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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 16

ページ: 16

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【欄外】 豊橋市史談   (築城以前の豊橋)                      四 【本文】       のは実(じつ)に感服(かんぷく)の外(ほか)はないので私(わたくし)は常(つね)に翁(をう)の遺徳(ゐとく)に対(たい)して尊敬(そんけい)の念(ねん)を払(はら)つて居(を)るのである、 従(したが)つて其(その)遺(ゐ)        徳(とく)を永久(えいきう)に伝(つた)えたいと切望(せつぼう)するものである、 扨(さて)翻(ひるがへ)つて前(まへ)に述(の)べた時代(じだい)即(すなは)ち一千 余年(よねん)前(ぜん)から九百 余年(よねん)        前迄(ぜんまで)の頃(ころ)に於(お)ける我国(わがくに)の形勢(けいせい)は如何(いかゞ)であつたかと云(い)ふに、 類聚(るいしう)三 代格(だいかく)の太政官符(だじよううくわんふ)にある承和(せうわ)二 年(ねん)と云(い)       ふ年(とし)は恰(あたか)も仁明天皇(にんめいてんのう)の御宇(ごう)で彼(か)の橘逸勢(たちばなのはやなり)の乱(らん)のあつた承和(せうわ)九 年(ねん)より七 年前(ねんぜん)である、それから和名類(わめうるい)        聚抄(しうせう)の出来(でき)たと伝(つた)ふる延長年間(えんてうねんかん)は醍醐帝(だいごてい)の御代(みよ)で承和(せうわ)から延長(えんてう)の間(あひだ)は凡(およ)そ百 年内外(ねんないがい)を距(へだ)て文徳(ぶんとく)、 清和(せいわ) 《割書:三河の国府|幷に国司》    陽成(やうせい)、 光孝(こう〳〵)、 宇多(うた)の朝(てう)を経(へ)て平安朝(へいあんてう)の文物(ぶんぶつ)は方(まさ)に隆盛(りうせい)を極(きは)むるの時(とき)であつた、 而(しか)して其頃(そのころ)三河(みかは)の国府(こくふ)       は宝飯郡(ほゐぐん)に置(お)かれて今(いま)より云(い)へば其(そ)の所在地(しよざいち)に異説(ゐせつ)があるが大体(だいたい)に於(おい)ては現在(げんざい)の国府町(こふまち)から北(きた)にかけ       て八幡村(やはたむら)附近(ふきん)に位置(ゐち)してあつたことは事実(じじつ)と信(しん)でられる、 当時(とうじ)国司(こくし)となつて来(こ)られ人(ひと)を挙(あ)げて見(み)ると         橘本継(たちばなもとつぐ)、 豊前王(ぶぜんわう)、 管原継門(すかはらつぐかど)、 安部氏主(あべうぢぬし)、 同良行(どうよしゆき)、 藤原安棟(ふぢはらやすむね)、 長岡秀雄(ながをかひでを)、 藤原善友(ふぢはらよしとも)、 源進(みなもとのすゝむ)などで        之(これ)は続日本後記(ぞくにほんごき)、 文徳実録(ぶんとくじつろく)、三 代実録(だいじつろく)等(とう)に載(のつ)て居(を)る、 此時分(このじぶん)の国司(こくし)の年限(ねんげん)は四ケ年(ねん)であつたが中(なか)には        再任(さいにん)して八ケ年(ねん)乃至(ないし)十ケ年(ねん)も勤続(きんぞく)した人(ひと)がある。 《割書:東海道通路|の変更》   ソコで前(まへ)にも云(い)つた如(ごと)く今(いま)の豊橋(とよはし)の地(ち)は此頃(このころ)に於(お)ける東海道(とうかいどう)の要路(ようろ)であつたが何分(なにぶん)にも河巾(かははゞ)が広(ひろ)くて        通行(つうこう)に不便(ふべん)であつたが為(た)め其後(そのご)に至(いた)つて遂(つひ)に往来(おうらい)を変更(へんこう)して川(かは)を上流(ぜうりう)の処(ところ)より渡(わた)りて豊川宿(とよかはしゆく)即(すなは)ち今(いま)       の古宿(ふるじゆく)にかゝるに至(いた)つたものと思(おも)はれる、 今(いま)を去(さ)る九百二十四 年前(ねんぜん)永観元年(えいかんがんねん)一 条相国障子絵歌(ぜうさうこくせうじえうた)の中(なか)に 《割書:志香須賀の|渡し》    行(ゆ)き通(かよ)ふ船路(ふねぢ)はあれど志香須賀(しがすが)の渡(わた)しは跡(あと)もなくぞなりける       と云(い)ふのがある志香須賀(しがすが)の渡(わたし)とは即(すなは)ち此渡津(このわたんづ)と飽海(あくみ)との間(あひだ)を指(さ)したるもので清少納言(せいせうなごん)の枕草紙(まくらざうし)初(はじ)め古(ふる)       き撰集(せんしう)などにあるのが矢張(やはり)皆(みな)此処(ここ)を云(い)つたものと思(おも)はれる、 然(しか)るに更級日記(さらしなにつき)には此(この)志香須賀(しがすが)の渡(わたし)を尾(を)        張三河(はりみかは)の境(さかひ)のように記(しる)してあるが此(この)日記(につき)には錯誤脱漏(さくごだつろう)等(とう)が多(おほ)いから余(あま)り証拠(せうこ)にはならぬと思(おも)はれる、 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千六百八十二号附録   ( 明治四十四年二月十四日発行 ) 【本文】        此(この)日記(につき)は藤原孝標(ふぢはらこうひよう)の娘(むすめ)で橘俊道(たちばなとしみち)の妻(つま)になつた女(おんな)が書(か)いたもので八百四十 年許(ねんばかり)以前(いぜん)のものである、 中(なか)       に東(あづま)から京都(けうと)への帰途(きと)を書(か)いたものがあるが其間(そのあひだ)に右(みぎ)の記事(きじ)があるのである、 又(また)同(おな)じ条(くだり)に高師(たかし)の浜(はま)と       ある次(つぎ)に八橋(やつはし)の事(こと)がありそれより二 村山(むらやま)とありて後(のち)に宮路山(みやぢやま)とあるなど如何(いか)にも前後(ぜんご)を顛倒(てんとう)した処(ところ)が       ある、 併(しか)しながら二山村(ふたむらやま)の山中(さんちう)にて道辺(みちのべ)の家(いへ)に宿(やど)りたるに大(だい)なる柿(かき)の木(き)があつて其(そ)の実(み)が夜中(やちう)ポトリ       〳〵と落(お)ちたと云(い)ふ事(こと)が書(か)いてあるのは誠(まこと)に面白(おもしろ)いと思(おも)ふ、 徳川時代(とくがはじだい)には往来(おうらい)の両側(れうがは)に松杉(まつすぎ)又(また)一 里塚(りづか)       としては榎(えのき)等(とう)を植(う)へたものであるが、 奈良朝時代(ならてうじだい)には多(おほ)く菓物(くだもの)のなる木(き)を植(う)へて旅人(たびびと)が疲労(ひろう)を感(かん)じた        時(とき)随意(ずいゐ)に取(と)つて食(た)べるのを容(ゆる)したものである、 即(すなは)ち此(この)記事(きじ)はドウモ此事(このこと)が証拠(せうこ)立(た)てられるように思(おも)は       れて私(わたくし)は趣味(しゆみ)を感(かん)ずるのである、 扨(さ)て此(こ)の街道(かいどう)の変(かは)つた事(こと)を証拠(せうこ)立(だて)るには色々(いろ〳〵)のものがあるが茲(こゝ)に貞(てい)        応(おう)二 年(ねん)源光行(みなもとみつゆき)が書(か)いた海道記(かいどうき)と云(い)ふものがある、 今(いま)を去(さ)る六百八十七 年前(ねんぜん)の著(ちよ)で古来(こらい)鴨(かも)の長明(ちようめい)が書(か)       いたと伝(つた)へ長明海道記(てふめいかいどうき)と唱(とな)へられて居(を)るが其(その)光行(みつゆき)の著(ちよ)なる事(こと)は諸先輩(しよせんぱい)の説(せつ)がある、 此記(このき)の中(うち)には本野(ほんの) 豊川宿   ケ原(はら)を通過(つうくわ)して豊川宿(とよかはしゆく)に泊(とま)り深夜(しんや)に立出(たちい)でゝ見(み)れば川(かは)の流(ながれ)が広(ひろ)く誠(まこと)に豊(ゆた)かなる渡(わたし)である河(かは)の石瀬(いしせ)に落(おち)       る浪(なみ)の音(おと)は月(つき)の光(ひかり)に超(こ)へ川辺(かはべ)に過(すぎ)る風(かぜ)の響(ひゞき)は夜(よ)の色白(いろしろ)く渚(なぎさ)ひなの住家(すみか)には月(つき)より外(ほか)に詠(よみ)なれたるもの       はないとの意(い)が書(か)いてある、 即(すなは)ち光行(みつゆき)は此時(このとき)新街道(しんかいどう)を通(とは)りて豊川宿(とよかはしゆく)にかゝつたものであるが無論(むろん)其(その)当(とう)        時(じ)の河流(かりう)は今(いま)の状態(ぜうたい)とは違(ちが)つて居(を)つたもので、 今(いま)の流域(りうゐき)は明応(めいおう)八 年(ねん)の大震災(だいしんさい)に変(へん)じたものであるとの 源頼朝上洛  事(こと)である、 又(また)之(これ)より先(さ)き源頼朝(みなもとよりとも)が天下(てんか)を統(とう)一して今(いま)を距(さ)ること七百十二 年前(ねんぜん)建久元年(けんきうがんねん)の十月に鎌倉(かまくら)を        発(はつ)して京都(けうと)へ上洛(ぜうらく)した事(こと)がある、 其頃(そのころ)には弟(おとゝ)の範頼(のりより)が参河守(みかはのかみ)で安達盛長(あだちもりなが)か其(その)奉行(ぶげう)であつたが頼朝(よりとも)は其(その)        時(とき)にも遠州(えんしう)の橋本(はしもと)の宿(しゆく)から三河(みかは)の雲(う)の谷(や)に入(い)り普門寺(ふもんじ)を過(よ)ぎつて岩崎(いはざき)に出(い)で鞍(くら)を神社(じんしや)に奉納(ほうのふ)したと伝(つた)       へられて今(いま)も鞍掛神社(くらかけじんしや)と云(い)ふがある、 此(この)橋本(はしもと)と云(い)ふ処(ところ)は明応(めいおう)八 年(ねん)の大地震(だいぢしん)に陥落(かんらく)して海(うみ)となり今(いま)は跡(あと) 【欄外】 豊橋市史談   (築城以前の豊橋)                      五

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談  (築城以前の豊橋)                      四 【本文】       のは実に感服の他はないので、私は常に翁の遺徳に対して尊敬の念を払っているのである。従ってその遺       徳を永久に伝えたいと切望するものである。さて翻って前に述べた時代すなわち一千余年前から九百余年       前までの頃における我が国の形勢はいかがであったかというに、『類聚三代格』の太政官符にある承和二年とい       う年は丁度仁明天皇の御宇で、あの橘逸勢の乱のあった承和九年より七年前である。それから『和名類       聚抄』のできたと伝える延長年間は醍醐帝の御代で、承和から延長の間は凡そ百年内外を隔て、文徳、清和、 《割書:三河の国府並びに国司》   陽成、光孝、宇多の朝を経て平安朝の文物は方に隆盛を極める時であった。そしてその頃三河の国府       は宝飯郡に置かれて、今より言えばその所在地に異説があるが、大体においては現在の国府町から北にかけ       て八幡村附近に位置してあったことは事実と信じられる。当時国司となって来られた人を挙げて見ると、        橘本継、豊前王、菅原継門、安部氏主、同良行、藤原安棟、長岡秀雄、藤原善友、源進などで、       これは『続日本後記』、『文徳実録』、『三代実録』等に載っている。この時分の国司の年限は四ヶ年であったが、中には        再任して八ヶ年ないし十ヶ年も勤続した人がある。 《割書:東海道通路の変更》   そこで前にも言ったごとく今の豊橋の地はこの頃における東海道の要路であったが、何分にも河幅が広くて       通行に不便であったがため、その後に至って遂に往来を変更して川を上流のところより渡りて豊川宿すなわち今       の古宿にかかるに至ったものと思われる。今を去る九百二十四年前、永観元年一条相国障子絵歌の中に 《割書:志香須賀の渡し》   行き通う船路はあれど志香須賀の渡しは跡もなくぞなりける       というのがある。志香須賀の渡しとはすなわちこの渡津と飽海との間を指したるもので、清少納言の『枕草子』をはじめ古       き撰集などにあるのもやはり皆ここを言ったものと思われる。然るに『更級日記』にはこの志香須賀の渡しを尾       張三河の境のように記してあるが、この日記には錯誤脱漏等が多いからあまり証拠にはならぬと思われる。 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千六百八十二号附録   (明治四十四年二月十四日発行) 【本文】       この日記は藤原孝標の娘で橘俊道の妻になった女が書いたもので、八百四十年ばかり以前のものである。中       に東から京都への帰途を書いたものがあるが、その間に右の記事があるのである。また同じ条に高師の浜と       ある次に八橋のことがあり、それより二村山とありて後に宮路山とあるなど、いかにも前後を顛倒したところが       ある。しかしながら二村山の山中にて道辺の家に宿りたるに大なる柿の木があって、その実が夜中ポトリ       ポトリと落ちたということが書いてあるのは誠に面白いと思う。徳川時代には往来の両側に松杉、また一里塚       としては榎等を植えたものであるが、奈良朝時代には多く果物のなる木を植えて旅人が疲労を感じた       時随意に取って食べるのを許したものである。すなわちこの記事はどうもこのことが証拠立てられるように思わ       れて、私は趣味を感ずるのである。さてこの街道の変わったことを証拠立てるには色々のものがあるが、ここに貞       応二年源光行が書いた『海道記』というものがある。今を去る六百八十七年前の著で、古来鴨の長明が書       いたと伝え『長明海道記』と唱えられているが、その光行の著なることは諸先輩の説がある。この記の中には本野 豊川宿   ヶ原を通過して豊川宿に泊り、深夜に立ち出でて見れば川の流れが広く誠に豊かなる渡しである。河の石瀬に落       る波の音は月の光に冴え、川辺に過ぐる風の響きは夜の色白く、渚ひなの住家には月より他に詠み慣れたるもの       はないとの意が書いてある。すなわち光行はこの時新街道を通りて豊川宿にかかったものであるが、無論その当       時の河流は今の状態とは違っていたもので、今の流域は明応八年の大震災に変じたものであるとの 源頼朝上洛 ことである。またこれより先き源頼朝が天下を統一して今を距ること七百十二年前建久元年の十月に鎌倉を       発して京都へ上洛したことがある。その頃には弟の範頼が参河守で安達盛長がその奉行であったが、頼朝はその       時にも遠州の橋本の宿から三河の雲の谷に入り普門寺を過ぎて岩崎に出で、鞍を神社に奉納したと伝       えられて今も鞍掛神社というのがある。この橋本というところは明応八年の大地震に陥落して海となり今は跡 【欄外】 豊橋市史談  (築城以前の豊橋)                      五

英語訳

【Margin】 Toyohashi Historical Discussion  (Toyohashi before castle construction)                      4 【Main text】       I cannot but admire this deeply, and I always pay my respects to the elder's virtuous legacy. Therefore I earnestly desire to perpetuate his virtuous       legacy forever. Now, turning back to the era I mentioned earlier - from over a thousand years ago to over nine hundred years       ago - what was the situation of our country during this period? The year Jōwa 2 mentioned in the Grand Council of State decree in the 'Ruijū Sandai-kyaku'       was exactly during the reign of Emperor Ninmyō, seven years before Jōwa 9 when the rebellion of Tachibana no Hayanari occurred. The Enchō era when the 'Wamyō       Ruijūshō' is said to have been completed was during the reign of Emperor Daigo, and between Jōwa and Enchō roughly a hundred years passed, spanning the reigns of Buntoku, Seiwa, 《Interlinear note: Mikawa Provincial Capital and Provincial Governors}}   Yōzei, Kōkō, and Uda, when the culture of the Heian court was reaching the height of its prosperity. At that time, the Mikawa provincial capital       was located in Hōi District, and while there are different theories about its exact location today, it is generally believed to have been situated from present-day Kōfu-chō northward       in the vicinity of Yahata village. The people who served as provincial governors at that time included:        Tachibana no Mototsugu, Prince Buzen, Sugawara no Tsugukado, Abe no Ujinushi, Abe no Yoshiyuki, Fujiwara no Yasumune, Nagaoka no Hideo, Fujiwara no Yoshitomo, and Minamoto no Susumu,       as recorded in the 'Shoku Nihon Kōki,' 'Buntoku Jitsuroku,' 'Sandai Jitsuroku,' and other works. The term of office for provincial governors at this time was four years, though some        were reappointed and served continuously for eight to ten years. 《Interlinear note: Change in Tōkaidō Route}}   So, as I mentioned before, the present site of Toyohashi was a crucial route on the Tōkaidō during this period, but the river width was so broad that       travel was inconvenient. Therefore, the route was eventually changed, with travelers crossing the river at an upstream point to reach Toyokawa-juku, which is present-day       Furujuku. In the Ichijō Minister's sliding door paintings from Eikan 1, nine hundred twenty-four years ago, there appears: 《Interlinear note: Shigasuga Crossing}}   "Though there are boat routes that come and go, the Shigasuga crossing has left no trace"       This Shigasuga crossing refers to the area between Watazu and Akumi mentioned earlier, and references to it in Sei Shōnagon's 'Pillow Book' and other ancient       collections all seem to refer to this same place. However, the 'Sarashina Diary' describes this Shigasuga crossing as if it were on the border between Owari       and Mikawa, but since this diary contains many errors and omissions, it cannot be considered very reliable evidence. 【Left page】 【Margin】 San'yō Shimpō No. 3,682 Supplement   (Published February 14, Meiji 44) 【Main text】       This diary was written by the daughter of Fujiwara no Kōhyō who became the wife of Tachibana no Toshimichi, and dates from about eight hundred forty years ago. It includes       an account of her return journey from the east to Kyoto, and the aforementioned passage appears in that section. Also in the same passage, after mentioning Takashi Beach,       it refers to Yatsuhashi, then mentions Futamura-yama, and later Miyaji-yama - the order is clearly confused.       However, I find it quite interesting that it describes staying at a roadside house in the mountains of Futamura-yama where there was a large persimmon tree whose fruit       fell with plopping sounds throughout the night. In the Tokugawa period, pines and cedars were planted along both sides of roads, and zelkova trees at mile markers,       but in the Nara period, fruit-bearing trees were commonly planted so that travelers could freely pick and eat the fruit when they felt       tired. This passage seems to provide evidence of this practice, which I find quite fascinating. Now, there are various sources that provide evidence for this change in the highway route, and here we have       the 'Kaidōki' written by Minamoto no Mitsuyuki in Jōō 2. This work from six hundred eighty-seven years ago has traditionally been attributed to Kamo no       Chōmei and called the 'Chōmei Kaidōki,' but various scholars have established that it was actually written by Mitsuyuki. This record describes passing through Honno Toyokawa-juku   ガahara and staying at Toyokawa-juku, then venturing out late at night to see the broad river flow - truly an abundant crossing. The sound of waves falling on the rocky rapids of the river       resonates in the moonlight, the sound of wind passing along the riverbank whitens the night, and in the dwellings of the shore birds there is nothing more familiar than the moon to sing about.       In other words, Mitsuyuki at this time took the new highway route to reach Toyokawa-juku, but naturally the river flow at that       time was different from today's condition, as the present river course changed due to the great earthquake of Meiō 8. Minamoto no Yoritomo's Journey to Kyoto Also, before this, when Minamoto no Yoritomo unified the realm and traveled from Kamakura to Kyoto in the tenth month of Kenkyū 1, seven hundred twelve years ago,       his younger brother Noriyori was governor of Mikawa Province with Adachi Morinaga as administrator. Yoritomo at that time also entered the Kumo valley of Mikawa from Hashimoto-juku in Enshū Province,       passed Fumon-ji temple and emerged at Iwasaki, where he is said to have dedicated a saddle to a shrine - the Kurakake Shrine still exists today. This place called Hashimoto was submerged and became ocean due to the great earthquake of Meiō 8, leaving only traces 【Margin】 Toyohashi Historical Discussion  (Toyohashi before castle construction)                      5