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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 144

ページ: 144

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【欄外】    豊橋市史談  (大河内氏と其祖先)                    二百六十 【本文】        府(ぷ)し十五年には老中(ろうちう)の上座(ぜうざ)となり十六年 正月(せうがつ)六 万石(まんごく)に加増(かぞう)になつて武州(ぶしう)河越城(かはごゑぜう)に移封(いほう)せられたのであ       る二十年九月 侍従(じじう)に進(すゝ)むだが正保(せうほ)四年 更(さら)に一 万石(まんごく)を加増(かぞう)せられたのである而(しか)して慶安(けいあん)四年 家光(いへみつ)薨去(こうきよ)の        後(のち)は更(さら)に其(その)遺托(ゐたく)によつて将軍(せうぐん)家綱(いへつな)を補佐(ほさ)し益々(ます〳〵)天下(てんか)の重(おも)きをなしたのであるが寛文(かんぶん)二年三月十七日年        六十七を以(もつ)て卒去(そつきよ)したのである而(しか)して信綱(のぶつな)が在職中(ざいしよくちう)には例(れい)の由井正雪(ゆゐせうせつ)の事件(じけん)もあり玉川上水(たばがはぜうすゐ)の新設(しんせつ)や       ら江戸大火(えどたいくわ)の後始末(あとしまつ)などがあり特(とく)に徳川氏(とくがはし)が天下(てんか)を取(と)つてから初(はじ)めて其(その)基礎(きそ)の定(さだ)まる大切(たいせつ)の時期(じき)であ       つたから種々(しゆ〳〵)の出来事(できごと)も多(おほ)かつたが三 代将軍(だいせうぐん)の初(はじ)めにはまだ土井利勝(どゐとしかつ)が老中(ろうちう)の中(なか)に居(を)つて重(おも)きをなし        家光(いへみつ)薨去(こうきよ)の後(のち)四 代(だい)の家綱(いへつな)となつては彼(か)の保科正之(ほしなまさゆき)が補佐(ほさ)の任(にん)に当(あた)つた併(しか)し当時(たうじ)は此(この)信綱(のぶつな)が酒井正勝(さかゐまさかつ)、        阿部忠秋(あべたゝあき)等(ら)と共(とも)に多(おほ)くは事の衝(しよう)に当(あた)つたので其(その)中(なか)でも信綱(のぶつな)の明敏(めいびん)にして果断(くわだん)であつた事は世(よ)既(すで)に定評(ていへう)       があるのである併(しか)し世(よ)に有名(ゆうめい)なる殉死(じゆんし)の禁(きん)並(ならび)に諸侯(しよこう)から幕府(ばくふ)に出(いだ)してあつた証人(せうにん)を還付(かんぷ)した事及び京(けう)        都(と)の大仏(だいぶつ)を鎔(よう)して銭(ぜに)を鋳(い)た事などは孰(いづ)れも信綱(のぶつな)卒去(そつきよ)後(ご)に実行(じつこう)せられた事であるがそれが果(はた)して信綱(のぶつな)の        生前(せいぜん)に計劃(けいくわく)して置(お)いたものであるや否(いなや)其実(そのじつ)は疑問(ぎもん)となつて居(を)るのであるが一 般(ぱん)には之れをも皆(みな)信綱(のぶつな)の       なせる処(ところ)と伝(つた)へて居(を)るのである       信綱の事歴(じれき)並に其(その)性行(せいこう)等(とう)を述(の)べ尽(つく)さむには別(べつ)に一 冊子(さつし)となすも尚(な)ほ余(あま)る位(くらゐ)である事は前(まへ)にも申述(まうしの)べた       如くであるが茲(こゝ)に今(いま)一つ参考の為に一寸(ちよつと)御話(おはなし)して置(お)きたいのは大河内子爵家(おほかはちしゝやくけ)には信綱(のぶつな)が島原役(しまばらえき)へ着用(ちやくよう)       して出掛(でか)けた鎧(よろい)を初(はじ)め諸種(しよしゆ)の遺物(ゐぶつ)が沢山(たくさん)に保存(ほぞん)されてある事である又(ま)た同家(どうけ)の家扶(かふ)小畠延衛氏(こはたけのぶゑし)の祖先(そせん)        助右衛門(すけゑもん)と云(い)はれた人(ひと)は親(した)しく信綱に仕(つか)へたのであるが信綱が常(つね)に幕府(ばくふ)の殿中(でんちう)にあつて用事(ようじ)があると        其事を葉紙(はがみ)を記(しる)して渡(わた)したものが数(すう)十 葉(よう)之れ亦た同家(どうけ)に保存(ほぞん)されて居(を)る事である其中には実(じつ)に信綱の       性格(せいかく)を眼前(がんぜん)に見(み)るが如き心地(こゝち)のするものが少(すくな)くない一々 之(これ)を茲(こゝ)に御紹介(ごしようかい)する暇(いとま)もないから申上(まうしあげ)ぬが之(これ) 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千百二十号附録    (明治四十五年七月廿三日発行) 【本文】        等(ら)のものは孰(いづ)れも大切(たいせつ)なる史料(しれう)であつて信綱(のぶつな)研究(けんきう)の為(ため)には諸君(しよくん)にも是非(ぜひ)御(ご)一 覧(らん)を願(ねが)ひたいものである       と思(おも)ふ       サテ信綱(のぶつな)が養子(やうし)となつた後(のち)元和(げんわ)六年十二月に至(いた)つて正綱(まさつな)には実子(じつし)利綱(としつな)が生(うま)れたのである元来(がんらい)信綱(のぶつな)は初(はじ) 《割書:信綱別に一|家を立つ》  め名(な)を正永(まさなが)と云(い)つたのであるが此(こゝ)に至(いた)つて名(な)を信綱(のぶつな)と改(あらた)め自立(じりつ)の志(こゝろざし)を明(あきらか)にしたのであるソコで愈(いよ)        愈(いよ)慶安(けいあん)元年(がんねん)七月 正綱(まさつな)卒去(そつきよ)に当(あた)つて信綱(のぶつな)は自(みづか)ら請(こ)ふて正綱(まさつな)の遺領(ゐれう)を受(う)けず之(これ)を正綱(まさつな)の二 男(なん)隆綱(たかつな)及(およ)び四 男(なん) 《割書:大多喜の大|河内氏》  の季綱(すゑつな)に分与(ぶんよ)したのであるが(《割書:正綱の長男利綱及び三男|正光は此時既に逝去せり》) 此(この)隆綱(たかつな)が即(すなは)ち正綱(まさつな)の後(あと)を襲(つ)いだので其(その)子孫(しそん)は維新前(ゐしんぜん)        常陸(ひたち)大多喜(おほたき)の城主(じようしゆ)で維新後(ゐしんご)之(これ)も亦(ま)た大河内姓(おほかうちせい)に復(ふく)し今現(いまげん)に子爵(ししやく)であられるが実(じつ)は之(これ)が正敏君(まさとしくん)の御実家(ごじつか)       で此家(このいへ)の今(いま)の御主人(ごしゆじん)正倫君(せいりんくん)は即(すなは)ち正敏君(まさとしくん)の御実弟(ごじつてい)であるのである而(しか)して話(はなし)は又(ま)た初(はじ)めに戻(もど)つて信綱(のぶつな)は此(この)        時(とき)松平(まつだひら)の姓(せい)は隆綱(たかつな)に継(つ)がしむるのであるから巳(おの)れは大河内姓(おほかうちせい)に復(ふく)したいと云(い)ふ事(こと)を申出(もうしい)でたが将軍(せうぐん)の       特旨(とくし)によつて矢張(やはり)引続(ひきつゞ)いで松平氏(まつだひらし)を称(せう)することになつたのである此(かく)の訳(わけ)であるから今(いま)の大河内氏(おほかうちし)では此(この)        信綱(のぶつな)を以(もつ)て第(だい)一 世(せい)の祖(そ)となして居(を)るのであるが信綱(のぶつな)には輝綱(てるつな)、 吉綱(よしつな)、 信定(のぶさだ)、 信興(のぶおき)、 堅綱(かたつな)の五 男(なん)があつ       たのである而(しか)して輝綱(てるつな)が其後(そのあと)を継(つ)いだのであるが信興(のぶおき)も亦(ま)た累進(るいしん)して三万二千石に至(いた)つてた人(ひと)であるが 《割書:高崎の大河|内氏》   其(その)子孫(しそん)も亦(ま)た段々(だん〴〵)と加増(かぞう)を蒙(かうむ)つたので其家(そのいへ)が即(すなは)ち維新前(ゐしんぜん)上州高崎(ぜいしうたかさき)の城主(じようしゆ)であつて矢張(やはり)今(いま)は大河内姓(おほかうちせい)を        名乗(なの)つて子爵(ししやく)であられるのである 大河内輝綱 サテ信綱(のぶつな)の跡(あと)相続(さうぞく)をした長子(てうし)の輝綱(てるつな)と云ふ人は又(ま)た中々(なか〳〵)の人物(じんぶつ)であつた此人(このひと)は元和(げんわ)六年八月五日の生(うまれ) 輝綱の人物 で寛永(かんえい)十二年十二月廿八日 年(とし)十六 歳(さい)で従(じゆ)五 位下(ゐげ)甲斐守(かいのかみ)に叙任(ぢよにん)せられたのであるが其(その)翌々年(よく〳〵ねん)即(すなは)ち寛永(かんえい)十       四年の十二月には彼(か)の島原追討(しまばらついとう)の役(えき)に父(ちゝ)信綱(のぶつな)に随行(ずいかう)したのである然(しか)るに此人(このひと)は其(その)性格(せいかく)に於て父(ちゝ)信綱(のぶつな)と       は頗(すこぶ)る異(ことな)る処(ところ)があつたので其後(そのご)父(ちゝ)の如く表立(おもてだ)つた役目(やくめ)に就(つ)いて天下(てんか)の政治(せいじ)に参与(さんよ)すると云ふが如(ごと)きこと 【欄外】    豊橋市史談  (大河内氏と其祖先)                    二百六十一

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(大河内氏とその祖先) 二百六十 【本文】 府し、十五年には老中の上座となり、十六年正月に六万石に加増になって武州河越城に移封されたのである。二十年九月に侍従に進んだが、正保四年にさらに一万石を加増されたのである。そして慶安四年家光薨去の後は、さらにその遺託によって将軍家綱を補佐し、ますます天下の重きをなしたのであるが、寛文二年三月十七日、年六十七を以って卒去したのである。そして信綱が在職中には、例の由井正雪の事件もあり、玉川上水の新設やら江戸大火の後始末などがあり、特に徳川氏が天下を取ってから初めてその基礎の定まる大切の時期であったから、種々の出来事も多かったが、三代将軍の初めにはまだ土井利勝が老中の中にいて重きをなし、家光薨去の後四代の家綱となっては、あの保科正之が補佐の任に当たった。しかし当時はこの信綱が酒井正勝、阿部忠秋等と共に多くは事の衝に当たったので、その中でも信綱の明敏にして果断であった事は世に既に定評があるのである。しかし世に有名なる殉死の禁並びに諸侯から幕府に出してあった証人を還付した事及び京都の大仏を溶して銭を鋳た事などは、いずれも信綱卒去後に実行された事であるが、それが果たして信綱の生前に計画して置いたものであるや否や、その実は疑問となっているのであるが、一般にはこれをも皆信綱のなせる処と伝えているのである。 信綱の事歴並びにその性行等を述べ尽くさんには別に一冊子となすも尚余る位である事は前にも申し述べた如くであるが、ここに今一つ参考の為に一寸お話して置きたいのは、大河内子爵家には信綱が島原役へ着用して出掛けた鎧を初め諸種の遺物が沢山に保存されてある事である。また同家の家扶小畠延衛氏の祖先で助右衛門と云われた人は親しく信綱に仕えたのであるが、信綱が常に幕府の殿中にあって用事があると、その事を葉紙に記して渡したものが数十葉、これ亦た同家に保存されている事である。その中には実に信綱の性格を眼前に見るが如き心地のするものが少なくない。一々これをここに御紹介する暇もないから申し上げぬが、これ 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千百二十号附録(明治四十五年七月二十三日発行) 【本文】 等のものはいずれも大切なる史料であって、信綱研究の為には諸君にも是非御一覧を願いたいものであると思う。 さて信綱が養子となった後、元和六年十二月に至って正綱には実子利綱が生まれたのである。元来信綱は初め名を正永と云ったのであるが、ここに至って名を信綱と改め、自立の志を明らかにしたのである。そこでいよいよ慶安元年七月正綱卒去に当たって、信綱は自ら請うて正綱の遺領を受けず、これを正綱の二男隆綱及び四男の季綱に分与したのであるが(正綱の長男利綱及び三男正光はこの時既に逝去せり)、この隆綱が即ち正綱の後を襲いだので、その子孫は維新前常陸大多喜の城主で、維新後これも亦た大河内姓に復し、今現に子爵であられるが、実はこれが正敏君の御実家で、この家の今の御主人正倫君は即ち正敏君の御実弟であるのである。そして話は又た初めに戻って、信綱はこの時松平の姓は隆綱に継がしむるのであるから、己れは大河内姓に復したいという事を申し出たが、将軍の特旨によって矢張り引き続いて松平氏を称することになったのである。この訳であるから、今の大河内氏ではこの信綱を以って第一世の祖となしているのであるが、信綱には輝綱、吉綱、信定、信興、堅綱の五男があったのである。そして輝綱がその後を継いだのであるが、信興も亦た累進して三万二千石に至った人であるが、その子孫も亦た段々と加増を蒙ったので、その家が即ち維新前上州高崎の城主であって、矢張り今は大河内姓を名乗って子爵であられるのである。 **大河内輝綱** さて信綱の跡相続をした長子の輝綱という人は、また中々の人物であった。この人は元和六年八月五日の生まれで、寛永十二年十二月二十八日、年十六歳で従五位下甲斐守に叙任されたのであるが、その翌々年、即ち寛永十四年の十二月には、あの島原追討の役に父信綱に随行したのである。然るにこの人はその性格において父信綱とは頗る異なる処があったので、その後父の如く表立った役目に就いて天下の政治に参与するというが如きこと 【欄外】 豊橋市史談(大河内氏とその祖先) 二百六十一

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Ōkōchi Clan and Its Ancestors) 260 **Main Text:** to the capital, and in the 15th year became senior among the senior councillors, and in the 1st month of the 16th year was granted an increase to 60,000 koku and transferred to Kawagoe Castle in Musashi Province. In the 9th month of the 20th year he was promoted to chamberlain, but in Shōhō 4 he was granted an additional 10,000 koku. After Iemitsu's death in Keian 4, he further assisted Shogun Ietsuna according to his [Iemitsu's] dying wishes and increasingly bore the weight of governing the realm, but he died on the 17th day of the 3rd month of Kanbun 2 at the age of sixty-seven. During Nobutsuna's tenure in office, there was the famous incident of Yui Shōsetsu, the construction of the Tamagawa Aqueduct, dealing with the aftermath of the great Edo fires, and other events. This was particularly the crucial period when the Tokugawa's foundation was first being established after they took control of the realm, so there were many various incidents. At the beginning of the third shogun's reign, Doi Toshikatsu was still among the senior councillors wielding great influence, and after Iemitsu's death when the fourth shogun Ietsuna took power, that Hoshina Masayuki took on the role of advisor. However, at that time this Nobutsuna, together with Sakai Masakatsu, Abe Tadaaki and others, mostly handled the brunt of affairs, and among them Nobutsuna's intelligence and decisiveness had already gained established recognition in the world. However, the famous prohibition of junshi (following one's lord in death) and the return of hostages that the various daimyo had provided to the shogunate, as well as melting down the Great Buddha of Kyoto to mint coins, were all implemented after Nobutsuna's death, but whether these were actually planned by Nobutsuna during his lifetime remains questionable, though generally these too are all transmitted as Nobutsuna's achievements. To fully describe Nobutsuna's career and character would require more than a separate volume, as I mentioned before, but here I would like to briefly mention one more thing for reference: the Ōkōchi Viscount house preserves many relics, including the armor that Nobutsuna wore when he went to the Shimabara campaign. Also, an ancestor of the house steward Kohata Nobue, who was called Sukeemon, served Nobutsuna closely, and when Nobutsuna was constantly in the shogunate's palace and had business to attend to, he would write instructions on paper slips and hand them over - dozens of these are also preserved in the same house. Among these are quite a few that give one the feeling of seeing Nobutsuna's character right before one's eyes. I cannot introduce them all here for lack of time, but these **Left Page:** **Margin:** San'yō Shinpō No. 4120 Supplement (Published July 23, Meiji 45) **Main Text:** items are all important historical materials, and I think you should all definitely take a look at them for Nobutsuna research. Now, after Nobutsuna became an adopted son, in the 12th month of Genna 6, Masatsuna's biological son Toshitsuna was born. Originally Nobutsuna was first called Masanaga, but at this point he changed his name to Nobutsuna and made clear his intention for independence. **[Marginal note: Nobutsuna establishes a separate house]** So when Masatsuna died in the 7th month of Keian 1, Nobutsuna voluntarily requested not to receive Masatsuna's domain inheritance, and divided it between Masatsuna's second son Takatsuna and fourth son Suetsuna (Masatsuna's eldest son Toshitsuna and third son Masamitsu had already died at this time). **[Marginal note: The Ōkōchi clan of Ōtaki]** This Takatsuna succeeded Masatsuna, so his descendants were lords of Ōtaki in Hitachi Province before the Restoration, and after the Restoration they too returned to the Ōkōchi surname and are currently viscounts. Actually, this is Lord Masatoshi's birth family, and the current master of this house, Lord Seirin, is Lord Masatoshi's younger brother. Now returning to the beginning of the story, at this time Nobutsuna petitioned that since the Matsudaira surname would be inherited by Takatsuna, he himself wanted to return to the Ōkōchi surname, but by special decree of the shogun he continued to bear the Matsudaira name. For this reason, the present Ōkōchi clan considers this Nobutsuna as the first-generation ancestor. Nobutsuna had five sons: Terutsuna, Yoshitsuna, Nobusada, Nobuoki, and Katatsuna. Terutsuna succeeded him, but Nobuoki also advanced through the ranks to reach 32,000 koku. **[Marginal note: The Ōkōchi clan of Takasaki]** His descendants also gradually received increases, so that house was the lord of Takasaki in Kōzuke Province before the Restoration, and similarly now bears the Ōkōchi surname and holds the rank of viscount. **Ōkōchi Terutsuna** Now Terutsuna, the eldest son who succeeded Nobutsuna, was quite a remarkable person. He was born on the 5th day of the 8th month of Genna 6, and on the 28th day of the 12th month of Kan'ei 12, at age sixteen, he was appointed to Junior Fifth Rank and made Kai-no-kami. Two years later, in the 12th month of Kan'ei 14, he accompanied his father Nobutsuna in the Shimabara suppression campaign. However, this person had quite different characteristics from his father Nobutsuna, so afterwards he did not take on prominent official roles to participate in national politics like his father **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Ōkōchi Clan and Its Ancestors) 261