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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 17

ページ: 17

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【欄外】 豊橋市史談   (築城以前の豊橋)                      六 【本文】        方(かた)をも止(と)めぬが鎌倉幕府(かまくらばくふ)の日誌(につし)で其頃(そのころ)に於(お)ける大切(たいせつ)の史料(しれう)たる吾妻鏡(あづまかゞみ)には此時(このとき)の記事(きじ)に脱漏(だつらう)があつて       十月十八日に頼朝(よりとも)が橋本(はしもと)の宿(しゆく)に宿(とま)られたことを記(しる)せるより二十五日 尾張(をはり)の野間(のま)に至(いた)れる事を記(しる)せる迄(まで)は        記事(きじ)全(まつた)く欠(か)けて其前(そのあひだ)のこと事は何(なん)とも判(わか)らない、 併(しか)しながら二十五日には尾張(をはり)の野間(のま)に立(た)ち寄(よ)つて父(ちゝ)義朝(よしとも)       の墓(はか)を吊(とむ)らはれた事か記(しる)してあるから橋本(はしもと)から一 週間目(しうかんめ)で野間(のま)に到着(とうちやく)されたものと見(み)へる、 従(したが)つて其(その)        日数(にちすう)から推(お)して雲谷(うのや)の普門寺(ふもんじ)に一二日は滞在(たいざい)せられたものと思(おも)はれるが之(これ)は確証(かくせう)がなく此処(こゝ)には又(ま)た        之(これ)を詮索(せんさく)する必要(ひつよう)もなかろう、 然(しか)るに其(その)十二月 下落(げらく)の条(くだり)には吾妻鏡(あづまかゞみ)に            十九日巳亥入夜令宿宮路山中給       と書(か)いてある即(すなは)ち宮路山中(みやぢさんちう)に宿(やど)られたのであるから之(これ)より本野(ほんの)ケ原(はら)を通(とほ)り豊川(とよかは)の宿(しゆく)へ出(い)て川(かは)の上流(ぜうりう)を        渡(わた)られたものゝ如(ごと)く推定(すゐてい)せられる、 而(しか)して嘉禎(かてい)四 年(ねん)二月(距今(いまをさる)六百七十二 年(ねん))に至(いた)つて将軍(せうぐん)頼経(よりつね)上洛(ぜうらく)に        関(くわん)しては仝書(どうしよ)に二月八日 豊川(とよかは)の宿(しゆく)に宿(やど)した事が書(か)いてあり仝年(どうねん)十月十九日 其(その)下落(げらく)の条(くだり)に矢張(やはり)仝宿(どうしゆく)に        着(ちやく)した事が記(しる)されてある、 斯(かく)の如(ごと)く此(この)時代(じだい)には橋本(はしもと)から豊川(とよかは)を稍々(やゝ)上流(ぜうりう)の処(ところ)へ出(で)て豊川宿(とよかはしゆく)即(すなは)ち今(いま)の        古宿(ふるじゆく)にかゝり本野(ほんの)ケ原(はら)を通(とほ)つたもので羽田野翁(はだのをう)の三河古蹟考(みかはこせきこう)にも、 赤坂(あかさか)の北(きた)から鷺坂(さぎさか)にかゝり八幡(やはた)を        経(へ)て豊川宿(とよかはしゆく)に出(い)で今(いま)の三 明寺(めうじ)の辺(ほとり)から当古(とうご)、 和田(わだ)、 金田(かなだ)、 岩崎(いはざき)等(とう)を経(へ)て山坂(やまさか)を越(こ)へ雲(う)の谷(や)に出(い)で橋本(はしもと)       に至(いた)つたものとして古老(ころう)の説(せつ)が載(の)せてある。 《割書:東海道通路|の復旧》    然(しか)るに此(この)新街道(しんかいどう)も永続(えいぞく)しなかつたもので又(ま)た元(もと)の渡津道(わたんづみち)に復(ふく)したのである、 仁治(にんじ)三 年(ねん)(距今(いまをさる)六百廿 年(ねん)        前(ぜん))源親行(みなもとちかゆき)が書(か)いた東関紀行(とうかんきこう)と云(い)ふものがある其(そ)の中(なか)に、 豊川(とよかは)と云(い)ふ宿(しく)の前(まへ)を過(す)ぐるに近頃(ちかごろ)より俄(には)       かに渡津(わたんづ)の今道(いまみち)と云(い)ふが出来(でき)て旅人(たびびと)は多(おほ)く其(そ)の街道(かいどう)にかゝるので現今(げんこん)では豊川宿(とよかはしく)の住民(ぢうみん)は家居(いへ)をさへ        移転(いてん)せんと企(くわだ)つる模様(もよう)である、との意(い)を記(しる)されてある、 之(これ)を以(もつ)て見(み)ると既(すで)に其当時(そのとうじ)復(ふたゝ)び渡津(わたんづ)の方(ほう)へ街(かい)        道(どう)が開(ひら)かれたものであるのは慥(たしか)である、 然(しか)るに吾妻鏡(あづまかゞみ)寛文(かんぶん)四 年(ねん)(距今(いまをさる)六百六十六 年前(ねんぜん))の七月 大納言入(だいなごんにう)        道(どう)が鎌倉(かまくら)から京都(けうと)へ帰(かへ)られた時(とき)の記事(きじ)には、二十日の日(ひ)に豊川(とよかは)に宿(やど)つたと記(しる)してあるから此時(このとき)はまだ        旧道(きうどう)を通(とほ)られたものであるが、六百六十一 年前(ねんぜん)の建長(けんてう)三 年(ねん)三月に三 品親王(ほんしんわう)が鎌倉(かまくら)へ下(くだ)られた時(とき)には慥(たしか)       に新街道(しんかいどう)の渡津(わたんづ)に泊(とま)られたものゝように同書(どうしよ)見(み)へて居(を)る、 而(しか)して建治(けんじ)三 年(ねん)彼(か)の阿仏尼(あぶつに)の十六夜日記(いざよいにつき)       (距今(いまをさる)六百四十三 年前(ねんぜん))には、日(ひ)は入(い)り果(は)てゝ 尚(な)ほものゝあやめも分(わ)かぬ程(ほど)にわたうどとかや云(い)ふ処(ところ)に        宿(やど)りぬと記(しる)してある、 即(すなは)ち此頃(このころ)に至(いた)つては盛(さかん)に新街道(しんかいどう)たる渡津(わたんづ)を通行(つうこう)したものである事が確(たしか)まるので       ある、 然(しか)らば此(この)二 度目(どめ)に出来(でき)た渡津(わたんづ)は矢張(やはり)以前(いぜん)の処(ところ)であるかと云(い)ふに之(これ)には説(せつ)があるので此時分(このじぶん)には        漸(やうや)く豊川(とよかは)の瀬(せ)も変(かは)り地形(ちけい)も余程(よほど)異動(ゐどう)して来(き)たものであらうが、 吉田博士(よしだはかせ)の地名辞書(ちめいじしよ)には和名抄(わめうせう)の宝飯(ほゐ) 駅家郷    郡(こほり)駅家郷(えきかごう)と云(いふ)のは今(いま)の下地(しもぢ)附近(ふきん)の事で延喜式(えんきしき)の渡津(わたんづ)(ワタウド)は即(すなは)ち之(これ)であると書(か)いてある此説(このせつ)が或(あるひ)       は当(あた)つて居(を)る事であろうと思(おも)ふ、 元来(がんらい)此(この)駅家郷(えきかごう)は同(おな)じ和名抄(わめうせう)でも高山寺(こうざんじ)本(ほん)には載(の)つて居(を)ららぬので村岡(むらをか)        氏(し)の日本地誌料(にほんちしれう)には渡津郷(わたんづごう)の処(ところ)に小書(こがき)すべきものとしてある、 即(すなは)ち吉田氏(よしだし)の説(せつ)と異(ほ)ぼ一 致(ち)せるやうに        考(かんが)へられるのである而(しか)して此(この)街道(かいどう)の事に就(つ)いてはズント後世(こうせ)の書物(しよもつ)ではあるが元禄(げんろく)十二 年(ねん)法源(ほうげん)の著(ちよ)し       た武蔵野路草(むさしのみちぐさ)と云(い)ふ書(しよ)に、 古(いにし)へは三河(みかは)の二た見道(みみち)とて別道(べつどう)あれど末(すへ)は一つになるにや鴨長明(かもてうめい)は之(これ)より        本野(ほんの)ケ原(はら)にかゝり豊川(とよかは)に行(ゆ)くと見(み)へたり阿仏尼(あぶつに)は之(これ)より渡津(わたんづ)にかゝり志香須賀(しがすが)の渡(わたし)を越(こ)ゆなど見(み)へた       り今(いま)は御油(ごゆ)にかゝり吉田(よしだ)へ行(ゆ)くと記(しる)されてあるのは頗(すこぶ)る参考(さんこう)になると信(しん)ずる、 即(すなは)ち豊橋(とよはし)の地(ち)は壹千 年(ねん)        以前(いぜん)には東海道(とうかいどう)の本線(ほんせん)であつたのが九百廿 余年前(よねんぜん)永観(えいかん)の頃(ころ)には之(これ)が豊川宿(とよかはしく)の方(ほう)にかわり六百廿 年許前(ねんばかりぜん)        仁治(にんじ)の頃(ころ)から又々(また〳〵)此方(こちら)を通行(つうこう)するに至(いた)つたのであるが、 此(かく)の如(ごと)く再(ふたゝ)び街道(かいどう)が此処(こゝ)を通(つう)ずるに至(いた)つて以(い) 今橋之地名  来(らい)我(わが)豊橋(とよはし)の地(ち)は次第(しだい)に発展(はつてん)して古(ふる)く飽海(あくみ)、 幡太(はだ)なとの郷(ごう)のあつた間(あひだ)に初(はじ)めて今橋(いまはし)と云(い)ふ地名(ちめい)が起(おこ)つて 【欄外】 豊橋市史談   (築城以前の豊橋)                      七二

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談  (築城以前の豊橋)                      六 【本文】       の跡をも留めないが、鎌倉幕府の日誌でその頃における重要な史料である『吾妻鏡』には、この時の記事に欠落があって、       十月十八日に頼朝が橋本の宿に宿泊されたことを記したのち、二十五日に尾張の野間に至ったことを記すまで       記事が全く欠けて、その間のことは何とも分からない。しかしながら二十五日には尾張の野間に立ち寄って父義朝       の墓を弔われたことが記してあるから、橋本から一週間で野間に到着されたものと見える。従ってその       日数から推して雲谷の普門寺に一、二日は滞在されたものと思われるが、これは確証がなくここではまた       これを詮索する必要もなかろう。然るにその十二月下向の条には『吾妻鏡』に           十九日己亥入夜令宿宮路山中給       と書いてある。すなわち宮路山中に宿泊されたのであるから、これより本野ヶ原を通り豊川の宿へ出て川の上流を       渡られたもののごとく推定される。そして嘉禎四年二月(今より六百七十二年前)に至って将軍頼経の上洛に       関しては同書に二月八日豊川の宿に宿したことが書いてあり、同年十月十九日その下向の条にやはり同宿に       着したことが記されてある。このようにこの時代には橋本から豊川をやや上流の所へ出て豊川宿すなわち今の       古宿にかかり本野ヶ原を通ったもので、羽田野翁の『三河古跡考』にも、赤坂の北から鷺坂にかかり八幡を       経て豊川宿に出で、今の三明寺の辺りから当古、和田、金田、岩崎等を経て山坂を越え雲の谷に出で橋本       に至ったものとして古老の説が載せてある。 《割書:東海道通路の復旧》   然るにこの新街道も永続しなかったもので、また元の渡津道に復したのである。仁治三年(今より六百二十年       前)源親行が書いた『東関紀行』というものがある。その中に、豊川という宿の前を過ぐるに近頃より俄       かに渡津の今道というのが出来て、旅人は多くその街道にかかるので、現今では豊川宿の住民は家居をさえ       移転せんと企てる模様である、との意を記されてある。これを以て見ると既にその当時再び渡津の方へ街       道が開かれたものであるのは確かである。然るに『吾妻鏡』寛元四年(今より六百六十六年前)の七月、大納言入       道が鎌倉から京都へ帰られた時の記事には、二十日の日に豊川に宿ったと記してあるから、この時はまだ       旧道を通られたものであるが、六百六十一年前の建長三年三月に三品親王が鎌倉へ下られた時には確か       に新街道の渡津に泊られたもののように同書に見えている。そして建治三年あの阿仏尼の『十六夜日記』       (今より六百四十三年前)には、「日は入り果てて尚物の分別も分からぬ程にわたうどとかや言う所に       宿りぬ」と記してある。すなわちこの頃に至っては盛んに新街道たる渡津を通行したものであることが確かまるので       ある。然らばこの二度目に出来た渡津はやはり以前の所であるかというに、これには説があるので、この時分には       ようやく豊川の瀬も変わり地形も余程変動して来たものであろうが、吉田博士の地名辞書には『和名抄』の宝飯 駅家郷   郡駅家郷というのは今の下地附近のことで、『延喜式』の渡津(ワタウド)はすなわちこれであると書いてある。この説がおそらく       当たっていることであろうと思う。元来この駅家郷は同じ『和名抄』でも高山寺本には載っていないので、村岡       氏の『日本地誌料』には渡津郷のところに小書きすべきものとしてある。すなわち吉田氏の説とほぼ一致するよう       に考えられるのである。そしてこの街道のことについてはずっと後世の書物ではあるが、元禄十二年法源の著した       『武蔵野路草』という書に、「古は三河の二つ見道とて別道あれど末は一つになるにや、鴨長明はこれより       本野ヶ原にかかり豊川に行くと見えたり。阿仏尼はこれより渡津にかかり志香須賀の渡しを越ゆなど見えた       り。今は御油にかかり吉田へ行く」と記されてあるのは頗る参考になると信ずる。すなわち豊橋の地は千年       以前には東海道の本線であったのが、九百二十余年前永観の頃にはこれが豊川宿の方に変わり、六百二十年ばかり前       仁治の頃からまたまたこちらを通行するに至ったのであるが、このように再び街道がここを通ずるに至って以 今橋の地名 来我が豊橋の地は次第に発展して、古く飽海、幡太などの郷のあった間に初めて今橋という地名が起こって 【欄外】 豊橋市史談  (築城以前の豊橋)                      七

英語訳

【Margin】 Toyohashi Historical Discussion  (Toyohashi before castle construction)                      6 【Main text】       leaving no traces, but the 'Azuma Kagami,' which serves as an important historical record of the Kamakura shogunate from that period, has gaps in its account of this time.       From the record of Yoritomo staying at Hashimoto-juku on October 18th to the record of his arrival at Noma in Owari on the 25th,       the entries are completely missing, so what happened during that period is entirely unknown. However, since it records that on the 25th he stopped at Noma in Owari to pay respects at his father Yoshitomo's       grave, it appears he arrived at Noma one week after leaving Hashimoto. Therefore, based on the number of       days, it seems he must have stayed at Fumon-ji temple in Kunotani for a day or two, but there is no definitive proof of this, and there is no       need to investigate this matter further here. However, regarding his return journey in December, the 'Azuma Kagami' states:           "19th day, Kinoto-i, entered the night and was given lodging in the mountains of Miyaji"       Since he stayed in the Miyaji mountains, it can be inferred that from there he passed through Honnoガahara, emerged at Toyokawa-juku, and crossed the river upstream.       Later, regarding Shogun Yoritstune's journey to Kyoto in Katei 4, 2nd month (672 years ago), the same work records that he stayed at Toyokawa-juku on February 8th, and on October 19th of the same year, his return journey also records his arrival at the same lodging.       Thus during this period, travelers would emerge from Hashimoto at a somewhat upstream point of the Toyokawa River, reach Toyokawa-juku (present-day Furujuku), and pass through Honnoガahara. Haneda-no Okina's 'Mikawa Historical Sites Investigation' also records according to elderly accounts that the route went north from Akasaka over Sagisaka, through Yahata to emerge at Toyokawa-juku, then from the vicinity of present-day Sanmyō-ji through Tōgo, Wada, Kanada, Iwasaki, and others, over Yamasaka to emerge at Kunotani and reach Hashimoto. 《Interlinear note: Restoration of Tōkaidō Route}}   However, this new highway did not last long, and the route returned to the original Watazu road. There is a work called 'Tōkan Kikō' written by Minamoto no Chikayuki in Ninji 3 (620 years ago). In it, he writes that when passing by the lodging called Toyokawa, recently a new road called "Watazu no Ima-michi" (Watazu Present Road) had suddenly been created, and many travelers were taking that highway, so presently the residents of Toyokawa-juku were even planning to relocate their homes. From this we can see that already at that time, the highway had definitely been reopened toward Watazu. However, in the 'Azuma Kagami' entry for Kangen 4, 7th month (666 years ago), when the Grand Counselor Priest returned from Kamakura to Kyoto, it records that he stayed at Toyokawa on the 20th, so at this time he still took the old road. But when the Third Rank Prince went down to Kamakura in Kenchō 3, 3rd month (661 years ago), the same work suggests he definitely stayed at the new highway location of Watazu. Then in Kenji 3, in Abutsu-ni's 'Izayoi Nikki' (643 years ago), she writes: "The sun had completely set and it was so dark that one could not distinguish anything, when we lodged at a place called Wataudo or such." Thus by this time, the new highway route through Watazu was definitely being used actively. Now, was this second Watazu the same location as before? There are theories about this, and by this time the shallows of the Toyokawa had gradually changed and the topography had considerably altered. Dr. Yoshida's geographical dictionary states that the Ekika-gō (Post Station Village) of Hōi District in the 'Wamyōshō' refers to the vicinity of present-day Shimoji, and that the Watazu (Wataudo) in the 'Engi-shiki' is precisely this location. I believe this theory is probably correct. Originally, this Ekika-gō does not appear in the Kōzan-ji version of the 'Wamyōshō,' so Muraoka's 'Nihon Chishiryō' treats it as something that should be noted under Watazu-gō. This seems to align almost exactly with Yoshida's theory. Regarding this highway, though it is a much later work, the 'Musashino Michigusa' written by Hōgen in Genroku 12 provides quite useful reference material: "In ancient times there were separate roads called the 'two viewing roads' of Mikawa, though they eventually merged into one. Kamo no Chōmei appears to have gone from here via Honnoガahara to Toyokawa. Abutsu-ni appears to have gone from here via Watazu, crossing the Shigasuga ferry. Now one goes via Goyu to Yoshida." Thus the site of Toyohashi was on the main Tōkaidō line over a thousand years ago, but around Eikan (924 years ago) this changed to the Toyokawa-juku route, and from around Ninji (about 620 years ago) traffic returned to this route again. After the highway once again passed through here, the Toyohashi area gradually developed, and among the ancient villages of Akumi, Hada, and others, the place name "Imahashi" (Present Bridge) first arose. 【Margin】 Toyohashi Historical Discussion  (Toyohashi before castle construction)                      7