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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 152

ページ: 152

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【欄外】    豊橋市史談  (信祝の人物並に事蹟の一班)                二百七十六 【本文】       五十五 冊程(さつほど)保存(ほぞん)されてあるが之(これ)が毎日(まいにち)自筆(じしつ)で緻密(ちみつ)に其日(そのひ)々々の出来事(できごと)を記録(きろく)したものである而(しか)も之(これ)が        享保(けうほ)から初(はじ)まつて元文(げんぶん)、 寛保(かんぽ)と継続(けいぞく)して居(を)るが丁度(ちようど)信祝(のぶとき)が老中(らうちう)在職中(ざいしよくちう)のものであるから子細(しさい)に之(これ)を調(てう)        査(さ)したならば所謂(いはゆる)享保(けうほ)の政治(せいぢ)即(すなは)ち八 代将軍(だいせうぐん)吉宗(よしむね)の政治(せいぢ)と云ふものに対(たい)して研究(けんきう)の材料(ざいれう)となるものが多(おほ) 大河内家譜 い事と思(おも)ふ又(ま)た此人(このひと)の撰(せん)で大河内家譜(おほかうちかふ)と云ふものがあるが之(これ)は伝来(でんらい)の家譜(かふ)を考証(かうせう)して大成(たいせい)したもので        家譜(かふ)、 支流譜(しりうふ)、 付録(ふろく)、 余裔譜(よえいふ)、 別録(べつろく)と分(わか)つてあるが今(いま)大河内家(おほかうちけ)に蔵(ざう)せられて居(を)るものゝ内(うち)家譜(かふ)五 巻(かん)、        支流譜(しりうふ)七 巻(かん)、 付録(ふろく)九 巻(かん)、 余裔譜(よえいふ)八 巻(かん)、 別録(べつろく)四 巻(かん)と云(い)ふものは孰(いづ)れも其(その)自筆(じしつ)であつて享保(けうほ)十九年の自序(じぢよ)       があるのである兎(と)に角(かく)之(これ)が老中職(らうちうしよく)にある間(あひだ)の余業(よげふ)であるとしては実(じつ)に其(その)勤勉(きんべん)であつた事(こと)が思(おも)ひやられ       るのである其(その)家譜(かふ)の自序(じぢよ)の内(うち)にも        吾嘗聞、諸先祖有善而弗知不明也、知而弗伝不仁也。吾難不敏也、盖恥焉。故毎退食須臾遑舎、黽        勉有所識、積成巻若干、所以従俗而不敢修之辞者、欲事蹟務実且人易膮也、尚子子孫孫、永纂輯、        以称揚美後世、是吾之所以恥君子之所恥也。       とある如(ごと)くで誠(まこと)に信祝(のぶとき)の人(ひと)となりが分(わか)ると思(おも)ふのである且(か)つ其(その)日記(につき)又(また)は家譜(かふ)などの装釘(そうてい)から見(み)ても実(じつ)       に簡短(かんたん)なもので殊(こと)に日記(につき)の如(ごと)きは竹紙(ちくし)を四ツ折(をり)にして之(これ)を紙縒(かうより)で綴(つゞ)つただけである処(ところ)などは如何(いか)に信(のぶ)        祝(とき)が質素倹約(しつそけんやく)を旨(むね)とした人(ひと)であつたかが窺(うかゞ)ひ知(し)らるゝ事(こと)と思(おも)ふ又(ま)た信祝(のぶとき)は歌(うた)を読(よ)み画(ぐわ)を画(ゑが)いたが之(これ)は        何方(どちら)も忌憚(きたん)なく言(い)へば余(あま)り名人(めいじん)と云ふ程(ほど)ではなかつた事(こと)と思(おも)はれる併(しか)し其(その)画(ぐわ)には密画(みつぐわ)が多(おほ)く緻密(ちみつ)にし       て親切(しんせつ)な人であつた事(こと)は画面(ぐわめん)の上(うへ)にも現(あら)はれて居(を)るのである今(いま)豊橋市(とよはしし)の神宮寺(じんぐうじ)に遺(のこ)つて居(を)る観音(くわんをん)の像(ぞう)       の如(ごと)きは出来(でき)も中々(なか〳〵)善(よ)く最(もつと)も其(その)真相(しんさう)を発揮(はつき)して居(を)るものと思(おも)ふが龍拈寺(りうねんじ)にも亦(ま)た信祝(のぶとき)が寄進(きしん)した紺紙(こんがみ)        金泥(きんでい)の仏像(ふつぞう)がある之(これ)も緻密(ちみつ)な事(こと)に至(いた)つては実(じつ)に他(た)に遜(くだ)らざる処(ところ)のものである和歌(わか)に於(おい)ても同様(どうよう)で古今(こきん) 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千百四十四号附録    (大正元年八月二十日発行) 【本文】        集秘伝(しうひでん)と云ふ書物(しよもつ)の如(ごと)きは矢張(やはり)之(これ)を自写(じしや)したもので今(いま)大河内家(おほかうちけ)に残(のこ)つて居(を)るのである右(みぎ)の如(ごと)き次第(しだい)で 三浦竹渓  あるから勿論(もちろん)学問(がくもん)に就(つい)ては特志(とくし)のものであつたが彼(か)の三浦竹渓(みうらちくけい)と云ふ学者(がくしや)を招聘(せうへい)したのは信祝(のぶとき)が浜松(はままつ)        城主(じようしゆ)となつてからの事(こと)でそれは丁度(ちようど)享保(けうほ)十八年の事(こと)である此(この)竹渓(ちくけい)と云ふ学者(がくしや)の伝記(でんき)は先哲叢談後編(せんてつさうだんこうへん)の       五にあるので此(この)事(こと)に就(つい)ては愛知県史編纂係(あいちけんしへんさんがゝり)の田部井鉚太郎君(ため いりうたらうくん)の注意(ちうい)を受(う)けたる事(こと)が少(すくな)くないから一 言(げん)        茲(こゝ)に御礼(おんれい)を申述(もをしの)べて置(お)きたいと思(おも)ふが此(この)竹渓(ちくけい)と云ふ人は名(な)を義質、 字(あざな)を子彬(しさし)、 幼名(しよめい)を良能、 通称(つうせう)を平(へい)        太夫(だいう)と云つて江戸(えど)の人であつたが父(ちゝ)を平右衛門(へいざゑもん)と云つて其(その)曾祖(そうそ)甚右衛門尉為重(じんうゑもんぜうためしげ)は嘗(かつ)て織田信雄(をたのぶを)に仕(つか)へ       た人である竹渓(ちくけい)は若冠(じやくかん)にして豪気撓(ごうきたわ)まず嬌俊(けうしゆん)にして節(せつ)ある処(ところ)から柳沢吉保(やなぎさわよしやす)に仕(つか)へて恩寵(おんてう)特(とく)に厚(あつ)かつた       のであるが宝永(ほうえい)二年 時(とき)の将軍(せうぐん)綱吉(つなよし)が吉保(よしやす)の邸(てい)に臨(のぞ)むだ時(とき)竹渓(ちくけい)は年(とし)十七で其(その)前(まへ)に孟子(もうし)の道在邇(みちはちかきにあり)の章(せう)を        進講(しんかう)し大(おほい)に賞賛(せうさん)されたと云ふ事(こと)である中年(ちうねん)に至(いた)つて更(さら)に業(げう)を荻生徂徠(をぎうそらい)に受(う)けたが天資穎脱(てんしゑいだつ)で数歳(すうさい)なら       ずして群経(ぐんけう)を究(きは)め見解(けんかい)が奇抜(きばつ)で往々(わう〳〵)人(ひと)の意表(いへう)に出(い)でた又(ま)た楷書(かいしよ)を善(よ)くし頗(すこぶ)る徂徠(そらい)の為(ため)には親愛(しんあい)せられ       たものであるが儒者(じゆしや)を以(もつ)て世(よ)に立(た)つことは好(この)まなかつたので自(みづか)ら今日(こんにち)の所謂(いはゆる)政治家(せいぢか)を以(もつ)て任(にん)じて居(を)つ       たのである従(したがつ)てこ此(この)松平家(まつだひらけ)に聘(へい)せらるゝにも儒官(じゆくわん)としてではなく士分(しぶん)として招(せう)されたのであるが信祝(のぶとき)の        世子(せいし)信復(のぶなほ)の傅(ふ)をも兼(か)ねたのであつて後(のち)信復(のぶなほ)が復(ふたゝ)び此(この)吉田(よしだ)に移封(ゐほう)せらるゝに至(いた)つて竹渓(ちくけい)も亦(ま)た従(したが)つたの       である併(しか)し多(おほ)くは江戸(えど)に住居(ぢうきよ)したもので吉田(よしだ)には余(あま)り来(き)た事(こと)がなかつたように思(おも)はれる従(したがつ)て今(いま)も豊橋(とよばし)       の地(ち)には此(この)人(ひと)の遺墨(いぼく)など殆(ほとん)ど見(み)ざる処である又(ま)た此(この)人(ひと)は性頗(せうすこぶ)る執強(しつけう)で慷慨(かうがい)の意気(いき)に富(と)み談(だん)偶(たまた)ま節義(せつぎ)の       事に及(およ)べばた忽(たちま)ち潜然(せんぜん)とし涙下(るいか)したが其(その)代(かは)り一たび意見(いけん)の合(あ)はぬ人に向(むか)つては遠慮(ゑんりよ)なく之(これ)を罵倒(ばたう)した       ので反対者(はんたいしや)も少(すくな)くなかつたと云ふ事(こと)である宝暦(ほうれき)六年五月五日 享年(けうねん)六十八 歳(さい)で没(ぼつ)し江戸(えど)市(いち)ヶ谷(や)蓮秀寺(れんしうじ)に        葬(ほうむ)つたのであるが其(その)著書(ちよしよ)には射学正宗国字解、律学正宗国字解、明律訳義、竹渓文集等がある 【欄外】    豊橋市史談  (信祝の人物並に事蹟の一般)                二百七十七

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(信祝の人物並びに事蹟の一班) 二百七十六 【本文】 五十五冊程保存されてあるが、これが毎日自筆で緻密にその日々の出来事を記録したものである。しかもこれが享保から始まって元文、寛保と継続しているが、丁度信祝が老中在職中のものであるから、詳細にこれを調査したならば、所謂享保の政治即ち八代将軍吉宗の政治というものに対して研究の材料となるものが多い事と思う。 また、この人の撰で大河内家譜というものがあるが、これは伝来の家譜を考証して大成したもので、家譜、支流譜、付録、余裔譜、別録と分かってあるが、今大河内家に蔵せられているもののうち、家譜五巻、支流譜七巻、付録九巻、余裔譜八巻、別録四巻というものは、いずれもその自筆であって享保十九年の自序がある。とにかくこれが老中職にある間の余業であるとしては、実にその勤勉であった事が思いやられるのである。その家譜の自序の内にも 「吾嘗聞、諸先祖有善而弗知不明也、知而弗伝不仁也。吾難不敏也、盖恥焉。故毎退食須臾遑舎、黽勉有所識、積成巻若干、所以従俗而不敢修之辞者、欲事蹟務実且人易膮也、尚子子孫孫、永纂輯、以称揚美後世、是吾之所以恥君子之所恥也。」 とあるようで、誠に信祝の人となりが分かると思うのである。 かつその日記または家譜などの装丁から見ても、実に簡単なもので、特に日記のようなものは竹紙を四つ折りにしてこれを紙縒で綴っただけである処などは、如何に信祝が質素倹約を旨とした人であったかが窺い知られる事と思う。 また信祝は歌を読み画を描いたが、これは何方も忌憚なく言えば余り名人という程ではなかった事と思われる。しかしその画には密画が多く、緻密にして親切な人であった事は画面の上にも現れているのである。今豊橋市の神宮寺に残っている観音の像のようなものは、出来も中々良く、最もその真相を発揮しているものと思うが、龍拈寺にもまた信祝が寄進した紺紙金泥の仏像がある。これも緻密な事に至っては実に他に劣らざる処のものである。和歌においても同様で、古今 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千百四十四号附録(大正元年八月二十日発行) 【本文】 集秘伝という書物のようなものは、やはりこれを自写したもので、今大河内家に残っているのである。右のような次第であるから、勿論学問については特志のものであったが、彼の三浦竹渓という学者を招聘したのは信祝が浜松城主となってからの事で、それは丁度享保十八年の事である。 この竹渓という学者の伝記は先哲叢談後編の五にあるので、この事については愛知県史編纂係の田部井釺太郎君の注意を受けた事が少なくないから、一言ここにお礼を申し述べて置きたいと思うが、この竹渓という人は名を義質、字を子彬、幼名を良能、通称を平太夫といって江戸の人であったが、父を平右衛門といって、その曾祖甚右衛門尉為重は嘗て織田信雄に仕えた人である。 竹渓は若冠にして豪気撓まず、嬌俊にして節ある処から柳沢吉保に仕えて恩寵特に厚かったのであるが、宝永二年、時の将軍綱吉が吉保の邸に臨んだ時、竹渓は年十七で、その前に孟子の道在邇の章を進講し、大いに賞賛されたという事である。中年に至って更に業を荻生徂徠に受けたが、天資穎脱で数歳ならずして群経を究め、見解が奇抜で往々人の意表に出でた。また楷書を善くし、頗る徂徠のためには親愛されたものであるが、儒者をもって世に立つことは好まなかったので、自ら今日の所謂政治家をもって任じていたのである。 従って、この松平家に聘されるにも儒官としてではなく士分として招かれたのであるが、信祝の世子信復の傅をも兼ねたのであって、後信復が再びこの吉田に移封されるに至って竹渓もまた従ったのである。しかし多くは江戸に住居したもので、吉田には余り来た事がなかったように思われる。従って今も豊橋の地にはこの人の遺墨など殆ど見ざる処である。 またこの人は性頗る執強で慷慨の意気に富み、談たまたま節義の事に及べば忽ち潜然とし涙下したが、その代わり一たび意見の合わぬ人に向かっては遠慮なくこれを罵倒したので、反対者も少なくなかったという事である。 宝暦六年五月五日、享年六十八歳で没し、江戸市ヶ谷蓮秀寺に葬ったのであるが、その著書には射学正宗国字解、律学正宗国字解、明律訳義、竹渓文集等がある。 【欄外】 豊橋市史談(信祝の人物並びに事蹟の一般) 二百七十七

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Nobutoki's Character and Some of His Achievements) 276 **Main Text:** About fifty-five volumes are preserved, all meticulously recording daily events in his own handwriting every day. Moreover, these continue from Kyōhō through Genbun and Kanpō periods, precisely during Nobutoki's tenure as senior councilor, so if these were investigated in detail, I think there would be much material for research into the so-called Kyōhō administration, namely the government of the eighth shogun Yoshimune. Also, there is a work compiled by this person called the "Ōkōchi Family Genealogy," which is a comprehensive study based on examination of the transmitted family records. It is divided into main genealogy, branch genealogies, appendices, descendant genealogies, and separate records. Among those currently stored in the Ōkōchi family, the main genealogy (5 volumes), branch genealogies (7 volumes), appendices (9 volumes), descendant genealogies (8 volumes), and separate records (4 volumes) are all in his own handwriting with a preface dated Kyōhō 19. In any case, if this was his spare-time work while serving as senior councilor, one can truly appreciate how diligent he was. In the preface to his family genealogy, he also wrote: "I have heard that not knowing the good deeds of one's ancestors shows lack of understanding, and knowing but not transmitting them shows lack of benevolence. Though I am not gifted, I am ashamed of this. Therefore, whenever I have a brief respite after meals, I diligently record what I know, accumulating several volumes. The reason I follow common practice and dare not use refined language is that I want the achievements to be factual and easily understood by people. I hope that children and grandchildren will continue to compile and edit these records to praise and honor future generations. This is why I am ashamed of what gentlemen are ashamed of." This truly shows us Nobutoki's character. Moreover, looking at the binding of his diaries and genealogies, they are extremely simple. Particularly the diaries, which are just bamboo paper folded in quarters and bound with twisted paper cords, show how Nobutoki was a person who made simplicity and frugality his principle. Nobutoki also composed poetry and painted, but frankly speaking, he was probably not quite at the level of a master in either. However, his paintings often show fine detail, and his meticulous and caring nature appears on the canvas. Works like the Kannon statue that remains at Jingūji temple in Toyohashi city today are quite well executed and best display his true character. At Ryūnenji temple there is also a Buddhist image on dark blue paper with gold paint that Nobutoki donated. In terms of precision, this is truly not inferior to any other work. The same applies to his waka poetry, and works like the "Kokin- **Left Page:** **Margin:** San'yō Shinpō No. 4144 Supplement (Published August 20, Taishō 1) **Main Text:** shū Hiden" (Secret Transmissions of the Kokinshū) is also something he copied himself and remains with the Ōkōchi family today. For these reasons, he was naturally someone with special dedication to learning, and his invitation of the scholar Miura Chikkei occurred after Nobutoki became lord of Hamamatsu Castle, precisely in Kyōhō 18. The biography of this scholar Chikkei appears in volume 5 of the "Sentetsu Sōdan Kōhen" (Later Collection of Discussions on Former Sages). Regarding this matter, I received considerable guidance from Mr. Tabei Ryūtarō of the Aichi Prefecture History Compilation Section, so I would like to express my gratitude here. This Chikkei's given name was Yoshishitsu, his courtesy name was Shihin, his childhood name was Yoshinori, and his common name was Heitayū. He was from Edo, his father was called Heizaemon, and his great-grandfather Jinzaemon-no-jō Tameshige once served Oda Nobuo. While still young, Chikkei was spirited and unbending, brilliant and principled, which led him to serve Yanagisawa Yoshiyasu and receive particularly generous favor. In Hōei 2, when Shogun Tsunayoshi visited Yoshiyasu's residence, Chikkei was seventeen years old and lectured on the chapter "The Way is Near" from Mencius before the shogun, receiving great praise. In middle age, he further studied under Ogyū Sorai. Being naturally gifted and outstanding, within a few years he mastered the classical texts, had original insights, and often surprised people with unexpected ideas. He was also skilled in regular script calligraphy and was particularly beloved by Sorai, but he did not wish to make his way in the world as a Confucian scholar, instead considering himself what we would today call a politician. Therefore, when he was invited by this Matsudaira family, it was not as a Confucian official but as a samurai. He also served as tutor to Nobutoki's heir Nobunao, and later when Nobunao was transferred back to Yoshida, Chikkei also followed. However, he mostly resided in Edo and seems to have rarely come to Yoshida. Consequently, even today there are hardly any examples of this person's calligraphy to be seen in the Toyohashi area. This person was by nature quite obstinate and full of indignant spirit. When conversation happened to touch on matters of loyalty and righteousness, he would immediately become solemn and shed tears, but conversely, once he encountered someone whose opinions disagreed with his, he would mercilessly denounce them, so he had quite a few opponents. He died on May 5, Hōreki 6, at the age of 68, and was buried at Renshūji temple in Ichigaya, Edo. His writings include "Shagaku Seisō Kokuji-kai," "Ritsugaku Seisō Kokuji-kai," "Minritsu Yakugi," and "Chikkei Bunshū." **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Nobutoki's Character and General Achievements) 277