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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 141

ページ: 141

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【欄外】    豊橋市史談  (大河内氏と其祖先)                    二百五十四 【本文】       であるがそのまゝ遂(つひ)に徳川氏(とくがはし)に任(つか)へて家康(いへやす)の信任(しんにん)を得(う)るに至(いた)つたのである爾来(じらい)は各戦役毎(かくせんえきごと)に徳川氏(とくがはし)の        為(ため)に功労(こうろう)のあつた人(ひと)で其(その)伝記(でんき)を述(の)ぶれば長(なが)くもなるが直接(ちよくせつ)本史談(ほんしだん)に関係(かんけい)も少(すくな)いから今(いま)は大要(たいえう)のみを申(まうし)        述(の)ぶるに止(とゞ)むる事(こと)とする 大河内信貞 サテ話(はなし)は復(ふたゝ)び前(まへ)に戻(もど)つて大河内信政(おほかうちのぶまさ)の後(あと)を継(つ)いだのは其子(そのこ)の信貞(のぶさだ)であるが信政(のぶまさ)は初(はじ)め孫太郎(まごたろう)と称(せう)し寺(てら) 金剛院    津(つ)の金剛院(こんがうゐん)と云(い)ふ寺(てら)は即(すなは)ち天文(てんぶん)二年に此(この)信貞(のぶさだ)が大河内氏(おほかうちし)の菩提寺(ぼだいじ)として創立(そうりつ)したもので今(いま)も存在(ぞんざい)して        居(を)るが此(この)信貞(のぶさだ)の墓(はか)も其(その)境内(けいだい)にあるのである而(しか)して此人(このひと)逝去(せいきよ)の時(とき)は永禄(えいろく)元年(がんねん)九月八日であるが其子(そのこ)が即       ち彼(か)の大河内金兵衛秀綱(おほかうちきんべいひでつな)である 大河内秀綱   秀綱(ひでつな)も亦(ま)た幼名(ようめい)を孫太郎(まごたろう)と称(せう)し天文(てんぶん)十五 年(ねん)の生(うまれ)である之は諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の如(ごと)く頗(すこぶ)る有名(ゆうめい)なる人(ひと)で今(いま)の 臥 蝶 城  寺津城址(てらつじようし)は此(この)秀綱(ひでつな)が居(を)つた処(ところ)であると伝(つた)へられてあるが元来(がんらい)此寺津の城(しろ)は臥蝶城(ふせてふぜう)と呼(よ)ばれたので先(さき)に        申述(まうしの)べた貞綱(さだつな)の如きも諸記録(しよきろく)に臥蝶地頭(ふせてふぢとう)をして散見(さんけん)さるゝ処(ところ)である従(したがつ)て大河内氏(おほかうちし)の一 族(ぞく)と云(い)ふものは        旧来(きうらい)寺津附近(てらつふきん)を中心(ちうしん)として構(かま)へて居(を)つたものである事は確(たしか)であるが併(しか)し現存(げんぞん)して居る城址(じようし)が果(はた)して秀(ひで)        綱(つな)以前(いぜん)よりのものなるや否(いなや)はドウモ分(わか)り兼(か)ぬる処(ところ)である而(しか)して此秀綱は頗(すこぶ)る智勇(ちゆう)のあつた人(ひと)であるが        大河内家譜(おほかうちかふ)によると吉良(きら)の家士(かし)と争論(そうろん)の事があつて家士(かし)十三 人(にん)が相党(あひとう)して秀綱(ひでつな)を襲(う)つたが秀綱(ひでつな)は単騎(たんき)        薙刀(なぎなた)を揮(ふる)つて悉(こと〴〵)く此(この)十三 人(にん)を殪(たほ)し遂(つひ)に吉良家(きらけ)を脱(だつ)して伊奈備前守忠政(いなびぜんのかみたゞまさ)に寄(よ)つたのが因縁(ゐんねん)となつて家康(いへやす) 《割書:秀綱家康に|任へ遠江国》  の為(ため)に召(め)し抱(かゝ)へられ遠江国(とほとふみくに)稗原(ひえばら)に領地(れうち)を賜(たまは)つたと記(しる)してある然(しか)るに此事(このこと)に就(つい)て色々(いろ〳〵)な異説(いせつ)がある野(や) 《割書:稗原の地を|領す》   史(し)には稗原(ひえばら)の地(ち)を賜(たまは)つたのは父(ちゝ)の信貞(のぶさだ)で秀綱(ひでつな)は終始(しうし)吉良義昭(きらよしあき)に属(ぞく)して義昭(よしあき)の出奔(しゆつほん)に至(いた)るまで義節(ぎせつ)を守(まも)       り沈淪(ちんりん)四十四年 晩年(ばんねん)に及(およ)むで窮蹙(きうしゆく)して伊奈忠政(いなたゞまさ)に寄(よ)つたのであると記(しる)してあるが之はドウモ不条理(ふぜうり)な        説(せつ)であると思(おも)ふ家康(いへやす)が遠江(とほとふみ)を取(と)つたのは御承知(ごせうち)の如く永禄(えいろく)十二年の事で無論(むろん)信貞(のぶさだ)逝去(せいきよ)以後(いご)であるから 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】        家康(いへやす)が遠江(とほとふみ)の稗原(ひえばら)を信貞(のぶさだ)に与(あた)へたと云(い)ふのは受取(うけと)れぬ説(せつ)である又た吉良義昭(きらよしあき)が一 向専修(かうせんしう)の乱(らん)に与(く)みし       て再(ふたゝ)び家康(いへやす)に反(そむ)き遂(つひ)に戦敗(いくさやぶ)れて近江国(あふみのくに)に出奔(しゆつぽん)したのは永禄(えいろく)七年の事であるから秀綱(ひでつな)は此時(このとき)年(とし)僅(わづか)に十九        歳(さい)である仮令(たとひ)其後(そのご)吉良(きら)の残党(ざんとう)が残(のこ)つて居(を)つて徳川氏(とくがはし)に服従(ふくぢう)しなかつたとしても沈淪(ちんりん)四十四年は少(すこ)しく        受取(うけと)れぬ処(ところ)である併(しか)し初(はじ)め一 向専修(かうせんしう)の乱(らん)が起(おこ)つて義昭(よしあき)が之に与(くみ)せんとした時には秀綱(ひでつな)は政綱(まさつな)と共に其        不可(ふか)を主張(しゆてう)して義昭(よしあき)を諌(いさ)めたのみならず永禄(えいろく)七年二月に家康(いへやす)が松井忠次(まつゐたゞつぐ)をして東條(とうぜう)を攻(せ)めしめた時(とき)に       は秀綱(ひでつな)、 政綱(まさつな)は共(とも)に吉良勢(きらぜい)にあつて奮戦(ふんせん)して居る処(ところ)から推(お)すと秀綱の忠政(たゞまさ)に寄(よ)つたのは無論(むろん)其後(そのご)の事       で種々(しゆ〴〵)なる材料(ざいれう)から推断(すゐだん)するとドウモ元亀(げんき)の末年(まつねん)か天正(てんせう)の初年(しよねん)の事と思(おも)はれる而(しか)して家康(いへやす)から稗原の       地を貰(むら)つたのは言(い)ふ迄(まで)もなく此(この)秀綱(ひでつな)であると信(しん)ずるのであるソコで此(この)稗原(ひえばら)と云(い)ふ処(ところ)であるが旧来(きうらい)ドウ       モ判然(はんぜん)たる記録(きろく)がないのである併(しか)し今(いま)遠江(とほとふみ)磐田郡(いはたぐん)の袖浦村(そでうらむら)の中(うち)に稗原(ひえばら)と云ふ大字(おほあざ)が残(のこ)つて居るが私は        此附近(このふきん)の地(ち)である事を信(しん)ずるものである 《割書:秀綱参遠両|国租税の事|を司る》  サテ此(この)秀綱(ひでつな)と云(い)ふ人は一 方(ぱう)に智勇(ちゆう)であつたのみならず頗(すこぶ)る吏才(りさい)にも長(てう)じて居(を)つたものと見(み)えて家康(いへやす)に        仕(つか)へてからは参遠両国(さんえんれうこく)租税(そぜい)の事を司(つかさど)つて居たが勿論(もちろん)之は専務(せんむ)ではなかつた晩年(ばんねん)には江戸神田(えどかんだ)の鷹(たか)        匠町(せうてう)(《割書:今の小川町|なりと伝ふ》)に邸宅(ていたく)を賜(たまは)つて之に居つたが隠居後(ゐんきよご)は剃髪(ていはつ)して休心(きうしん)と称(せう)した元和(げんわ)四 年(ねん)九月十三日 年(とし)七 平 林 寺 十三で卒去(そつきよ)し武蔵国岩槻(むさしのくにいはつき)の平林寺(へいりんじ)に葬(ほうむ)つたのであるモツトモ此(この)寺(てら)は其後(そのご)同国(どうこく)の野火留(のびどめ)に移(うつ)されたので        今(いま)も尚(な)ほ墓(はか)は其処(そこ)に残(のこ)つて居(を)るが寺津(てらつ)の金剛院(こんごうゐん)にも亦(ま)た信貞(のぶさだ)の墓(はか)と相並(あひなら)むで墓標(ぼへう)が立(た)てられてあるの       である 大河内久綱  秀綱(ひでつな)には男子(だんし)が四 人(にん)あつたが長男(てうなん)が久綱(ひさつな)で二 男(なん)が正綱である而(しか)して久綱(ひさつな)は父(ちゝ)秀綱(ひでつな)の後(あと)を襲(つ)いで矢張(やはり)大 大河内正綱 河内金兵衛と名乗(なの)つたが幼名(ようめい)も亦(ま)た父祖(ふそ)と同じく孫太郎(まごたろう)であつた元亀(げんき)元年(がんねん)十二月十五日三 河(かは)に於(おい)て生(うま) 【欄外】    豊橋市史談  (大河内氏と其祖先)                    二百五十五

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(大河内氏とその祖先) 二百五十四 【本文】 であるが、そのまま遂に徳川氏に仕えて家康の信任を得るに至ったのである。爾来は各戦役ごとに徳川氏のために功労のあった人で、その伝記を述べれば長くもなるが、直接本史談に関係も少ないから、今は大要のみを申し述べるにとどめることとする。 さて話は再び前に戻って、大河内信政の後を継いだのはその子の信貞であるが、信政は初め孫太郎と称し、寺津の金剛院という寺は即ち天文二年にこの信貞が大河内氏の菩提寺として創立したもので、今も存在しているが、この信貞の墓もその境内にあるのである。而してこの人逝去の時は永禄元年九月八日であるが、その子が即ちかの大河内金兵衛秀綱である。 秀綱もまた幼名を孫太郎と称し、天文十五年の生まれである。これは諸君も御承知の如く頗る有名なる人で、今の寺津城址はこの秀綱がいた処であると伝えられてあるが、元来この寺津の城は臥蝶城と呼ばれたので、先に申し述べた貞綱の如きも諸記録に臥蝶地頭として散見される処である。従って大河内氏の一族というものは旧来寺津附近を中心として構えていたものである事は確かであるが、しかし現存している城址が果たして秀綱以前よりのものなるや否やはどうも分かりかねる処である。而してこの秀綱は頗る智勇のあった人であるが、大河内家譜によると吉良の家士と争論の事があって家士十三人が相党して秀綱を襲ったが、秀綱は単騎薙刀を振るって悉くこの十三人を倒し、遂に吉良家を脱して伊奈備前守忠政に寄ったのが因縁となって家康のために召し抱えられ、遠江国稗原に領地を賜ったと記してある。然るにこの事について色々な異説がある。野史には稗原の地を賜ったのは父の信貞で、秀綱は終始吉良義昭に属して義昭の出奔に至るまで義節を守り、沈淪四十四年、晩年に及んで窮迫して伊奈忠政に寄ったのであると記してあるが、これはどうも不条理な説であると思う。家康が遠江を取ったのは御承知の如く永禄十二年の事で、無論信貞逝去以後であるから 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏はその該博なる知識と不尽の精力を傾け、豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際 【左頁】 【欄外】 この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 家康が遠江の稗原を信貞に与えたというのは受け取れぬ説である。また吉良義昭が一向専修の乱に与して再び家康に反き、遂に戦敗れて近江国に出奔したのは永禄七年の事であるから、秀綱はこの時年僅かに十九歳である。たとえその後吉良の残党が残っていて徳川氏に服従しなかったとしても、沈淪四十四年は少しく受け取れぬ処である。しかし初め一向専修の乱が起こって義昭がこれに与せんとした時には、秀綱は政綱と共にその不可を主張して義昭を諌めたのみならず、永禄七年二月に家康が松井忠次をして東條を攻めしめた時には、秀綱、政綱は共に吉良勢にあって奮戦している処から推すと、秀綱の忠政に寄ったのは無論その後の事で、種々なる材料から推断するとどうも元亀の末年か天正の初年の事と思われる。而して家康から稗原の地を貰ったのは言うまでもなくこの秀綱であると信ずるのである。そこでこの稗原という処であるが、旧来どうも判然たる記録がないのである。しかし今遠江磐田郡の袖浦村の中に稗原という大字が残っているが、私はこの附近の地である事を信ずるものである。 さてこの秀綱という人は一方に智勇であったのみならず、頗る吏才にも長じていたものと見えて、家康に仕えてからは参遠両国租税の事を司っていたが、勿論これは専務ではなかった。晩年には江戸神田の鷹匠町(今の小川町なりと伝う)に邸宅を賜ってこれに居ったが、隠居後は剃髪して休心と称した。元和四年九月十三日年七十三で卒去し、武蔵国岩槻の平林寺に葬ったのである。もっともこの寺はその後同国の野火留に移されたので、今も尚墓はそこに残っているが、寺津の金剛院にもまた信貞の墓と相並んで墓標が立てられてあるのである。 秀綱には男子が四人あったが、長男が久綱で二男が正綱である。而して久綱は父秀綱の後を襲いで矢張り大河内金兵衛と名乗ったが、幼名もまた父祖と同じく孫太郎であった。元亀元年十二月十五日三河において生 【欄外】 豊橋市史談(大河内氏とその祖先) 二百五十五

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Ōkōchi Clan and Its Ancestors) 254 **Main Text:** but he continued to serve the Tokugawa clan and gained Ieyasu's trust. From then on, he rendered meritorious service to the Tokugawa in each military campaign. While his biography would be lengthy to describe, since it has little direct relation to this historical discourse, I will limit myself to stating only the main points. Now returning to the previous topic, the one who succeeded Ōkōchi Nobumasa was his son Nobusada, but Nobumasa was initially called Magotaro. The temple called Kongōin in Teratsu was founded in Tembun 2 by this Nobusada as the family temple of the Ōkōchi clan, and it still exists today. Nobusada's grave is also within the temple grounds. This person died on the 8th day of the 9th month of Eiroku 1, and his son was the famous Ōkōchi Kinbei Hidetsuna. Hidetsuna also used the childhood name Magotaro and was born in Tembun 15. As you all know, he was quite a famous person, and the present Teratsu castle ruins are said to be where this Hidetsuna resided. Originally this Teratsu castle was called Fusechō Castle, and even the previously mentioned Sadatsuna appears scattered throughout various records as the Fusechō magistrate. Therefore, it is certain that the Ōkōchi clan had traditionally been based around the Teratsu area, but whether the currently existing castle ruins date from before Hidetsuna's time is unclear. This Hidetsuna was a man of considerable intelligence and courage. According to the Ōkōchi genealogy, he had a dispute with Kira retainers, and thirteen retainers banded together to attack Hidetsuna, but he single-handedly wielded a naginata and defeated all thirteen, finally leaving the Kira house and seeking refuge with Ina Bizen-no-kami Tadamasa. This led to his being taken into service by Ieyasu and granted territory at Hiehara in Tōtōmi Province. However, there are various conflicting accounts of this matter. According to unofficial histories, it was his father Nobusada who was granted the Hiehara territory, while Hidetsuna consistently served Kira Yoshiaki, maintaining his loyalty until Yoshiaki's flight, enduring obscurity for forty-four years until in his old age he was reduced to seeking refuge with Ina Tadamasa. But this seems to be an unreasonable account. As you know, Ieyasu took Tōtōmi in Eiroku 12, which was naturally after Nobusada's death, so **Margin:** Toyohashi Mayor Ōguchi Kiroku has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling the history of Toyohashi City for over a year, and now as the manuscript is nearly complete... **Left Page:** **Margin:** This Toyohashi City Historical Discourse is published once weekly (on Tuesdays) and presented to San'yō Shimbun readers **Main Text:** the claim that Ieyasu granted Hiehara in Tōtōmi to Nobusada is unacceptable. Also, since Kira Yoshiaki joined the Ikkō-senshū rebellion and again opposed Ieyasu, ultimately being defeated and fleeing to Ōmi Province in Eiroku 7, Hidetsuna was only nineteen years old at that time. Even if some Kira remnants remained afterward and did not submit to the Tokugawa, forty-four years of obscurity is somewhat hard to accept. However, when the Ikkō-senshū rebellion first arose and Yoshiaki was about to join it, Hidetsuna together with Masatsuna argued against this and admonished Yoshiaki. Moreover, in the 2nd month of Eiroku 7 when Ieyasu had Matsui Tadatsugu attack Tōjō, Hidetsuna and Masatsuna were both fighting vigorously among the Kira forces. From this we can infer that Hidetsuna's seeking refuge with Tadamasa was naturally after this, and judging from various materials, it seems to have been in the late years of Genki or early years of Tenshō. And I believe it was undoubtedly this Hidetsuna who received the Hiehara territory from Ieyasu. Now regarding this place called Hiehara, there are no clear records from ancient times. However, there is still a village section called Hiehara within Sodeura village in Iwata District, Tōtōmi, and I believe it was in this vicinity. Now this Hidetsuna was not only intelligent and brave but apparently also quite gifted in administrative affairs, for after entering Ieyasu's service he handled tax matters for both Mikawa and Tōtōmi provinces, though of course this was not his only duty. In his later years he was granted a residence in Takashōchō in Edo Kanda (said to be present-day Ogawachō) where he lived, but after retirement he became a monk and took the name Kyūshin. He died on the 13th day of the 9th month of Genna 4 at age seventy-three and was buried at Herinji temple in Iwatsuki, Musashi Province. However, this temple was later moved to Nobidome in the same province, so his grave still remains there, though a grave marker has also been erected alongside Nobusada's grave at Kongōin in Teratsu. Hidetsuna had four sons, with the eldest being Hisatsuna and the second being Masatsuna. Hisatsuna succeeded his father Hidetsuna and also took the name Ōkōchi Kinbei, and his childhood name was also Magotaro like his father and grandfather. He was born on the 15th day of the 12th month of Genki 1 in Mikawa **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Ōkōchi Clan and Its Ancestors) 255