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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 148

ページ: 148

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【欄外】    豊橋市史談  (松平信祝と其時代)                    二百六十八 【本文】       するに至(いた)つたのであるが今日(こんにち)でも彼(か)の菱川師宣(ひしかはもろのぶ)など一 派(ぱ)の浮世絵(うきよゑ)を見(み)ると実(じつ)に当時(たうじ)の有様(ありさま)が想像(さうざう)さる       ゝように思(おもふ)のである夫(それ)のみならず幕府(ばくふ)に於(おい)ては元来(がんらい)財政窮乏(ざいせいきうばう)の場合(ばあひ)に綱吉(つなよし)の母(はゝ)桂昌院(けいせうゐん)の願(ねがひ)によつて護(ご)        国寺(こくじ)、 護持院(ごじゐん)などの建立(こんりう)を初(はじ)め全国(ぜんこく)有名(ゆうめい)なる寺院(じゐん)の修築(しうちく)を行(おこな)ふ事(こと)となつたので今日(こんにち)美術保存(びじゆつほそん)の上(うへ)から 《割書:幕府財政の|紊乱》  見ると頗(すこぶ)る都合(つごふ)のよかつたと思(おも)ふことも多(おほ)いのであるが兎(と)に角(かく)国用(こくよう)は益々(ます〳〵)不足(ふそく)を感(かん)ずることとなつたので       ある茲(こゝ)に於(おい)て止(やむ)を得(え)ず遂(つひ)に家康(いへやす)以来(いらい)非常(ひぜう)の為(ため)に備(そな)へられてあつた大坂城(おほさかぜう)の金(きん)の分銅(ふんどう)をも鋳潰(いつぶ)して貨幣(くわへい)       となし尚(な)ほ不足(ふそく)なので次第(しだい)に金貨(きんくわ)には多(おほ)く銀(ぎん)を混(こん)し銀貨(ぎんくわ)には銅(どう)を混(こん)すると云(い)ふ様(やう)に性質(せいしつ)の悪(わる)い新貨幣(しんくわへい)       を鋳(い)るに至(いた)つたので益々(ます〳〵)財政(ざいせい)の紛乱(ふんらん)を来(きた)し たのである殊(こと)に綱吉(つなよし)の晩年(ばんねん)と云(い)ふものは彼(か)の生類御憐(せいるいおんあはれ)みで        燕(つばめ)一 羽(は)を殺(ころ)したが為(ため)に斬罪(ざんざい)になつたものがあると云(い)ふ有様(ありさま)で弊政(へいせい)は実(じつ)に其(その)極(きよく)に達(たつ)したのであるが而(しか)も        其間(そのあひだ)にあつて独(ひと)り威権(ゐけん)を弄(ろう)し一 層(そう)其(その)弊政(へいせい)を助長(ぢよちやう)せしめたのが彼(か)の柳沢吉保(やなぎざわよしやす)であつた吉保(よしやす)は初(はじ)め名(な)を保(やす)        明(あき)と云(い)つて綱吉(つなよし)の小姓(こせう)であつたがそれが側用人(そばようにん)となり次第(しだい)に大老格(たいろうかく)となつたので遂(つひ)に其子(そのこ)吉里(よしさと)と共(とも)       の権(けん)を専(もつぱら)にするに至(いた)つたのであるが会々(たま〳〵)元禄(げんろく)十五 年(ねん)十二 月(ぐわつ)十四日には彼(か)の赤穂(あかう)の浪士(らうし)大石良雄(おほいしよしを)等(ら)四十       七 士(し)の復讐事件(ふくしうじけん)があつて此(この)事件(じけん)は稍々(やゝ)人心(じんしん)を刺激(しげき)したのである然(しか)るに元禄(げんろく)は十六 年迄(ねんまで)で宝永(ほうえい)と年号(ねんごふ)が        改(あらた)まり其(その)宝永(ほうえい)に入(はい)つてからは天災(てんさい)頻(しき)りに至(いた)つて国内(こくない)に災害(さいがい)の続(つゞ)いた事(こと)はズツト前章(ぜんしよう)にも申述(まうしのべ)た如(ごと)くで       ある従(したがつ)て幕政(ばくせい)と云(い)ふものは愈紊乱(いよ〳〵びんらん)を重(かさ)ねたのは云(い)ふ迄(まで)もないがかゝる間(あひだ)に宝永(ほうえい)六年(ねん)正月(せうぐわつ)綱吉(つなよし)は薨去(こうきよ) 《割書:六代将軍の|家宣》  と相成(あひな)つたのである然(しか)るに御承知(ごせうち)の如(ごと)く綱吉(つなよし)には子(こ)がなかつたので甲府(こふ)から入(はい)つて其後(そのご)を襲(つ)いだ六 代(だい)        将軍(せうぐん)の家宣(いへのぶ)で此人(このひと)は将軍(せうぐん)となるや否(いなや)先代(せんだい)の弊政(へいせい)を改革(かいかく)せむことを図(はか)つて先(ま)づその吉保(よしやす)父子(ふし)を斥(しりぞ)け甲府(こふ)        以来(いらい)師事(しじ)して居(を)つた新井白石(あらゐはくせき)を引張(ひつぱ)つて来(き)て幕政(ばくせい)の顧問(こもん)としたのであるが之(これ)が又(ま)た一 方(ぱう)には林家(はやしけ)に於(お)       ける不平(ふへい)とも相成(あひな)つた次第(しだい)である而(しか)して前(まへ)に申述(まうしの)べた如(ごと)く松平信輝(まつだひらのぶてる)か隠居(ゐんきよ)して信祝(のぶとき)が其(その)家督(かとく)を継(つ)いだ 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千百三十一号附録    (大正元年八月六日発行) 【本文】       のは即(すなは)ち此(この)宝永(ほうえい)六年のことであるが宝永(ほうえい)と云(い)ふ年号(ねんごう)も七年で正徳(せうとく)と改(あらた)まり其(その)正徳(せうとく)二年十月には折角(せつかく)此(この)改(かい) 《割書:信祝古河よ|り吉田に移|封せらる》   革(かく)を企(くはだ)てた処の将軍(せうぐん)家宣(いへのぶ)も在職(ざいしよく)僅(わづか)に四年に過(す)ぎずして亦(ま)た遂(つひ)に薨去(こうきよ)と相成(あひな)つたのであるトコロで此(この)        信祝(のぶとき)が下総(しもふさ)の古河城(こがじよう)から吉田(よしだ)に移封(いほう)になつたのは実(じつ)に此(この)年(とし)七月十二日の事(こと)で信祝(のぶとき)が前城主(ぜんじようしゆ)の牧野大学(まきのだいがく) 《割書:吉田城の授|受》   成央(なりひで)から此(この)吉田城(よしだじよう)を受取(うけと)つたのは実(じつ)に其(その)年(とし)の十一月二日である而(しか)して当時(たうじ)吉田城主(よしだじようしゆ)の所管(しよくわん)であつた遠(ゑん)        州(しう)新居(あらゐ)の関所(せきしよ)の引渡(ひきわたし)を請(う)けたのは其(その)前日(ぜんじつ)であつたが恰(あたか)も将軍(せうぐん)薨去(こうきよ)の時(とき)に際会(さいくわい)したので頗(すこぶ)る混雑(こんざつ)した事(こと)       であつたと思(おも)ふ今此(いまこの)所替(ところがへ)に関(くわん)しては大河内家(おほかうちけ)に其(その)時(とき)の記録(きろく)が五 冊(さつ)残(のこ)つて居(を)る之(これ)は頗(すこぶ)詳密(せうみつ)を極(きは)めたも       のであるが今(いま)から考(かんが)へて見(み)ると仮令(たとへ)特別(とくべつ)の場合(ばあひ)でなくとも概(がい)して大名(だいみよう)の国替(くにがへ)と云(い)ふものは混雑(こんざつ)を極(きは)め 遊佐平馬  たもので此(この)時(とき)大河内家(おほかうちけ)の城受取役(しろうけとりやく)は遊佐平馬(ゆさへいま)と云(い)ふ人(ひと)であつたが其(その)行列(ぎようれつ)などもタイシタものであつた 《割書:藩士並に寺|社町在への|触書》   事(こと)が分(わか)る而(しか)して城(しろ)の受渡(うけわたし)が済(す)むだ後(のち)に遊佐平馬(ゆさへいま)が江戸(えど)から齎(もた)らした藩(はん)の注意書(ちういしよ)並(ならび)に寺社(じしや)、 町在(まちざい)への触(ふれ)        書(がき)と云(い)ふものを発表(はつぴよう)したのであるがそれは当時(とうじ)に於(お)ける民政資料(みんせいしれう)として中々(なか〳〵)面白(おもしろ)いものであるから先(ま)       づ其(その)全文(ぜんぶん)を左(さ)に抄録(しやうろく)したいと思(おも)ふ          御家中(おんいへちう)エ        一 法度(はふと)兼(かね)て相定候趣(あひさだめそろおもむき)弥(いよ〳〵)以堅(もつてかたく)相守(あひまもり)猥成儀(みだりなるぎ)致(いた)すましき事(こと)        一 諸役人(しよやくにん)公事訴訟之儀(くじそせうのぎ)正路(せいろ)に相計(あひはからふ)へし家中(かちう)並(ならびに)町在(まちざい)より賄賂(わいろ)の品々(ひな〴〵)受用(じゆよう)の儀(ぎ)弥(いよ〳〵)堅禁止(かたくきんし)すへき事(こと)        一 所替(ところがへ)何(いづれ)も物入等(ものいりとう)有之間(これあるあひだ)以後(いご)万端(ばんたん)つゝまやかにいたし少(すこし)の失墜(しつつひ)無之様(これなきやう)肝要(かんえう)に候(そろ)吉田(よしだ)は諸事(しよじ)御花麗(ごくわれい)         の様子(やうす)に相聞候間(あひきゝそろあひだ)其(その)風俗(ふうぞく)にうつるましき事        一 城下町(じようかまち)諸家(しよけ)通行(つうかう)の場所(ばしよ)に候間(そろあひだ)通(とほ)りの衆中見物(しうちうけんぶつ)として出(いで)ましき事        一 兼(かね)て定置候通(さだめおきそろとほり)領内(れうない)たりとも遠方(えんはう)へ相越事(あひこすこと)役人(やくにん)の外(ほか)無用(むよう)たるべし子細(しさい)あらは支配(しはい)々々へ相断可任(あひことはりさし) 【欄外】    豊橋市史談  (松平信祝と其時代)                    二百六十九

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(松平信祝とその時代) 二百六十八 【本文】 するに至ったのであるが、今日でもかの菱川師宣など一派の浮世絵を見ると実に当時の有様が想像されるように思うのである。それのみならず幕府においては元来財政窮乏の場合に、綱吉の母桂昌院の願いによって護国寺、護持院などの建立をはじめ、全国有名なる寺院の修築を行うこととなったので、今日美術保存の上から見ると頗る都合のよかったと思うことも多いのであるが、とにかく国用は益々不足を感ずることとなったのである。ここにおいて止むを得ず、ついに家康以来非常の時のために備えられてあった大阪城の金の分銅をも鋳潰して貨幣となし、なお不足なので次第に金貨には多く銀を混じ、銀貨には銅を混ずるというように、性質の悪い新貨幣を鋳るに至ったので、益々財政の紛乱を来したのである。 殊に綱吉の晩年というものは、かの生類憐みの令で燕一羽を殺したがために斬罪になったものがあるという有様で、弊政は実にその極に達したのであるが、しかもその間にあって独り威権を弄し、一層その弊政を助長せしめたのがかの柳沢吉保であった。吉保は初め名を保明といって綱吉の小姓であったが、それが側用人となり次第に大老格となったので、ついにその子吉里と共に権を専らにするに至ったのであるが、たまたま元禄十五年十二月十四日には、かの赤穂の浪士大石良雄等四十七士の復讐事件があって、この事件はやや人心を刺激したのである。 然るに元禄は十六年までで宝永と年号が改まり、その宝永に入ってからは天災頻りに至って国内に災害の続いたことは、ずっと前章にも申し述べた通りである。従って幕政というものは愈々紊乱を重ねたのは言うまでもないが、かかる間に宝永六年正月、綱吉は薨去となったのである。 然るに御承知のごとく綱吉には子がなかったので、甲府から入ってその後を継いだ六代将軍の家宣で、この人は将軍となるや否や、先代の弊政を改革せんことを図って、まずその吉保父子を斥け、甲府以来師事していた新井白石を引張って来て幕政の顧問としたのであるが、これがまた一方には林家における不平ともなった次第である。そして前に申し述べたごとく松平信輝が隠居して信祝がその家督を継いだ 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千百三十一号附録(大正元年八月六日発行) 【本文】 のは即ちこの宝永六年のことであるが、宝永という年号も七年で正徳と改まり、その正徳二年十月には、折角この改革を企てた処の将軍家宣も在職わずかに四年に過ぎずして、また遂に薨去となったのである。 ところでこの信祝が下総の古河城から吉田に移封になったのは実にこの年七月十二日のことで、信祝が前城主の牧野大学成央からこの吉田城を受け取ったのは実にその年の十一月二日である。そして当時吉田城主の所管であった遠州新居の関所の引き渡しを受けたのはその前日であったが、ちょうど将軍薨去の時に際会したので頗る混雑したことであったと思う。 今この所替えに関しては大河内家にその時の記録が五冊残っている。これは頗る詳密を極めたものであるが、今から考えて見ると、たとえ特別の場合でなくとも、おおして大名の国替えというものは混雑を極めたもので、この時大河内家の城受け取り役は遊佐平馬という人であったが、その行列などもたいしたものであったことが分かる。 そして城の受け渡しが済んだ後に、遊佐平馬が江戸から齎らした藩の注意書並びに寺社、町在への触書というものを発表したのであるが、それは当時における民政資料として中々面白いものであるから、まずその全文を左に抄録したいと思う。 御家中へ 一、法度かねて相定め候趣、弥々もって堅く相守り、猥りなる儀致すまじき事 一、諸役人公事訴訟の儀、正路に相計らうべし。家中並びに町在より賄賂の品々受用の儀、弥々堅く禁止すべき事 一、所替えいずれも物入り等これある間、以後万端つつましやかにいたし、少しの失墜なきよう肝要に候。吉田は諸事御華麗の様子に相聞き候間、その風俗にうつるまじき事 一、城下町諸家通行の場所に候間、通りの衆中見物として出でまじき事 一、かねて定め置き候通り、領内たりとも遠方へ相越す事、役人の外無用たるべし。子細あらば支配々々へ相断り申すべし 【欄外】 豊橋市史談(松平信祝とその時代) 二百六十九

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Nobutoki and His Era) 268 **Main Text:** came to pass, but even today when we look at the ukiyo-e prints of Hishikawa Moronobu and his school, we can truly imagine the conditions of those times. Moreover, since the shogunate was already in financial straits, at the request of Tsunayoshi's mother Keishōin, they undertook the construction of Gokokuji and Gojiin temples, as well as the renovation of famous temples throughout the country. While this may have been quite beneficial from today's perspective of art preservation, it certainly caused the national expenditures to feel increasingly insufficient. Being left with no choice, they finally melted down even the gold weights that had been stored at Osaka Castle since Ieyasu's time as emergency reserves to make into currency. Still finding this insufficient, they gradually began mixing more silver into gold coins and copper into silver coins, creating new currency of poor quality, which further caused chaos in public finances. Particularly in Tsunayoshi's later years, with the Compassion for Living Beings edicts, there were cases where people were sentenced to death for killing a single sparrow, and corrupt governance truly reached its extreme. Yet during this period, the one who alone wielded authority and further encouraged such corrupt policies was Yanagisawa Yoshiyasu. Yoshiyasu was initially named Yasuaki and served as Tsunayoshi's page, but he became a senior councilor and gradually rose to the rank of senior elder, eventually monopolizing power together with his son Yoshisato. It happened that on the 14th day of the 12th month of Genroku 15, there occurred the revenge incident of the Akō rōnin, including Ōishi Yoshio and forty-six other samurai, and this incident somewhat stirred public sentiment. However, the Genroku era lasted only until the 16th year when the era name changed to Hōei, and after entering Hōei, natural disasters occurred frequently and disasters continued throughout the country, as I described much earlier in previous chapters. Consequently, the shogunal administration naturally fell into increasing disorder, and during such circumstances, Tsunayoshi passed away in the first month of Hōei 6. Since Tsunayoshi had no children, as you know, the sixth shogun Ienobu came from Kōfu to succeed him. As soon as this man became shogun, he attempted to reform the corrupt policies of the previous generation, first dismissing the Yoshiyasu father and son, and bringing Arai Hakuseki, who had been his teacher since his Kōfu days, to serve as an advisor to the shogunal government. However, this also became a source of displeasure for the Hayashi family. And as I mentioned before, Matsudaira Nobuteru retired and Nobutoki inherited his position **Left Page:** **Margin:** San'yō Shinpō No. 4131 Supplement (Published August 6, Taishō 1) **Main Text:** which occurred precisely in this sixth year of Hōei. The era name Hōei also changed to Shōtoku after seven years, and in the 10th month of Shōtoku 2, Shogun Ienobu, who had undertaken these reforms, also passed away after serving only four years in office. Now, Nobutoki's transfer from Koga Castle in Shimōsa to Yoshida occurred precisely on the 12th day of the 7th month of this year, and Nobutoki received Yoshida Castle from the previous lord, Makino Daigaku Narihide, on the 2nd day of the 11th month of that year. The transfer of the Arai checkpoint in Enshū, which was under the jurisdiction of the Yoshida castle lord at that time, was received the day before, but since it coincided with the shogun's death, it must have been quite chaotic. Regarding this domain transfer, five volumes of records from that time remain in the Ōkōchi family archives. These are extremely detailed records, but looking back now, even under normal circumstances, daimyo domain transfers were extremely chaotic affairs. At this time, the Ōkōchi family's castle-receiving official was a man named Yusa Heima, and we can see that his procession and such were quite impressive. After the castle transfer was completed, Yusa Heima announced the domain's instructions brought from Edo, as well as notices to temples, shrines, towns, and rural areas. These are quite interesting as administrative documents of the time, so I would like to excerpt the full text below: To the Retainer Band: 1. The prohibitions that have been established beforehand must be strictly observed, and improper conduct must not be committed. 2. All officials shall handle legal disputes and lawsuits through proper channels. The acceptance of bribes and gifts from retainers, townspeople, and rural residents is strictly prohibited. 3. Domain transfers involve expenses for everyone, so hereafter all matters should be conducted frugally, and it is essential that there be no failures. Since Yoshida is known for its luxurious customs in all matters, one must not be influenced by such customs. 4. Since the castle town is a place where various families pass through, retainers should not go out merely to observe passersby. 5. As previously established, except for officials, it is unnecessary to travel to distant places even within the domain. If there are special circumstances, one must obtain permission from one's respective supervisor. **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Nobutoki and His Era) 269