Code4Lib JAPAN ✕ みんなで翻刻

コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 151

ページ: 151

翻刻

【欄外】    豊橋市史談  (松平信祝と其時代)                    二百七十四 【本文】       ら入(い)つて宗家(しうけ)を襲(つ)いだのであるが中々(なか〳〵)の英主(えいしゆ)で殊(こと)に武家主義(ぶけしゆぎ)を鼓吹(こす)した人(ひと)であるから之迄(これまで)綱吉(つなよし)以来(いらい)の        公武親和主義(こうぶしんわしゆぎ)とは自(みづか)ら相反(あひはん)する方針(はうしん)であつたソコで前代(ぜんだい)に於(おい)て新井白石(あらゐはくせき)等(ら)の計画(けいくわく)した事(こと)は大概(たいがい)気(き)に入(い)      らなかつたのである従(したがつ)て就職(しゆしよく)早々(さう〳〵)白石(はくせき)をも詮勝(のりかつ)をも斥(しりぞ)けて仕舞(しま)ひ復(ふたゝ)び林信篤(はやしのぶあつ)が用(もち)いらるゝ様(やう)に至(いた)つた      のであるが前(まへ)に御話(おはなし)した久世重之(くせしげゆき)は此間(このかん)に立(た)つて享保(けうほ)五年六月廿七日 其(その)卒去(そつきよ)まで職(しよく)を継続(けいぞく)し頗(すこぶ)る此(この)享(けう)        保(ほ)の政治(せいぢ)には尽(つく)したものである尚(なほ)念(ねん)の為(ため)に申述(もをしの)ぶるが正徳(せうとく)と云(い)ふ年号(ねんごう)は六年目に享保(けうほ)と改(あらた)まつたので       ある而(しか)して此(この)享保(けうほ)年代(ねんだい)は即(すなは)ち吉宗(よしむね)が盛(さかん)に幕政(ばくせい)の改革(かいかく)を行(おこな)つた時(とき)で吉宗(よしむね)と云(い)ふ人(ひと)は徳川氏(とくがはし)に取(と)つては実(じつ)       に中興(ちうこう)の祖(そ)とも云(い)ふべきであろうと思(おも)ふ而(しか)して此(この)享保(けうほ)四年四月 信祝(のぶとき)は初(はじめ)の名(な)信高(のぶたか)を今(いま)の名(な)に改(あらた)めたの 《割書:信祝大阪城|代に任ぜら|る》  であるが此(この)時(とき)も亦(ま)た林信篤(はやしのぶあつ)が其(その)名(な)を勘定(かんてい)して居(を)るのである夫(それ)から十四年の二月二日に至(いた)つて信祝(のぶとき)は大(おほ) 《割書:信祝浜松に|移封せらる》   阪城代(さかじようだい)に任(にん)ぜられたのであるが之(これ)と同時(どうじ)に遠江(とほとふみ)の浜松(はままつ)に移封(いほう)せられ同城主(どうじようしゆ)松平豊後守(まつだひらぶんごのかみ)資訓が代(かは)つて        此(この)吉田城主(よしだじようしゆ)と相成(あひな)つたのである       トコロで私(わたくし)は今少(いますこ)しく便宜上(べんぎぜう)から引続(ひきつゞ)いて信祝(のぶとき)の事(こと)に付(つい)て尚(なほ)此処(こゝ)に申述(もをしの)べて置(お)きたいと思(おも)ふのである       が先(ま)づ此(この)信祝(のぶとき)が大阪城代(おほさかじようだい)となつて赴任(ふにん)の時(とき)の事(こと)である之(これ)が矢張(やはり)大河内家(おほかうちけ)には詳(くは)しい日記(につき)として其(その)当時(たうじ)       のものが残(のこ)つて居(を)るのである江戸出発(えどしゆつぱつ)から此(この)吉田(よしだ)へ立寄(たちよ)つた事(こと)並(ならび)に大阪(おほさか)に着(ちやく)する迄(まで)の事柄(ことがら)は孰(いづ)れも大(だい) 《割書:信祝輝貞と|同時に老中|に擁用せら|る》   小(せう)となく記録(きろく)されて居(を)るので史料(しれう)となるべき点(てん)が少(すくな)くない然(しか)るに信祝(のぶとき)は其(その)翌年(よくねん)の七月十一日 分家(ぶんけ)の松(まつ)        平右京太夫輝貞(だひらうけふだいふてるさだ)と共(とも)に老中(らうちう)に擁用(てきよう)せられたのであるが之(これ)に就(つい)ては多少(たせう)の事情(じぜう)がなくてはならぬように        思(おも)はれる前(まへ)に申述(もをしの)べた如(ごと)く此(この)輝貞(てるさだ)と云(い)ふ人は輝綱(てるつな)の子(こ)で信輝(のぶてる)の弟(おとゝ)であるから信祝(のぶとき)から云(い)ふと叔父(おぢ)に        当(あた)る人であるが此(この)人(ひと)は彼(か)の柳沢吉保(やなぎさわよしやす)とは至(いた)つて親密(しんみつ)の間柄(あひだがら)で五 代将軍(だいせうぐん)綱吉(つなよし)の為(ため)には大(おほい)に信用(しんよう)を得(え)たも       ので三万二千石から七万二千石 迄(まで)に加増(かぞう)せられ上州高崎(ぜうしうたかさき)の城主(じようしゆ)であつたが吉保(よしやす)が斥(しりぞけ)られた時には輝貞(てるさだ) 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       も亦(ま)た幕府(ばくふ)に疎(うとん)せらるゝに至(いた)つて一たび越後(ゑちご)の村上(むらかみ)に転封(てんほう)せられたのである然(しか)るに此(この)本家(ほんけ)たる信祝(のぶとき)の        家(いへ)に於(おい)ても当時(たうじ)柳沢家(やなぎさはけ)とは親密(しんみつ)の間柄(あひだがら)であつた事は先(さ)きに輝綱夫人(てるつなふじん)の書翰(しよかん)を御紹介(ごせうかい)申上(もをしあげ)た時(とき)に於(おい)ても        略(ほ)ぼ御了解(ごれうかい)の事であつたと信(しん)ずるソコで私(わたくし)は信祝(のぶとき)の父(ちゝ)信輝(のぶてる)の隠居(ゐんきよ)に就(つい)ても常(つね)に何分(なにぶん)疑(うたがひ)を抱(いだ)いて居(を)る       ものであるが併(しか)し此(この)信輝(のぶてる)と云ふ人は病気勝(びようきがち)であつた様(やう)に推定(すいてい)さるゝから全(まつた)く其(その)為(ため)の隠居(ゐんきよ)かとも思(おも)はる       ゝが丁度(ちようど)其(その)隠居(ゐんきよ)が六 代将軍(だいせうぐん)家宣(いへのぶ)就職(しゆしよく)の時で恰(あたか)も吉保(よしやす)輝貞(てるさだ)等(ら)の斥(しりぞ)けられた当時(たうじ)であるから何(なん)だかソコに        意味(いみ)ありげなので疑(うたが)つて見(み)れば疑(うたが)はれもするのである然(しか)るにイヨ〳〵八 代将軍(だいせうぐん)吉宗(よしむね)の就職(しゆしよく)となつて俄(にはか)       に模様(もやう)が変(かは)つて而(しか)も同日(どうじつ)に此(この)叔甥(おぢおい)か共(とも)に老中(らうちう)に擁用(てきよう)されたと云ふ事は当時(たうじ)頗(すこぶ)る人心(じん〳〵)を驚(おどろ)かした事であ      つたろうと思(おも)ふが輝貞(てるさだ)は吉宗(よしむね)がまだ紀州家(きしうけ)の庶子(しよし)として僅(わづか)に越前(ゑちぜん)丹生三万石の小禄(せうろく)であつた時(とき)其(その)地(ち)は        礎角(ぎようかく)であるから追(お)つては村替(むらがへ)の儀(ぎ)を取計(とりはから)ふべしと切(せつ)に懇志(こんし)を通(つう)じ又(ま)た己(おの)れが側用人(そばようにん)の位置(ゐち)にあつた処(ところ)       から時(とき)の将軍(せうぐん)綱吉(つなよし)に拝謁(はいえつ)の時(とき)などは勉(つと)めて吉宗(よしむね)に便宜(べんぎ)を与(あた)へ之(これ)を執成(とりな)したので吉宗(よしむね)は深(ふか)く之(これ)を喜(よろこ)むで        先(さ)きに此(この)輝貞(てるさだ)を高崎城(たかさきじよう)に復(ふく)し今(いま)亦(ま)た之(これ)を老中(らうちう)に擁用(てきよう)したのは酬(むく)ゆる処(ところ)があつたのであると云ふ説(せつ)があ       る兎(と)に角(かく)輝貞(てるさだ)の登用(とうよう)に至(いた)つては当時(たうじ)慥(たしか)に世人(せじん)をして一 驚(けう)を喫(きつ)せしめたと云ふ事(こと)である而(しか)して信祝(のぶとき)は        爾来(じらい)輝貞(てるさだ)と共(とも)に幕政(ばくせい)に参与(さんよ)して享保(けうほ)から元文(げんぶん)、 寛保(かんぽ)、 延享(えんけう)と吉宗(よしむね)在職中(ざいしよくちう)勤続(きんぞく)し延享(えんけう)元年(がんねん)四月十八日を        以(もつ)て卒去(そつきよ)した次第(しだい)であるが其(その)在職中(ざいしよくちう)の記録類(きろくるい)は今(いま)も多数(たすう)大河内家(おほかうちけ)に残(のこ)つて居(を)るので所謂(いはゆる)享保(けうほ)の政治(せいぢ)を        講究(こうきう)する上(うへ)には大切(たいせつ)なるものが少(すくな)くないのである             ⦿信祝の人物並に事蹟の一班 信祝の日記  信祝(のぶとき)と云ふ人は余程(よほど)緻密(ちみつ)な性質(せいしつ)で特(とく)に親切丁寧(しんせつていねい)な人であつたと信(しん)ずる現(げん)に大河内家(おほかうちけ)には信祝(のぶとき)の日誌(につし)が 【欄外】    豊橋市史談  (信祝の人物並に事蹟の一班)                二百七十五

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(松平信祝とその時代) 二百七十四 【本文】 ら入って宗家を継いだのであるが、なかなかの英主で特に武家主義を鼓吹した人であるから、これまで綱吉以来の公武親和主義とは自ら相反する方針であった。そこで前代において新井白石等の計画した事は大概気に入らなかったのである。従って就職早々、白石をも詮勝をも退けてしまい、再び林信篤が用いられるように至ったのであるが、前にお話しした久世重之はこの間に立って享保五年六月二十七日、その卒去まで職を継続し、頗るこの享保の政治には尽くしたものである。なお念のために申し述べるが、正徳という年号は六年目に享保と改まったのである。而してこの享保年代は即ち吉宗が盛んに幕政の改革を行った時で、吉宗という人は徳川氏にとっては実に中興の祖とも言うべきであろうと思う。而してこの享保四年四月、信祝は初めの名信高を今の名に改めたのであるが、この時もまた林信篤がその名を勘定しているのである。それから十四年の二月二日に至って信祝は大阪城代に任ぜられたのであるが、これと同時に遠江の浜松に移封され、同城主松平豊後守資訓が代わってこの吉田城主と相成ったのである。 《割書:信祝大阪城代に任ぜらる》《割書:信祝浜松に移封せらる》 ところで私は今少し便宜上から引き続いて信祝の事について、なおここに申し述べて置きたいと思うのであるが、先ずこの信祝が大阪城代となって赴任の時の事である。これがやはり大河内家には詳しい日記としてその当時のものが残っているのである。江戸出発からこの吉田へ立ち寄った事並びに大阪に着するまでの事柄は、いずれも大小となく記録されているので史料となるべき点が少なくない。然るに信祝はその翌年の七月十一日、分家の松平右京大夫輝貞と共に老中に登用されたのであるが、これについては多少の事情がなくてはならぬように思われる。前に申し述べたようにこの輝貞という人は輝綱の子で信輝の弟であるから、信祝から言うと叔父に当たる人であるが、この人は彼の柳沢吉保とは至って親密の間柄で、五代将軍綱吉のためには大いに信用を得たもので、三万二千石から七万二千石まで加増され、上州高崎の城主であったが、吉保が退けられた時には輝貞 《割書:信祝輝貞と同時に老中に登用せらる》 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏はその該博なる知識と不尽の精力を傾け、豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際し 【左頁】 【欄外】 この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 もまた幕府に疎まれるに至って、一度越後の村上に転封されたのである。然るにこの本家たる信祝の家においても当時柳沢家とは親密の間柄であった事は、先きに輝綱夫人の書簡をご紹介申し上げた時においても略ぼご了解の事であったと信ずる。そこで私は信祝の父信輝の隠居についても常に何分疑いを抱いているものであるが、しかしこの信輝という人は病気がちであったように推定されるから、全くその為の隠居かとも思われるが、丁度その隠居が六代将軍家宣就職の時で、恰も吉保・輝貞等の退けられた当時であるから、何だかそこに意味ありげなので疑って見れば疑われもするのである。然るにいよいよ八代将軍吉宗の就職となって俄かに模様が変わって、而も同日にこの叔甥が共に老中に登用されたという事は、当時頗る人心を驚かした事であったろうと思うが、輝貞は吉宗がまだ紀州家の庶子として僅かに越前丹生三万石の小禄であった時、その地は境角であるから追っては村替の儀を取り計らうべしと切に懇志を通じ、また己れが側用人の位置にあった処から、時の将軍綱吉に拝謁の時などは努めて吉宗に便宜を与え、これを執り成したので、吉宗は深くこれを喜んで、先にこの輝貞を高崎城に復し、今またこれを老中に登用したのは酬いる処があったのであるという説がある。とにかく輝貞の登用に至っては当時確かに世人をして一驚を喫せしめたという事である。而して信祝は爾来輝貞と共に幕政に参与して享保から元文、寛保、延享と吉宗在職中勤続し、延享元年四月十八日をもって卒去した次第であるが、その在職中の記録類は今も多数大河内家に残っているので、所謂享保の政治を講究する上には大切なるものが少なくないのである。 ⦿信祝の人物並びに事蹟の一班 信祝の日記 信祝という人は余程緻密な性質で、特に親切丁寧な人であったと信ずる。現に大河内家には信祝の日誌が 【欄外】 豊橋市史談(信祝の人物並びに事蹟の一班) 二百七十五

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Nobutoki and His Era) 274 **Main Text:** from the Kishū house and inherited the main family line. He was quite an outstanding ruler who particularly advocated for warrior house principles, so his policies naturally opposed the court-warrior harmony doctrine that had prevailed since Tsunayoshi's time. Therefore, he generally disapproved of the plans that Arai Hakuseki and others had made in the previous era. Consequently, immediately upon taking office, he dismissed both Hakuseki and Norikatus, and Hayashi Nobuatsu came to be employed again. However, Kuze Shigeyuki, whom I mentioned earlier, stood between these changes and continued in office until his death on June 27, Kyōhō 5, making considerable contributions to the Kyōhō administration. For reference, I should mention that the Shōtoku era name was changed to Kyōhō in its sixth year. This Kyōhō period was when Yoshimune actively reformed the shogunal administration, and I think Yoshimune can truly be called the second founder of the Tokugawa house. In Kyōhō 4, 4th month, Nobutoki changed his original name from Nobutaka to his current name, and at this time too, Hayashi Nobuatsu calculated the name selection. Then on the 2nd day of the 2nd month of the 14th year, Nobutoki was appointed as Osaka castle keeper, and at the same time was transferred to Hamamatsu in Tōtōmi province, while Matsudaira Bungo-no-kami Sukekuni, the lord of that castle, came to replace him as lord of Yoshida Castle. *Inset: Nobutoki appointed as Osaka castle keeper* *Inset: Nobutoki transferred to Hamamatsu* Now, for convenience, I would like to continue discussing Nobutoki's affairs and mention a few more things here. First, regarding when Nobutoki became Osaka castle keeper and took up his post. Detailed diaries from that period also remain in the Ōkōchi family. Everything from his departure from Edo, his stop at Yoshida, and his arrival in Osaka is recorded in great and small detail, providing considerable historical material. However, on July 11 of the following year, Nobutoki was promoted to senior councilor together with Matsudaira Ukyō-dayū Terusada of a branch family, and there must have been some circumstances behind this. As I mentioned before, this Terusada was Teretsuna's son and Nobuteru's younger brother, so he was Nobutoki's uncle. This person was very intimate with that Yanagisawa Yoshiyasu and gained great trust from the fifth shogun Tsunayoshi, receiving increases from 32,000 to 72,000 koku and becoming lord of Takasaki Castle in Jōshū. But when Yoshiyasu was dismissed, Terusada... *Inset: Nobutoki and Terusada simultaneously promoted to senior councilor* **Margin:** Toyohashi Mayor Ōguchi Kiroku has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling the Toyohashi city history for over a year, and now as that manuscript is nearly complete... **Left Page:** **Margin:** This Toyohashi City Historical Discourse is published once a week (on Tuesdays) and presented to readers of the San'yō Shinpō. **Main Text:** was also shunned by the shogunate and was once transferred to Murakami in Echigo. However, in this main family house of Nobutoki as well, they had intimate relations with the Yanagisawa family at that time, as I believe was roughly understood when I introduced Teretsuna's wife's letter earlier. So I always harbor some suspicion about the retirement of Nobutoki's father Nobuteru, but since this Nobuteru appears to have been sickly, it might have been entirely due to illness. However, his retirement coincidentally occurred when the sixth shogun Ienobu took office, exactly when Yoshiyasu, Terusada and others were being dismissed, so there seems to be some meaning there, and if one suspects it, it becomes quite suspicious. But when the eighth shogun Yoshimune finally took office, the situation suddenly changed, and the fact that this uncle and nephew were promoted to senior councilor on the same day must have greatly surprised people at the time. There is a theory that when Yoshimune was still a bastard son of the Kishū family with only the small stipend of 30,000 koku in Echizen Nyū, Terusada earnestly conveyed his sincere intentions that since that land was at a border corner, village exchanges should be arranged in due course. Also, from his position as personal attendant to the shogun, during audiences with Shogun Tsunayoshi, he made efforts to provide convenience to Yoshimune and interceded for him, so Yoshimune was deeply pleased and first restored Terusada to Takasaki Castle, and now promoted him to senior councilor as a reward. In any case, Terusada's appointment certainly caused great surprise among people at the time. From then on, Nobutoki participated in shogunal administration together with Terusada, continuing service during Yoshimune's tenure through Kyōhō, Genbun, Kanpō, and Enkyō eras, and died on April 18, Enkyō 1. Many records from his time in office still remain with the Ōkōchi family today, and many are valuable for studying the so-called Kyōhō administration. ⦿Nobutoki's Character and Some of His Achievements Nobutoki's Diary: I believe Nobutoki was a person of quite meticulous nature, particularly kind and courteous. Indeed, Nobutoki's journals remain in the Ōkōchi family... **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Nobutoki's Character and Some of His Achievements) 275