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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 143

ページ: 143

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【欄外】    豊橋市史談  (大河内氏と其祖先)                   二百五十八 【本文】        下野国都賀郡小倉村同国河内郡大沢村同国同郡大桑村自此三所至日光二十余年間植杉於路傍左右並        山中十余里以奉寄進        東 照 宮         慶安元年戊子四月十七日      従五位下  松平右衛門太夫源正綱       トコロで其(その)慶安元年(けいあんがんねん)と云ふ年(とし)は恰(あたか)も正綱(まさつな)が逝去(せいきよ)の年(とし)で正綱(まさつな)は其年(そのとし)の六月二十二日 年(とし)七十三で卒去(そつきよ)せら       れたのである即(すなは)ち此碑(このひ)の建設(けんせつ)は其(その)逝去(せいきよ)前(ぜん)僅(わづか)に二ヶ月 許(ばかり)に当(あた)るのであるが其(その)当時(たうじ)は丁度(てうど)正綱(まさつな)の養子(やうし)信綱(のぶつな)       が三 代将軍(だいせうぐん)家光(いへみつ)に従(したがつ)て日光山(につこうざん)にあつたのである蓋(けだ)し建碑(けんひ)の日付(ひづけ)四月十七日は前(まへ)にも申述(まうしの)べた如(ごと)く家康(いへやす)        薨去(こうきよ)の忌日(きにち)であるから三 代将軍(だいせうぐん)は此日 東照廟(とうせうびやう)に参詣(さんけい)の為(ため)信綱(のぶつな)等(ら)を従(したが)へて日光山(につこうざん)にあつたのであるが総(すべ)       て此(この)建碑(けんひ)の事は信綱(のぶつな)が養父(やうふ)正綱(まさつな)の為に斡旋(あつせん)したものであると信(しん)せられるのである又(ま)た植林(しよくりん)の事でもそ       うである正綱(まさつな)が段々(だん〳〵)老年(ろうねん)となつてから信綱(のぶつな)は次第(しだい)に全盛(ぜんせい)の地位(ちゐ)にあつたので信綱(のぶつな)は養父(やうふ)の意志(いし)を継(つ)い       で大(おほい)に其(その)計画(けいくわく)の実行(じつこう)を助(たす)けた事と思(おも)ふ併(しか)し今日(こんにち)世人(せじん)が此植林を以て全(まつた)く信綱(のぶつな)の事業(じげふ)のように伝(つた)へて居       るものがあるが之は却(かへつ)て其(その)真相(しんそう)を誤(あやま)つて居(を)るものと云(い)ふべきである尚(な)ほ正綱(まさつな)に就(つい)て伝(つた)ふべき事は中々(なか〳〵)        多(おほ)く大坂役(おほさかえき)に従軍(じうぐん)して功績(こうせき)のあつた事などは既(すで)に諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の事であると思ふ 松平信綱  サテ正綱(まさつな)には利綱(としつな)、 隆綱(たかつな)(《割書:後に|正信》)、 正光(まさみつ)、 秀綱(ひでつな)(《割書:後に|正朝》)の四 男(なん)があつたが夫等(それら)がまだ生(うまれ)なかつた頃(ころ)に前(まへ)にも        申述(まうしの)べた如(ごと)く兄(あに)久綱(ひさつな)の長子(てうし)信綱(のぶつな)を以(もつ)て養子(やうし)としたのであるモツトモ之には事情(じぜう)があつたので信綱(のぶつな)と云       ふ人は御承知(ごせうち)の如く後(のち)には智恵伊豆(ちゑいづ)とまで云(い)はれた小供(こども)の時分(じぶん)から容易(ようい)ならず怜悧(れいり)であつたが此人(このひと)は慶(けい)        長(てう)元年(がんねん)十月 晦日(みそか)の生(うま)れである大河内家譜(おほかうちかふ)によると其(その)六 歳(さい)の時(とき)正綱(まさつな)の養子(やうし)となり八 歳(さい)の九月 初(はじ)めて将軍(せうぐん)        秀忠(ひでたゞ)に謁(ゑつ)し其十一月 伏見(ふしみ)に於(おい)て家康(いへやす)に謁(ゑつ)したが九 歳(さい)の七月十七日 家光(いへみつ)が生(うま)れたので其(その)二十五日(《割書:或廿|三日》)そ       れに奉仕(ほうし)することになつたと記(しる)してある併(しか)し或説(あるせつ)によると信綱(のぶつな)は小供心(こどもごゝろ)ながら是非共(ぜひとも)将軍(せうぐん)の御側(おそば)に仕(つか)へ 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       て出世(しゆつせ)をしたいと望(のぞ)むだが何分(なにぶん)にも大河内(おほかはち)の家(いへ)であつては急(きう)に其(その)望(のぞみ)が達(たつ)し難(がた)いので叔父(おぢ)の正綱(まさつな)は徳川(とくがは)       の連枝(れんし)たる松平(まつだいら)の家(いへ)を襲(つ)いで居(を)るので万事(ばんじ)に都合(つがう)がよい処(ところ)から具(つぶさ)に其(その)心情(しんぜう)を物語(ものがた)つたのであるソコで        正綱(まさつな)は遂(つひ)に其(その)志(こゝろざし)を憫(あはれ)むで巳(おの)れが養子(やうし)とし以(もつ)て将軍(せうぐん)並(ならび)に前将軍(ぜんせうぐん)に謁(えつ)せしめたのであると伝(つたへ)られて居る 信綱の伝記  而(しか)して此(この)信綱(のぶつな)の経歴(けいれき)に就(つい)ては諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の如くで申述(まうしの)べ尽(つく)せぬ程(ほど)の材料(ざいれう)があるのであるが幸(さいはひ)近来(きんらい)        大河内子爵家(おほかはちしゝやくけ)に於(おい)て当主(たうしゆ)の正敏君(まさとしぎみ)が其伝記の編纂(へんさん)を企(くわだ)てられて昨年(さくねん)信綱(のぶつな)卒去(そつきよ)の二百五十年に相当(そうとう)する       を機(き)として専門家(せんもんか)を聘(へい)されて目下(もつか)其(その)編纂中(へんさんちう)である従(したがつ)て此人の伝記(でんき)に就(つい)ては遠(とほ)からず完全(かんぜん)なるものが出(で)        来上(きあが)る事と信(しん)じ私(わたし)は満腔(まんくう)の喜(よろこび)を以(もつ)て迎(むか)へて居る次第(しだい)であるから詳伝(せうでん)は夫(それ)に譲(ゆづ)り今(いま)は極(きは)めて其(その)大要(たいえう)を申(まうし)        述(の)ぶるに止(とゞ)めたいと思(おも)ふが先(ま)づ其(その)要点丈(ようてんだけ)をザツト申述(まうしの)ぶると九 歳(さい)の時(とき)初(はじ)めて家光(いへみつ)に仕(つか)へ元和(げんわ)九年 家光(いへみつ)       が将軍(せうぐん)に任(にん)ぜられるに及(およ)むで御小姓組番頭(おこせうくみがしら)に任(にん)じ叙爵(じよしやく)して伊豆守(いづのかみ)となり二千 石(ごく)を領(れう)したが寛永(かんえい)九年十      一月十八日 老中格(ろうちうかく)となり十年五月五日 老中(ろうちう)に任(にん)じ三 万石(まんごく)に加増(かぞう)せられて武州忍(ぶしうおし)の城主(ぜうしゆ)となつたのであ 島 原 役 る十四年 例(れい)の九 州(しう)島原(しまばら)の乱(らん)が起(おこ)るに方(あた)つて追討(ついとう)の目代(さかんだい)として之に向(むか)つたが此話(このはなし)は特(とく)に有名(ゆうめい)なるもので       ある此時(このとき)戸田左門氏鉄(とださもんうじてつ)(《割書:戸田一|正の子》)も共(とも)に追討(ついとう)に向(むか)つたのであるが信綱(のぶつな)の率(ひき)ゐた兵(へい)は約(やく)千三百 人(にん)与力(よりき)同心(どうしん)二       百 余人(よにん)で勘定組頭(かんぜうくみかしら)能勢(のせ)四 郎右衛門(ろえもん)、 勘定(かんぜう)山中喜兵衛(やまなかきへえ)の両人(れうにん)は粮米(ろうまい)の事を司(つかさど)り其(その)出発(しゆつぱつ)は十二月の三日で       あつたが現在(げんざい)残(のこ)つて居(を)る処(ところ)の豊橋藩士(とよはしはんし)の家(うち)に就(つい)て云ふても其(その)祖先(そせん)は概(おほむ)ね之に従軍(じうぐん)したもので其時の分(ぶん)        捕品(どりひん)で刀釼(とうけん)、 銃(ぢう)、並びに油画(あぶらえ)など実(げ)に珍重(ちんぢう)すべきものが今(いま)も各家(かくか)に保存(ほぞん)されて居(を)るのである其(その)中(なか)には歴(れき)        史上(しぜう)から見(み)ても中々(なか〳〵)大切(たいせつ)のものがあるので嘗(かつ)て史料展覧会(しれうてんらんかい)に出品(しゆつぴん)せられたのも少(すく)なくないのであるが        追(おつ)て之等(これら)は一々(いち〳〵)写真(しやしん)とし又は模写(もしや)して別(べつ)に一 冊子(さつし)を編纂(へんさん)する考(かんがへ)である       サテ島原役(しまばらゑき)は翌年(よくねん)の二月に終(をわ)つて信綱(のぶつな)は遂(つひ)に賊城(ぞくぜう)を陥(おとしい)れ賊(ぞく)三万七千人を斬(き)り平(たいら)げたのである其四月 皈(き) 【欄外】    豊橋市史談  (大河内氏と其祖先)                   二百五十九

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(大河内氏とその祖先) 二百五十八 【本文】 「下野国都賀郡小倉村、同国河内郡大沢村、同国同郡大桑村、この三箇所から日光まで二十余年間、路傍左右並びに山中十余里に杉を植えて東照宮に奉寄進 慶安元年戊子四月十七日 従五位下 松平右衛門太夫源正綱」 ところでその慶安元年という年は、ちょうど正綱が逝去した年で、正綱はその年の六月二十二日、年七十三で亡くなられたのである。すなわちこの碑の建設は、その逝去前わずか二ヶ月ほどに当たるのであるが、その当時はちょうど正綱の養子信綱が三代将軍家光に従って日光山にいたのである。おそらく建碑の日付四月十七日は、前にも申し述べたように家康薨去の忌日であるから、三代将軍はこの日東照廟に参詣のため信綱らを従えて日光山にいたのであるが、すべてこの建碑の事は信綱が養父正綱のために斡旋したものであると信じられるのである。また植林のことでもそうである。正綱が段々老年となってから信綱は次第に全盛の地位にあったので、信綱は養父の意志を継いで大いにその計画の実行を助けたことと思う。しかし今日世人がこの植林を以って全く信綱の事業のように伝えているものがあるが、これは却ってその真相を誤っているものというべきである。なお正綱について伝うべき事は中々多く、大坂役に従軍して功績のあった事などは既に諸君も御承知の事であると思う。 **松平信綱** さて正綱には利綱、隆綱(後に正信)、正光、秀綱(後に正朝)の四男があったが、それらがまだ生まれなかった頃に、前にも申し述べたように兄久綱の長子信綱を以って養子としたのである。もっともこれには事情があったので、信綱という人は御承知のように後には智恵伊豆とまで言われた、子供の時分から容易ならず怜悧であったが、この人は慶長元年十月晦日の生まれである。大河内家譜によるとその六歳の時正綱の養子となり、八歳の九月初めて将軍秀忠に謁し、その十一月伏見において家康に謁したが、九歳の七月十七日家光が生まれたので、その二十五日(或いは二十三日)それに奉仕することになったと記してある。しかし或る説によると信綱は子供心ながら是非とも将軍の御側に仕え 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏はその該博なる知識と不尽の精力を傾け、豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際 【左頁】 【欄外】 この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 て出世をしたいと望んだが、何分にも大河内の家であっては急にその望みが達し難いので、叔父の正綱は徳川の連枝たる松平の家を襲いでいるので万事に都合がよい処から、具にその心情を物語ったのである。そこで正綱は遂にその志を憐れんで己が養子とし、以って将軍並びに前将軍に謁せしめたのであると伝えられている。 **信綱の伝記** そしてこの信綱の経歴については、諸君も御承知のように申し述べ尽くせぬほどの材料があるのであるが、幸い近来大河内子爵家において当主の正敏君がその伝記の編纂を企てられて、昨年信綱卒去の二百五十年に相当するを機として専門家を聘されて目下その編纂中である。従ってこの人の伝記については遠からず完全なるものが出来上がる事と信じ、私は満腔の喜びを以って迎えている次第であるから、詳伝はそれに譲り今は極めてその大要を申し述べるに止めたいと思うが、先ずその要点だけをざっと申し述べると、九歳の時初めて家光に仕え、元和九年家光が将軍に任ぜられるに及んで御小姓組番頭に任じ、叙爵して伊豆守となり二千石を領したが、寛永九年十一月十八日老中格となり、十年五月五日老中に任じ三万石に加増されて武州忍の城主となったのである。 **島原役** 十四年、例の九州島原の乱が起こるに方って追討の目代として之に向かったが、この話は特に有名なるものである。この時戸田左門氏鉄(戸田一正の子)も共に追討に向かったのであるが、信綱の率いた兵は約千三百人、与力同心二百余人で、勘定組頭能勢四郎右衛門、勘定山中喜兵衛の両人は粮米の事を司り、その出発は十二月の三日であったが、現在残っている処の豊橋藩士の家について言うても、その祖先は概ねこれに従軍したもので、その時の分捕品で刀剣、銃、並びに油画など実に珍重すべきものが今も各家に保存されているのである。その中には歴史上から見ても中々大切のものがあるので、嘗て史料展覧会に出品されたのも少なくないのであるが、追ってこれらは一々写真とし又は模写して別に一冊子を編纂する考えである。 さて島原役は翌年の二月に終わって、信綱は遂に賊城を陥れ賊三万七千人を斬り平げたのである。その四月帰 【欄外】 豊橋市史談(大河内氏とその祖先) 二百五十九

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Ōkōchi Clan and Its Ancestors) 258 **Main Text:** "From these three places - Ogura village in Tsuga District, Shimotsuke Province, Ōsawa village in Kawachi District of the same province, and Ōkuwa village in the same district of the same province - to Nikkō, for over twenty years planted cedars along the roadside left and right and in the mountains for over ten ri, humbly donated to Tōshō-gū. 1st year of Keian, year of the earth rat, 17th day of 4th month, Junior Fifth Rank, Matsudaira Uemon-no-tayū Minamoto Masatsuna" Now, that first year of Keian was exactly the year of Masatsuna's death, as Masatsuna passed away on the 22nd day of the 6th month of that year at the age of seventy-three. In other words, the erection of this monument was only about two months before his death, and at that time his adopted son Nobutsuna happened to be at Mount Nikkō accompanying the third shogun Iemitsu. Probably the date of the monument's erection, the 17th day of the 4th month, was the anniversary of Ieyasu's death as mentioned before, so the third shogun was at Mount Nikkō that day with Nobutsuna and others accompanying him to worship at the Tōshō mausoleum. It is believed that all matters concerning this monument's erection were arranged by Nobutsuna for his adoptive father Masatsuna. The same was true regarding the forestry project. As Masatsuna gradually aged, Nobutsuna was increasingly in a position of full prosperity, so Nobutsuna carried on his adoptive father's will and greatly assisted in implementing his plans. However, some people today transmit this forestry project as if it were entirely Nobutsuna's undertaking, but this rather misrepresents the true facts. There are still many more things to relate about Masatsuna, such as his military service in the Osaka campaigns and his achievements, which I think you are all already familiar with. **Matsudaira Nobutsuna** Now Masatsuna had four sons - Toshitsuna, Takatsuna (later called Masanobu), Masamitsu, and Hidetsuna (later called Masatomo) - but before they were born, as previously mentioned, he adopted his elder brother Hisatsuna's eldest son Nobutsuna. There were circumstances behind this, as Nobutsuna, who as you know was later called "Chie-Izu" (Wise Izu), was extraordinarily intelligent from childhood. He was born on the last day of the 10th month of Keichō 1. According to the Ōkōchi family genealogy, at age six he became Masatsuna's adopted son, at age eight in the 9th month he first had an audience with Shogun Hidetada, and in the 11th month of that year had an audience with Ieyasu at Fushimi. When Iemitsu was born on the 17th day of the 7th month of his ninth year, on the 25th (or perhaps 23rd) of that month he began serving him. However, according to one account, although Nobutsuna was still a child, he desperately wanted to serve close to the shogun and advance in the world, but since he belonged to the Ōkōchi house, it was difficult for this wish to be fulfilled quickly. Since his uncle Masatsuna had inherited the Matsudaira house, which was a collateral branch of the Tokugawa, this was convenient in all respects, so he fully related his feelings. Therefore Masatsuna finally took pity on his ambition and made him his adopted son, thus enabling him to have audiences with both the shogun and the former shogun. **Biography of Nobutsuna** Regarding this Nobutsuna's career, as you all know, there is an inexhaustible amount of material about him. Fortunately, recently at the Ōkōchi Viscount house, the current head, Lord Masatoshi, has undertaken the compilation of his biography, and taking the opportunity of last year's 250th anniversary of Nobutsuna's death, he has hired specialists who are currently compiling it. Therefore I believe a complete biography of this person will be completed before long, and I am welcoming this with the greatest joy. So I will leave the detailed biography to that work and now wish to limit myself to stating only the general outline. To briefly outline just the main points: at age nine he first served Iemitsu, and when Iemitsu was appointed shogun in Genna 9, he was appointed head of the page corps, received court rank as Izu-no-kami, and was granted a domain of 2,000 koku. On the 18th day of the 11th month of Kan'ei 9, he became senior councillor rank, and on the 5th day of the 5th month of the 10th year was appointed senior councillor with an increase to 30,000 koku, becoming lord of Oshi castle in Musashi Province. **Shimabara Campaign** In the 14th year, when the famous Kyushu Shimabara Rebellion broke out, he went there as deputy commander for the suppression, and this story is particularly famous. At this time Toda Samon Ujitetsu (son of Toda Kazumasa) also went to suppress the rebellion. The troops Nobutsuna led numbered about 1,300, with over 200 retainers and attendants. Accounting magistrate Nose Shirōzaemon and accountant Yamanaka Kihē handled provisions, and their departure was on the 3rd of December. Speaking of the current surviving Toyohashi retainer families, their ancestors generally participated in this campaign, and truly precious items captured at that time - swords, guns, and oil paintings - are still preserved in each family today. Among these are some quite important items from a historical perspective, many of which have been exhibited at historical document exhibitions. I plan to photograph or copy all of these and compile them into a separate volume. The Shimabara campaign ended in February of the following year, and Nobutsuna finally captured the rebel fortress and cut down 37,000 rebels. In April he returned **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Ōkōchi Clan and Its Ancestors) 259