(えんちやうふくゐん)其他(そのた)総門(そうもん)大手門(おほてもん)などの位置(ゐち)並(ならび)に豊川橋梁(とよかはけうれう)の有様(ありさま)等(とう)も歴々(れき〳〵)分明(ぶんめい)である併(しか)し乍(なが)ら        一々(いち〳〵)之(これ)を茲(こゝ)に掲(かゝ)ぐることは到底(とうてい)困難(こんなん)であるから成(な)るべくは実物(じつぶつ)に就(つい)て御覧(ごらん)になれば誠(まこと)に好都合(こうつがふ)であると        思(おも)ふ        又(ま)た元禄(げんろく)二年には大橋(おほはし)の架替(かけかへ)もあつたのであるが矢張(やはり)此時(このとき)の工事(こうじ)は中々(なか〳〵)の大仕掛(おほじかけ)であつて幸(さひはひ)に大字(おほあざ)船(ふな) 橋梁の架替  町(まち)には当時(たうじ)の設計書(せつけいしよ)が保存(ほぞん)されて居(を)るが其(その)書類(しよるい)の表題(へうだい)は「元禄(げんろく)二年五月三 州(しう)吉田大橋(よしだおほはし)新規(しんき)御掛直(おんかけなほし)入札(にうさつ)        帳(ちやう)」としてあるのである之(これ)で見(み)ると其時(そのとき)の設計(せつけい)と云(いふ)ものは明(あきらか)に分(わか)るのであるが先(ま)づ予(あらかじ)め旧橋(きうけう)と相並(あひなら)む       で新橋(しんけう)を造営(ぞうえい)し其(その)成(な)るに及(およ)むで旧橋(きうけう)を取毀(とりこは)つたものである勿論(もちろん)其(その)構造(こうぞう)は高欄(かうらん)に「ギボシ」を付(つ)けたもの 《割書:井上通女の|帰家日記》  で今日(こんにち)に見(み)る瀬田(せた)の長橋(ながはし)と同(どう)一のものであつた事(こと)と思(おも)ふ茲(こゝ)に面白(おもしろ)いのは彼(か)の井上通女(いのうへつうぢよ)の皈家日記(きかにつき)であ       るが此人(このひと)は御承知(ごしやうち)の如(ごと)く有名(ゆうめい)なる賢女(けんぢよ)で京極家(けうごくけ)に仕(つか)へて居(を)つたのであるが此(この)帰家日記(きかにつき)と云(い)ふものは元(げん)        禄(ろく)二年の六月に江戸(えど)から其(その)本国(ほんごく)讃岐(さぬき)の丸亀(まるがめ)に皈(かへ)る道中記(どうちうき)で丁度(ちようど)其(その)日記(につき)の六月十七日の条(くだり)に 【欄外】    豊橋市史談  (小笠原氏歴代と吉田の情勢)                 二百卅一

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(小笠原氏歴代と吉田の情勢) 二百三十 【本文】 衣であったのを元禄に入って絹のサラサ染に改め、その17年に至って緞子のものができた様子である。それのみならず右の記録の中には、その頃この笹踊を盛り上げるために大太鼓や小太鼓の打ち手の中に頗る名人ができたということが詳しく記してあるが、今日それを読んでみると如何にも当時が太平無事であって、その極一般の風潮が遊楽に傾いた様子が伺い知られるように思うのである。 然るにこの時代というものは、これと同時にまた一方において文物の隆盛を極めたもので、殊に将軍綱吉という人は学問好きであった処から種々の計画をも試みたが、かねて申し述べてある通り各諸侯は勿論、麾下の士より郷士などに至るまでその家系の調査をなさしめたのである。その時諸侯旗本などから書き上げたものが所謂貞享書上と称するので、今日もなお頗る史料となるものとなっている。 かかる様であったからこの風もまた当時各地方に波及したものであるが、長祐が貞享5年即ち元禄元年に町奉行西脇清次郎という者に命じて吉田市中の市勢調査をなさしめたのもまた何分はその影響とも見るべきもので、その時の取調書の写というものは今も幸いに残っているのである。 この時には吉田市街各町の地図をも調製せしめたのである。その事はやはり調書の中に記録してあるが、これについて甚だ愉快なる話があるのは、先年大字曲尺手の大辻太平君がある古物商で本具の中に吉田の古地図十余枚があるのを見てこれを購われた。しかし当時はそれほど古い大切のものと思われなかった様子であったが、その話を私は市会議員の若杉房次郎君から伝聞したから、早速人を大辻君の処へやってその地図を借覧し、段々と取り調べてみるとこれこそ全くこの元禄元年のものであるということが分かったのである。 かく断定するには勿論色々な根拠のある事であるが、大字船町にも旧来その町だけの古地図の写が保存されていて、これには庄屋藤十君の副書がある。それによるとその原図は本町問屋七郎右衛門の所有で、寛政12年8月船町に借り受けて複写したものであるが、当時の鑑定では少なくも元禄以前のものであろうと記してあるのである。しかもこの 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏は、その該博なる知識と不尽の精力を傾け、豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略成るに際 【左頁】 【欄外】 この豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 図と大辻氏所有の地図の中船町の部と合わせて見ると一二の精粗はあるが全然一致するものである。もっとも庄屋藤十氏がこれを複写した当時は、元禄元年に市勢調査のあった事も分からず、従って西脇清次郎の調査書というものをも見られなかった事であろうから、ただ漠然と少なくとも元禄以前のものであろうと鑑定されたのである。 しかし今日この西脇の調査書とこの地図とを比較対照してみると、右私の申し述べた事は動かすべからざるものがあることを信じるのである。もっとも右申し述べた大辻氏の地図とても、果たしてその当時の原本なるや、またはその後の複写になったものなるやは少しく明言に苦しむ処であるが、とにかく右の如くとすればこの地における各町分図で今残っているもののうちでは最旧のものとなすべきであると思う。 さてこの話は以上の如くであるが、右調書と地図とによれば当時吉田の総町数は24ヶ町で、戸数は僅かに千戸しかなかったものであるが、各町の延長幅員その他総門大手門などの位置並びに豊川橋梁の有様等も歴々分明である。しかしながら一々これを茲に掲ぐることは到底困難であるから、成るべくは実物について御覧になれば誠に好都合であると思う。 また元禄2年には大橋の架替もあったのであるが、やはりこの時の工事は中々の大仕掛であって、幸いに大字船町には当時の設計書が保存されているが、その書類の表題は「元禄2年5月三州吉田大橋新規御掛直入札帳」としてあるのである。これで見るとその時の設計というものは明らかに分かるのであるが、まず予め旧橋と相並んで新橋を造営し、その成るに及んで旧橋を取り毀したものである。勿論その構造は高欄に「擬宝珠」を付けたもので、今日に見る瀬田の長橋と同一のものであった事と思う。 茲に面白いのは彼の井上通女の帰家日記であるが、この人は御承知の通り有名なる賢女で京極家に仕えていたのであるが、この帰家日記というものは元禄2年の6月に江戸からその本国讃岐の丸亀に帰る道中記で、丁度その日記の6月17日の条に 【欄外】 豊橋市史談(小笠原氏歴代と吉田の情勢) 二百三十一

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Ogasawara Family Generations and Yoshida's Circumstances) 230 **Main Text:** The clothing was originally cotton yukata, but upon entering the Genroku era it was changed to silk sarasa-dyed fabric, and by the 17th year silk damask was created. Moreover, in the aforementioned records it is detailed that at that time, to enliven this bamboo grass dance, remarkable masters emerged among the players of large and small drums. Reading this today, one can clearly sense how peaceful the times were and how the general trend had turned toward pleasure-seeking. However, this era simultaneously reached the height of cultural prosperity. Particularly, since Shogun Tsunayoshi was fond of learning, he attempted various projects. As I have mentioned before, he ordered genealogical investigations not only of all daimyo but also of their retainers down to rural samurai. What the daimyo and hatamoto submitted at that time is called the Jōkyō Survey, which remains an extremely valuable historical source today. Since this was the situation, this trend also spread to various provinces at the time. When Nagasuke ordered the town magistrate Nishiwaki Seijirō to conduct a municipal survey of Yoshida in Jōkyō 5, which was Genroku 1 (1688), this too can be seen as partly influenced by that trend. A copy of the investigation report from that time fortunately still remains. At this time, maps of each district of Yoshida city were also prepared. This is recorded in the survey report, and there is a most interesting story about this: some years ago, Mr. Ōtsuji Tahei of Kanenote district saw over ten old maps of Yoshida among antiques at a used goods dealer and purchased them. However, at the time they did not seem to be considered particularly old or valuable. When I heard this story from city councilor Mr. Wakasugi Fusajirō, I immediately sent someone to Mr. Ōtsuji to borrow the maps, and upon gradual investigation, we discovered these were indeed from that very year Genroku 1. There are naturally various grounds for this conclusion, but Funamachi district has long preserved a copy of an old map of just that district, with annotations by village headman Tōjū. According to this, the original map was owned by wholesaler Shichirōemon of Honmachi district, borrowed and copied by Funamachi in the 8th month of Kansei 12 (1800). The appraisal at that time recorded it as at least pre-Genroku. **Margin:** Mayor of Toyohashi, Mr. Ōguchi Kiroku, has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling the Toyohashi city history for over a year, and now as the manuscript nears completion... **Left Page** **Margin:** This Toyohashi City Historical Discourse is published weekly (Tuesdays) and presented to San'yō Shimbun readers. **Main Text:** When comparing this map with the Funamachi section of Mr. Ōtsuji's maps, though there are minor differences in detail, they match perfectly. Of course, when village headman Tōjū copied this, the municipal survey of Genroku 1 was unknown, and consequently Nishiwaki Seijirō's survey report could not be consulted, so it was vaguely appraised as at least pre-Genroku. However, comparing Nishiwaki's survey report with these maps today, I believe my assertions are unshakeable. Whether Mr. Ōtsuji's maps are originals from that time or later copies is somewhat difficult to state definitively, but in any case, if this is correct, they should be considered the oldest surviving district maps of this area. So much for this story, but according to the survey report and maps, Yoshida at that time had a total of 24 districts with only 1,000 households. The length and width of each district, positions of gates like Sōmon and Ōtemon, and the condition of Toyokawa Bridge are all clearly shown. However, it would be extremely difficult to list all these details here, so it would be most convenient if you could examine the actual documents. Also in Genroku 2 (1689) there was a reconstruction of the great bridge. This construction work was quite elaborate, and fortunately Funamachi district preserves the design documents from that time, titled "Genroku 2nd Year, 5th Month, Mikawa Province Yoshida Great Bridge New Construction Bidding Record." From this the design is clearly understood: first a new bridge was built alongside the old one, and when completed, the old bridge was demolished. The structure naturally had railings with giboshi (decorative finials), identical to Seta's long bridge seen today. Interesting here is the travel diary "Homecoming Diary" by the famous Inoue Tsūjo. As you know, this person was a renowned wise woman who served the Kyōgoku family. This diary records her journey from Edo to her home province of Sanuki's Marugame in the 6th month of Genroku 2, and in the entry for the 17th day of the 6th month... **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Ogasawara Family Generations and Yoshida's Circumstances) 231