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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 142

ページ: 142

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【欄外】    豊橋市史談  (大河内氏と其祖先)                    二百五十六 【本文】       れ後(のち)に家康(いへやす)に仕(つか)へて租税(そぜい)の事を掌(つかさど)つたのである然(しか)るに正綱(まさつな)の方(はう)は天正(てんせう)四年六月十二日 遠江国(とほとふみのくに)長江村(ながえむら)に 《割書:正綱長沢松|平氏を継ぐ》   於(おい)て生(うま)れたのであるが十七 歳(さい)の時より家康(いへやす)の側近(そばちか)くに召仕(めしつかは)れたので其命(そのめい)によつて松平甚右衛門(まつだひらじんゑもんの)尉 正次(まさつぐ)       の後(あと)を継(つ)いだのである此(この)甚右衛門(じんえもん)尉と云(い)ふのは即(すなは)ち長沢(ながさは)の松平氏(まつだひらし)で其先(そのさき)は嘗(かつ)て申述(まうしの)べた如く松平和泉(まつだひらいづみの)        守信光(かみのぶみつ)から出(い)でて居(を)るのであるから所謂(いはゆる)徳川家の連枝(れんし)である従(したがつ)て当時は中々(なか〳〵)喧(かまひ)しい家筋(いへすぢ)であつた特(とく)に 《割書:正綱吏務に|長ず》  此正綱には頗(すこぶ)る伝(つた)ふべき事が多(おほ)いのであるが此人(このひと)は最(もつと)も吏務(りむ)に長(てう)じて居つた人で家康(いへやす)がまだ僅(わづか)に関東       八州を領(れう)して居(を)つた頃(ころ)から遂(つひ)に天下(てんか)を平定(へいてい)するに至つた後(のち)までも徳川氏(とくがはし)の財政(ざいせい)一 切(さい)と云ふものは其一        人(にん)の手(て)によつて処理(しより)せられたのである而(しか)も一時の淹滞(あんたい)することがなく常(つね)に軍国多端(ぐんこくたたん)の間(あひだ)にあつて能(よ)く経(けい)        済(ざい)を支(さゝ)え遂(と)げたのであるから其(その)功績(こうせき)と云ふものは実(じつ)に偉大(いだい)であつて徳川氏(とくがはし)に於ける蕭何(せうか)とは実(げ)に此人       の謂であろうと思(おも)ふ晩年(ばんねん)には伊丹播磨守康勝(いたみはりまのかみやすかつ)が之に加(くわ)はつたが其内(そのうち)に正綱(まさつな)も老(を)いて隠居(ゐんきよ)するに至(いた)つた       ので寛永(かんえい)十九年三月三日 初(はじ)めて勘定頭(かんぜうがしら)と云(い)ふ役(やく)を置(お)いて前(まへ)の播磨守(はりまのかみ)と酒井紀伊守忠吉(さかゐきいのかみただよし)、 杉浦内蔵允正綱(すぎうらくらのすけまさ)        友(とも)三 人(にん)をして其事に当(あた)らしむるに至(いた)つたが実(じつ)は之迄(これまで)長(なが)い間(あひだ)正綱(まさつな)一人で処理(しより)して居つた仕事(しごと)である右(みぎ)の       如き訳(わけ)であるから徳川氏(とくがはし)初期(しよき)の財政(ざいせい)と云ふものは先(ま)づ悉(こと〴〵)く此人の計画(けいくわく)せるものと見(み)てよいのであるが 《割書:正綱の日光|殖林》  其中にも特(とく)に伝(つた)へたいと思(おも)ふのは此人の殖林事業(しよくりんじげふ)である       此人の殖林事業(しよくりんじげふ)の中でも最(もつと)も有名(ゆうめい)なのは箱根山(はこねやま)と日光山(につこうざん)とに杉(すぎ)を植(う)へ付(つ)けた事であるが特(とく)に日光山(につこうざん)の        殖林(しよくりん)は大に研究(けんきう)するの価値(かち)あるものと思ふ御承知(ごせうち)の通(とお)り徳川家康(とくがはいへやす)が薨去(こうきよ)されたのは元和(げんな)二年の四月十       七日であるが幕府(ばくふ)ではイヨ〳〵其(その)廟所(びやうしよ)を下野国(しもつけのくに)日光山に建設(けんせつ)することとなつて早速(さつそく)工事(こうじ)に着手(ちやくしゆ)したが其      成つたのは翌(よく)二 年(ねん)の三月であるソコで諸侯(しよこう)からは金銭(きんせん)に厭(いと)はず競(きそ)つて種々(しゆ〴〵)の物(もの)を寄進(きしん)したが当時(たうじ)正綱(まさつな)       は未(いま)だ僅(わづか)に四千六百七十石 許(ばかり)の小禄(せうろく)であつたので到底(とうてい)諸大名(しよだいめう)と同(おな)じ様(よう)に物品(ぶつぴん)を寄進(きしん)した処(ところ)がタイシた 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千百十四号附録    (明治四十五年七月十六日発行) 【本文】        事(こと)も出来(でき)ぬそれよりは日光山(につこうざん)及び其(その)沿道(ゑんどう)に杉苗(すぎなへ)を植(う)へ付(つ)けて之を寄進(きしん)した方(はう)が遥(はる)か後世(こうせい)の為に有益(ゆうえき)で       あると云ふので其(その)殖林(しよくりん)に取(とり)かゝつたのであるが之が実(じつ)に大事業(だいじげふ)であつた実(じつ)はそれを完成(くわんせい)する迄には約       廿余年の歳月(さいげつ)を費(つひや)したのである併(しか)し正綱(まさつな)は其後(そのご)寛永(くわんゑい)二年七月に至(いた)つて秀忠(ひでたゞ)から領地(れうち)の加増(かぞう)を仰付(おほせつけ)られ       て都合(つごう)二万二千百二十 石(こく)となり三 河(かは)、 相模(さがみ)、 武蔵(むさし)三国の内(うち)に領地(れうち)を得(う)るに至(いた)つたので此殖林の財源(ざいげん)に       取つても大(おほい)に便利(’べんり)を得た事であつたろうと思(おも)はれるが兎(と)に角(かく)一 小諸侯(せうしよこう)で此(この)大事業(だいじげふ)を仕遂(しと)げたと云ふ事       は今日(こんにち)から見(み)て何(なん)とも敬服(けいふく)の外(ほか)はないのである今日 其地(そのち)へ行(い)つて見(み)ると先(ま)づ宇都宮市(うつのみやし)から日光山(につこうざん)に到       る道路(どうろ)の両側(れうがは)は勿論(もちろん)日光(につこう)の山中(さんちう)にはイクラと云(い)ふ杉(すぎ)の老大木(ろうたいぼく)が森々(しん〳〵)として生茂(おいしげ)つて居(お)るが若(も)し之を価(か)        格(かく)に積(つも)つたならば幾何(いくばく)であろうか誠(まこと)に計(はか)り難(がた)い程(ほど)で当時(たうじ)金銀財宝(きんぎんざいはう)を寄進(きしん)したものよりも今日(こんにち)に於(おい)ては       ドレ位(ぐらゐ)勝(まさ)つたものであるか分(わか)らない事(こと)であるモツトモ此(この)森林(しんりん)が今日の如く繁殖(はんしよく)するまでには其後(そのご)歴代(れきだい)       の子孫(しそん)が常(つね)に手入(ていれ)や植継(うへつ)ぎを怠(おこた)らなかつた事も容易(ようい)ならぬ仕事(しごと)であつたが実(じつ)にあれ丈(たけ)の林相(りんそう)は容易(ようい)に        他(た)に見(み)られぬ事であると思(おも)ふ此(この)殖林(しよくりん)に関(かん)する碑石(ひせき)は幸(さいはひ)に今(いま)も尚(な)ほ日光山(につこうざん)山菅橋(やますがばし)の側(そば)に残(のこ)つて居るが其        碑(ひ)の全文(ぜんぶん)は左(さ)如(ごと)くである        自下野国日光山山菅橋至同国都賀郡小倉村同国河内郡大沢村同国同郡大桑村暦二十余年植杉於路辺        左右並山中十余里以奉寄進        東 照 宮         慶安元年戊子四月十七日        従五位下  松平右衛門太夫源正綱        又(ま)た右(みぎ)と同時(どうじ)に左(さ)の碑石(ひせき)が鹿沼(かぬま)、 宇都宮(うつのみや)、 奥州(おうしう)の三 街道(かいどう)にも立てられたがそれ等(ら)の碑石(ひせき)が今日も尚(な)ほ        存在(ぞんざい)せるや否(いなや)実見(じつけん)せぬから慥(たしか)には申上(まうしあげ)兼(か)ぬるのである但(たん)し其(その)全文(ぜんぶん)は左(さ)の通(とほり)である 【欄外】    豊橋市史談  (大河内氏と其祖先)                    二百五十七

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(大河内氏とその祖先) 二百五十六 【本文】 れ、後に家康に仕えて租税の事を掌ったのである。然るに正綱の方は天正四年六月十二日遠江国長江村において生まれたのであるが、十七歳の時より家康の側近くに召し使われたので、その命によって松平甚右衛門尉正次の後を継いだのである。この甚右衛門尉というのは即ち長沢の松平氏で、その先は嘗て申し述べた如く松平和泉守信光から出ているのであるから、所謂徳川家の連枝である。従って当時は中々喧しい家筋であった。特にこの正綱には頗る伝うべき事が多いのであるが、この人は最も吏務に長じていた人で、家康がまだ僅かに関東八州を領していた頃から遂に天下を平定するに至った後までも、徳川氏の財政一切というものはその一人の手によって処理されたのである。しかも一時の淹滞することがなく、常に軍国多端の間にあって能く経済を支え遂げたのであるから、その功績というものは実に偉大であって、徳川氏における蕭何とは実にこの人の謂であろうと思う。晩年には伊丹播磨守康勝がこれに加わったが、その内に正綱も老いて隠居するに至ったので、寛永十九年三月三日初めて勘定頭という役を置いて、前の播磨守と酒井紀伊守忠吉、杉浦内蔵允正綱友三人をしてその事に当らしむるに至ったが、実はこれまで長い間正綱一人で処理していた仕事である。右の如き訳であるから、徳川氏初期の財政というものは先ず悉くこの人の計画せるものと見てよいのであるが、その中にも特に伝えたいと思うのは、この人の殖林事業である。 この人の殖林事業の中でも最も有名なのは箱根山と日光山とに杉を植え付けた事であるが、特に日光山の殖林は大いに研究するの価値あるものと思う。御承知の通り徳川家康が薨去されたのは元和二年の四月十七日であるが、幕府ではいよいよその廟所を下野国日光山に建設することとなって早速工事に着手したが、それが成ったのは翌二年の三月である。そこで諸侯からは金銭に厭わず競って種々の物を寄進したが、当時正綱は未だ僅かに四千六百七十石許りの小禄であったので、到底諸大名と同じ様に物品を寄進した処が大した 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千百十四号附録(明治四十五年七月十六日発行) 【本文】 事も出来ぬ。それよりは日光山及びその沿道に杉苗を植え付けてこれを寄進した方が遥か後世の為に有益であるというので、その殖林に取りかかったのであるが、これが実に大事業であった。実はそれを完成する迄には約二十余年の歳月を費やしたのである。しかし正綱はその後寛永二年七月に至って秀忠から領地の加増を仰せ付けられて都合二万二千百二十石となり、三河、相模、武蔵三国の内に領地を得るに至ったので、この殖林の財源に取っても大いに便利を得た事であったろうと思われるが、とにかく一小諸侯でこの大事業を仕遂げたという事は、今日から見て何とも敬服の外はないのである。今日その地へ行って見ると、先ず宇都宮市から日光山に到る道路の両側は勿論、日光の山中にはいくらという杉の老大木が森々として生い茂っているが、若しこれを価格に積ったならば幾何であろうか。誠に計り難い程で、当時金銀財宝を寄進したものよりも今日においてはどれ位勝ったものであるか分からない事である。もっともこの森林が今日の如く繁殖するまでには、その後歴代の子孫が常に手入れや植継ぎを怠らなかった事も容易ならぬ仕事であったが、実にあれだけの林相は容易に他に見られぬ事であると思う。この殖林に関する碑石は幸いに今も尚日光山山菅橋の側に残っているが、その碑の全文は左の如くである。 「自下野国日光山山菅橋至同国都賀郡小倉村同国河内郡大沢村同国同郡大桑村歴二十余年植杉於路辺左右並山中十余里以奉寄進東照宮 慶安元年戊子四月十七日 従五位下 松平右衛門太夫源正綱」 また右と同時に左の碑石が鹿沼、宇都宮、奥州の三街道にも立てられたが、それ等の碑石が今日も尚存在するや否や実見せぬから確かには申し上げ兼ねるのである。但しその全文は左の通りである。 【欄外】 豊橋市史談(大河内氏とその祖先) 二百五十七

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Ōkōchi Clan and Its Ancestors) 256 **Main Text:** and later served Ieyasu and handled tax matters. However, Masatsuna was born on the 12th day of the 6th month of Tenshō 4 in Nagae village, Tōtōmi Province. From the age of seventeen he was employed close to Ieyasu, and by his command succeeded Matsudaira Jinzaemon-no-jō Masatsugu. This Jinzaemon-no-jō was from the Nagasawa branch of the Matsudaira clan, whose ancestors, as previously mentioned, descended from Matsudaira Izumi-no-kami Nobumitsu, making them so-called collateral branches of the Tokugawa house. Therefore, they were quite an important family line at the time. This Masatsuna in particular had many noteworthy accomplishments, as he was most skilled in administrative affairs. From the time when Ieyasu still held only the eight Kantō provinces until he finally pacified the realm, all of the Tokugawa financial matters were handled by this one person. Moreover, without any delays, he was able to support the economy constantly during times of military activity, so his achievements were truly great. I think he was truly the Xiāo Hé of the Tokugawa house. In his later years, Itami Harima-no-kami Yasukatsu was added to assist him, but eventually Masatsuna also aged and retired. On the 3rd day of the 3rd month of Kan'ei 19, the position of accounting head (kanjō-gashira) was first established, with the former Harima-no-kami, Sakai Kii-no-kami Tadayoshi, and Sugiura Kura-no-suke Masatsuna-tomo appointed to handle these matters. In reality, this was work that Masatsuna alone had been handling for a long time. For these reasons, the early Tokugawa financial system can be seen as almost entirely planned by this person. Among his accomplishments, what I particularly want to relate is his forestry projects. Among his forestry projects, the most famous was planting cedars on Mount Hakone and Mount Nikkō, but the Nikkō forestry project is particularly worthy of study. As you know, Tokugawa Ieyasu died on the 17th day of the 4th month of Genna 2, and the shogunate decided to build his mausoleum at Mount Nikkō in Shimotsuke Province, immediately beginning construction, which was completed in the 3rd month of the following year. The various lords competed to donate all manner of things regardless of expense, but at that time Masatsuna had only a small stipend of about 4,670 koku, so he could not possibly donate goods like the great lords. Instead, **Left Page:** **Margin:** San'yō Shimbun No. 4114 Supplement (Published July 16, Meiji 45) **Main Text:** he could do nothing significant. Rather than this, he thought it would be far more beneficial for posterity to plant cedar saplings on Mount Nikkō and along its approaches and donate these. So he began this forestry project, which was truly a great undertaking. In fact, it took about twenty years to complete. However, Masatsuna subsequently received an increase in territory from Hidetada in the 7th month of Kan'ei 2, bringing his total to 22,120 koku with lands in Mikawa, Sagami, and Musashi provinces. This must have greatly facilitated the financing of this forestry project. In any case, for one minor lord to accomplish such a great undertaking is truly admirable from today's perspective. When you visit that area today, you can see countless ancient cedar trees growing majestically not only along both sides of the road from Utsunomiya City to Mount Nikkō but throughout the Nikkō mountains. If these were calculated in terms of monetary value, how much would they be worth? It is truly incalculable, and who knows how much more valuable they are today compared to the gold, silver, and treasures donated at that time. Of course, for this forest to flourish as it has today, successive generations of descendants have continuously maintained and replanted without neglect, which was no easy task. I think such forest landscapes are rarely seen elsewhere. A stone monument relating to this forestry project fortunately still remains beside the Yamasuga Bridge at Mount Nikkō, and the full text of that monument is as follows: "From Yamasuga Bridge at Mount Nikkō in Shimotsuke Province to Ogura village in Tsuga District of the same province, Ōsawa village in Kawachi District of the same province, and Ōkuwa village in the same district of the same province, for over twenty years planted cedars along the roadside left and right and in the mountains for over ten ri, humbly donated to Tōshō-gū. 1st year of Keian, year of the earth rat, 17th day of 4th month, Junior Fifth Rank, Matsudaira Uemon-no-tayū Minamoto Masatsuna" Also, at the same time, similar stone monuments were erected on the three highways to Kanuma, Utsunomiya, and Ōshū, but since I have not personally verified whether these monuments still exist today, I cannot say for certain. However, their full text is as follows: **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Ōkōchi Clan and Its Ancestors) 257