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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 139

ページ: 139

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【欄外】    豊橋市史談  (大河内氏と其祖先)                    二百五十 【本文】       あつた然(しか)るに母親(はゝおや)が之(これ)を抱(いだ)いて尾州(びしう)の中島(なかじま)に遁(のが)れ後(のち)三 河(かは)額田郡(ぬかたぐん)の大河内郷(おゝかうちげう)に移(うつ)り匿(かく)れたソコで顕綱(あきつな)成(せい) 大河内郷   長(てう)の後(のち)初(はじ)めて自(みづか)ら大河内源太(おゝかうちげんた)と称(せう)したと云ふ事(こと)になつて居(を)る併(しか)し此(この)大河内郷(おゝかうちげう)と云ふのは旧来(きうらい)余程(よほど)の疑(ぎ)        問(もん)と相成(あひな)つて居(を)るので信祝(のぶとき)自撰(じせん)の大河内家譜(おゝかうちかふ)の中(なか)には三 河国(かはのくに)幡豆郡(はづぐん)西長縄村(にしながなはむら)に大河内(おゝかうち)の家舗跡(やしきあと)と云ふ       のがあるが反(かへ)つて額田郡(ぬかたぐん)に於(おい)ては大河内郷(おゝかうちげう)と云ふのが分明(ぶんめい)でない只(た)だ中根村(なかねむら)大橋村(おほはしむら)の隣郷(りんげう)だと伝(つた)へら       れて居(を)る許(ばかり)で何(な)にも拠(よ)るべきものがないと記(しる)してある而(しか)して顕綱(あきつな)の子(こ)が政顕(まさあき)其子(そのこ)が行重(ゆきしげ)夫(そ)れから宗綱(むねつな)        貞綱(さだつな)、 光将(みつまさ)、 国綱(くにつな)、 眞綱(さねつな)、 信政(のぶまさ)、 信貞(のぶさだ)、秀綱(ひでつな)、 久綱(ひさつな)と相続(さうぞく)して久綱(ひさつな)の子(こ)が即(すなは)ち前(まへ)に申述(もをしの)べた信綱(のぶつな)であ       る併(しか)し此(この)歴代(れきだい)に就(つい)ても種々(しゆ〳〵)な疑問(ぎもん)もあるが信祝(のぶとき)自撰(じせん)の家譜(かふ)には色々(いろ〳〵)と考証(かうせう)を重(かさ)ねた結果(けつくわ)右(みぎ)の如(ごと)くに断(だん)        定(てい)されてあるのである        大河内氏(おゝかうちし)の系統(けいとう)は先(ま)づザツト右(みぎ)の如(ごと)き訳(わけ)であるが其(その)初(はじ)めて大河内姓(おゝかうちせい)を名乗(なの)つたと云ふ顕綱(あきつな)と云ふ人は        如何(いか)なる人であつたかと云ふに此人(このひと)は成長(せいてう)の後(のち)足利義氏(あしかゞよしうぢ)に属(ぞく)して其(その)被官(ひくわん)となつたのである最も此(この)足利(あしかゞ)        義氏(よしうじ)と云ふのは御承知(ごせうち)でもあろうが足利氏(あしかゞし)の祖(そ)義康(よしやす)の孫(そん)で父(ちゝ)は義兼(よしかね)であるが後(のち)に源頼朝(みなもとよりとも)の女婿(ぢよせい)とな 吉良荘   つたので名族(めいぞく)の上(うへ)に頗(すこぶ)る関東(くわんとう)に於(おい)ては勢威(せいゐ)のあつたものであるが之(これ)が三 河国(かはのくに)吉良荘(きらそう)の地頭職(ぢとうしよく)を領(れう)して        居(を)つたのである当時(たうじ)の吉良荘(きらそう)と云ふのは殆(ほとん)ど今日(こんにち)に於(お)ける幡豆郡(はづぐん)一 帯(たい)の地(ち)とも見(み)るべきものであるが 吉良長氏   此(この)義氏(よしうぢ)の長子(てうし)長氏(ながうぢ)と云ふ人は病身(びようしん)であつたので父(ちゝ)の家督(かとく)は其(その)弟(おとゝ)の泰氏(やすうぢ)に譲(ゆづ)つて自身(じしん)は遂(つひ)に此(この)吉良荘(きらそう)に        隠居(ゐんきよ)し西條(さいじよう)に住(ぢう)したのである西條(さいじよう)は即(すなは)ち今日(こんにち)の西尾町(にしをまち)附近(ふきん)であるが之(これ)が抑(そもそ)も吉良氏(きらし)の起(おこ)りである従て        此(この)大河内氏(おゝかうちし)は之(これ)より歴代(れきだい)吉良家(きらけ)の被官(ひくわん)として之(これ)に属(ぞく)したのであるが顕綱(あきつな)は寛喜(かんき)二年十月二十日 年(とし)五十       二で病没(びようぼつ)したのであるから丁度(ちようど)此年(このとし)は長氏(ながうぢ)十九 歳(さい)の時(とき)である併(しか)し之(これ)が既(すで)に長氏(ながうぢ)三 河(かは)居住(きよぢう)の後(のち)なるや否(いなや) 大河内政顕 は今(いま)少(すこ)しく分(かは)り兼(か)ぬるのであるが顕綱(あきつな)の子(こ)政顕(まさあき)は此(この)長氏(ながうぢ)に属(ぞく)して幡豆郡(はづぐん)の内(うち)、 寺津(てらつ)、 江原(えはら)両郷(れうげう)を領地(れうち) 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       したのである此人(このひと)は木工之助(かくみのすけ)と称(せう)し弘安(こうあん)九年八十六 歳(さい)で卒去(そつきよ)して法名(はふめい)を円通(ゑんつう)と号(ごう)したが其(その)弟(おとゝ)に貞顕(さだあき)と 《割書:長縄の大河|内氏》  云ふのがあつて左衛門尉(さゑもんぜう)と称(せう)した之(これ)は所謂(いはゆる)長縄(ながなは)の大河内氏(おゝかうちし)の祖(そ)であるが此(この)大河内氏(おゝかうち)の一 族(ぞく)と云ふものは 《割書:秋池窪田杉|臥蝶の大河|内氏》   其後(そののち)段々(だん〴〵)と此(この)地方(ちはう)に繁延(はんえん)したもので其他(そのた)にも秋池(あきいけ)の大河内(おゝかうち)、 窪田(くぼた)の大河内(おゝかうち)、 杉(すぎ)の大河内(おゝかうち)、 臥蝶(ふせちよう)の大河(おゝかう) 《割書:桃井の大河|内氏》   内(ち)など種々(しゆ〳〵)に分岐(ぶんき)したものである又(ま)た右(みぎ)の外(ほか)にまだ桃井(もゝゐ)の大河内(おゝかうち)と云ふのがあるが此(この)系統(けいとう)は旧来(きうらい)少(すこ)し       く疑問(ぎもん)で其先(そのさき)は矢張(やはり)源氏(げんじ)には相違(さうゐ)ないが果(はた)して兼綱(かねつな)の血統(けつとう)なるや否(いなや)は明瞭(めいれう)せぬようである兎(と)に角(かく)此(この)桃(もゝ)        井系(ゐけい)は彼(か)の波合記(なみあいき)で能(よ)く人に知(し)られては居(を)るが其(その)波合記(なみあひき)と云ふ記録(きろく)が既(すで)に疑問(ぎもん)のものであるから到底(たうてい)        当(あ)てにはならぬのでる併(しか)し此(この)桃井系(もゝゐけい)には中々(なか〳〵)有名(いうめい)な人物(じんぶつ)を出(いだ)して居(を)る彼(か)の清康(きよやす)最後(さいご)の妻(つま)であつて家(いへ) 《割書:大河内元網|華陽院夫人》   康(やす)から言(い)ふと祖母(そぼ)に当(あた)る処(ところ)の華陽院(かようゐん)と云ふのは此(この)桃井(もゝゐ)大河内元網(おゝかうちもとつな)の養女(やうぢよ)であるが此人(このひと)は初(はじ)め水野忠政(みづのたゞまさ)       の妻(つま)となつて一 女(ぢよ)を生(う)み離別後(りべつご)清康(きよやす)に嫁(か)したのである而(しか)も其(その)一 女(ぢよ)と云ふのが後(のち)に清康(きよやす)の先妻(せんさい)青木氏(あおきし)の        出(しゆつ)である処(ところ)の広忠(ひろたゞ)の妻(つま)となつて其(その)間(あひだ)に家康(いへやす)を生(う)むだのであるが此(この)女(ぢよ)が之迄(これまで)も度々(たび〳〵)申述(もをしの)べてある彼(か)の伝(でん)        通院(つうゐん)である而(しか)して此(この)華陽院(かようゐん)は清康(きよやす)に再嫁(さいか)してからも又(ま)た一 女子(ぢよし)を挙(あ)げたが私(わたくし)は此(この)女子(ぢよし)が即(すなは)ち後(のち)に酒井(さかゐ)        忠次(たゞつぐ)に嫁(か)した光樹夫人(くわうじゆふじん)であると信(しん)ずるのである果(はた)して然(しか)りとすればズツト初(はじ)めに申述(もをしの)べてある当市(たうし)吉(よし)        屋(や)龍拈寺(りうねんじ)に蔵(ざう)せる忠次夫人(たゞつぐふじん)の寄付(きふ)にかゝる其(その)母堂(ぼどう)の肖像(せうざう)と云ふのは全(まつた)く此(この)華陽院(かようゐん)の画像(ぐわぜう)であると信(しん)じ       て疑(うたが)はぬのであるが其(その)容貌(ようばう)と云ひ又(ま)た岡崎(をかざき)隨念寺(ずゐねんじ)にある清康(きよやす)の像(ぜう)との対照(たいせう)から考(かんが)へても之(これ)は蓋(けだ)し誤(あやま)ら 大河内政局 ざる鑑定(かんてい)であると確信(かくしん)して居(を)るのである又(ま)た此(この)元網(もとつな)の孫(そん)に大河内源(おゝかうちげん)三 郎(らう)政局と云ふのがあつたが此人(このひと)       の伝記(でんき)に就(つい)ても亦(ま)た実(じつ)に伝(つた)ふべきものがあるのでソレは天正(てんせう)二年 武田勝頼(たけだかつより)が遠江(とほとふみ)の高天神城(たかてんじんじよう)を攻(せ)めた        時(とき)家康(いへやす)の守将(しゆせう)小笠原與(をがさはらよ)八 郎長忠(らうながたゞ)は遂(つひ)に力(ちから)及(およ)ばずして勝頼(かつより)に下(くだ)つたのであるが独(ひと)り其(その)軍監(ぐんかん)たりし此(こ)の大(おゝ)        河内(かうち)政局は降(こう)を肯(がえん)ぜなかつたソコで勝頼(かつより)は怒(いか)つて之(これ)を城後(じようご)の石牢中(いしろうちう)に幽閉(ゆうへい)したが政局は遂(つひ)に最後(さいご)まで 【欄外】    豊橋市史談  (大河内氏と其祖先)                    二百五十一

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(大河内氏とその祖先) 二百五十 【本文】 あった。然るに母親がこれを抱いて尾州の中島に逃れ、後に三河額田郡の大河内郷に移り隠れた。そこで顕綱成長の後、初めて自ら大河内源太と称したということになっている。しかしこの大河内郷というのは従来余程の疑問と相成っているので、信祝自撰の大河内家譜の中には三河国幡豆郡西長縄村に大河内の屋敷跡というのがあるが、反って額田郡においては大河内郷というのが分明でない。ただ中根村大橋村の隣郷だと伝えられている許りで何にも拠るべきものがないと記してある。而して顕綱の子が政顕、その子が行重、それから宗綱、貞綱、光将、国綱、真綱、信政、信貞、秀綱、久綱と相続して、久綱の子が即ち前に申し述べた信綱である。しかしこの歴代についても種々な疑問もあるが、信祝自撰の家譜には色々と考証を重ねた結果、右の如くに断定されてあるのである。 大河内氏の系統は先ずざっと右の如き訳であるが、その初めて大河内姓を名乗ったという顕綱という人はいかなる人であったかというに、この人は成長の後足利義氏に属してその被官となったのである。もっともこの足利義氏というのは御承知でもあろうが、足利氏の祖義康の孫で父は義兼であるが、後に源頼朝の女婿となったので名族の上に頗る関東においては勢威のあったものであるが、これが三河国吉良荘の地頭職を領していたのである。当時の吉良荘というのはほとんど今日における幡豆郡一帯の地とも見るべきものであるが、この義氏の長子長氏という人は病身であったので、父の家督はその弟の泰氏に譲って、自身は遂にこの吉良荘に隠居し西條に住したのである。西條は即ち今日の西尾町附近であるが、これが抑も吉良氏の起りである。従ってこの大河内氏はこれより歴代吉良家の被官としてこれに属したのであるが、顕綱は寛喜二年十月二十日年五十二で病没したのであるから、丁度この年は長氏十九歳の時である。しかしこれが既に長氏三河居住の後なるや否やは今少しく分かりかねるのであるが、顕綱の子政顕はこの長氏に属して幡豆郡の内、寺津、江原両郷を領地 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏はその該博なる知識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際 【左頁】 【欄外】 この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 したのである。この人は木工之助と称し、弘安九年八十六歳で卒去して法名を円通と号したが、その弟に貞顕というのがあって左衛門尉と称した。これは所謂長縄の大河内氏の祖であるが、この大河内氏の一族というものはその後段々とこの地方に繁延したもので、その他にも秋池の大河内、窪田の大河内、杉の大河内、臥蝶の大河内など種々に分岐したものである。また右の外にまだ桃井の大河内というのがあるが、この系統は従来少しく疑問でその先は矢張り源氏には相違ないが、果たして兼綱の血統なるや否やは明瞭せぬようである。兎に角この桃井系は彼の波合記でよく人に知られてはいるが、その波合記という記録が既に疑問のものであるから到底当てにはならぬのである。しかしこの桃井系には中々有名な人物を出している。彼の清康最後の妻であって家康から言うと祖母に当る処の華陽院というのは、この桃井大河内元網の養女であるが、この人は初め水野忠政の妻となって一女を生み、離別後清康に嫁したのである。而もその一女というのが後に清康の先妻青木氏の出である処の広忠の妻となって、その間に家康を生んだのであるが、この女がこれまでも度々申し述べてある彼の伝通院である。而してこの華陽院は清康に再嫁してからもまた一女子を挙げたが、私はこの女子が即ち後に酒井忠次に嫁した光樹夫人であると信ずるのである。果たして然りとすればずっと初めに申し述べてある当市吉屋龍拈寺に蔵せる忠次夫人の寄付にかかるその母堂の肖像というのは全くこの華陽院の画像であると信じて疑わぬのであるが、その容貌といい、また岡崎随念寺にある清康の像との対照から考えても、これは蓋し誤らざる鑑定であると確信しているのである。またこの元網の孫に大河内源三郎政局というのがあったが、この人の伝記についてもまた実に伝うべきものがあるので、それは天正二年武田勝頼が遠江の高天神城を攻めた時、家康の守将小笠原与八郎長忠は遂に力及ばずして勝頼に下ったのであるが、独りその軍監たりしこの大河内政局は降を肯んぜなかった。そこで勝頼は怒ってこれを城後の石牢中に幽閉したが、政局は遂に最後まで 【欄外】 豊橋市史談(大河内氏とその祖先) 二百五十一

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Ōkōchi Clan and Its Ancestors) 250 **Main Text:** However, his mother carried him and fled to Nakajima in Bishū, later moving to and hiding in Ōkōchi-gō in Nukata District, Mikawa. Thus, after Akitsuna came of age, he first called himself Ōkōchi Genta. However, this Ōkōchi-gō has long been a matter of considerable doubt, so in Nobutoki's self-compiled Ōkōchi family genealogy, it states that there are remains of the Ōkōchi residence in Nishi-Naganawa Village, Hazu District, Mikawa Province, but conversely in Nukata District, the location of Ōkōchi-gō is unclear - it is only handed down as being a neighboring village to Nakane and Ōhashi villages, with nothing reliable to go on. Akitsuna's son was Masaaki, his son was Yukishige, then came Munetsuna, Sadatsuna, Mitsumasa, Kunitsuna, Sanetsuna, Nobumasa, Nobusada, Hidetsuna, and Hisatsuna in succession, and Hisatsuna's son was the aforementioned Nobutsuna. However, there are various questions about this lineage too, but in Nobutoki's self-compiled genealogy, after much research and investigation, it is determined as above. The Ōkōchi clan lineage is roughly as described above, but what kind of person was Akitsuna, who first took the Ōkōchi surname? This person, after coming of age, belonged to Ashikaga Yoshiuji and became his retainer. This Ashikaga Yoshiuji, as you may know, was the grandson of Yoshiyasu, founder of the Ashikaga clan, and his father was Yoshikane. Later becoming Minamoto Yoritomo's son-in-law, he gained considerable influence in the Kantō region in addition to his noble status, and held the position of jitō (estate steward) of Kira-shō in Mikawa Province. The Kira-shō of that time can be seen as almost the entire area of present-day Hazu District. Yoshiuji's eldest son Nagauji was sickly, so the family headship passed to his younger brother Yasuuji, while he retired to this Kira-shō and resided in Saijō. Saijō is the area around present-day Nishio town, and this was the origin of the Kira clan. Consequently, the Ōkōchi clan became hereditary retainers of the Kira family from this time. Akitsuna died of illness on the 20th day of the 10th month of Kanki 2 at age 52, which was exactly when Nagauji was 19 years old. However, it is somewhat unclear whether this was after Nagauji had already taken up residence in Mikawa, but Akitsuna's son Masaaki served under this Nagauji and held the territories of Teratsu and Ehara villages in Hazu District. **Margin:** Toyohashi Mayor Ōguchi Kiroku has devoted his vast knowledge and inexhaustible energy to compiling the Toyohashi City history for over a year, and now as the manuscript is nearly complete... **Left Page:** **Margin:** This Toyohashi City Historical Discourse is published once weekly (Tuesdays) and presented to readers of the San'yō Shimbun. **Main Text:** This person was called Mokuno-suke and died in Kōan 9 at age 86, taking the Buddhist name Entsū. His younger brother was called Sadaaki and held the title Saemon-jō. He was the founder of the so-called Naganawa Ōkōchi clan. The Ōkōchi clan members gradually spread throughout this region thereafter, branching into various lines including the Ōkōchi of Akiike, Kubota, Sugi, Fusechō, and others. Besides these, there was also the Ōkōchi of Momoi, but this lineage has long been somewhat questionable - while they are undoubtedly of Genji origin, it is unclear whether they are truly of Kanetsuna's bloodline. In any case, this Momoi line is well known through the Namiai-ki, but since that record itself is questionable, it cannot be relied upon. However, this Momoi line produced quite famous figures. The one called Kayōin, who was Kiyoyasu's final wife and Ieyasu's grandmother, was the adopted daughter of this Momoi Ōkōchi Mototsuna. She first married Mizuno Tadamasa and bore a daughter, then after separation married Kiyoyasu. Moreover, this daughter later became the wife of Hirotada (son of Kiyoyasu's previous wife from the Aoki clan) and bore Ieyasu, and this woman was the oft-mentioned Dentsūin. After remarrying Kiyoyasu, Kayōin bore another daughter, and I believe this daughter was the one who later married Sakai Tadatsugu, known as Lady Kōju. If this is so, then the portrait of the mother mentioned earlier, donated by Tadatsugu's wife and kept at Ryūnenji Temple in Yoshiya in our city, is entirely a portrait of this Kayōin, which I believe without doubt. Considering both the facial features and the comparison with Kiyoyasu's portrait at Zuinenji in Okazaki, I am confident this is an accurate identification. Also, among Mototsuna's grandsons was one called Ōkōchi Genzaburō Masatada, whose biography is also truly worth telling. In Tenshō 2, when Takeda Katsuyori attacked Takatenjin Castle in Tōtōmi, Ieyasu's defending general Ogasawara Yohachirou Nagatada ultimately could not hold out and surrendered to Katsuyori, but this Ōkōchi Masatada, who served as military inspector, alone refused to surrender. Katsuyori became angry and imprisoned him in a stone dungeon behind the castle, but Masatada to the very end... **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Ōkōchi Clan and Its Ancestors) 251