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【欄外】
豊橋市史談 (築城以前の豊橋) 二
【本文】
延喜格(えんきかく)十二 巻(かん)此(こ)の三 代(だい)の格(かく)を聚(あつ)めて之(これ)を各部類(かくぶるい)々々に区分(くわ)けをした所謂(いはゆる)類聚(るいしう)である、 此(こ)の三十四 巻中(かんちう)
年(とし)を経(ふ)るに従(したがつ)て湮滅(えんめつ)した処(ところ)があつて全部(ぜんぶ)は現存(げんぞん)して居(ゐ)ないが近年(きんねん)経済(けいざい)雑誌社(ざつししや)に於(おい)て出版(しゆつぱん)した国史(こくし)大系(だいけい)
本(ほん)の内(うち)には二十 冊(さつ)丈(だ)け納(おさ)められて居(を)る、 而(しか)して格(かく)とは何(なん)ぞやと云(い)ふに、律令(りつれい)を政府(せいふ)か出(だ)した後(のち)詔勅官(せうちよくかん)
符(ふ)を以(もつ)て律令(りつれい)の定法(ていほう)を改(あらた)め或(あるひ)は臨時(りんじ)の新制(しんせい)を設(もう)けたる類(るい)を彙集(ゐしう)したものである事(こと)は詳(くは)しく云(い)はずとも
既(すで)に諸君(しよくん)も知(し)らるゝ事(こと)と思(おも)ふ、此(この)類聚(るいしう)三 代格(だいかく)の中(うち)に船瀬(ふなせ)幷(ならび)に浮橋(うきはし)布施屋事(ふせやこと)と書(か)いた部類(ぶるい)がある、 浮橋(うきはし)
とは勿論(もちろん)橋梁(けうれう)の事(こと)で、 船瀬(ふなせ)は渡船(とせん)、 布施屋(ふせや)は一 般通行人(ぱんつうこうにん)が無代価(むだいか)で宿泊(しゆくはく)する事(こと)の出来(でき)る官立(かくりつ)の宿舎(しゆくしや)と
云(い)ふ様(よう)な性質(せいしつ)のもので渡船(とせん)のある辺(ほとり)に多(おほ)く設(もう)けられたのである、 其部類(そのぶるい)に承和(せうわ)二 年(ねん)(今(いま)を去(さ)る一千七
十七年)六月二十九日に発布(はつぷ)せられた太政官符(だじようくわんふ)が載(の)つて居(を)る、 而(しか)して其文中(そのぶんちう)に
加増渡船(かぞうとせん)十六 艘(そう) (中略)三河国(みかはのくに)飽海(あくみ)矢作(やはぎ)両河(れうが)各(かく)四 艘(そう)
と書(説説か)いてあつて其次(そのつぎ)に左(さ)の意味(いみ)の事(こと)が記(しる)されてある即(すなは)ち右(みぎ)の河(かは)は岸(きし)が広(ひろ)くして到底(たうてい)架橋(かけう)する事(こと)か不可(ふか)
能(のふ)である因(よつ)て其(その)渡船(とせん)を増(ま)すのである 、聞(き)く処(ところ)によれば此河(このかは)は東海道(とうかいどう)枢要(すうよう)の地点(ちてん)に該当(がいとう)して居(を)るのに橋(けう)
梁(れう)の設備(せつび)がなく之迄(これまで)渡船(とせん)が少(すくな)いので貢物(みつぎもの)を運搬(うんぱん)する人夫等(にんぷら)が何(いづ)れも河辺(かわべ)に寄(よ)り集(つど)い日(ひ)を累(かさ)ね旬(じゆん)を経(ふ)る
も渡(わた)る事(こと)が出来(でき)ぬ遂(つひ)には喧嘩口論(けんくわこうろん)が起(おこ)り貢物(みつぎもの)は流失(りうしつ)する動(やゝ)もすれば人命(じんめい)迄(まで)をも害(がい)する等(とう)の事(こと)があつて
宜敷(よろし)くない故(ゆへ)に国司(こくじ)初(はじ)め注意(ちうゐ)して此事(このこと)なきを期(き)せよと先(ま)づコウ云(い)ふ意味(ゐみ)である、 此記事(このきじ)から考(かんが)えて見(み)
るも今(いま)の豊橋(とよはし)の地(ち)は千 余年以前(よねんいぜん)の当時(たうじ)東海道枢要(とうかいどうすうよう)の場所(ばしよ)で河幅(かははゞ)は余程(よほど)広(ひろ)かつたものと思(おも)はるゝが今(いま)の
豊河(とよかは)に当(あた)るべきものが其頃(そのころ)飽海河(あくみかは)と云(い)つたものと信(しん)せらるゝ、 又(ま)た和名類聚抄(わめうるいしうしょう)と云(い)ふ書物(しよもつ)があるが之(こ)
れも諸君(しよくん)が既(すで)に知(し)つて居(を)らるゝ事(こと)であらう、 彼(か)の源順(みなもとのじゆん)と云(い)ふ人(ひと)の選(えら)んだもので延長年間(えんてうねんかん)の著述(ちよじゆつ)だ
と伝(つた)えられて居(を)る果(はた)して然(しか)りとすれば今(いま)を去(さ)ること九百八十 余年前(よねんぜん)である、 此書物(このしよもつ)の中(うち)の渥美郡(あつみごほり)の条(くだり)に
飽海の地名 郷名(ごうな)が列記(れつき)されてあるが其中(そのうち)に渥美(あくみ)(阿久美(あくみ))と云(い)ふ名(な)がある、 之(こ)れは即(すなは)ち類聚(るいしう)三 代格(だいかく)飽海河(あくみかは)とある飽(あく)
海(み)の名(な)に一 致(ち)するものと云(い)ふてよかろう、 今(いま)も尚(な)ほ豊橋市内(とよはししない)の字名(あざな)に飽海(あくみ)と云(い)ふのが残(のこ)つて居(を)るのは
幡太の地名 実(じつ)に其(その)名残(なごり)として面白(おもしろ)い事(こと)ではあるまいか、 又(また)仝書仝条(どうしよどうでう)の中(うち)に幡太(はだ)と云(い)ふち地名(ちめい)が記(しる)されてあるが之(これ)は
果(はた)して現在(げんざい)豊橋市(とよはしし)大字花田(おほあざはなだ)にある羽田(はだ)の地名(ちめい)に相当(さうとう)するや否疑問(いなぎもん)ではあるが羽田野敬雄翁(はだのたかををう)が考証(こうせう)せら
れた処(ところ)に依(よ)れば矢張(やはり)古(いにしへ)の幡太(はだ)は今(いま)の羽田(はだ)だとしてある、 又(ま)た近来(きんらい)吉田東伍氏著(よしだとうごしちよ)の地名辞書(ちめいじしよ)にも其通(そのとほ)
り認(したゝ)められて居(を)る、 或(あるひ)は奥郡(おくごほり)の福江町(ふくえてう)にも畠(はた)と云(い)ふ地名(ちめい)がある又(また)秦氏(はだうぢ)に因(ちな)むだ処(ところ)が外(ほか)にあるであろう
などの説(せつ)がないではないが之(これ)に就(つい)ては私(わたくし)は羽田野翁(はだのをう)の説(せつ)に従(したが)ふものである、 而(しか)して仝(おな)じ和名類聚抄(わめうるいしうしょう)の
渡津 宝飯郡(ほゐごほり)の条(でう)に渡津(わたんづ)(和多無都(わたむつ))と云(い)ふ地名(ちめい)がある此(この)渡津(わたんづ)と云(い)ふ処(ところ)が飽海(あくみ)と相対(あひたい)して河(かは)の両岸(れうがん)に当(あた)り其間(そのあひだ)
に渡船(とせん)したものであることは事実(じじつ)である、 而(しか)して渡津(わたんづ)と云(い)ふ処(ところ)は今(いま)の何処(どこ)に当(あた)るかと云(い)ふに小坂井(こさかゐ)以南(いなん)
平井前芝(ひらゐまへしば)の辺迄(へんまで)に亘(わた)り西(にし)は旧宿村(きうしゆくむら)の辺迄(へんまで)を称(せう)したものゝ様(よう)であるが応安(おうあん)三 年(ねん)元小坂井村(もとこさかゐむら)兎足神社(うかるじんしや)の洪(つり)
鐘(がね)にも矢張(やはり)渡津郷(わたんづごう)と書(か)いてあるのである、 又(また)牟呂(むろ)にも渡船場(とせんば)があつて渡津(わたんづ)から渡(わた)つたものだとの事(こと)が
伝(つた)はつて居(を)るが或(あるひ)はそれもあつたであらう、 併(しか)し東海道(とうかいどう)の本線(ほんせん)ではなかつたものに相違(さうゐ)ない。
一千 年以前(ねんいぜん)の豊橋(とよはし)の状態(ぜうたい)は以上(いぜう)説(と)いた処(ところ)の如(ごと)くであるが尚(な)ほ後世出来(こうせでき)た書物(しよもつ)で此(この)時分(じぶん)の事(こと)を書(か)いたも
のがないではない、 之等(これら)は大(おほい)に研究上(けんきうぜう)の参考(さんこう)となる事(こと)であるが中(なか)にも羽田野敬雄翁(はだのたかををう)の著書(ちよしよ)に三河古跡(みかはこせき)
三河古跡考 考(こう)と云(い)ふものがある事(こと)は是非(ぜひ)之(これ)を世間(せけん)に紹介(せうかい)したいと思(おも)ふ、 此書(このしよ)は総計(そうけい)十 冊(さつ)で三河国歴代事蹟考(みかはのくにれきだいじせきこう)四 冊(さつ)
参河国古歌名跡考(みかはのくにこかめいせきこう)二 冊(さつ)倭名抄三河国郡郷考(わめうせうみかはのくにぐんごうこう)一 冊(さつ)三河国官社私考(みかはのくにくわんしやしこう)二 冊(さつ)参河国総国風土記考(みかはのくにそうこくふうどきこう)一 冊(さつ)より成立(なりた)
つて居(ゐ)て多(おほ)くは古代(こだい)より鎌倉初期(かまくらしよき)迄(まで)の事(こと)が研究(けんきう)されてある、 元来(がんらい)羽田野敬雄(はだのたかを)と云(い)ふ人(ひと)は羽田八幡宮(はだはちまんぐう)の
神職(しんしよく)で国学家(こくがくか)であるが維新前参考書(ゐしんぜんさんこうしよ)を得(う)るに困難(こんなん)なる時代(じだい)に於(おい)て斯(か)くの如(ごと)き著書(ちよしよ)をする迄(まで)に研究(けんきう)した
【欄外】
豊橋市史談 (築城以前の豊橋) 三二
現代語訳
【欄外】
豊橋市史談 (築城以前の豊橋) 二
【本文】
延喜格十二巻、この三代の格を集めてこれを各部類ごとに区分けをしたいわゆる類聚である。この三十四巻中、
年を経るに従って散逸したところがあって全部は現存していないが、近年経済雑誌社において出版した国史大系
本の内には二十冊だけ収められている。そして格とは何かというに、律令を政府が出した後、詔勅官
符をもって律令の定法を改め、あるいは臨時の新制を設けた類を彙集したものであることは詳しく言わずとも
既に諸君もご存じのことと思う。この『類聚三代格』の中に「船瀬並びに浮橋布施屋事」と書いた部類がある。浮橋
とはもちろん橋梁のことで、船瀬は渡船、布施屋は一般通行人が無代価で宿泊することのできる官立の宿舎と
いうような性質のもので、渡船のある辺りに多く設けられたのである。その部類に承和二年(今を去る一千七
十七年)六月二十九日に発布された太政官符が載っている。そしてその文中に
加増渡船十六艘(中略)三河国飽海矢作両河各四艘
と書いてあってその次に左の意味のことが記されてある。すなわち右の河は岸が広くして到底架橋することが不可
能である。よってその渡船を増すのである。聞くところによれば、この河は東海道枢要の地点に該当しているのに橋
梁の設備がなく、これまで渡船が少ないので、貢物を運搬する人夫等がいずれも河辺に寄り集い、日を重ね旬を経る
も渡ることができぬ。ついには喧嘩口論が起こり、貢物は流失する。ややもすれば人命までをも害する等のことがあって
よろしくない故に、国司をはじめ注意してこのことなきを期せよと、まずこういう意味である。この記事から考えて見
るも、今の豊橋の地は千余年以前の当時、東海道枢要の場所で、河幅は余程広かったものと思われるが、今の
豊川に当たるべきものがその頃飽海河と言ったものと信じられる。また和名類聚抄という書物があるが、これ
も諸君が既に知っておられることであろう。あの源順という人の選んだもので、延長年間の著述だ
と伝えられている。果たしてしかりとすれば今を去ること九百八十余年前である。この書物の中の渥美郡の条に
飽海の地名 郷名が列記されてあるが、その中に渥美(阿久美)という名がある。これはすなわち『類聚三代格』飽海河とある飽
海の名に一致するものといってよかろう。今もなお豊橋市内の字名に飽海というのが残っているのは
幡太の地名 実にその名残として面白いことではあるまいか。また同書同条の中に幡太という地名が記されてあるが、これは
果たして現在豊橋市大字花田にある羽田の地名に相当するや否や疑問ではあるが、羽田野敬雄翁が考証せら
れたところによれば、やはり古の幡太は今の羽田だとしてある。また近来吉田東吾氏著の地名辞書にもその通り
認められている。あるいは奥郡の福江町にも畠という地名があるし、また秦氏に因むだところが他にあるであろう
などの説がないではないが、これについては私は羽田野翁の説に従うものである。そして同じ和名類聚抄の
渡津 宝飯郡の条に渡津(和多無都)という地名がある。この渡津というところが飽海と相対して河の両岸に当たり、その間
に渡船したものであることは事実である。そして渡津というところは今のどこに当たるかというに、小坂井以南
平井前芝の辺りまでに亘り、西は旧宿村の辺りまでを称したもののようであるが、応安三年元小坂井村兎足神社の釣
鐘にもやはり渡津郷と書いてあるのである。また牟呂にも渡船場があって、渡津から渡ったものだとのことが
伝わっているが、あるいはそれもあったであろう。しかし東海道の本線ではなかったものに相違ない。
一千年以前の豊橋の状態は以上述べたところの如くであるが、なお後世できた書物でこの時分のことを書いたも
のがないではない。これらは大いに研究上の参考となることであるが、中でも羽田野敬雄翁の著書に『三河古跡
三河古跡考 考』というものがあることは、ぜひこれを世間に紹介したいと思う。この書は総計十冊で、『三河国歴代事蹟考』四冊、
『参河国古歌名跡考』二冊、『倭名抄三河国郡郷考』一冊、『三河国官社私考』二冊、『参河国総国風土記考』一冊より成立
っていて、多くは古代より鎌倉初期までのことが研究されてある。元来羽田野敬雄という人は羽田八幡宮の
神職で国学家であるが、維新前参考書を得るに困難なる時代において、かくの如き著書をするまでに研究した
【欄外】
豊橋市史談 (築城以前の豊橋) 三二
英語訳
【Margin】
Toyohashi Historical Discussion (Toyohashi before castle construction) 2
【Main text】
the 'Engi-kyaku' in twelve volumes. This collection of decrees from three reigns was organized by subject categories - what is called a classified compilation (ruijū). Of these thirty-four volumes,
some have been lost over time and not all survive today, but the National History Series (Kokushi Taikei)
published in recent years by Keizai Zasshisha includes twenty volumes. As for what 'kyaku' (decrees) means: after the government issued the ritsuryō codes, they compiled
collections of imperial edicts and official documents that modified the established laws of the ritsuryō or established temporary new regulations. I believe you are already familiar with this, so I need not explain in detail.
In this 'Ruijū Sandai-kyaku' there is a section titled "Matters of Ferry Stations, Floating Bridges, and Charitable Lodges." Floating bridges
naturally refer to bridge structures, ferry stations (funase) to ferries, and charitable lodges (fuseya) were government-operated lodging facilities
where ordinary travelers could stay free of charge, often established near ferry crossings. In this section is recorded a Grand Council of State decree issued on the twenty-ninth day of the sixth month of Jōwa 2 (one thousand and
seventy-seven years ago). In that document it states:
"Additional ferry boats, sixteen vessels... (omission) Mikawa Province, Akumi and Yahagi rivers, four vessels each"
The text then records the following explanation: The aforementioned rivers have such wide banks that bridging them is entirely impossible.
Therefore their ferry service is to be increased. According to reports, although these rivers are located at crucial points on the Tōkaidō highway, they lack bridge
facilities, and because ferry boats have been insufficient until now, porters transporting tribute goods gather at the riverbank, spending days and even weeks
unable to cross. Eventually fights and quarrels break out, tribute goods are lost, and sometimes even human lives are endangered -
this is unacceptable, so provincial governors and others should take care to prevent such occurrences. This is roughly the meaning. From this record, we can see
that the present site of Toyohashi was, over a thousand years ago, a crucial location on the Tōkaidō, and the river width must have been quite broad. What is now
the Toyokawa River was apparently called the Akumi River at that time. There is also a work called the 'Wamyō Ruijūshō' which
you are probably already familiar with. It was compiled by Minamoto no Jun and is said to have been written during the Enchō era.
If this is true, it dates from about nine hundred and eighty years ago. In this work's section on Atsumi District,
Place name Akumi various village names are listed, among which appears the name Atsumi (Akumi). This clearly corresponds
to the name Akumi in "Akumi River" found in the 'Ruijū Sandai-kyaku'. That the place name Akumi still remains as a district name within Toyohashi city today
Place name Hata is indeed an interesting vestige. Also recorded in the same work and section is the place name Hata, but
whether this actually corresponds to the current place name Hada in Ōaza Hanada, Toyohashi city is questionable. However, according to the research of Elder Hadano Takao,
the ancient Hata is indeed the present Hada. This is also recognized in the recent geographical dictionary by Yoshida Tōgo.
There are other theories suggesting it might refer to a place called Hata in Fukue town in Oku district, or other places connected to the Hata clan,
but on this matter I follow Elder Hadano's theory. In the same 'Wamyō Ruijūshō,'
Watazu under Hōi District appears the place name Watazu (Watamutsu). This place called Watazu was directly across from Akumi on opposite banks of the river, with
ferry service operating between them - this is a fact. As for where this place called Watazu corresponds to today, it apparently encompassed the area from south of Kosakai
to the vicinity of Hirai and Maeshiba, and west to the area of the former Shuku village. A temple bell from Jōan 3 at Ukaru Shrine in former Kosakai village
also bears the inscription "Watazu-gō." It is also said that there was a ferry crossing at Muro,
with service from Watazu, which may well have existed. However, it certainly was not on the main Tōkaidō route.
The state of Toyohashi a thousand years ago was as described above, but there are also later works that wrote about this period.
These are very valuable for research reference, and among them I particularly wish to introduce to the world Elder Hadano Takao's work titled 'Study of Mikawa Historical Sites
Study of Mikawa Historical Sites (Mikawa Koseki-kō).' This work comprises ten volumes total: 'Study of Historical Events of Mikawa Province Through the Ages' (four volumes),
'Study of Ancient Poems and Famous Sites of Mikawa Province' (two volumes), 'Study of Districts and Villages of Mikawa Province in the Wamyōshō' (one volume), 'Private Study of Official and Private Shrines of Mikawa Province' (two volumes), and 'Study of the General Provincial Topography of Mikawa Province' (one volume).
Most cover research from ancient times through the early Kamakura period. Originally, Hadano Takao was a Shinto priest at Hada Hachiman Shrine
and a National Learning scholar who, in the difficult pre-Restoration era when reference materials were hard to obtain, conducted research sufficient to produce such scholarly works.
【Margin】
Toyohashi Historical Discussion (Toyohashi before castle construction) 32