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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 132

ページ: 132

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【欄外】    豊橋市史談  (久世出雲守)                   二百卅六 【本文】       事を調(しら)べたものである此事(このこと)は茲(こゝ)に付言(ふげん)して置(お)きたいと思(おも)ふ             ⦿久世出雲守        前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べた如(ごと)く小笠原家(をがさはらけ)は壱岐守忠知(いきのかみたゞとも)以来(いらい)長矩(ながのり)、 長祐(ながすけ)、 長重(ながしげ)と四 代(だい)相継(あひつ)いで此(この)吉田(よしだ)の城主(じようしゆ)と成(な)つ       て居(を)つたが長重(ながしげ)の時(とき)に至(いた)り元禄(げんろく)十年四月十九日 京都所司代(けうとしよしだい)から老中(らうちう)に昇任(せうにん)せられ領地(れうち)壱万石を加増(かぞう)せ       られて同時(どうじ)に武蔵国(むさしのくに)岩槻城(いはつきじよう)に国替(くにがへ)を命(めい)ぜられたのである而(しか)して其後(そののち)に此(この)吉田(よしだ)の城主(じようしゆ)として封(ほう)ぜられた 《割書:久世重之吉|田に封せら|る》  のが久世出雲守重之(くぜいづものかみしげゆき)であるが此(この)人(ひと)は元禄(げんろく)十年六月十日に丹波国(たんばのくに)亀山(かめやま)から此処(こゝ)に移(うつ)さるゝ事となつたの 久世広宣  で五万石を領(れう)したのである元来(がんらい)此(この)久世家(くぜけ)は太政大臣(だぜうだいじん)道博(みちひろ)の後裔(こうゑい)であると伝(つた)へられて居(を)るが重之(しげゆき)の祖父(そふ)        広宣(ひろのぶ)と云ふ人(ひと)は徳川氏(とくがはし)の家人(かじん)で初(はじ)め大須賀康高(おほすがやすたか)に属(ぞく)し後(のち)屡々(しば〴〵)戦功(せんこう)があつたので家康(いへやす)は之(これ)に上総国(かづさのくに)望陀(ぼうだご) 久世広之   郡(ほり)で三百石の采地(さいち)を与(あた)へたのである然(しか)るに其後(そののち)も度々(たび〳〵)加封(かほう)せられて七千石を領(れう)するに至(いた)つたが其(その)三 男(なん)       に広之(ひろゆき)と云ふ人(ひと)があつて此人(このひと)は累進(るいしん)して大和守(やまとのかみ)に叙任(ぢよにん)せられ遂(つひ)に老中(らうちう)にまで昇(のぼ)り下総国(しもふさのくに)関宿(せきじゆく)の城主(じようしゆ)       となつたが重之(しげゆき)は即(すなは)ち此(この)広之(ひろゆき)の三 男(なん)で延宝(えんほう)七年八月六日 父(ちゝ)の遺領(ゐれう)を襲(つ)ぎ天和(てんわ)三年八月廿一日 備中国(びちうのくに)広(ひろ)        瀬(せ)に移(うつ)され貞享(ていけう)三年正月廿六日 更(さら)に丹波(たんば)の亀山(かめやま)に移封(いほう)せられたが今度(このたび)此(この)吉田(よしだ)に来(く)る事(こと)と相成(あひな)つた次第(しだい)       である然(しか)るに元禄(げんろく)と云ふ年号(ねんごう)は十六年 迄(まで)で其(その)十七年目には宝永(ほうえい)と改(あらた)まつたのであるが重之(しげゆき)は其年(そのとし)十月 《割書:重之復た関|宿に移封せ|らる》  九日 寺社奉行(じしやぶげう)を兼(か)ね其(その)二年九月廿一日 少老(せうらう)の職(しよく)に任(にん)ぜられ其(その)十月晦日 復(ふたゝ)び旧領(きうれう)関宿(せきじゆく)に移封(いほう)せられたの       で結局(けつきよく)此地(このち)在城(ざいじよう)は僅(わづか)に十年に過(す)ぎなかつたのである       サテ重之(しげゆき)は其後(そのご)正徳(せうとく)三年八月三日を以(もつ)て老中(らうちう)の職(しよく)に進(すゝ)み在職(ざいしよく)八年で享保(けうほ)五年六月廿七日 年(とし)六十一を以(もつ)       て卒(そつ)した人であるが此人(このひと)は実(じつ)に忠正(ちうせい)にして剛気(ごうき)のあつたので老中(らうちう)在職(ざいしよく)中(ちう)にも頗(すこぶ)る逸事(いつじ)があるのである 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千七十九号附録   (明治四十五年六月四日発行) 【本文】       モツトモ之(これ)は本市史(ほんしし)には直接(ちよくせつ)関係(かんけい)のない事(こと)であるが兎(と)に角(かく)其(その)老中(らうちう)となつたのは五 代将軍(だいせうぐん)綱吉(つなよし)の没後(ぼつご)で        家宣(いへのぶ)が六 代将軍(だいせうぐん)となつて間(ま)もない事であるが所謂(いはゆる)正徳(せうとく)の政治(せいぢ)に参与(さんよ)して劃策(くわくさく)した事が少(すくな)くない而(しか)も晩(ばん)       年(ねん)は八 代将軍(だいせうぐん)吉宗(よしむね)の享保(けうほ)の政事(せいじ)に与(あづか)つて頗(すこぶ)る幕府(ばくふ)に重(おも)きをなしたのである序(ついで)だから此処(こゝ)に一寸(ちよつと)付言(ふげん)し       て置(お)くが今(いま)の子爵(しゝやく)久世広業氏(くぜひろなりし)は即(すなは)ち其(その)後裔(こうゑい)に当(あた)るのである        又(また)此処(こゝ)に御話(おはなし)して置(お)きたい一二の事(こと)があるそれは外(ほか)でもないが此(この)重之(しげゆき)が当地(たうち)在城(ざいじょう)時代(じだい)に前(まへ)にも申述(もうしの)べ 生類御憐み た如(ごと)く五 代将軍(だいせうぐん)綱吉(つなよし)治世(ぢせい)の当時(たうじ)で殊(こと)に元禄(げんろく)の頃(ころ)は諸君(しよくん)も能(よ)く御承知(ごせうち)の通(とほ)り例(れい)の生類御憐(せいるいおんあはれ)みで鳥類獣(てうるいじう)        類(るい)を傷害(せうがい)したものは厳刑(げんけい)に処(しよ)せられると云ふ過酷(くわこく)な処罰(しよばつ)の行(おこな)はれた時代(じだい)であつたが元禄(げんろく)十四年三月 足(あ)        助町(すけまち)の市兵衛(いちべゑ)と云ふものが如何(いか)なる原因(げんゐん)であつたか此(この)吉田(よしだ)の札木町(ふだぎまち)で馬(うま)を斬(き)つたと云ふので大騒(おほさわぎ)とな 孝子旌表  り遂(つひ)に此者(このもの)は捕(とら)へられて斬罪(ざんざい)に処(しよ)せられたのである之(これ)は三 州吉田記(しうよしだき)に記(き)する処(ところ)であるだ尚(なほ)一つ同書(どうしよ)に        記(き)する事で宝永(ほうえい)元年(がんねん)孝子旌表(かうしせいへう)の事(こと)がある即(すなは)ち         世古町平作者、家貧而有能孝養親、因賚之麦六俵       と書(か)いてあるが之(これ)が徳川時代(とくがはじだい)になつてから当(たう)吉田(よしだ)に於(おい)て孝子(かうし)の旌表(せいへう)せられたもので明(あきらか)に記録(きろく)に遺(のこ)つ       て居(を)るのでは先(ま)づ最(もつと)も古(ふる)いように思(おも)ふのである            ⦿牧野備前守        前章(ぜんせう)に申述(もうしの)べた如(ごと)く久世出雲守重之(くぜいづものかみしげゆき)は此地(このち)在城(ざいじよう)僅(わづか)に十ケ年(ねん)許(ばかり)で復(ま)た旧領(きうれう)の下総国(しもふさのくに)関宿(せきじゆく)へ移封(ゐほう)になつ 牧野成春  たのであるが其後(そのゝち)を継(つ)いで此地(このち)に封(ほう)ぜられたのが牧野備前守成春(まきのびぜんのかみなりはる)である此人(このひと)の祖先(そせん)は御承知(ごせうち)の如(ごと)く先(さ)       きに屡々(しば〳〵)申述(もうしの)べてある牧野新次郎成定(まきのしんじらうなりさだ)であつて即(すなは)ち牛久保(うしくぼ)出身(しゆつしん)であるが成定(なりさだ)の子(こ)は康成(やすなり)で此人(このひと)の事も 【欄外】    豊橋市史談  (牧野備前守)                   二百卅七

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(久世出雲守) 二百三十六 【本文】 事を調べたものである。この事はここに付言しておきたいと思う。 **久世出雲守** 前章に申し述べた如く、小笠原家は壱岐守忠知以来、長矩、長祐、長重と四代相継いでこの吉田の城主となっていたが、長重の時に至り元禄十年四月十九日京都所司代から老中に昇任され、領地一万石を加増されて同時に武蔵国岩槻城に国替えを命ぜられたのである。 **久世重之吉田に封ぜらる** そしてその後にこの吉田の城主として封ぜられたのが久世出雲守重之であるが、この人は元禄十年六月十日に丹波国亀山からここに移されることとなったので、五万石を領したのである。 **久世広宣** 元来この久世家は太政大臣道博の後裔であると伝えられているが、重之の祖父広宣という人は徳川氏の家臣で、初め大須賀康高に属し、後に度々戦功があったので家康はこれに上総国望陀郡で三百石の采地を与えたのである。 **久世広之** しかるにその後も度々加封されて七千石を領するに至ったが、その三男に広之という人があって、この人は累進して大和守に叙任され、遂に老中にまで昇り下総国関宿の城主となったが、重之は即ちこの広之の三男で、延宝七年八月六日父の遺領を襲ぎ、天和三年八月二十一日備中国広瀬に移され、貞享三年正月二十六日更に丹波の亀山に移封されたが、今度この吉田に来ることと相成った次第である。 **重之復た関宿に移封せらる** しかるに元禄という年号は十六年までで、その十七年目には宝永と改まったのであるが、重之はその年十月九日寺社奉行を兼ね、その二年九月二十一日少老の職に任ぜられ、その十月晦日復び旧領関宿に移封されたので、結局この地在城は僅かに十年に過ぎなかったのである。 さて重之はその後正徳三年八月三日をもって老中の職に進み、在職八年で享保五年六月二十七日年六十一をもって卒した人であるが、この人は実に忠正にして剛気があったので、老中在職中にも頗る逸事があるのである。 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千七十九号附録(明治四十五年六月四日発行) 【本文】 もっともこれは本市史には直接関係のない事であるが、とに角その老中となったのは五代将軍綱吉の没後で家宣が六代将軍となって間もない事であるが、所謂正徳の政治に参与して画策した事が少なくない。しかも晩年は八代将軍吉宗の享保の政事に与って頗る幕府に重きをなしたのである。序でだからここに一寸付言しておくが、今の子爵久世広業氏は即ちその後裔に当るのである。 **生類御憐み** また此処にお話しして置きたい一二の事がある。それは外でもないが、この重之が当地在城時代に前にも申し述べた如く、五代将軍綱吉治世の当時で、殊に元禄の頃は諸君もよく御承知の通り例の生類御憐みで、鳥類獣類を傷害したものは厳刑に処せられるという過酷な処罰の行われた時代であったが、元禄十四年三月足助町の市兵衛というものが如何なる原因であったか、この吉田の札木町で馬を斬ったというので大騒ぎとなり、遂にこの者は捕えられて斬罪に処せられたのである。これは『三州吉田記』に記する処である。 **孝子旌表** だ尚一つ同書に記する事で宝永元年孝子旌表の事がある。即ち 「世古町平作者、家貧而有能孝養親、因賚之麦六俵」 と書いてあるが、これが徳川時代になってから当吉田において孝子の旌表せられたもので、明らかに記録に遺っているのでは先ず最も古いように思うのである。 **牧野備前守** 前章に申し述べた如く、久世出雲守重之はこの地在城僅かに十ヶ年許りで復た旧領の下総国関宿へ移封になったのであるが、その後を継いでこの地に封ぜられたのが牧野備前守成春である。 **牧野成春** この人の祖先は御承知の如く、先きに度々申し述べてある牧野新次郎成定であって、即ち牛久保出身であるが、成定の子は康成で、この人の事も 【欄外】 豊橋市史談(牧野備前守) 二百三十七

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Lord Kuze Izumo-no-kami) 236 **Main Text:** matters have been investigated. I would like to add this as a supplementary note here. **Lord Kuze Izumo-no-kami** As mentioned in the previous chapter, the Ogasawara family had four successive generations - Iki-no-kami Tadatomo, Naganori, Nagasuke, and Nagashige - who served as lords of Yoshida. During Nagashige's time, on the 19th day of the 4th month of Genroku 10 [1697], he was promoted from Kyoto Deputy to Senior Councilor, granted an additional 10,000 koku in domain lands, and simultaneously ordered to transfer to Iwatsuki Castle in Musashi Province. **Kuze Shigeyuki Enfeoffed at Yoshida** The person who was subsequently enfeoffed as lord of Yoshida was Kuze Izumo-no-kami Shigeyuki. On the 10th day of the 6th month of Genroku 10, he was transferred here from Kameyama in Tanba Province and held 50,000 koku. **Kuze Hironobu** Originally, the Kuze family is said to be descendants of Grand Minister Michihiro. Shigeyuki's grandfather Hironobu was a retainer of the Tokugawa clan who initially served under Ōsuga Yasutaka and later achieved numerous military distinctions, so Ieyasu granted him a 300-koku fief in Bōda District, Kazusa Province. **Kuze Hiroyuki** Subsequently, he received several increases in fief and eventually held 7,000 koku. His third son was named Hiroyuki, who advanced through the ranks to be appointed Yamato-no-kami, eventually rising to Senior Councilor and becoming lord of Sekijuku Castle in Shimōsa Province. Shigeyuki was this Hiroyuki's third son who inherited his father's domain on the 6th day of the 8th month of Enpō 7 [1679], was transferred to Hirose in Bitchū Province on the 21st day of the 8th month of Tenna 3 [1683], and further transferred to Kameyama in Tanba on the 26th day of the 1st month of Jōkyō 3 [1686], before coming to Yoshida this time. **Shigeyuki Again Transferred to Sekijuku** The Genroku era lasted until the 16th year, after which it changed to Hōei in the 17th year. In that year, on the 9th day of the 10th month, Shigeyuki concurrently served as magistrate of temples and shrines, was appointed to the position of junior councilor on the 21st day of the 9th month of the 2nd year, and on the last day of the 10th month was again transferred to his former domain of Sekijuku. Consequently, his residence at this place lasted only ten years. Shigeyuki later advanced to the position of Senior Councilor on the 3rd day of the 8th month of Shōtoku 3 [1713], served for eight years, and died on the 27th day of the 6th month of Kyōhō 5 [1720] at the age of 61. This man was truly loyal and steadfast and had quite remarkable episodes during his tenure as Senior Councilor. **Left Page** **Margin:** San'yō Shimbun No. 4079 Supplement (Published June 4, Meiji 45 [1912]) **Main Text:** Although this has no direct bearing on our city's history, his appointment as Senior Councilor came after the death of the 5th Shogun Tsunayoshi, shortly after Ienobu became the 6th Shogun. He participated in and strategized considerably in the so-called Shōtoku administration. Moreover, in his later years he held great weight in the government during the 8th Shogun Yoshimune's Kyōhō administration. As an aside, the current Viscount Kuze Hironari is his descendant. **Mercy for Living Beings** There are one or two matters I would like to discuss here. During Shigeyuki's residence in this region, as mentioned before, it was during the reign of the 5th Shogun Tsunayoshi, particularly during the Genroku period when, as you all well know, the infamous "mercy for living beings" policy imposed severe punishment on anyone who harmed birds or beasts. In the 3rd month of Genroku 14 [1701], a man named Ichibei from Asuke-machi, for some unknown reason, cut down a horse in Fudagi-machi in Yoshida, causing a great commotion. This person was eventually captured and sentenced to death by beheading. This is recorded in the "Sanshū Yoshida-ki." **Commendation of Filial Sons** There is one more matter recorded in the same book regarding the commendation of filial sons in Hōei 1 [1704]: "Heisaku of Seko-machi, though his family was poor, was capable of filial care for his parents, and was therefore rewarded with six bags of wheat." This appears to be the earliest clear record of a filial son being commended in Yoshida during the Tokugawa period. **Lord Makino Bizen-no-kami** As mentioned in the previous chapter, Kuze Izumo-no-kami Shigeyuki resided at this place for only about ten years before being transferred back to his former domain of Sekijuku in Shimōsa Province. The person who succeeded him and was enfeoffed here was Makino Bizen-no-kami Nariharu. **Makino Nariharu** As you know, this person's ancestor was Makino Shinjirō Narisada, who has been mentioned frequently before and who was from Ushikubo. Narisada's son was Yasunari, whose story has also **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Lord Makino Bizen-no-kami) 237