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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 145

ページ: 145

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【欄外】    豊橋市史談  (大河内氏と其祖先)                    二百六十二 【本文】       はなさなかつた従(したがつ)て余(あま)り汎(ひろ)く世(よ)に知(し)らるゝには至(いた)らなかつたが能(よ)く〳〵其(その)事歴(じれき)を調査(てうさ)して見(み)ると頗(すこぶ)る        剛毅(ごうき)の性質(せいしつ)で最(もつと)も勤勉(きんべん)の人であつた事が分(わか)る而(しか)して其(その)一 生(せい)を全(まつた)く軍法(ぐんほう)と兵器(へいき)の研究(けんきう)とに捧(さゝ)げたのであ       る其(その)材料(ざいれう)は今(いま)も沢山(たくさん)大河内家(おほかうちけ)に残(のこ)つて居(を)る事であるが之等(これら)の材料(ざいれう)は歴史上(れきしぜう)には勿論(もちろん)学術上(がくじゆつぜう)に取(と)つても        稗益(ひえき)する事が決(けつ)して少(すくな)くない特(とく)に輝綱(てるつな)は年少(ねんせう)の頃(ころ)前(まへ)にも申述(もうしの)べた如(ごと)く島原役(しまばらえき)に従(したがつ)て実戦(じつせん)を目撃(もくげき)して居(を)ら       るゝから其(その)研究(けんきう)が頗(すこぶ)る適切(てきせつ)である今(いま)一二の例(れい)を挙(あ)げて御話(おはなし)すれば大河内家(おほかうちけ)に残(のこ)つて居(を)るものゝ内(うち)に此(この)        輝綱(てるつな)が弾丸(だんがん)の力(ちから)を試(こゝろ)みた鎧(よろひ)がある即(すなは)ち鉄製(てつせい)の胴(どう)へ鉄砲(てつぽう)を打(う)つて其(その)丸(たま)がドレ位(くらゐ)鉄胴(てつどう)へコタへるものか実(じつ)        験(けん)をしたものである島原(しまばら)の役(えき)では無論(むろん)盛(さかん)に鉄砲(てつぽう)は行(おこな)はれたものであるが其内(そのうち)でも敵(てき)の方(はう)は外国(ぐわいこく)との交(かう)        通(つう)に就(つい)て便利(べんり)の位置(ゐち)にあつたものであるから却(かへつ)て味方(みかた)のよりは鋭利(えいり)のものがあつた事と思(おも)ふ輝綱(てるつな)は此(こ)        処(こ)らの経験(けいけん)から鉄砲(てつぽう)の事に就(つい)ては余程(よほど)の研究(けんきう)を重(かさ)ねたものであると思(おも)ふが大河内家(おほかうちけ)御当主(ごたうしゆ)の正敏君(まさとしくん)は        諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の如(ごと)く東京帝国大学(とうけうていこくだいがく)出身(しゆつしん)の俊才(しゆんさい)で工学士(こうがくし)であられるが矢張(やはり)造兵専門(ざうへいせんもん)で目下(もくか)大学教授(だいがくけふじゆ)であ       られる此頃(このころ)も私(わたくし)は正敏君(まさとしくん)を大学(だいがく)の教室(けふしつ)に御訪問(ごほうもん)申上(もうしあ)げて色々(いろ〳〵)其(その)実験(じつけん)の様子(やうす)を拝見(はいけん)したのであるが矢張(やはり)        松(まつ)の木(き)の一 寸板(すんいた)で作(つく)つた箱(はこ)の中(なか)へ砂(すな)を一ぱいにツメて之(これ)へ鉄砲(てつぽう)を打込(うちこ)むでは試験(しけん)をして居(を)られる古今(ここん)       の時代(じだい)こそ異(こと)なれ如何(いか)にも御祖先(ごそせん)の英姿(えいし)を拝(はい)するようで偶然(ぐうぜん)とは云(い)ひながら私(わたくし)は一 種(しゆ)ナツカしき感(かん)じ       がしたのである之(これ)も何(な)にかの因縁(ゐんねん)とも言(い)ふべきであろうがサテ輝政(てるつな)は又(ま)た弾薬(だんやく)に就(つい)ても種々(しゆ〴〵)の研究(けんきう)を       せられたもので弾薬(だんやく)を計(はか)る竹筒(たけつゝ)なども手(て)づから作(つく)られたのが今(いま)も残(のこ)つて居(を)る又(ま)た軍法(ぐんぽう)を制定(せいてい)して之(これ)を        自書(じしよ)せられたものがあるが面白(おもしろ)いのは軍歌(ぐんか)の制定(せいてい)である之(これ)は軍法(ぐんぽう)を愉快(ゆくわい)に歌(うた)いながら人(ひと)の記臆(きをく)に留(とゞ)ま       るようにしたものであるまだ感心(かんしん)なのは此人(このひと)が陣中(じんちう)に用(もち)ゆべき薬法(やくはふ)の研究(けんきう)をした事で当時(たうじ)は今(いま)の様(やう)に        軍医(ぐんい)と云ふものはなくタマに医者(ゐしや)を召連(めしつ)れた処(ところ)が漢法(かんはふ)の藪先生(やぶせんせい)で到底(とうてい)軍隊(ぐんたい)の間(ま)には合(あ)はなかつたに相(さう) 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】        違(ゐ)ないソコで輝綱(てるつな)は深(ふか)く之(これ)は感(かん)じたものと見(み)へて陣中薬(ぢんちうくすり)の研究(けんきう)をしたが其中(そのなか)に「サフラン」を用(もち)ゆる処(しよ)        法(はふ)があるのみならず「サフラン」の実物(じつぶつ)を大切(たいせつ)に紙(かみ)に包(つゝ)むで保存(ほぞん)してあるが今(いま)も尚(な)ほ筺底(けうてい)に残(のこ)つて居(を)る        今日(こんにち)から考(かんが)へれば「サフラン」はそれ程(ほど)貴(たつと)いものでもなかろうがまだ三十年 位(ぐらゐ)以前(いぜん)ですら舶来品(はくらいひん)として        中々(なか〳〵)貴重(きちよう)されたものである然(しか)るに今(いま)を去(さ)ること二百七八十年 以前(いぜん)に此(この)舶来薬品(はくらいやくひん)に注目(ちうもく)したことは島原征伐(しまばらせいばつ)       の賜(たまもの)でもあつたであろうが最(もつと)も注意(ちうい)すべき事柄(ことがら)であると思(おも)ふ其他(そのた)輝綱(てるつな)自身(じしん)に劃(ゑが)かれた日本(にほん)の地図(ちづ)が       あるが其(その)角度(かくど)の取(と)り方(かた)は勿論(もちろん)製図法(せいづはふ)が全(まつた)く泰西(たいせい)の方法(はふ〳〵)であるのは深(ふか)く味(あじは)ふべき事で其外(そのほか)にも航海術(かうかいじゆつ)の        研究(けんきう)されたものがあるし騎馬(きば)の法(はふ)や水戦砲術(すいせんほうじゆつ)などの研究(けんきう)されたものがあるモツトモ之等(これら)は今日(こんにち)から見(み)       たならば幼稚(ようち)なる事も多(おほ)いであろうが兎(と)に角(かく)宛然(えんぜん)たる西洋学術(せいようがくじゆつ)の研究者(けんきうしや)で特(とく)に和蘭語(おらんだご)などを一つ二つ        書(か)き留(とゞ)めて注釈(ちうしやく)をした自筆(じしつ)の記録(きろく)も残(のこ)つて居(を)るまだ面白(おもしろ)いのは其(その)記録(きろく)の中(なか)に和蘭(おらんだ)で船(ふね)を東西(とうざい)に出(だ)した        処(ところ)が此(この)両船(れうせん)は三 年目(ねんめ)に途中(とちう)で行逢(ゆきあ)つた即(すなは)ち世界(せかい)を一 周(しう)するには六ヶ年を要(えう)するものであると云ふ事が 《割書:泰西学芸の|先覚者》   書(か)き付(つ)けてあることである二百七十 年前(ねんぜん)に於(おい)て既(すで)に此等(これら)に着眼(ちやくがん)して居(お)つた輝綱(てるつな)は実(じつ)に我国(わがくに)に於(お)ける泰西(たいせい)        学芸(がくげい)の先覚者(せんかくしや)として私(わたくし)は我国(わがくに)の文明史上(ぶんめいしぜう)に大書(たいしよ)するも憚(はゞか)る処(ところ)のない人(ひと)であると思(おも)ふ       サテ輝綱(てるつな)が父(ちゝ)信綱(のぶつな)の後(あと)を受(う)けて川越城主(かはごへじようしゆ)となつたのは寛文(かんぶん)二年四月十八日であるが家督後(かとくご)十 年(ねん)を経(へ)て        寛文(かんぶん)十一年十二月十二日 年(とし)五十二で卒去(そつきよ)されたのである智光院(ちくわうゐん)と謚(おくりな)し父祖(ふそ)と同(おな)じく平林寺(へいりんじ)に葬(ほうむ)つたの       である 大河内信輝  輝綱(てるつな)には多数(たすう)の子(こ)があつたが四 男(なん)の信輝(のぶてる)と六 男(なん)の輝貞(てるさだ)とを除(のぞ)くの外(ほか)は女子(ぢよし)又(また)は早世(さうせい)であつた即(すなは)ち信輝(のぶてる)       は寛文(かんぶん)十二年二月九日 父(ちゝ)の遺領(ゐれう)を相続(さうぞく)し輝貞(てるさだ)は後(のち)に叔父(おぢ)信興(のぶおき)の養子(やうし)となつたのである而(しか)して信輝(のぶてる)の幼(よう) 大河内輝貞  名(めい)は亀千代(かめちよ)と云(い)つて後(のち)に晴綱(はれつな)と称(せう)し更(さら)に信輝(のぶてる)と改名(かいめい)したのであるが万治(まんぢ)三年四月八日の生(うまれ)である寛文(かんぶん) 【欄外】    豊橋市史談  (大河内氏と其祖先)                    二百六十三

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(大河内氏とその祖先) 二百六十二 【本文】 はしなかった。従って余り広く世に知られるには至らなかったが、よくよくその事歴を調査してみると、頗る剛毅の性質で最も勤勉な人であったことが分かる。そしてその一生を全く軍法と兵器の研究とに捧げたのである。その材料は今も沢山大河内家に残っていることであるが、これらの材料は歴史上には勿論、学術上にとっても稗益することが決して少なくない。特に輝綱は年少の頃、前にも申し述べた如く島原の役に従って実戦を目撃しているから、その研究が頗る適切である。今一二の例を挙げてお話すれば、大河内家に残っているもののうちに、この輝綱が弾丸の力を試みた鎧がある。即ち鉄製の胴へ鉄砲を撃ってその弾がどれ位鉄胴へ食い込むものか実験をしたものである。島原の役では無論盛んに鉄砲は用いられたものであるが、そのうちでも敵の方は外国との交通について便利な位置にあったものであるから、かえって味方のよりは鋭利なものがあったことと思う。輝綱はこの辺りの経験から鉄砲のことについては余程の研究を重ねたものであると思うが、大河内家御当主の正敏君は、諸君も御承知の如く東京帝国大学出身の俊才で工学士であられるが、矢張り造兵専門で目下大学教授であられる。この頃も私は正敏君を大学の教室に御訪問申し上げて色々その実験の様子を拝見したのであるが、矢張り松の木の一寸板で作った箱の中へ砂を一杯に詰めて、これへ鉄砲を撃ち込んでは試験をしておられる。古今の時代こそ異なれ、いかにも御祖先の英姿を拝するようで、偶然とは言いながら私は一種懐かしき感じがしたのである。これも何かの因縁とも言うべきであろうが、さて輝綱は又た弾薬についても種々の研究をされたもので、弾薬を計る竹筒なども手づから作られたのが今も残っている。また軍法を制定してこれを自書されたものがあるが、面白いのは軍歌の制定である。これは軍法を愉快に歌いながら人の記憶に留まるようにしたものである。まだ感心なのは、この人が陣中に用いるべき薬法の研究をした事で、当時は今の様に軍医というものはなく、偶に医者を召し連れた所が漢方の藪先生で、到底軍隊の間には合わなかったに相 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏はその該博なる知識と不尽の精力を傾け、豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際 【左頁】 【欄外】 この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し、参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 違いない。そこで輝綱は深くこれを感じたものと見えて、陣中薬の研究をしたが、その中に「サフラン」を用いる処方があるのみならず、「サフラン」の実物を大切に紙に包んで保存してあるが、今も尚お筐底に残っている。今日から考えれば「サフラン」はそれほど貴いものでもなかろうが、まだ三十年位以前ですら舶来品として中々貴重とされたものである。然るに今を去ること二百七八十年以前にこの舶来薬品に注目したことは、島原征伐の賜物でもあったであろうが、最も注意すべき事柄であると思う。その他輝綱自身に描かれた日本の地図があるが、その角度の取り方は勿論、製図法が全く泰西の方法であるのは深く味わうべき事で、その外にも航海術の研究されたものがあるし、騎馬の法や水戦砲術などの研究されたものがある。もっともこれ等は今日から見たならば幼稚なる事も多いであろうが、とにかく宛然たる西洋学術の研究者で、特にオランダ語などを一つ二つ書き留めて注釈をした自筆の記録も残っている。まだ面白いのは、その記録の中にオランダで船を東西に出した所が、この両船は三年目に途中で行き逢った。即ち世界を一周するには六ヶ年を要するものであるという事が書き付けてあることである。【割書:泰西学芸の先覚者】二百七十年前において既にこれ等に着眼していた輝綱は、実に我国における泰西学芸の先覚者として、私は我国の文明史上に大書するも憚る所のない人であると思う。 さて輝綱が父信綱の後を受けて川越城主となったのは寛文二年四月十八日であるが、家督後十年を経て寛文十一年十二月十二日、年五十二で卒去されたのである。智光院と諡し、父祖と同じく平林寺に葬ったのである。 **大河内信輝** 輝綱には多数の子があったが、四男の信輝と六男の輝貞とを除くの外は、女子又は早世であった。即ち信輝は寛文十二年二月九日、父の遺領を相続し、輝貞は後に叔父信興の養子となったのである。そして信輝の幼 **大河内輝貞** 名は亀千代と云って、後に晴綱と称し、更に信輝と改名したのであるが、万治三年四月八日の生まれである。寛文 【欄外】 豊橋市史談(大河内氏とその祖先) 二百六十三

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Ōkōchi Clan and Its Ancestors) 262 **Main Text:** did not undertake such activities. Therefore, he never became widely known to the world, but when one thoroughly investigates his career, it becomes clear that he was a person of quite resolute character and the utmost diligence. He devoted his entire life to the study of military law and weaponry. The materials from this research remain in great quantity at the Ōkōchi house even today, and these materials are certainly of no small benefit both historically and academically. Particularly since Terutsuna, in his youth, accompanied the Shimabara campaign as I mentioned before and witnessed actual combat, his research was quite appropriate. To give one or two examples of what remains at the Ōkōchi house: there is armor that this Terutsuna used to test the power of bullets. That is, he experimented by shooting firearms at an iron breastplate to see how deeply the bullets would penetrate the iron armor. At the Shimabara campaign, firearms were of course used extensively, but among them, the enemy side, being in an advantageous position for foreign trade, probably had sharper weapons than our side. From these experiences, I think Terutsuna conducted considerable research on firearms. The current head of the Ōkōchi house, Lord Masatoshi, as you all know, is a brilliant graduate of Tokyo Imperial University and holds a degree in engineering, specializing in ordnance and currently serving as a university professor. Recently, I visited Lord Masatoshi in his university classroom and observed various aspects of his experiments. He was testing by packing sand into boxes made of one-inch pine boards and firing guns into them. Though the times are different from ancient to modern, it truly seemed like witnessing the heroic figure of his ancestor, and though it was by chance, I felt a kind of nostalgic sensation. This too could be called some kind of karmic connection. Now, Terutsuna also conducted various research on ammunition, and bamboo tubes he made by hand for measuring ammunition still remain today. He also established military laws and wrote them in his own hand, but what's interesting is his establishment of military songs. These were designed so that people could remember military laws by singing them pleasantly. Even more admirable is that this person researched medical treatments to be used in military camps. At that time, unlike today, there were no military doctors, and when doctors were occasionally brought along, they were quack Chinese medicine practitioners who were completely unsuitable for military forces. **Margin:** Toyohashi Mayor Ōguchi Kiroku has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling the history of Toyohashi City for over a year, and now as the manuscript is nearly complete... **Left Page:** **Margin:** This Toyohashi City Historical Discourse is published once weekly (on Tuesdays) and presented to readers of the San'yō Shinpō **Main Text:** There's no doubt about this. So Terutsuna seems to have deeply felt this problem and researched military camp medicines. Among these, there are not only prescriptions using "saffron," but the actual saffron is carefully wrapped in paper and preserved, still remaining in the bottom of boxes today. From today's perspective, saffron may not seem so precious, but even just about thirty years ago it was quite valued as an imported product. However, paying attention to this imported medicine 270-280 years ago was probably thanks to the Shimabara expedition, but I think it's a matter worthy of the greatest attention. In addition, there is a map of Japan drawn by Terutsuna himself, and not only the way angles are measured but the cartographic method is entirely Western, which is deeply significant. Besides this, there are studies of navigation, cavalry methods, and naval gunnery. Of course, these might seem primitive from today's perspective, but in any case he was truly a researcher of Western learning, and there remain handwritten records where he noted down Dutch words and added annotations. Even more interesting is that in those records, it's written that when the Dutch sent ships east and west, these two ships met each other after three years en route - that is, it takes six years to circumnavigate the world. **[Marginal note: Pioneer of Western learning and arts]** Terutsuna, who was already paying attention to these matters 270 years ago, was truly a pioneer of Western learning and arts in our country, and I think he is a person who deserves to be written in large letters in our nation's history of civilization without any hesitation. Now, Terutsuna succeeded his father Nobutsuna as lord of Kawagoe Castle on the 18th day of the 4th month of Kanbun 2, but ten years after inheriting the family headship, he died on the 12th day of the 12th month of Kanbun 11 at the age of fifty-two. He was given the posthumous name Chikōin and buried at Heiruji Temple like his father and grandfather. **Ōkōchi Nobuteru** Terutsuna had many children, but except for his fourth son Nobuteru and sixth son Terusada, the others were either daughters or died young. Nobuteru inherited his father's domain on the 9th day of the 2nd month of Kanbun 12, and Terusada later became the adopted son of his uncle Nobuoki. Nobuteru's childhood **Ōkōchi Terusada** name was Kamechiyo, later called Haretsuna, and then changed again to Nobuteru. He was born on the 8th day of the 4th month of Manji 3. Kanbun **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Ōkōchi Clan and Its Ancestors) 263