Code4Lib JAPAN ✕ みんなで翻刻

コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 140

ページ: 140

翻刻

【欄外】    豊橋市史談  (大河内氏と其祖先)                    二百五十二 【本文】        節(せつ)を変(へん)ぜなかつた然(しか)るにヨウ〳〵八 年目(ねんめ)で再(ふたゝ)び高天神城(たかてんじんのしろ)が家康(いへやす)の手(て)に復(ふく)するに至(いた)つて初(はじ)めて牢(ろう)から出(で)       る事が出来(でき)たが長々(なが〳〵)の幽閉(ゆうへい)で腰(こし)が抜(ぬ)けて立(た)つ事が出来(でき)なかつたとの事(こと)である此(この)義心(ぎしん)に就(つい)ては家康(いへやす)は勿(もち)        論(ろん)敵(てき)も味方(みかた)も感(かん)ぜざるものはなかつたと云(い)ふ事(こと)であるサテ話(はなし)は大層(たいそう)横道(よこみち)に入(い)つたが復(ま)た初(はじ)めに戻(もど)ること       として此(この)大河内家(おゝかうちけ)の系統(けいとう)と云ふ者は政顕(まさあき)から行重(ゆきしげ)、 宗綱(むねつな)、 貞綱(さだつな)、 光将(みつまさ)、 光綱(みつゝな)と相継(あひつ)いだ事は前(まへ)に申(もをし) 大河内光綱  述(の)べた如(ごと)くであるが此(この)光綱(みつつな)の時代(じだい)に至(いた)つては室町幕府(むろまちばくふ)も既(すで)に衰運(すいうん)に皈(き)して天下(てんか)は殆(ほとん)ど乱(みだ)れむとしたが 大河内信政  此人(このひと)は文明(ぶんめい)元年(がんねん)七月十八日 幡豆郡(はづぐん)山王山(さんわうざん)の戦(たゝかひ)で戦死(せんし)したのである而(しか)して其子(そのこ)が眞綱(さねつな)又(また)其子(そのこ)が信政(のぶまさ)であ       るが此(この)信政(のぶまさ)と云ふ人(ひと)は初(はじ)め五郎三郎 後(のち)に大蔵少輔(おゝくらせうゆう)と称(せう)し一に信綱(のぶつな)とも名乗(なの)つたものと信(しん)ぜられる而(しか)し       て此人(このひと)の事(こと)からは稍々(やゝ)分(わか)るように思(おも)はれるのであるが其(その)遺蹟(ゐせき)も尚(な)ほ幡豆郡(はづぐん)の寺津(てらづ)に残(のこ)つて居(を)るのであ 義光院   る第(だい)一に同村(どうそん)の義光院(ぎくわうゐん)と云ふ寺(てら)は永正(えいせう)十年の草創(さう〳〵)で最初(さいしよ)信定(のぶさだ)の建立(こんりう)したものであるが同寺内(どうじない)に其(その)墓(はか)も        残(のこ)つて居(ゐ)て表面(ひようめん)に大河内大蔵少輔義光院殿正儀大禅門(おゝかうちおゝくらせうゆうぎくわうゐんでんせいぎだいぜんもん)と刻(こく)してあるモツトモ之(これ)は至(いた)つて小(ち)さなもので        何時頃(いつごろ)に建(た)てたものか余(あま)り古(ふる)いものとは思(おも)はれぬ又(ま)た同寺(どうじ)の鐘(かね)にも銘(めい)があつて其(その)草創(さう〳〵)の略歴(りやくれき)が記(しる)して       ある之(こ)れ亦(ま)た後世(こうせい)のもので文政(ぶんせい)二年 再鋳(さいちう)の節(せつ)に鋳込(いこ)むだものではあるが之等(これら)は孰(いづ)れも多大(ただい)の参考(さんこう)とな       るものである其他(そのた)同村(どうそん)の八 幡社(まんしや)にも同(おな)じ永正(えいせう)十年 卯月(うづき)十二日に信政(のぶまさ)が納(おさ)めた棟札(むねふだ)がある之(これ)にも矢張(やはり)名(な)        乗(のり)は信綱(のぶつな)と記(しる)してある而(しか)して義光院(ぎくわうゐん)の過去帳(くわこてう)によると此人は永正(えいせう)十七年八月二十二日 逝去(せいきよ)とあるので       ある 大河内貞綱  又(ま)た其頃(そのころ)大河内氏(おゝかうちし)の一 属(ぞく)に大河内備中守貞綱(おゝかうちびちうのかみさだつな)と云ふ人があつたが此人(このひと)の系統(けいとう)は甚(はなは)だ明(あきら)かでない併(しか)し臥(ふせ)        蝶(ちよう)の大河内氏(おゝかうちし)の流(りう)であると云ふのが確実(かくじつ)であると思(おも)ふ即(すなは)ち前(まへ)に申述(もをしの)べて置(お)いた長縄(ながなは)の大河内貞顕(おゝかうちさだあき)の二        男(なん)に三 郎左衛門尉貞康(らうさゑもんぜうさだやす)と云ふ人があつたが此(この)貞綱(さだつな)は実(じつ)に其(その)末裔(まつゑい)であつて大河内家譜(おゝかうちかふ)に欠綱(かけつな)とあるのは 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千百八号附録    (明治四十五年七月二日発行) 【本文】        確(たしか)に此人(このひと)の事(こと)であると信(しん)ずる而(しか)して永正中(えいせうちう)尾張(をわり)の斯波義遠(しばよしとう)が丁度(てうど)遠江(とほとふみ)の守護(しゆご)であつたが吉良氏(きらし)は此(この)貞(さだ)        綱(つな)をして遠江(とほとふみ)浜名荘(はまなそう)に籠(こも)らしめて義遠(よしとう)と相応(あひおう)じ以(もつ)て当時(とうじ)漸(やうや)く爪芽(さうが)を西(にし)に伸(のば)さむとしつゝある今川氏親(いまがはうぢちか)       の兵(へい)と相戦(あひたゝか)つたのである其頃(そのころ)今川方(いまがはかた)では朝比奈備中守(あさひなびつちうのかみ)泰凞と云(い)ふ人(ひと)が駿河(するが)の宇津山(うつやま)の城(しろ)に居(を)つて永正(えいせう)       九 年(ねん)五月 貞綱(さだつな)等(ら)と相戦(あひたゝか)つたが貞綱(さだつな)は遂(つひ)に之(これ)が為(ため)に敗(やぶ)られたのである然(しか)るに其後(そのご)十 年(ねん)に至(いた)つて貞綱(さだつな)は        再(ふたゝ)び兵(へい)を集(あつ)めて天龍川(てんりうがは)近傍(きんばう)を攻略(こうりやく)し勢(いきほひ)頗(すこぶ)る猖獗(せうけつ)であつたので其頃(そのころ)泰凞は早(は)や病没(びやうぼつ)し其子(そのこ)泰能(やすよし)がまだ        幼少(ようせう)である処(ところ)から叔父(おぢ)の泰以が専(もつぱ)ら軍国(ぐんこく)の事(こと)を決(けつ)して居(を)つたが永正(えいせう)十二 年(ねん)今度(このたび)は氏親(うぢちか)自(みづか)ら兵(へい)を率(ひき)ゐて        攻(せ)め来(きた)つたので其(その)八月十九日 貞綱(さだつな)は復(ま)た又(ま)た敗(やぶ)られて其(その)弟(おとゝ)巨海新左衛門貞政(こみしんざゑもんさだまさ)と共(とも)に打死(うちじに)をして仕舞(しま)つ       たのである此(この)時(とき)独(ひと)り義遠(よしとう)は今川方(いまがはかた)に降参(こうさん)したが氏親(うぢちか)は之(これ)を剃髪(ていはつ)せしめて名(な)を安心(あんしん)と改(あらた)め尾張(をわり)に送還(そうかん)し       たのである此話(このはなし)は一寸(ちよつと)著(いちじる)しきものであるから茲(こゝ)に其(その)大要(たいえう)を申述(まうしの)べて置(お)く次第(しだい)であるが尚(なほ)其外(そのほか)に今(いま)一 《割書:大河内善兵|衛政綱》  つ御話(おはなし)して置(お)きたいのは其頃(そのころ)長縄(ながなは)の大河内(おほかうち)一 統(とう)にも大河内善兵衛政綱(おほかうちぜんべゑまさつな)と云(い)ふ勇士(ゆうし)があつた事(こと)である此(この)        人(ひと)は前(まへ)にも申述(まうしの)べた大河内左衛門尉貞顕(おほかうちさゑもんのぜうさだあき)十四 世(せい)の孫(そん)で父(ちゝ)を基孝(もとたか)(一に基高(もとたか))と云(い)つたが此(この)基孝(もとたか)と云(い)ふ人 大河内基孝 は永正(えいせう)十二年の生(うま)れで先(さき)に申述(まうしの)べた幡豆郡(はづぐん)の西長縄村(にしながなはむら)に住(ぢう)し慶長(けいちやう)十七 年(ねん)十二月五日 年(とし)九十八で卒(そつ)した       のである而(しか)して晩年(ばんねん)には剃髪(ていはつ)して出雲守入道古顕(いづものかみにうどうこげん)と号(ごう)したが初(はじ)めは矢張(やはり)吉良義昭(きらよしあき)に属(ぞく)し刈屋(かりや)、 上野(うへの)、        東條(とうぜう)などの戦(たゝかひ)に与(あづか)つて頗(すこぶ)る戦功(せんこう)があつたが最後(さいご)には家康(いへやす)に属(ぞく)するに至(いた)つたのであるソコで此(この)政綱(まさつな)も亦(ま)       た初(はじ)めは吉良義昭(きらよしあき)に属(ぞく)し永禄(えいろく)四年 並(ならび)に其(その)七年に家康(いへやす)が東條(とうぜう)を攻(せ)めた時(とき)には政綱(まさつな)は吉良勢(きらぜい)の中(なか)にあつて        力戦(りきせん)した事(こと)は頗(すこぶ)る有名(ゆうめい)な話(はなし)であるモツトモ永禄(えいろく)四年の時(とき)には政綱(まさつな)年(とし)僅(わづか)に十六 歳(さい)であつたと記(しる)してある       ものが多(おほ)いが政綱(まさつな)は寛永(かんえい)四 年(ねん)二月廿三日八十三 歳(さい)で卒去(そつきよ)した人(ひと)であるからそれから推(お)すと永禄(えいろく)四年に       は十七 歳(さい)であつた訳(わけ)である其後(そのご)義昭(よしあき)が遂(つひ)に降(こう)を請(こう)つて国(くに)を去(さ)るに及(およ)むで政綱(まさつな)は徳川家(とくがはけ)に質(しち)となつたの 【欄外】    豊橋市史談  (大河内氏と其祖先)                    二百五十三

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(大河内氏とその祖先) 二百五十二 【本文】 節を変えなかった。然るにようやく八年目で再び高天神城が家康の手に復するに至って、初めて牢から出ることができたが、長々の幽閉で腰が抜けて立つことができなかったということである。この義心については家康はもちろん、敵も味方も感ぜざる者はなかったという事である。さて話は大層横道に入ったが、また初めに戻ることとして、この大河内家の系統というものは政顕から行重、宗綱、貞綱、光将、光綱と相継いだ事は前に申し述べた如くであるが、この光綱の時代に至っては室町幕府も既に衰運に帰して天下はほとんど乱れんとしたが、この人は文明元年七月十八日幡豆郡山王山の戦で戦死したのである。而してその子が真綱、またその子が信政であるが、この信政という人は初め五郎三郎、後に大蔵少輔と称し、一に信綱とも名乗ったものと信ぜられる。而してこの人のことからは稍々分かるように思われるのであるが、その遺跡も尚幡豆郡の寺津に残っているのである。第一に同村の義光院という寺は永正十年の草創で、最初信定の建立したものであるが、同寺内にその墓も残っていて、表面に大河内大蔵少輔義光院殿正儀大禅門と刻してある。もっともこれは至って小さなもので、何時頃に建てたものか余り古いものとは思われぬ。また同寺の鐘にも銘があって、その草創の略歴が記してある。これまた後世のもので文政二年再鋳の節に鋳込んだものではあるが、これ等はいずれも多大の参考となるものである。その他同村の八幡社にも同じ永正十年卯月十二日に信政が納めた棟札がある。これにも矢張り名乗りは信綱と記してある。而して義光院の過去帳によるとこの人は永正十七年八月二十二日逝去とあるのである。 また其頃大河内氏の一族に大河内備中守貞綱という人があったが、この人の系統は甚だ明かでない。しかし臥蝶の大河内氏の流であるというのが確実であると思う。即ち前に申し述べて置いた長縄の大河内貞顕の二男に三郎左衛門尉貞康という人があったが、この貞綱は実にその末裔であって、大河内家譜に欠綱とあるのは 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千百八号附録(明治四十五年七月二日発行) 【本文】 確かにこの人のことであると信ずる。而して永正中尾張の斯波義遠が丁度遠江の守護であったが、吉良氏はこの貞綱をして遠江浜名荘に籠らしめて義遠と相応じ、以て当時漸く爪芽を西に伸ばさんとしつつある今川氏親の兵と相戦ったのである。その頃今川方では朝比奈備中守泰熙という人が駿河の宇津山の城にいて、永正九年五月貞綱等と相戦ったが、貞綱は遂にこれがために敗られたのである。然るにその後十年に至って貞綱は再び兵を集めて天龍川近傍を攻略し、勢い頗る猖獗であったので、その頃泰熙は早や病没し、その子泰能がまだ幼少である処から、叔父の泰以が専ら軍国の事を決していたが、永正十二年今度は氏親自ら兵を率いて攻め来たったので、その八月十九日貞綱はまたまた敗られて、その弟巨海新左衛門貞政と共に打死をしてしまったのである。この時独り義遠は今川方に降参したが、氏親はこれを剃髪せしめて名を安心と改め、尾張に送還したのである。この話は一寸著しきものであるから茲にその大要を申し述べて置く次第であるが、尚その外に今一つ御話して置きたいのは、その頃長縄の大河内一統にも大河内善兵衛政綱という勇士があった事である。この人は前にも申し述べた大河内左衛門尉貞顕十四世の孫で、父を基孝(一に基高)といったが、この基孝という人は永正十二年の生まれで、先に申し述べた幡豆郡の西長縄村に住し、慶長十七年十二月五日年九十八で卒したのである。而して晩年には剃髪して出雲守入道古顕と号したが、初めは矢張り吉良義昭に属し、刈屋、上野、東條などの戦に与って頗る戦功があったが、最後には家康に属するに至ったのである。そこでこの政綱もまた初めは吉良義昭に属し、永禄四年並びにその七年に家康が東條を攻めた時には、政綱は吉良勢の中にあって力戦した事は頗る有名な話である。もっとも永禄四年の時には政綱年僅かに十六歳であったと記してあるものが多いが、政綱は寛永四年二月廿三日八十三歳で卒去した人であるから、それから推すと永禄四年には十七歳であった訳である。その後義昭が遂に降を請うて国を去るに及んで、政綱は徳川家に質となったの 【欄外】 豊橋市史談(大河内氏とその祖先) 二百五十三

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Ōkōchi Clan and Its Ancestors) 252 **Main Text:** did not change his principles. However, finally in the eighth year, when Takatenjin Castle was restored to Ieyasu's hands, he was at last able to leave the prison, but due to his long confinement his legs had given out and he could not stand. Regarding this loyalty, it is said that not only Ieyasu but even enemies and allies alike were moved. Now, the story has gone greatly off course, but returning to the beginning, the Ōkōchi family lineage continued from Masaaki through Yukishige, Munetsuna, Sadatsuna, Mitsumasa, and Mitsutsuna as previously mentioned. By Mitsutsuna's time, the Muromachi shogunate had already fallen into decline and the realm was on the verge of chaos, but this man died in battle at Sannōzan in Hazu District on the 18th day of the 7th month of Bunmei 1. His son was Sanetsuna, and his son was Nobumasa. This Nobumasa was initially called Gorosaburo, later Ōkura-shōyū, and is believed to have also used the name Nobitsuna. From this person's era things become somewhat clearer, and his remains still exist in Teratsu, Hazu District. First, the temple called Gikōin in the same village was founded in Eishō 10, originally established by Nobusada, and his grave remains within the temple grounds with "Ōkōchi Ōkura-shōyū Gikōin-den Seigi Daizen-mon" carved on its surface. However, this is quite small and doesn't seem very old, so it's unclear when it was erected. The temple bell also has an inscription recording the brief history of its founding. This too is from a later period, cast during recasting in Bunsei 2, but these all serve as valuable references. Additionally, at the Hachiman shrine in the same village there is a ridge-plate offering donated by Nobumasa on the 12th day of the 4th month of Eishō 10. This also records his name as Nobitsuna. According to Gikōin's death register, this person died on the 22nd day of the 8th month of Eishō 17. Also around this time, among the Ōkōchi clan was a man called Ōkōchi Bitchū-no-kami Sadatsuna, but his lineage is quite unclear. However, I believe it is certain that he was of the Fusechō Ōkōchi line. That is, the previously mentioned Naganawa Ōkōchi Sadaaki had a second son called Saburōsaemon-jō Sadayasu, and this Sadatsuna was truly his descendant, and what appears as Kaketsuna in the Ōkōchi genealogy **Left Page:** **Margin:** San'yō Shimbun No. 4,108 Supplement (Published July 2, Meiji 45) **Main Text:** is certainly this person, I believe. During the Eishō era, Shiba Yoshitō of Owari happened to be the protector of Tōtōmi, and the Kira clan had this Sadatsuna stationed at Hamana-shō in Tōtōmi to coordinate with Yoshitō and fight against the forces of Imagawa Ujichika, who was then gradually extending his influence westward. At that time on the Imagawa side, a man called Asahina Bitchū-no-kami Yasuhiro was stationed at Utsuyama castle in Suruga and fought against Sadatsuna and others in the 5th month of Eishō 9, but Sadatsuna was ultimately defeated. However, in the following 10th year, Sadatsuna again gathered troops and attacked the vicinity of the Tenryu River, with considerable violent success. By then Yasuhiro had already died of illness and his son Yasuyoshi was still young, so his uncle Yasumochi was handling military affairs. In Eishō 12, Ujichika himself led troops to attack, and on the 19th day of the 8th month, Sadatsuna was again defeated and died in battle together with his younger brother Komi Shinzaemon Sadamasa. At this time, only Yoshitō surrendered to the Imagawa side, but Ujichika had him shaved and renamed Anshin, sending him back to Owari. This story is quite remarkable, so I have outlined its main points here. Additionally, I would like to mention that around this time among the Naganawa Ōkōchi clan there was also a brave warrior called Ōkōchi Zenbei Masatsuna. This person was the 14th generation descendant of the previously mentioned Ōkōchi Saemon-jō Sadaaki, and his father was called Mototaka (also written as Mototaka). This Mototaka was born in Eishō 12, lived in the previously mentioned Nishi-Naganawa village in Hazu District, and died on the 5th day of the 12th month of Keichō 17 at age 98. In his later years he became a monk and took the name Izumo-no-kami nyūdō Koken, but initially he served under Kira Yoshiaki and participated in battles at Kariya, Ueno, and Tōjō with considerable military achievements, but finally came to serve under Ieyasu. Therefore this Masatsuna also initially served under Kira Yoshiaki, and when Ieyasu attacked Tōjō in Eiroku 4 and 7, Masatsuna's fierce fighting among the Kira forces is quite a famous story. Most sources record that Masatsuna was only 16 years old in Eiroku 4, but since Masatsuna died at age 83 on the 23rd day of the 2nd month of Kan'ei 4, calculating backwards he would have been 17 in Eiroku 4. Later, when Yoshiaki finally requested surrender and left the province, Masatsuna became a hostage to the Tokugawa house. **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Ōkōchi Clan and Its Ancestors) 253