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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 138

ページ: 138

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【欄外】    豊橋市史談  (土 肥 二 三)                    二百四十八 【本文】           ろに金弐ひらをたくはへて其(その)包紙(つゝみがみ)にいつこにてもたふれなん所(ところ)にて體(からだ)をかくし給(たま)はれ是(これ)は其(その)費(ひ)           に充(あて)るなりと書付(かきつけ)しは伯偏(はくへん)が鋤(すき)を荷(にな)はせたるよりもかやすきわさなりされどすくよかなる人(ひと)に           て齢(よはひ)九十に近(ちか)づきて足駄(あしだ)はきて黒谷(くろだに)の茶店(ちやみせ)へ物喰(ものくひ)にゆくこと日(ひ)に三たひ三十 文銭(もんせん)一 日(にち)を過(すご)すに            足(た)るといはれしとなん始(はじめ)に火(ひ)けし壺(つぼ)といふものに米(こめ)をたくはへぬるよしそれも物(もの)うく成(なり)けんか           し杜鵑(とけん)と銘(めい)ある琵琶(びは)一 面(めん)平家(へいけ)二 巻(かん)を三 河(かは)の士(し)山田氏(やまだし)にあたへて今(いま)なほ其家(そのいへ)に蔵(ざう)せりとなん        之(こ)れで大要(たいえう)其(その)人物(じんぶつ)は分(わか)ることと思(おも)ふか此人(このひと)が吉田(よしだ)に居(を)つた当時(たうじ)は牧野氏(まきのし)の頭役物(ものがしらやく)で今(いま)の西(にし)八 町(てう)で悟眞寺(ごしんじ)       の前(まへ)に当(あた)る南側(みなみがは)の角屋敷(かどやしき)が即(すなは)ち其(その)住居(ぢうきよ)であつたと云(い)ふ事(こと)である元来(がんらい)琵琶(びは)の名人(めいじん)であつたが其(その)邸内(ていない)に林(りん)        泉(せん)を構(かま)へ妙音(みようおん)天(てん)を勧請(かんせい)して一の塚(つか)を作(つく)り之(これ)を琵琶塚(びはづか)と名(な)づけたと云ふ事で先年(せんねん)まで其(その)遺跡(ゐせき)は存(ぞん)して居(を)       つたのである又(ま)た此(この)二三がイヨ〳〵吉田(よしだ)を去(さ)つて隠逃(ゐんとう)する時(とき)に其(その)愛器(あいき)にして吐鵑(とけん)と銘(めい)のある琵琶(びは)を此(この)        地(ち)の山田氏(やまだし)に贈(おく)つたと云ふことが畸人伝(きじんでん)にもあるが此(この)山田氏(やまだし)と云ふのは此地(このち)の本陣(ほんぢん)であつた江戸屋(えどや)と称(せう)       した家(いへ)であるが今(いま)其(その)琵琶(びは)はドウなつて居(を)るか家(いへ)も絶(た)えた様(やう)な形(かたち)になつて居(を)るから分(わか)らぬのである又(ま)た        今(いま)の小野道平君(おのどうへいくん)の家(いへ)は余程(よほど)の旧家(きうか)であるが既(すで)に此頃(このころ)は此地(このち)に於(おい)て盛(さかん)にやつて居(を)られたもので当時(たうじ)の主(しゆ)       人(じん)久兵衛(きうべゑ)と云(い)はれた人(ひと)は此(この)二三とは親友(しんいう)のあつたもので二三が京都(けうと)の岡崎(をかざき)に隠居(ゐんきよ)してから寄越(よこ)した書(しよ)        翰(かん)は今(いま)も同家(どうけ)に保存(ほぞん)されて居(を)る其他(そのた)此(この)二三の自画賛(じくわさん)の像(ぜう)と云ふのが畸人伝(きじんでん)にも載(の)つて居(を)るが其(その)実物(じつぶつ)が        大字(おほあざ)曲尺手(かねんて)の加藤彌太郎氏(かとうやたらうし)に蔵(ざう)せられて居(を)る併(しか)し此(この)両者(れうしや)に殆(ほとん)ど同(どう)一 筆法(ひつぱふ)ではあるが余程(よほど)相違(さうゐ)の点(てん)があ       る処(ところ)から見(み)ると此(この)自画賛(じくわさん)はイクラも書(か)いたものと見(み)える而(しか)して其(その)像(ぜう)と云ふものは誠(まこと)の一 筆書(ふでが)きで坊主(ぼうづ)       の後(うし)ろ向(む)きを簡略(かんりやく)に画(ゑが)いたものに過(す)ぎぬが其(その)筆力(ひつりよく)と云ひ画風(ぐわふう)と云ひ又又(ま)た賛(さん)と云ひ誠(まこと)に脱俗(だつぞく)の処(ところ)が見(み)え       て面白(おもしろ)く感(かん)せられるのである其(その)賛(さん)と云ふのは歌(うた)であつて左(さ)の如(ごと)くである 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千二百号附録    (明治四十五年七月二日発行) 【本文】           山風のたゝく夕部は聴すたゝ              おとなき月にあくる柴の戸             ⦿大河内氏と其祖先        前章(ぜんせう)に申述(もをしの)べた如(ごと)く牧野氏(まきのし)に代(かは)りて此(この)吉田(よしだ)の城主(じようしゆ)に封(ほう)ぜられたのは松平伊豆守信祝(まつだひらいづのかみのぶとき)であるが此(この)松平伊(まつだひらい) 《割書:大河内氏と|吉田》   豆守(づのかみ)の家(いへ)は即(すなは)ち今(いま)の大河内子爵(おゝかうちしゝやく)の家(いへ)で此事(このこと)は諸君(しよくん)が既(すで)に御承知(ごせうち)であると思(おも)ふ而(しか)も此家(このいへ)は我(わが)豊橋(とよはし)に於(おい)て        最(もつと)も長(なが)き間(あひだ)城主(じようしゆ)であられたのであるから其(その)治世時代(ぢせいじだい)に於(お)ける事柄(ことがら)は随分(ずゐぶん)研究(けんきう)すべき資料(しれう)として今(いま)も        尚(な)ほ残(のこ)つて居(を)るのであるモツトモ此(この)信祝(のぶとき)と云(い)ふ人(ひと)は後(のち)に浜松(はままつ)へ移封(いほう)になつて其後(そのあと)へ暫(しばら)くの間(あひだ)松平(まつだひら)(本       庄)資訓と云ふ人が城主(じようしゆ)となつて来(き)たので此事(このこと)に就(つい)ては後章(こうせう)で詳(くは)しく申述(もうしの)ぶる考(かんがへ)であるが信祝(のぶとき)の子(し)信(のぶ)        復(なほ)と云ふ人が其後(そののち)復(ふたゝ)び本庄氏(もとぜうし)の後(あと)を受(う)けて浜松(はままつ)から此地(このち)に来(きた)りそれからと云ふものは子々孫々(しゝそん〳〵)維新(ゐしん)当(たう)        時迄(じまで)居座(ゐすは)りであつた即(すなは)ち我豊橋市(わがとよはしし)と云ふものは此(この)大河内氏(おゝかうちし)治世時代(ぢせいじだい)の後(あと)を承(う)けて之(これ)に維新後(ゐしんご)の変化(へんくわ)を        蒙(かうむ)つたと云ふのが今日(こんにち)の状態(ぜうたい)あるから今(いま)の豊橋市(とよはしし)を研究(けんきう)する為(ため)には特(とく)に此(この)大河内氏(おゝかうちし)治世時代(ぢせいじだい)の研究(けんきう)       が必要(ひつえう)であるソコで之(これ)から次第(しだい)を追(お)つて諸君(しよくん)と共(とも)に此(この)研究(けんきう)を進(すゝ)めて見(み)たいものであると思(おも)ふ 《割書:大河内氏の|祖先》  トコロで先(ま)づ申述(もをしの)べたいと思(おも)ふのは大河内家(おゝかうちけ)の系統(けいとう)であるが此(この)信祝(のぶとき)と云ふ人は彼(か)の有名(いうめい)なる松平伊豆(まつだひらいづの)        守信綱(かみのぶつな)の四 世(せい)の孫(そん)であつて信綱(のぶつな)の子(こ)は輝綱(てるつな)其子(そのこ)が信輝(のぶてる)而(しか)して其子(そのこ)が此(この)信祝(のぶとき)であるが元来(がんらい)其家(そのいへ)の伝(つた)ふる        処(ところ)に拠(よ)ると此家(このいへ)と云ふものは清和源氏(せいわげんし)であるから言(い)う迄(まで)もなく彼(か)の六 孫王(そんわう)経基(つねもと)の末裔(まつえい)で諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)       の源(げん)一 位(ゐ)頼政(よりまさ)から出(い)でゝ居(を)るのである即(すなは)ち頼政(よりまさ)の二 男(なん)兼綱(かねつな)と云ふ人は治承(ぢせう)四年五月 宇治川(うぢがは)の合戦(かつせん)で父(ちゝ) 大河内顕綱  頼政(よりまさ)と同(おな)じく平氏(へいし)の軍(ぐん)と戦(たゝか)つて遂(つひ)に戦死(せんし)したのであるが其子(そのこ)の顕綱(あきつな)と云ふ人は其時(そのとき)まだ二 歳(さい)の幼児(ようぢ)で 【欄外】    豊橋市史談  (大河内氏と其祖先)                    二百四十九

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(土肥二三) 二百四十八 【本文】 ろに金二平を蓄えて、その包み紙に「いずこにても倒れなん所にて体を隠し給え。これはその費に充てるなり」と書き付けしは、伯偏が鋤を担わせたるよりもかやすき業なり。されど健やかなる人にて、齢九十に近づきて足駄履きて黒谷の茶店へ物食いに行くこと日に三度、三十文銭一日を過ごすに足るといわれしとなん。 始めに火消し壺というものに米を蓄えぬるよし、それも物憂く成りけんかし。杜鵑と銘ある琵琶一面、平家二巻を三河の士山田氏に与えて、今なおその家に蔵せりとなん。 これで大要その人物は分かることと思うが、この人が吉田にいた当時は牧野氏の頭役で、今の西八町で悟真寺の前に当たる南側の角屋敷が即ちその住居であったということである。元来琵琶の名人であったが、その邸内に林泉を構え、妙音天を勧請して一つの塚を作り、これを琵琶塚と名づけたという事で、先年まで其の遺跡は存在していたのである。 またこの二三がいよいよ吉田を去って隠遁する時に、その愛器にして杜鵑と銘のある琵琶をこの地の山田氏に贈ったということが畸人伝にもあるが、この山田氏というのはこの地の本陣であった江戸屋と称した家であるが、今その琵琶はどうなっているか、家も絶えた様な形になっているから分からないのである。 また今の小野道平君の家は余程の旧家であるが、既にこの頃はこの地において盛んにやっておられたもので、当時の主人久兵衛といわれた人は、この二三とは親友であったもので、二三が京都の岡崎に隠居してから寄越した書翰は今も同家に保存されている。その他この二三の自画賛の像というのが畸人伝にも載っているが、その実物が大字曲尺手の加藤弥太郎氏に蔵されている。しかしこの両者にほとんど同一筆法ではあるが余程相違の点がある処から見ると、この自画賛はいくらも書いたものと見える。而してその像というものは誠の一筆書きで坊主の後ろ向きを簡略に描いたものに過ぎぬが、その筆力といい画風といい、また賛といい、誠に脱俗の処が見えて面白く感ぜられるのである。その賛というのは歌であって左の如くである。 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千二百号附録(明治四十五年七月二日発行) 【本文】 山風の叩く夕部は聞くただ   音なき月に明くる柴の戸 ⦿大河内氏とその祖先 前章に申し述べた如く、牧野氏に代わってこの吉田の城主に封ぜられたのは松平伊豆守信祝であるが、この松平伊豆守の家は即ち今の大河内子爵の家で、この事は諸君が既に御承知であると思う。而もこの家は我が豊橋において最も長き間城主であられたのであるから、その治世時代における事柄は随分研究すべき資料として今もなお残っているのである。 もっとも、この信祝という人は後に浜松へ移封になって、その後へ暫くの間松平(本庄)資訓という人が城主となって来たので、この事については後章で詳しく申し述べる考えであるが、信祝の子信復という人がその後復び本庄氏の後を受けて浜松からこの地に来て、それからというものは子々孫々維新当時まで居座りであった。即ち我が豊橋市というものは、この大河内氏治世時代の後を承けてこれに維新後の変化を蒙ったというのが今日の状態であるから、今の豊橋市を研究する為には特にこの大河内氏治世時代の研究が必要である。そこでこれから次第を追って諸君と共にこの研究を進めて見たいものであると思う。 ところで先ず申し述べたいと思うのは大河内家の系統であるが、この信祝という人は、かの有名なる松平伊豆守信綱の四世の孫であって、信綱の子は輝綱、その子が信輝、而してその子がこの信祝であるが、元来その家の伝える処に拠ると、この家というものは清和源氏であるから言うまでもなく、かの六孫王経基の末裔で、諸君も御承知の源一位頼政から出でているのである。即ち頼政の二男兼綱という人は治承四年五月宇治川の合戦で父頼政と同じく平氏の軍と戦って遂に戦死したのであるが、その子の顕綱という人はその時まだ二歳の幼児で 【欄外】 豊橋市史談(大河内氏とその祖先) 二百四十九

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Dohi Nizō) 248 **Main Text:** ...he kept two gold coins, writing on the wrapping paper "Wherever I may collapse, please hide my body. This is to cover the expenses" - an even lighter matter than Hakuhen carrying a plow. However, he was a vigorous person who, approaching the age of ninety, would wear wooden clogs and go to eat at the tea shops of Kurodani three times a day, and thirty mon was sufficient to pass a day, it is said. Initially he stored rice in what was called a fire-extinguishing pot, but even that may have become tedious. He gave a biwa lute inscribed "Token" and two volumes of the Tale of the Heike to Mr. Yamada, a retainer of Mikawa, and they are still preserved in that family. With this, I think the general character of the person can be understood. When this person was in Yoshida, he held the position of chief retainer to the Makino clan, and his residence was the corner mansion on the south side of what is now West 8th district, in front of Goshiñ Temple. Originally a master of the biwa, he constructed a garden with trees and springs within his estate, invited the deity Myōonten and built a mound, naming it "Biwa Mound," whose remains existed until recent years. Also, when Nizō finally left Yoshida to go into retirement, he presented his beloved instrument, the biwa inscribed "Token," to the Yamada family of this area, as mentioned in the Kijinden. This Yamada family was the honjin (official inn) of this area called Edoya, but now I don't know what became of that biwa, as the family seems to have died out. Also, the current family of Mr. Ono Dōhei is quite an old family that was already thriving in this area at that time. The master of that time, called Kyūbei, was a close friend of Nizō, and the letters sent after Nizō retired to Okazaki in Kyoto are still preserved in that family. Additionally, there is a self-portrait with inscription by Nizō mentioned in the Kijinden, and the actual piece is kept by Mr. Katō Yatarō of Ōaza Kanente. However, while both are painted in almost identical brushwork, there are considerable differences, suggesting that he created many such self-portraits. The portrait itself is a simple one-brush drawing, merely depicting the back view of a monk in simplified strokes, but the brushwork, painting style, and inscription show truly unworldly qualities that are interesting and moving. The inscription is a poem as follows: **Left Page:** **Margin:** San'yō Shimbun Issue 4,200 Supplement (Published July 2, Meiji 45 [1912]) **Main Text:** In the evening when mountain winds knock, I listen only To the soundless moon opening the brushwood door ⦿ The Ōkōchi Clan and Its Ancestors As mentioned in the previous chapter, the one who was enfeoffed as lord of Yoshida Castle to replace the Makino clan was Matsudaira Izunokami Nobutoki. This Matsudaira Izunokami's family is the present Ōkōchi Viscount family, which I believe you are already aware of. Moreover, this family was the lord of our Toyohashi for the longest period, so considerable material worthy of research from their period of rule still remains today. Of course, this Nobutoki later transferred to Hamamatsu, and afterward Matsudaira (Honjo) Sukesato briefly became castle lord. I plan to discuss this matter in detail in a later chapter, but Nobutoki's son Nobunao later returned to succeed the Honjo clan, coming from Hamamatsu to this area, and from then on, generation after generation remained until the Restoration. In other words, our Toyohashi City inherited the aftermath of this Ōkōchi clan's rule and underwent the changes following the Restoration, which is the present situation. Therefore, to study present-day Toyohashi City, research into the Ōkōchi clan's period of rule is particularly necessary. So from now on, I would like to proceed with this research step by step together with you all. Now, what I would like to discuss first is the lineage of the Ōkōchi family. This Nobutoki was the great-great-grandson of the famous Matsudaira Izunokami Nobutsuna. Nobutsuna's son was Terutsuna, his son was Nobuteru, and his son was this Nobutoki. Originally, according to what the family tradition conveys, this family belongs to the Seiwa Genji, so needless to say, they are descendants of the Six Grandson Prince Tsunemoto, and derive from Minamoto no Yorimasa, whom you all know as Gen Ichii. Yorimasa's second son, a man named Kanetsuna, fought alongside his father Yorimasa against the Taira forces in the Battle of Uji River in the 5th month of Jishō 4 [May 1180] and ultimately died in battle. His son Akitsuna was still a two-year-old infant at that time, **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Ōkōchi Clan and Its Ancestors) 249