← 前のページ
ページ 147 / 382
次のページ →
翻刻
【欄外】
豊橋市史談 (松平信祝と其時代) 二百六十六
【本文】
十八日ノ夕方 龍 せ ん 院
松 平 伊 豆 守 殿
御 返 事
右(みぎ)の内(うち)亀千代(かめちよ)とあるは即(すなは)ち幼年時代(ようねんじだい)の信祝(のぶとき)が事(こと)右京(うけう)とあるのは右京太夫輝貞(うけうだいふてるさだ)(《割書:高時の大|河内氏》)を指(さ)したもので
あるのは勿論(もちろん)であるが出羽(でば)とあるのは柳澤出羽守保明(やなぎさはでばのかみやすあき)の事(こと)であると信(しん)ずる而(しか)も其家(そのいへ)から到来(とうらい)した菓子(くわし)
とうききの粕漬(かすづけ)とを「出羽(でば)よりもらひ申候(まうしそろ)まゝ参(まい)らせ候(そろ)」として江戸(えど)から古河(こが)まで送(おく)つたものと見(み)へ
る其(その)心情(しんぜう)は実(じつ)に掬(きく)すべきものがあつて母子(おやこ)の情愛(ぜうあい)何(なん)とも言(い)へぬ味(あぢ)があると思(おも)ふ
サテ信輝(のぶてる)の後(のち)は其子(そのこ)の信祝(のぶとき)が襲(つ)いだのであるが此(この)人(ひと)が即(すなは)ち初(はじ)めて此(この)吉田(よしだ)に移封(いふう)になつて来(き)た人(ひと)である
のでイヨ〳〵後章(ごせう)からは以前(いぜん)に継続(けいぞく)して此(この)信祝(のぶとき)時代(じだい)に於(お)ける吉田(よしだ)に就(つい)て申述(まうしの)ぶる順序(じゆんぢよ)に致(いた)したいと思(おも)
ふのである
●松平信祝(まつだひらのぶとき)と其(その)時代(じだい)
松平信祝 前章(ぜんしよう)に申述(まうしの)べた如(ごと)く松平信祝(まつだひらのぶとき)は信輝(のぶてる)の長男(ちやうなん)で母(はゝ)は井上中務少輔正任(ゐのうへなかつかさせうゆうまさとう)の女(むすめ)である天和(てんわ)三 年(ねん)十一 月(ぐわつ)六日 武(ぶ)
州(しう)に生(うま)れたが初名(ようめい)は亀千代(かめちよ)で元禄(げんろく)六 年(ねん)八 月(ぐわつ)九日十一 歳(さい)の時(とき)初(はじ)めて名(な)を信高(のぶたか)と命(めい)じたのである其(その)時(とき)林大(はやしだい)
学頭(がくのかみ)が名(な)を選(えら)むだ勘書(かんしよ)が今(いま)も残(のこ)つて居(を)るが左(さ)の如(ごと)くである
御 名 乗
信 高 艘ノ字ニ反ル
元禄六年癸酉八月佳辰 大学頭林信篤勘
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
松 平 亀 千 代 殿
ソコで元禄(げんろく)十 年(ねん)十二 月(ぐわつ)十八日 従(じゆ)五 位下(ゐげ)甲斐守(かひのかみ)に叙任(じよにん)したが宝永(ほうえい)六 年(ねん)六 月(’ぐわつ)十八日 父(ちゝ)信輝(のぶてる)が隠居(ゐんきよ)聴許(てうきよ)と相(あい)
成(な)つたので信祝(のぶとき)は即(すなは)ち其後(そのあと)を襲(つ)いで古河城(こがぜう)七 万石(まんごく)を賜(たまは)つたのであるモツトモ父(ちゝ)信輝(のぶてる)といふ云(い)ふ人(ひと)は元来(がんらい)虚(きよ)
弱(じやく)な質(ひつ)であつたものと見(み)へて之迄(これまで)も信祝(のぶとき)は数々(しば〴〵)父(ちゝ)病気(びやうき)の故(ゆへ)を以(もつ)て其(その)代理(だいり)として公儀(こうぎ)の用向(ようむき)を勤(つと)めて居(を)
つたものであるが今度(このたび)イヨ〳〵家督相続(かとくそうぞく)の事(こと)と相成(あいな)つて信祝(のぶとき)は其(その)月(つき)の廿一日 更(さら)に伊豆守(いづのかみ)と改(あらた)めたので
元禄時代 あるサテ其頃(そのころ)に於(お)ける徳川(とくがは)の時勢(じせい)と云(い)ふものは如何(いかゞ)であつたであろうか此処(こゝ)には少(すこ)しく其事(そのこと)に就(つい)て
申述(まうしの)べなければならぬ順序(じゆんじよ)と相成(あひな)つたのであるが御承知(ごせうち)の如(ごと)く五 代将軍(だいせうぐん)綱吉(つなよし)と云(い)ふ人(ひと)は天性(てんせい)の
学問好(がくもんづき)でソコには勿論(もちろん)時代(じだい)の要求(えうきう)と云(い)ふものもあつたではあるが先(ま)づ入(い)つて将軍(せうぐん)と相成(あひな)つた初(はじ)めは着(ちやく)
着(〳〵)諸政(しよせい)を革新(かくしん)し大(おほい)に文学(ぶんがく)の隆盛(りうせい)を図(はか)つたものである之迄(これまで)数々(しば〳〵)申述(まうしの)べた如(ごと)く徳川時代(とくがはじだい)に於(お)ける歴史(れきし)の
編纂事業(へんさんじげふ)は勿論(もちろん)新暦(しんれき)の領布(れうふ)などを行(おこな)つたが彼(か)の林信篤(はやしのぶあつ)(鳳岡)の如(ごと)きは最(もつと)も其(その)信任(しんにん)を得(え)て今迄(いまゝで)儒服(じゆふく)て法
体てあつた此(この)儒官(じゆくわん)は遂(つひ)に蓄髪(ちくはつ)して従(じゆ)五 位下(ゐげ)大学頭(だいがくのかみ)となり三 河記(かはき)の校訂(かうてい)や武徳大成記(ぶとくたいせいき)の編纂(へんさん)なども皆(みな)此(この)
人(ひと)の手(て)になつたのである其他(そのた)綱吉(つなよし)は又(ま)た大成殿(だいせいでん)を建(た)てゝ儒学(じゆがく)を勃興(ぼつこう)せしめ更(さら)に国学(こくご)をも講(こう)ぜしめたの
で彼(か)の北村季明(きたむらすへあき)、契仲、 阿閣梨(あじゃり)などの出(で)たのも此時(このとき)であるが又(ま)た民間(みんかん)の文学者(ぶんがくしや)としては近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)
井原西鶴(ゐばらせいかく)、 松尾芭蕉(まつをばせう)などの徒(やから)も輩出(はいしゆつ)したと云ふ訳(わけ)で文運(ぶんうん)の隆盛(りうせい)と相成(あひな)つた事(こと)は諸君(しよくん)も十 分(ぶん)御承知(ごせうち)の事(こと)
であると思(おも)ふそれのみならず綱吉(つなよし)が京都(けうと)に対(たい)する体度(たいど)は頗(すこぶ)る恭順(けうじゆん)なるものがあつて大嘗会(おほなめゑ)の再興(さいこう)やら
山陵(さんりよう)の修繕(しうぜん)など奉公(ほうこう)の至誠(しせい)を輸(いた)せる事(こと)も少(すくな)くない此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)であつたから公武(こうぶ)の親和(しんわ)は頗(すこぶ)る円満(えんまん)で天(てん)
下(か)は実(じつ)に太平(たいへい)であつたがサテ其(その)裏面(りめん)から観察(くわんさつ)すると中々(なか〳〵)表面(へうめん)で見(み)たようにソウうまくは参(まい)らぬので一
方(ぽう)には又(ま)た実(じつ)に弊政(へいせい)が多(おほ)かつたのである先(ま)づ風俗(ふうそく)は華(くわ)奢に流(なが)れ淫靡(ゐんぴ)に陥(おちい)り所謂(いはゆる)元禄時代(げんろくじだい)の本色(ほんしき)を発揮(はつき)
【欄外】
豊橋市史談 (松平信祝と其時代) 二百六十七
現代語訳
【欄外】
豊橋市史談(松平信祝とその時代) 二百六十六
【本文】
十八日の夕方 龍泉院
松平伊豆守殿 御返事
右の内、亀千代とあるのは即ち幼年時代の信祝のこと、右京とあるのは右京大夫輝貞(高時の大河内氏)を指したものであるのは勿論であるが、出羽とあるのは柳沢出羽守保明のことであると信ずる。しかもその家から到来した菓子とうききの粕漬けとを「出羽よりもらい申し候まま参らせ候」として江戸から古河まで送ったものと見える。その心情は実に汲むべきものがあって、母子の情愛なんとも言えぬ味があると思う。
さて信輝の後はその子の信祝が継いだのであるが、この人が即ち初めてこの吉田に移封になって来た人であるので、いよいよ後章からは以前に継続してこの信祝時代における吉田について申し述べる順序にいたしたいと思うのである。
**● 松平信祝とその時代**
**松平信祝** 前章に申し述べたごとく、松平信祝は信輝の長男で、母は井上中務少輔正任の娘である。天和三年十一月六日武蔵に生まれたが、初名は亀千代で、元禄六年八月九日十一歳の時、初めて名を信高と命じたのである。その時林大学頭が名を選んだ勘書が今も残っているが、左のごとくである。
御名乗
信高 艘ノ字ニ反ル
元禄六年癸酉八月佳辰 大学頭林信篤勘
【左頁】
【欄外】
この豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
松平亀千代殿
そこで元禄十年十二月十八日、従五位下甲斐守に叙任したが、宝永六年六月十八日、父信輝が隠居聴許となったので、信祝は即ちその後を継いで古河城七万石を賜ったのである。もっとも父信輝という人は元来虚弱な質であったものと見えて、これまでも信祝はしばしば父病気の故をもってその代理として公儀の用向きを勤めていたものであるが、今度いよいよ家督相続のこととなって、信祝はその月の二十一日、さらに伊豆守と改めたのである。
**元禄時代** さてその頃における徳川の時勢というものはいかがであっただろうか。ここには少しくそのことについて申し述べなければならぬ順序となったのであるが、御承知のごとく五代将軍綱吉という人は天性の学問好きで、そこには勿論時代の要求というものもあったではあるが、まず入って将軍となった初めは着々諸政を革新し、大いに文学の隆盛を図ったものである。これまでしばしば申し述べたごとく、徳川時代における歴史の編纂事業は勿論、新暦の頒布などを行ったが、かの林信篤(鳳岡)のごときは最もその信任を得て、今まで儒服て法体であったこの儒官は遂に蓄髪して従五位下大学頭となり、三河記の校訂や武徳大成記の編纂なども皆この人の手になったのである。その他綱吉はまた大成殿を建てて儒学を勃興せしめ、さらに国学をも講ぜしめたので、かの北村季明、契冲、阿闍梨などの出たのもこの時であるが、また民間の文学者としては近松門左衛門、井原西鶴、松尾芭蕉などの輩も輩出したという訳で、文運の隆盛となったことは諸君も十分御承知のことであると思う。それのみならず綱吉が京都に対する態度は頗る恭順なるものがあって、大嘗会の再興やら山陵の修繕など奉公の至誠を尽くせることも少なくない。かくのごとき訳であったから公武の親和は頗る円満で、天下は実に太平であったが、さてその裏面から観察すると中々表面で見たようにそううまくは参らぬので、一方にはまた実に弊政が多かったのである。まず風俗は華奢に流れ淫靡に陥り、所謂元禄時代の本色を発揮
【欄外】
豊橋市史談(松平信祝とその時代) 二百六十七
英語訳
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Nobutoki and His Era) 266
**Main Text:**
Evening of the 18th day Ryūsenin
To Lord Matsudaira Izunokami In Reply
In the above letter, "Kamechiyo" refers to Nobutoki in his childhood years, and "Ukyō" refers to Ukyōdayū Terusada (of the Ōkōchi clan from Takaki period), which is of course clear, but "Dewa" I believe refers to Yanagisawa Dewanokami Yasuaki. Moreover, the sweets and sake-lees pickles received from that household were sent from Edo to Koga with the note "since I received these from Lord Dewa, I am sending them to you." The sentiment behind this is truly admirable, and the affection between mother and child has an indescribable warmth to it.
Now, after Nobuteru, his son Nobutoki succeeded him, and this person was the very first to be transferred to this Yoshida domain, so from the next chapter onward, I would like to continue from before and describe Yoshida during the Nobutoki era in proper sequence.
**● Matsudaira Nobutoki and His Era**
**Matsudaira Nobutoki** As mentioned in the previous chapter, Matsudaira Nobutoki was Nobuteru's eldest son, and his mother was the daughter of Inoue Nakatsukasa-shōyū Masatō. He was born in Musashi on the 6th day of the 11th month of Tenna 3, with the childhood name Kamechiyo. On the 9th day of the 8th month of Genroku 6, when he was eleven years old, he was first given the name Nobutaka. A recommendation document written by the Head of the University (Hayashi Daigaku-no-kami) for selecting this name still remains today, as follows:
Name to be used:
Nobutaka Opposing the character for "ship"
Genroku 6, year of the Water Ox, 8th month, auspicious day Recommended by Daigaku-no-kami Hayashi Nobuatsu
**Left Page:**
**Margin:**
This Toyohashi City Historical Discourse is published once weekly (Tuesday) and presented to readers of San'yō Shinpō
**Main Text:**
To Lord Matsudaira Kamechiyo
Subsequently, on the 18th day of the 12th month of Genroku 10, he was appointed to junior fifth rank, lower grade, and governor of Kai Province. On the 18th day of the 6th month of Hōei 6, when his father Nobuteru was granted permission to retire, Nobutoki immediately succeeded him and was granted Koga Castle with seventy thousand koku. Indeed, his father Nobuteru appears to have been of naturally weak constitution, and until then Nobutoki had frequently served as his father's representative in official duties due to his father's illness. Now that he had finally inherited the family headship, on the 21st day of that month, Nobutoki was further renamed as Izunokami.
**The Genroku Era** Now, what were the circumstances of the Tokugawa period at that time? Here I must describe this matter somewhat, as it has become necessary to do so. As you know, the fifth shogun Tsunayoshi was naturally fond of learning, and while there were certainly demands of the times involved, when he first became shogun, he steadily reformed various policies and greatly promoted the flourishing of literature. As I have mentioned repeatedly, not only did he undertake historical compilation projects during the Tokugawa period, but he also promulgated the new calendar. Hayashi Nobuatsu (Hōkō) in particular gained his greatest trust, and this Confucian official, who had previously worn Confucian robes and maintained a monk-like appearance, finally grew his hair and became junior fifth rank, lower grade, Head of the University, and the revision of the Mikawa-ki (Chronicle of Mikawa) and compilation of the Butoku Taisei-ki (Great Chronicle of Military Virtues) were all accomplished by this man. Furthermore, Tsunayoshi built the Taisei-den hall to promote Confucian learning and also had national studies taught, so scholars like Kitamura Suehaki, Keichū, and the Ajari emerged at this time. Among civilian literary figures, the likes of Chikamatsu Monzaemon, Ihara Saikaku, and Matsuo Bashō also appeared in succession, resulting in the flourishing of literary culture, which I believe you are all well aware of. Moreover, Tsunayoshi's attitude toward Kyoto was quite deferential, as seen in his revival of the Daijōsai ceremony and repairs to imperial mausoleums, showing no small degree of sincere devotion. For such reasons, the harmony between court and military government was quite perfect, and the realm was truly at peace. However, when observed from behind the scenes, things did not go nearly as well as they appeared on the surface, and there were actually many corrupt policies on the other hand. First, customs became luxurious and fell into licentiousness, displaying the true character of the so-called Genroku era
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Nobutoki and His Era) 267