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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 133

ページ: 133

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【欄外】    豊橋市史談  (牧野備前守)                    二百卅八 【本文】        矢張(やはり)ズツト前章(ぜんせう)で度々(たび〳〵)御話(おはなし)にしてある訳(わけ)であるから今(いま)再(ふたゝ)び詳(くは)しくは申述(もうしの)べぬのである併(しか)し此(この)康成(やすなり)と云       ふ人(ひと)は徳川氏(とくがはし)の為(ため)には容易(ようい)ならぬ戦功(せんこう)のあつた人で中々(なか〳〵)履歴(りれき)も多(おほ)いのであるが天正(てんせう)十八 年(ねん)家康(いへやす)関東(かんとう)移(ゐ)        封(ほう)の後(のち)は上野国(かうづけのくに)太胡(おほご)弐万石に封(ほう)せられたのである而(しか)して此人(このひと)の室(しつ)は彼(か)の酒井左衛門尉忠次(さかゐさゑもんのぜうたゞつぐ)の女(ぢよ)で此(この)康(やす) 長岡牧野家  成(なり)には三 人(にん)の男子(だんし)があつたが長男(てうなん)は忠成(たゞなり)と云(い)つて之(こ)れが家督(かとく)を相続(さうぞく)したが其後(そののち)が即(すなは)ち所謂(いはゆる)長岡(ながをか)の牧野(まきの)        家(け)で維新(ゐしん)前(ぜん)越後(ゑちご)の長岡(ながをか)を領(れう)されたのであるが当主(たうしゆ)は今(いま)貴族院議員(きぞくゐんぎゐん)の子爵(しゝやく)牧野忠篤氏(まきのちうとくし)であるソコで忠成(たゞなり)       の弟(おとゝ)が秀成(ひでなり)其(その)又(また)弟(おとゝ)が儀成(のりなり)であるが此(この)儀成(のりなり)と云ふ人(ひと)は別(べつ)に一 家(か)をなしたので万治(まんぢ)三年三月五日五十五歳       で卒去(そつきよ)された方(かた)であるが美濃守(みののかみ)に任(にん)じ禄(ろく)五千石を食(は)むで居(を)つた然(しか)るに卒去(そつきよ)の後(のち)其(その)遺領(ゐれう)を二 子(し)に分与(ぶんよ)す 牧野成貞  ることになつて長子(てうし)成長(なりなが)に三千石 次子(じし)成貞(なりさだ)に二千と云ふ様(やう)に給(きう)せられたが此(この)成貞(なりさだ)と云ふ人は五 代将軍(だいせうぐん)綱(つな)        吉(よし)がまだ舘林(たてばやし)に居(を)つた頃(ころ)から之(これ)に仕(つか)へ綱吉(つなよし)がイヨ〳〵将軍(せうぐん)と相成(あひな)つてからは段々(だん〳〵)と其(その)引(ひ)き立(た)てを蒙(かうむ)つ       て遂(つひ)に諸侯(しよこう)の列(れつ)に入(い)り下総国(しもふさのくに)関宿城(せきじゆくじよう)七万三千石を領(れう)するに至(いた)つたのであるトコロで此人(このひと)は実子(じつし)がな 笠間牧野家 かつたので家人(かじん)大戸半弥(おほどはんや)の子(こ)式部(しきぶ)と云ふ人(ひと)を養(やしな)つて嗣(し)となしたが之(これ)が即(すなは)ち備前守成春(びぜんのかみなりはる)であつて其(その)子孫(しそん)       は維新当時(ゐしんたうじ)常陸(ひたち)笠間(かさま)の藩主(はんしゆ)で今(いま)の貴族院議員(きぞくゐんぎゐん)子爵(ししやく)牧野貞寧氏(まきのていねいし)である而(しか)して成春(なりはる)は元禄(げんろく)八年十一月 養父(やうふ)        成貞(なりさだ)隠居(ゐんきよ)の後(あと)を受(う)けて相続(さうぞく)し宝永(ほうえい)二年十月 晦日(みそか)久世重之(くぜしげゆき)に代(かは)つて此(この)吉田(よしだ)の城主(じようしゆ)となつたのである其時(そのとき)        領地(れうち)を加増(かぞう)せられて八万石を領(れう)したのであるが此人(このひと)は城主(じようしゆ)たること僅(わづか)に一ケ年半(ねんはん)許(ばかり)で同(おな)じ宝永(ほうえい)の四年三       月廿六日 年(とし)廿六で卒去(そつきよ)せられた併(しか)し此(この)僅(わづか)の間(あひだ)であるが我(わが)橋(とよはし)に取(と)つては中々(なか〳〵)面白(おもしろ)いものを残(のこ)されたの 《割書:吉田の地藉|図》  であるそれは外(ほか)でもないが此人(このひと)が此(この)地(ち)の城主(じようしゆ)となられた翌年(よくねん)此(この)吉田(よしだ)の市中(しちう)を調査(てうさ)して精密(せいみつ)なる地藉図(ちせきづ)       を製(せい)せしめられた事(こと)である今(いま)も幸(さいはひ)に其中(そのなか)の船町(ふなまち)の分(ぶん)と鍛冶町(かぢまち)の分(ぶん)とは当時(たうじ)のものが各(かく)其(その)大字(おほあざ)に保存(ほぞん)       せられて居(を)る之(これ)は今日(こんにち)に於(おい)ても容易(ようい)ならぬ参考品(さんかうひん)であると思(おも)ふ其(その)実物(じつぶつ)は嘗(かつ)て本市(ほんし)の史料展覧会(しれうてんらんくわい)にも出(しゆつ) 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】        品(ぴん)されたから諸君(しよくん)の中(なか)でも既(すで)に能(よ)く御承知(ごせうち)の方(かた)があることと信(しん)ずるのである             ⦿牧野大学と其治績 牧野成春   牧野備前守成春(まきのびぜんのかみなりはる)卒去(そつきよ)の後(のち)は其子(そのこ)七 之助成央(のすけなりひで)が相続(さうぞく)して名(な)を大学(だいがく)と改(あらた)め此地(このち)の城主(じようしゆ)となつたのである此(この) 《割書:宝永四年の|大震災》   人(ひと)も後(のち)に備前守(びぜんのかみ)に任(にん)ぜられたのであるが相続(さうぞく)の時(とき)はまだ幼少(ようせう)で僅(わづか)に九 歳(さい)であつた然(しか)るに其年(そのとし)即(すなは)ち宝永(ほうえい)       四年の十月四日に例(れい)の大震災(おほしんさい)が起(おこ)つたのであるが之(これ)が所謂(いはゆる)宝永(ほうえい)の大地震(おほぢしん)である其時(そのとき)諸国(しよこく)の災害(さいがい)は非常(ひぜう)       なもので其月(そのつき)の廿三日からは富士山(ふじさん)が焚(や)けて廿七日に至(いた)るも震動(しんどう)が止(や)まず山腹(さんぷく)新(あらた)に一 峯(ほう)を出(いだ)したので       あるが之(これ)が即(すなは)ち宝永山(ほうえいざん)である此(この)時(とき)の模様(もやう)が一寸(ちよつと)徳川実記(とくがはじつき)の中(なか)にも見(み)えて居(を)るが左(さ)の如(ごと)くである         豆川(づしう)【豆州の誤り】下田港(しもだこう)四日の地震(ぢしん)に高潮(たかしほ)押上(うちあ)げ各所(かくしよ)破損(はそん)の注進(ちうしん)あり甲州(かうしう)見延山(みのぶさん)富士川口(ふじかはこう)崩(くづ)れ遠州(ゑんしう)荒井(あらゐ)の海口(かいこう)も         損(そん)じ其他(そのほか)三 州(しう)城々(しろ〳〵)宿々(しゆく〳〵)此禍(このくわ)にかゝらざるはなし大阪(おほさか)は民屋(みんをく)一万六百 転覆(てんぷく)し生口(せいこう)三千廿人ほど死失(しにう)せ         土佐(とさ)は田圃(でんば)多(おほ)く海(うみ)に入(い)りしと聞(きこ)ゆ        而(しか)して当時(たうじ)に於(おけ)る此(この)吉田(よしだ)の実況(じつけふ)を記録(きろく)したもので宝永(ほうえい)七年四月十二日と日付(ひづけ)のあるのが今(いま)大字(おほあざ)船町(ふなまち)       の倉庫(さうこ)に保存(ほぞん)されて居(を)るが私(わたくし)も幸(さいはひ)に宝永(ほうえい)七年十月に記録(きろく)されたものを蔵(ざう)して居(を)る然(しか)るに此(この)二 者(しや)は孰(いづ) 《割書:吉田の被害|数》  れも大同小異(だいどうせうゐ)で文章(ぶんせう)も殆(ほとん)ど同(どう)一であるがそれに拠(よ)ると当時(たうじ)吉田(よしだ)の戸数(こすう)は一千十一 戸(こ)であつたが此(この)震災(しんさい)       に関(くわん)して全潰家屋(ぜんかいかをく)三百十 戸(こ)半潰(はんかい)二百六十六 戸(こ)で死者(ししや)十一 人(にん)としてある又(ま)た曩(さき)に小笠原長矩(をがさはらながのり)が寄進(きしん)した        城内(じようない)神明社(しんめいしや)の石(いし)の鳥居(とりゐ)も矢張(やはり)其(その)十月四日 未(ひつじ)の刻(こく)の大地震(おほぢしん)に倒潰(たうかい)したのであるが之(これ)は其(その)翌年(よくねん)の六月廿日        成央(なりひで)が家臣(かしん)の奥平(おくだひら)七 郎左衛門(らうざゑもん)に命(めい)じて再建(さいこん)せしめたので其時(そのとき)の棟札(むねふだ)は今(いま)も同社(どうしや)に保存(ほぞん)されて居(を)る兎(と)に 災害の救済  角(かく)此(この)時(とき)の災害(さいがい)は非常(ひぜう)なもので之(これ)が救済策(きうざいさく)として成央(なりひで)は金(かね)を城下(じようか)に貸(か)し下(さ)げ又(ま)た租税(そぜい)を省(はぶ)いたものであ 【欄外】    豊橋市史談  (牧野大学と其事蹟)                    二百卅九

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(牧野備前守) 二百三十八 【本文】 やはりずっと前章で度々お話にしてある訳であるから、今再び詳しくは申し述べないのである。しかしこの康成という人は徳川氏のためには容易ならぬ戦功のあった人で、なかなか履歴も多いのであるが、天正十八年家康関東移封の後は上野国太胡二万石に封ぜられたのである。そしてこの人の室は、かの酒井左衛門尉忠次の女で、この康成には三人の男子があったが、長男は忠成といってこれが家督を相続したが、その後が即ち所謂長岡の牧野家で、維新前越後の長岡を領されたのであるが、当主は今貴族院議員の子爵牧野忠篤氏である。 **長岡牧野家** そこで忠成の弟が秀成、その又弟が儀成であるが、この儀成という人は別に一家をなしたので、万治三年三月五日五十五歳で卒去された方であるが、美濃守に任じ禄五千石を食んでいた。しかるに卒去の後、その遺領を二子に分与することになって、長子成長に三千石、次子成貞に二千という様に給せられたが、この成貞という人は五代将軍綱吉がまだ館林にいた頃からこれに仕え、綱吉がいよいよ将軍と相成ってからは段々とその引き立てを蒙って、遂に諸侯の列に入り、下総国関宿城七万三千石を領するに至ったのである。 **牧野成貞** ところでこの人は実子がなかったので、家臣大戸半弥の子式部という人を養って嗣となしたが、これが即ち備前守成春であって、その子孫は維新当時常陸笠間の藩主で、今の貴族院議員子爵牧野貞寧氏である。 **笠間牧野家** そして成春は元禄八年十一月養父成貞隠居の後を受けて相続し、宝永二年十月晦日久世重之に代わってこの吉田の城主となったのである。その時領地を加増されて八万石を領したのであるが、この人は城主たること僅かに一ヶ年半許りで、同じ宝永の四年三月二十六日年二十六で卒去された。しかしこの僅かの間であるが、我が豊橋にとってはなかなか面白いものを残されたのである。 **吉田の地籍図** それは外でもないが、この人がこの地の城主となられた翌年、この吉田の市中を調査して精密なる地籍図を製せしめられた事である。今も幸いにその中の船町の分と鍛冶町の分とは当時のものが各々その大字に保存されている。これは今日においても容易ならぬ参考品であると思う。その実物は嘗て本市の史料展覧会にも出 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏はその該博なる知識と不尽の精力を傾け、豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際 【左頁】 【欄外】 この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 品されたから、諸君の中でも既によく御承知の方があることと信ずるのである。 **牧野大学とその治績** **牧野成春** 牧野備前守成春卒去の後は、その子七之助成央が相続して名を大学と改め、この地の城主となったのである。この人も後に備前守に任ぜられたのであるが、相続の時はまだ幼少で僅かに九歳であった。 **宝永四年の大震災** しかるにその年、即ち宝永四年の十月四日に例の大震災が起こったのであるが、これが所謂宝永の大地震である。その時諸国の災害は非常なもので、その月の二十三日からは富士山が焚けて二十七日に至るも震動が止まず、山腹新たに一峯を出したのであるが、これが即ち宝永山である。この時の模様が一寸徳川実記の中にも見えているが、左の如くである。 「豆州下田港四日の地震に高潮押し上げ各所破損の注進あり。甲州見延山富士川口崩れ、遠州荒井の海口も損じ、その他三州城々宿々この禍にかからざるはなし。大阪は民屋一万六百転覆し、生口三千二十人ほど死失せ、土佐は田圃多く海に入りしと聞こゆ。」 **吉田の被害数** そして当時におけるこの吉田の実況を記録したもので宝永七年四月十二日と日付のあるのが今大字船町の倉庫に保存されているが、私も幸いに宝永七年十月に記録されたものを蔵している。しかるにこの二者はいずれも大同小異で文章も殆ど同一であるが、それに拠ると当時吉田の戸数は一千十一戸であったが、この震災に関して全潰家屋三百十戸、半潰二百六十六戸で死者十一人としてある。また曩に小笠原長矩が寄進した城内神明社の石の鳥居も矢張その十月四日未の刻の大地震に倒潰したのであるが、これはその翌年の六月二十日成央が家臣の奥平七郎左衛門に命じて再建せしめたので、その時の棟札は今も同社に保存されている。 **災害の救済** とに角この時の災害は非常なもので、これが救済策として成央は金を城下に貸し下げ、また租税を省いたものであ 【欄外】 豊橋市史談(牧野大学とその事蹟) 二百三十九

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Lord Makino Bizen-no-kami) 238 **Main Text:** has already been discussed repeatedly in previous chapters, so I will not elaborate on it again in detail. However, this Yasunari was a person of considerable military achievements for the Tokugawa clan and had quite an extensive career. After Ieyasu's transfer to the Kantō region in Tenshō 18 [1590], he was enfeoffed with 20,000 koku at Ōgo in Kōzuke Province. His wife was the daughter of Sakai Saemon-no-jō Tadatsugu, and Yasunari had three sons. The eldest son was named Tadanari, who inherited the family headship and became the so-called Nagaoka Makino family, which ruled Nagaoka in Echigo Province before the Meiji Restoration. The current head is Viscount Makino Tadaatsu, a member of the House of Peers. **The Nagaoka Makino Family** Tadanari's younger brother was Hidenari, and his younger brother was Norinari. This Norinari established a separate branch family and died on the 5th day of the 3rd month of Manji 3 [1660] at age 55. He was appointed Mino-no-kami and held a stipend of 5,000 koku. After his death, his domain was divided between his two sons: the eldest son Narinaga received 3,000 koku and the second son Narisada received 2,000 koku. This Narisada served the 5th Shogun Tsunayoshi from when he was still at Tatebayashi, and after Tsunayoshi became shogun, he gradually received patronage, eventually joining the ranks of daimyo and coming to hold 73,000 koku at Sekijuku Castle in Shimōsa Province. **Makino Narisada** However, this person had no natural heir, so he adopted a retainer's son named Shikibu, the son of Ōdo Han'ya, as his successor. This was Bizen-no-kami Nariharu, whose descendants were the lords of Kasama in Hitachi Province at the time of the Meiji Restoration, represented today by Viscount Makino Teiei, a member of the House of Peers. **The Kasama Makino Family** Nariharu succeeded his adoptive father Narisada after his retirement in the 11th month of Genroku 8 [1695], and on the last day of the 10th month of Hōei 2 [1705], he replaced Kuze Shigeyuki as lord of Yoshida. At that time, his domain was increased to 80,000 koku. However, this person served as lord for only about one and a half years, dying on the 26th day of the 3rd month of Hōei 4 [1707] at the age of 26. Despite this brief period, he left something quite interesting for our Toyohashi. **Yoshida Land Registry Maps** This was none other than his ordering of a survey of Yoshida town the year after he became lord of this domain, creating precise land registry maps. Fortunately, the portions covering Funa-machi and Kaji-machi from that time are still preserved in their respective ōaza districts today. I believe these are invaluable reference materials even today. The actual documents were exhibited at our city's historical materials exhibition, so I believe some of you are already familiar with them. **Margin:** Toyohashi Mayor Ōguchi Kiroku has devoted his vast knowledge and inexhaustible energy to compiling the Toyohashi City History for over a year, and now as the manuscript nears completion... **Left Page** **Margin:** This Toyohashi City Historical Discourse is published once weekly (Tuesdays) and presented to readers of the San'yō Shimbun. **Main Text:** **Makino Daigaku and His Administrative Achievements** **Makino Nariharu** After the death of Makino Bizen-no-kami Nariharu, his son Shichinosuke Narihide succeeded him, changed his name to Daigaku, and became lord of this domain. This person was later appointed Bizen-no-kami, but at the time of succession he was still young, only nine years old. **The Great Earthquake Disaster of Hōei 4** However, in that same year, namely on the 4th day of the 10th month of Hōei 4 [1707], the famous great earthquake disaster occurred - this was the so-called Great Hōei Earthquake. At that time, the damage throughout the provinces was extraordinary. From the 23rd of that month, Mount Fuji erupted and continued shaking until the 27th, with a new peak emerging from the mountainside - this became Hōei-zan. The situation at that time is briefly described in the Tokugawa Jikki as follows: "At Shimoda Port in Izu Province, high tides surged due to the earthquake of the 4th, with reports of damage at various locations. The Fuji River mouth at Minobu-san in Kai Province collapsed, the harbor at Arai in Tōtōmi Province was also damaged, and among other places, no castles or post towns in the three provinces escaped this calamity. In Osaka, 10,600 private houses collapsed and about 3,020 people died or went missing. In Tosa, many rice fields are said to have been swallowed by the sea." **Yoshida's Damage Numbers** A record of the actual conditions in Yoshida at that time, dated the 12th day of the 4th month of Hōei 7 [1710], is preserved in a warehouse in Funa-machi ōaza, and I am also fortunate to possess one recorded in the 10th month of Hōei 7. Both documents are substantially similar with nearly identical text. According to these, Yoshida had 1,011 households at the time, and regarding this earthquake disaster, there were 310 completely destroyed houses, 266 half-destroyed houses, and 11 deaths. Also, the stone torii gate at Shinmei Shrine within the castle grounds, which had been donated earlier by Ogasawara Naganori, likewise collapsed in the great earthquake at the hour of the sheep on the 4th day of the 10th month. This was rebuilt the following year on the 20th day of the 6th month when Narihide ordered his retainer Okudaira Shichirōzaemon to reconstruct it, and the ridge plaque from that time is still preserved at the shrine today. **Disaster Relief** In any case, the disaster at this time was extraordinary, and as relief measures, Narihide lent money to the castle town and also reduced taxes. **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Makino Daigaku and His Achievements) 239