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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 134

ページ: 134

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【欄外】    豊橋市史談  (牧野大学と其事蹟)                    二百四十 【本文】       る私(わたくし)の蔵(ざう)して居(を)る記録(きろく)の中(なか)にも        右地震之節従御城主様惣町中え金千両本陣二軒並旅籠屋三十七軒へ金子千両合弐千両十年賦に拝借        被仰付候       とあるが此事(このこと)は市民(しみん)が深(ふか)く之(これ)を徳(とく)としたものと見(み)へて三 州吉田記(しうよしだき)の中(なか)に左(さ)の如(ごと)き事(こと)が書(か)いてある        宝永五年十二月廿一日為祈城主牧野氏之長久総町者於清州屋会合号大日待作謡音曲等遊舞也是依客        年地震諸民所及困窮趣領主以憐愍有租加賑恤是故有此等之事        之(これ)で見(み)ると市民(しみん)は牧野侯(まきのこう)賑恤(しんしゆつ)の恩沢(おんたく)を感謝(かんしや)する為(ため)に大日待(おゝひまち)をやつて其(その)武運長久(ぶうんてうきう)を祈(いの)つたものと見(み)える 造船の補助  地震(ぢしん)の話(はなし)は先(ま)づ之(これ)で止(と)めるが尚(な)ほ此処(こゝ)に申述(もうしの)べて置(お)きたいと思(おも)ふのは造船補助(ざうせんほじよ)の問題(もんだい)である御承知(ごせうち)の        如(ごと)く徳川幕府(とくがはばくふ)は島原(しまはら)の役(えき)あたりから余程(よほど)外国(ぐわいこく)との交渉(かうせう)は懲(こ)りたもので堅(かた)く鎖国(さこく)の方針(はうしん)を採(と)るに至(いた)つた       のであるから其(その)主義(しゆぎ)の上(うへ)より造船(ざうせん)に就(つい)ては厳(げん)に干渉(かんせう)を加(くは)へて五百石 以上(いぜう)の大船(たいせん)と云(い)ふものは之(これ)を製造(せいざう)       することを許(ゆる)さなかつたものである然(しか)るにダン〳〵と江戸(えど)も開(ひら)けて来(き)て諸国(しよこく)から物産(ぶつさん)の輸入(ゆにふ)を促(うなが)さねば       ならぬ事(こと)となつたのであるが交通(かうつう)の便(べん)が少(すくな)い当時(たうじ)の事であるから之(これ)には実際上(じつさいぜう)困(こま)つたので今度(このたび)綱吉(つなよし)の        時代(じだい)となつて遂(つひ)に造船(ざうせん)の制限(せいげん)を緩(ゆる)めて商船(せうせん)に限(かぎ)つては千 石(ごく)までは製造(せいざう)して差支(さしつかへ)ないことにしたのである       ソコで諸侯(しよこう)は往々(おう〳〵)名(な)を商船(せうせん)にかりて大船(たいせん)を製造(せいざう)せしめ各々(おの〳〵)封内(ほうない)の物産(ぶつさん)を江戸(えど)に輸出(ゆしゆつ)することを計(はか)つたの       であるが成央(なりひで)も亦(ま)た数々(しば〳〵)金(かね)を市民(しみん)の船(ふね)を造(つく)るものに借(か)して之(これ)を奨励(せうれい)したのである従(したがつ)て大字(おほあざ)船町(ふなまち)のもの       では此(この)恩沢(おんたく)に浴(よく)したのがイクラもある此事(このこと)は仝町(どうてう)の記録(きろく)にも明(あきらか)に残(のこ)つて居(を)る事であるが寛延(かんえん)三年に        船町(ふなまち)から時(とき)の城主(じようしゆ)に差出(さしいだ)した記録(きろく)の中(なか)に宝永(ほうえい)五年 即(すなは)ち此(この)成央(なりひで)の時代(じだい)の事(こと)として        江戸廻船作事仕候節ハ従御城主様為御救船壱艘に金百両宛御拝借被仰付一ケ年に弐拾両宛五年之内 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千十九号附録    (明治四十五年六月十八日発行) 【本文】        上納仕来り難有奉存候       と云(い)ふ事(こと)が載(の)つて居(を)る即(すなは)ち此(この)造船奨励(ざうせんせうれい)の方法(はう〳〵)は初(はじ)めて成央(なりひで)の時代(じだい)に起(おこ)つたものであるが爾来(じらい)歴代(れきだい)の藩(はん)        主(しゆ)は皆(みな)此(この)方法(はう〳〵)を襲踏(しうたう)したもので我豊橋市民(わがとよはししみん)は其(その)恵沢(けいたく)を蒙(かうむ)つた事(こと)が少(すくな)くない特(とく)に船町(ふなまち)は唯(ゆう)一の湊(みなと)と相成(あひな)       つて居(を)つたのであるから大小(だいせう)の船舶(せんぱく)は皆(みな)大橋(おほはし)の下(もと)に輻輳(ふくそう)して物貨集散(ぶつくわしうさん)の場所(ばしよ)となり次第(しだい)に賑盛(しんせい)を極(きは)む       るに至(いた)つた事(こと)は今(いま)も残(のこ)つて居(を)る諸種(しよしゆ)の記録類(きろくるい)によつて分明(ぶんめい)なる次第(しだい)である        此(かく)の如(ごと)く成央(なりひで)の時代(じだい)には民政上(みんせいぜう)に関(くわん)して中々(なか〳〵)称(せう)すべき事柄(ことがら)があるが現在(げんざい)我豊橋市内(わがとよはししない)に残(のこ)つて居(を)る下水(げすゐ) 《割書:用下水道の|改修》   道(どう)と云(い)ふものも矢張(やはり)宝永(ほうえい)五年 此(この)成央(なりひで)の時代(じだい)に改修(かいしう)を加(くは)へられたものである元来(がんらい)我豊橋市(わがとよはしし)現在(げんざい)の下水道(げすゐどう)       は頗(すこぶ)る古(ふる)くからあるものでイヅレ酒井忠次(さかゐたゞつぐ)なり池田輝政(いけだてるまさ)なりの各時代(かくじだい)に渉(わた)つて次第(しだい)に計劃(けいくわく)されたもの       であろうと信(しん)ずるが一 方(ぱう)には之(これ)に瓦町(かわらまち)大池(おほいけ)の水(みづ)を引(ひ)いて水田(すいでん)の灌漑(かんがい)に供(けう)する用水(ようすゐ)としたものであつて       ソレが市中(しちう)を幾筋(いくすぢ)も通過(つうくわ)して用水(ようすゐ)と下水(げすゐ)との兼用(けんよう)をなして居(を)ると云(い)ふ事(こと)は頗(すこぶ)る研究(けんきう)されたものと思(おも)ふ       のであるが而(しか)して元禄(げんろく)六年八月 小笠原佐渡守長重(をがさはらさどのかみながしげ)の時(とき)に一 度(たび)其(その)整理(せいり)をして規定(きてい)を設(もう)けたが今度(このたび)成央(なりひで)の        代(だい)に又(ま)た其(その)改修(かいしう)を試(こゝろ)みて一 層(そう)其(その)整頓(せいとん)を図(はか)つたのである幸(さいはひ)に当時(たうじ)の絵図面(ゑづめん)が今(いま)も大字(おほあざ)指笠町(いしかさまち)に保存(ほぞん)せら       れて居(を)るが之(これ)は最(もつと)も珍重(ちうじやう)すべきもので今日(こんにち)の行政上(ぎようせうぜう)にも頗(すこぶ)る参考(さんこう)となるべき地図(ちづ)である又(ま)た之(これ)に対(たい)す       る記録(きろく)も残(のこ)つて居(を)つて大字(おほあざ)鍛冶(かぢ)富田直平氏(とみたなほへいし)の所蔵(しよざう)であつたが当市役所(たうしやくしよ)にも一 部写(ぶうつ)し取(と)らして置(を)いたの       である余(あま)り冗長(ぜうてう)にはなるが目下(もつか)当市(たうし)の下水改良(げすゐかいれう)を急務(きうむ)とする場合(ばあひ)であつて最(もつと)も趣味(しゆみ)のある事(こと)であると       思(おも)ふから之(これ)に関(くわん)する全文(ぜんぶん)を左(さ)に掲(かゝ)ぐることとする                 町々水道筋之事        一此町中水払水道之儀者従先規有来候得共猶以末々迄水道に付違論為無之今度改致絵図水道堀幅町 【欄外】    豊橋市史談  (牧野大学と其事蹟)                    二百四十一

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(牧野大学とその事蹟) 二百四十 【本文】 る。私の蔵している記録の中にも 「右地震の節、御城主様から総町中へ金千両、本陣二軒並びに旅籠屋三十七軒へ金子千両、合わせて二千両を十年賦にて拝借を仰せ付けられ候」 とあるが、この事は市民が深くこれを徳としたものと見えて、『三州吉田記』の中に左の如きことが書いてある。 「宝永五年十二月二十一日、城主牧野氏の長久を祈るため、総町者が清州屋において会合し、大日待と号して謡音曲等を遊舞した。これは去年地震により諸民が困窮に及んだ趣きを、領主が憐愍をもって租を加え賑恤したことを有り難く思い、このような事を行ったのである」 これで見ると、市民は牧野侯賑恤の恩沢を感謝するために大日待を行って、その武運長久を祈ったものと見える。 **造船の補助** 地震の話は先ずこれで止めるが、なおここに申し述べておきたいと思うのは造船補助の問題である。御承知の如く、徳川幕府は島原の役あたりから余程外国との交渉は懲りたもので、堅く鎖国の方針を採るに至ったのであるから、その主義の上より造船については厳に干渉を加えて、五百石以上の大船というものはこれを製造することを許さなかったものである。しかるに段々と江戸も開けて来て、諸国から物産の輸入を促さねばならぬ事となったのであるが、交通の便が少ない当時の事であるから、これには実際上困ったので、今度綱吉の時代となって遂に造船の制限を緩めて、商船に限っては千石までは製造して差し支えないことにしたのである。 そこで諸侯は往々名を商船に借りて大船を製造させ、各々封内の物産を江戸に輸出することを計ったのであるが、成央もまた数々金を市民の船を造るものに貸して、これを奨励したのである。従って大字船町のものでは、この恩沢に浴したのがいくらもある。この事は同町の記録にも明らかに残っている事であるが、寛延三年に船町から時の城主に差し出した記録の中に、宝永五年即ちこの成央の時代の事として 「江戸廻船作事仕り候節は、御城主様から御救いとして船一艘に金百両宛御拝借を仰せ付けられ、一ヶ年に二十両宛五年の内 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千十九号附録(明治四十五年六月十八日発行) 【本文】 上納仕来り、有り難く存じ奉り候」 ということが載っている。即ちこの造船奨励の方法は初めて成央の時代に起こったものであるが、爾来歴代の藩主は皆この方法を襲踏したもので、我が豊橋市民はその恵沢を蒙った事が少なくない。特に船町は唯一の湊と相成っていたのであるから、大小の船舶は皆大橋の下に輻輳して物貨集散の場所となり、次第に賑盛を極めるに至った事は、今も残っている諸種の記録類によって分明なる次第である。 **用下水道の改修** このように成央の時代には民政上に関してなかなか称すべき事柄があるが、現在我が豊橋市内に残っている下水道というものも矢張宝永五年、この成央の時代に改修を加えられたものである。元来我が豊橋市現在の下水道は頗る古くからあるもので、いずれ酒井忠次なり池田輝政なりの各時代に渉って次第に計画されたものであろうと信ずるが、一方にはこれに瓦町大池の水を引いて水田の灌漑に供する用水としたものであって、それが市中を幾筋も通過して用水と下水との兼用をなしているということは、頗る研究されたものと思うのであるが、そして元禄六年八月小笠原佐渡守長重の時に一度その整理をして規定を設けたが、今度成央の代にまたその改修を試みて一層その整頓を図ったのである。幸いに当時の絵図面が今も大字指笠町に保存されているが、これは最も珍重すべきもので、今日の行政上にも頗る参考となるべき地図である。またこれに対する記録も残っていて、大字鍛冶富田直平氏の所蔵であったが、当市役所にも一部写し取らせて置いたのである。余り冗長にはなるが、目下当市の下水改良を急務とする場合であって最も趣味のある事であると思うから、これに関する全文を左に掲ぐることとする。 **町々水道筋の事** 「一、この町中水払水道の儀は先規より有り来たり候えども、なお以って末々まで水道に付き違論無きため、今度改めて絵図を致し、水道堀幅町 【欄外】 豊橋市史談(牧野大学とその事蹟) 二百四十一

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Makino Daigaku and His Achievements) 240 **Main Text:** In the records I possess, there is also written: "At the time of the said earthquake, by order of the lord of the castle, 1,000 ryō was lent to all the townspeople, and 1,000 ryō to two honjin and thirty-seven inns, totaling 2,000 ryō to be repaid over ten years." It appears that the citizens were deeply grateful for this benevolence, as the "Record of Yoshida in Mikawa Province" contains the following: "On the 21st day of the 12th month of Hōei 5 [1708], to pray for the longevity of castle lord Makino, all the townspeople gathered at Seishū-ya and performed music and dance in what was called Ōhimachi. This was done out of gratitude because the lord, with compassion for the people's suffering from last year's earthquake, provided additional relief and assistance." From this, it appears that the citizens performed Ōhimachi to express gratitude for Lord Makino's benevolent relief efforts and to pray for his continued military fortune. **Shipbuilding Subsidies** I will conclude the earthquake discussion here, but I would like to mention the matter of shipbuilding subsidies. As you know, the Tokugawa shogunate had grown quite weary of foreign relations around the time of the Shimabara Rebellion and adopted a strict isolationist policy. Based on this principle, they strictly regulated shipbuilding and prohibited the construction of large ships of 500 koku or more capacity. However, as Edo gradually developed and it became necessary to promote the import of products from various provinces, this became practically problematic given the limited transportation facilities of the time. Therefore, during Tsunayoshi's era, the restrictions on shipbuilding were finally relaxed, allowing the construction of merchant ships up to 1,000 koku capacity. Consequently, daimyo often built large ships under the pretext of merchant vessels and planned to export products from their domains to Edo. Narihide also frequently lent money to townspeople who built ships, encouraging this activity. Therefore, many people in Funa-machi ōaza benefited from this benevolence. This fact is clearly recorded in the town's records. In a document submitted by Funa-machi to the castle lord in Kan'en 3 [1750], regarding events during Hōei 5 [1708], namely during Narihide's time, it states: "When constructing ships for Edo transport, by the castle lord's grace, we were granted loans of 100 ryō per ship as relief, to be repaid at 20 ryō per year over five years. **Left Page** **Margin:** San'yō Shimbun No. 4019 Supplement (Published June 18, Meiji 45 [1912]) **Main Text:** We humbly and gratefully submit this payment." This method of encouraging shipbuilding first began during Narihide's time, and from then on, successive domain lords all followed this practice. Our Toyohashi citizens benefited considerably from this benevolence. Particularly since Funa-machi served as the sole port, ships large and small all converged under Ō-hashi, making it a center for commodity distribution and gradually reaching the height of prosperity, as is clearly evident from various records that remain today. **Repair of Water and Sewerage Systems** As such, Narihide's era saw many commendable civil administration achievements, and the sewerage system that remains in our Toyohashi city today was also renovated during Hōei 5 [1708], in this same period of Narihide. Originally, our current Toyohashi sewerage system is quite ancient, and I believe it was gradually planned during the respective periods of Sakai Tadatsugu and Ikeda Terumasa. On one hand, it drew water from Ōike pond in Kawara-machi to serve as irrigation water for rice fields, and the fact that it passes through the city in several channels, serving dual purposes as both irrigation and sewerage, shows considerable ingenuity. During the 8th month of Genroku 6 [1693], under Ogasawara Sado-no-kami Nagashige, it was organized once and regulations were established, but now during Narihide's time, renovation was again attempted to achieve even better organization. Fortunately, the drawings from that time are still preserved in Ishikasa-machi ōaza - these are most valuable and serve as highly useful reference maps for today's administration. Related records also remain, which were in the possession of Tomita Naohei of Kaji ōaza, but copies were also made for our city office. Though it may be rather lengthy, since sewerage improvement is currently an urgent matter for our city and I think it is most interesting, I will present the complete text below. **Regarding Town Water Channels** "Item: Regarding the town's drainage waterways, though these have existed since ancient regulations, to ensure there are no future disputes regarding waterways, new drawings have been made, and waterway excavation width for towns... **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Makino Daigaku and His Achievements) 241