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【欄外】
豊橋市史談 (京極と永井局) 三百
【本文】
申上(まおしあげ)ぬのである又(ま)た之(これ)は信祝(のぶとき)に関係(くわんけい)のない事(こと)であるが享保(けうほ)二 年(ねん)に今(いま)の湊町(みなとまち)神明社(しんめいしや)境内(けいだい)にある弁天祠(べんてんし)の
建立(こんりう)があつて船町(ふなまち)のものが寄付金(きふきん)を集(あつ)めて之(これ)を建(た)てたのである無論(むろん)現今(げんこん)の堂(どう)ではない併(しか)し此(この)園池(えんち)と云(い)
ふものは先(さき)にも申上(まおしあ)げて置(を)いた如(ごと)く山田宗偏(やまだそうへん)の設計(せつけい)であるから既(すで)に其(その)時(とき)弁天(べんてん)の堂(どう)はあつたものに相違(さうゐ)
ないそれが今度(このたび)破損(はそん)でもした為(ため)に改築(かいちく)した事(こと)であると思(おも)ふが今(いま)から見(み)ると其(その)寄付帳(きふてう)と云(い)ふものが実(じつ)に
面白(おもしろ)く感(かん)ぜられるのである此(この)寄付帳(きふてう)は今(いま)も船町(ふなまち)の倉庫(さうこ)に残(のこ)つて居(を)る
《割書:信祝夫人京|極氏》 ⦿京極と永井局
茲(こゝ)に是非(ぜひ)御話(おはなし)して置(お)きたいのは信祝(のぶとき)の夫人(ふじん)京極氏(けうごくし)の事(こと)である此(この)京極氏(けうごくし)は前(まへ)にも度々(たび〳〵)申述(まをしの)べた如(ごと)く名(な)を
種(たね)と云(い)つて讃岐丸亀(さぬきまるがめ)の城主(じようしゆ)京極備中守高豊(けうごくびちうのかみたかとよ)の女(ぢよ)であるが祖父(そふ)に当(あた)る酒井雅樂守(さかゐうたのかみ)忠挙の養女(やうぢよ)となつて宝(ほう)
永(えい)元年(がんねん)四月十日 此(この)信祝(のぶとき)の処(ところ)へ嫁(か)したのである此(この)人(ひと)は七十三 歳(さい)まで存生(ぞんせい)で宝暦(ほうれき)十一年十二月十六日の卒(そつ)
去(きよ)であるが松泉院(せうせんゐん)と云(い)はれたのである此(この)人(ひと)の手蹟(しゆせき)は今(いま)も大河内家(おほかうちけ)に多数(たすう)残(のこ)つて居(を)るが特(とく)に書簡(しよかん)が三十
余通(よつう)もある其(その)壮年時代(さうねんじだい)のものは如何(いか)にも名筆(めいひつ)で孰(いづ)れも其(その)夫(おつと)信祝(のぶとき)が国(くに)にあつた頃(ころ)に江戸(えど)から送(おく)り越(こ)した
ものである而(しか)も文中(ぶんちう)実(じつ)に情愛(ぜうあい)の籠(こも)つつて居(を)る間(あひだ)に凛(りん)とした処(ところ)があつて頗(すこぶ)る模範(もはん)とすべきものがある併(しか)し
其(その)晩年(ばんねん)のものは病気(べようき)ででもあられたものか孰(いづ)れも手蹟(しゆせき)が震(ふる)へて居(を)つて甚(はなは)だ読(よ)み難(にく)いが之(これ)は多(おほ)く其(その)子(こ)信(のぶ)
復(なほ)が既(すで)に城主(じようしゆ)となつてから其(その)国(くに)に就(つ)いて居(を)つた処(ところ)へ送(おく)られたもので之(これ)は又(ま)た其(その)子(こ)に対(たい)する情愛(ぜうあい)の掬(きく)す
《割書:永井局本名|尼崎里也》 べきものが少(すくな)くないのである兎(と)に角(かく)貞淑(ていしゆく)にして尋常(じんぜう)一 様(よう)の婦人(ふじん)でなかつた事(こと)が分(わか)るが京極家(けうごくけ)から此(この)夫(ふ)
人(じん)に付(つ)いて来(き)た女(おんな)に永井局(ながゐのつぼね)と云(い)ふのがあつて之(これ)が又(ま)た容易(ようい)ならぬ履歴(りれき)のある婦人(ふじん)である此(この)永井局(ながゐのつぼね)の伝(でん)
記(き)に就(つい)ては先年(せんねん)東京(とうけう)の時事新報(じゞしんぽう)にも小説体(せうせつてい)に綴(つゞ)つて記載(きさい)された事(こと)があるが讃岐丸亀(さぬきまるがめ)の津田壽盛君(つだじゆせいくん)が此(この)
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千百七十八号附録 (大正元年十月一日発行)
【本文】
頃(ごろ)著(あらは)された讃岐(さぬき)の佳人(かじん)と云(い)ふ書物(しよもつ)の中(なか)にも記(しる)されてあるのである今(いま)其(その)大要(たいえう)を茲(こゝ)に御話(おはなし)したいと思(おも)ふが
此(この)永井局(ながゐのつぼね)は本名(ほんめい)を尼崎里也(あまざきさとや)と云(い)つて丸亀(まるがめ)風袋町(かぜふくろまち)の生(うまれ)である父(ちゝ)は京極家(けうごくけ)弓組(ゆみぐみ)の足軽(あしがる)で尼崎幸右衛門(あまざきかううゑもん)と云(い)
ふ人(ひと)であつたが当時(たうじ)幸右衛門(かううゑもん)の同僚(どうれう)に岩淵伝内(いはぶちでんなん)と云ふ者(もの)があつて性質(せいしつ)甚(はなは)だ宜(よろし)からぬ無頼(ぶらい)の奴(やつ)であつた
が之(これ)が深(ふか)く里也(さとや)の母(はゝ)に懸想(けさう)して或時(あるとき)夫(おつと)幸右衛門(かううゑもん)の留守(るす)を窺(うかゞ)つて其(その)家(いへ)に来(きた)り初(はじ)めは甘言(かんげん)を以(もつ)て之(これ)を挑(いど)む
だが遂(つひ)には暴力(ばうりよく)に訴(うつた)へむとしたのである其(その)時(とき)恰(あたか)も夫(おつと)の幸右衛門(かううゑもん)が外(そと)から皈宅(きたく)したので里也(さとや)の母(はゝ)は早速(さつそく)
夫(おつと)を別室(べつしつ)へ呼(よ)むで其(その)暴状(ばうぜう)を告(つ)げたのであるソコで幸右衛門(かううゑもん)は非常(ひぜう)に立腹(りつぷく)して其(その)無礼(ぶれい)を伝内(でんない)に詰(なじ)つたが
伝内(でんない)は元来(がんらい)腹黒(はらくろ)い白奴(しれもの)であるから遂(つひ)に刃傷(じんせう)に及(およ)むで幸右衛門(かううゑもん)を其(その)場(ば)に殺害(さつがい)したのである里也(さとや)の母(はゝ)は之(これ)
を見(み)て大(おほい)に驚(おどろ)いたが其(その)時(とき)伝内(でんない)は既(すで)に屋外(をくがい)十 数歩(すうほ)の処(ところ)まで逃(に)げ行(ゆ)く処(ところ)であつたから止(やむ)を得(え)ず後(あと)から夫(をつと)の
刀(かたな)を取(と)つて之(これ)を伝内(でんない)に投(な)げ付(つ)けたのであるが之(これ)がウマく其(その)肩(かた)を傷(きつゝ)けた併(しか)し伝内(でんない)は其(その)侭(まゝ)遂(つひ)に逃(のが)れ去(さ)つて
踪跡(さうせき)を晦(くら)ましたのである藩(はん)に於(おい)ても此(この)訴(うつたへ)によつて伝内(でんない)の行衛(ゆくえ)を尋(たづ)ねたが遂(つひ)に見出(みいだ)す事(こと)が出来(でき)ず里也(さとや)
の母(はゝ)は当時(たうじ)二 歳(さい)になる此(この)里也(さとや)を連(つ)れて余儀(よぎ)なく夫(をつと)の妹婿(いもとむこ)関根元右衛門(せきねもとうゑもん)と云ふ人の家へ寄食(きしよく)するに至(いた)つ
た然(しか)るに日夜(にちや)の苦心(くしん)は遂(つひ)に身体(しんたい)をも痛(なや)めたものか之(これ)と云(い)ふ病源(びようげん)もなかつたのに之(こ)れ亦(ま)た半歳許(はんとしばかり)の後(のち)に
千万 無量(むれう)の怨(うらみ)を含(ふく)むで病死(びようし)するに至(いた)つたのである此(こゝ)に於(おい)て此(この)里也(さとや)は不幸(ふかう)なる孤独(こどく)となつたが叔父(おぢ)元右(もとう)
衛門(ゑもん)は爾来(じらい)里也(さとや)を己(おの)れの子(こ)の如(ごと)くにして養育(やういく)したのである
かくて里也(さとや)が十三 歳(さい)となつた時(とき)元右衛門(もとうゑもん)は初(はじ)めて其(その)事情(じぜう)を里也(さとや)に明(あ)かしたのであるが里也(さとや)は之(こ)れ迄(まで)只(た)
だ己(おの)れは元右衛門(もとうゑもん)の実子(じつし)であるとのみ思(おも)つて居(を)つたのであるから殆(ほとん)ど悶絶(もんぜつ)せむ計(ばか)りに驚(おどろ)いた併(しか)し心(こゝろ)を
取(と)り直(なほ)して爾来(じらい)は一 層(そう)忠実(ちうじつ)に叔父(おぢ)に事(つか)ゆるに至(いた)つたが此(この)時(とき)里也(さとや)の心中(しんちう)には既(すで)に仇討(あだうち)の決心(けつしん)があつたの
であるかくて里也(さとや)は十八 歳(さい)と相成(あひな)つた時(とき)遂(つひ)に叔父(おぢ)に請(こ)つて江戸(えど)へ出(い)でたのであるが之(これ)が実(じつ)に仇討(あだうち)の門(かど)
【欄外】
豊橋市史談 (京極と永井局) 三百一
現代語訳
【欄外】
豊橋市史談(京極と永井局) 三百
【本文】
申し上げないのである。またこれは信祝に関係のない事であるが、享保二年に今の湊町神明社境内にある弁天祠の建立があって、船町の者が寄付金を集めてこれを建てたのである。無論現今の堂ではないが、しかしこの園池というものは先にも申し上げて置いた如く山田宗偏の設計であるから、既にその時弁天の堂はあったものに相違ない。それが今度破損でもした為に改築した事であると思うが、今から見るとその寄付帳というものが実に面白く感じられるのである。この寄付帳は今も船町の倉庫に残っている。
《割書:信祝夫人京極氏》 ⦿京極と永井局
ここに是非お話しして置きたいのは信祝の夫人京極氏の事である。この京極氏は前にも度々申し述べた如く名を種といって、讃岐丸亀の城主京極備中守高豊の女であるが、祖父に当る酒井雅楽頭忠挙の養女となって、宝永元年四月十日この信祝の処へ嫁したのである。この人は七十三歳まで存生で、宝暦十一年十二月十六日の卒去であるが、松泉院といわれたのである。この人の手蹟は今も大河内家に多数残っているが、特に書簡が三十余通もある。その壮年時代のものは如何にも名筆で、いずれもその夫信祝が国にあった頃に江戸から送り越したものである。而も文中実に情愛の籠もっている間に凛とした処があって、頗る模範とすべきものがある。しかしその晩年のものは病気ででもあられたものか、いずれも手蹟が震えていて甚だ読み難いが、これは多くその子信復が既に城主となってからその国に就いていた処へ送られたもので、これはまたその子に対する情愛の汲むべきものが少なくないのである。とにかく貞淑にして尋常一様の婦人でなかった事が分かるが、京極家からこの夫人に付いて来た女に永井局というのがあって、これがまた容易ならぬ履歴のある婦人である。この永井局の伝記については、先年東京の時事新報にも小説体に綴って記載された事があるが、讃岐丸亀の津田寿盛君がこの
【欄外】
発行兼印刷所 豊橋市紺屋町四十八番戸 参陽印刷合資会社 編輯人 中西謙三 発行兼印刷人 久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千百七十八号附録(大正元年十月一日発行)
【本文】
頃著された讃岐の佳人という書物の中にも記されてあるのである。今その大要をここにお話したいと思うが、この永井局は本名を尼崎里也といって丸亀風袋町の生れである。父は京極家弓組の足軽で尼崎幸右衛門という人であったが、当時幸右衛門の同僚に岩淵伝内という者があって性質甚だよろしからぬ無頼の奴であったが、これが深く里也の母に懸想して、ある時夫幸右衛門の留守を窺ってその家に来り、初めは甘言を以ってこれを挑んだが、遂には暴力に訴えんとしたのである。その時恰も夫の幸右衛門が外から帰宅したので、里也の母は早速夫を別室へ呼んでその暴状を告げたのである。そこで幸右衛門は非常に立腹してその無礼を伝内に詰ったが、伝内は元来腹黒い白奴であるから遂に刃傷に及んで幸右衛門をその場に殺害したのである。里也の母はこれを見て大いに驚いたが、その時伝内は既に屋外十数歩の処まで逃げ行く処であったから、止むを得ず後から夫の刀を取ってこれを伝内に投げ付けたのであるが、これがうまくその肩を傷つけた。しかし伝内はその侭遂に逃れ去って踪跡を晦ましたのである。藩においてもこの訴えによって伝内の行衛を尋ねたが、遂に見出す事が出来ず、里也の母は当時二歳になるこの里也を連れて、余儀なく夫の妹婿関根元右衛門という人の家へ寄食するに至った。然るに日夜の苦心は遂に身体をも痛めたものか、これという病源もなかったのに、これまた半歳許りの後に千万無量の怨を含んで病死するに至ったのである。ここにおいてこの里也は不幸なる孤独となったが、叔父元右衛門は爾来里也を己れの子の如くにして養育したのである。
かくて里也が十三歳となった時、元右衛門は初めてその事情を里也に明かしたのであるが、里也はこれ迄ただ己れは元右衛門の実子であるとのみ思っていたのであるから、殆ど悶絶せん計りに驚いた。しかし心を取り直して爾来は一層忠実に叔父に仕えるに至ったが、この時里也の心中には既に仇討ちの決心があったのである。かくて里也は十八歳と相成った時、遂に叔父に請うて江戸へ出でたのであるが、これが実に仇討ちの門
【欄外】
豊橋市史談(京極と永井局) 三百一
英語訳
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (Kyōgoku and Nagai-no-Tsubone) 300
**Main Text:**
...cannot be listed here. Also, this is unrelated to Nobutoki, but in Kyōhō 2 (1717), the Benzaiten shrine now located within the grounds of Minatomachi Shinmei Shrine was built, with people from Funamachi collecting donations for its construction. Of course, it is not the current hall, but since this garden pond was designed by Yamada Sōhen as I mentioned earlier, there must have already been a Benzaiten hall at that time. I believe it was rebuilt due to damage this time. Looking at it now, that donation ledger is truly fascinating. This donation ledger still remains in Funamachi's warehouse.
**Subdivision: Nobutoki's wife, Lady Kyōgoku** ⦿ Kyōgoku and Nagai-no-Tsubone
What I definitely want to discuss here is the matter of Nobutoki's wife, Lady Kyōgoku. As I have mentioned repeatedly before, this Lady Kyōgoku was named Tane and was the daughter of Kyōgoku Bitchū-no-kami Takatoyo, lord of Marugame Castle in Sanuki. She became the adopted daughter of her grandfather Sakai Utanokami Tadaoki and married this Nobutoki on April 10th of Hōei 1 (1704). She lived to seventy-three years of age, passing away on December 16th of Hōreki 11 (1761), and was called Shōsen-in. Many examples of her handwriting still remain in the Ōkōchi family, with over thirty letters in particular. Those from her prime years show excellent calligraphy, all sent from Edo when her husband Nobutoki was in his domain. Moreover, while the letters are filled with deep affection, they also have a dignified quality that makes them quite exemplary. However, her later writings, perhaps due to illness, all show trembling handwriting and are quite difficult to read. These were mostly sent to her son Nobuaki after he had already become domain lord and was residing in his domain, and they show no small amount of maternal affection that can be deeply felt. In any case, it is clear that she was a virtuous woman, not an ordinary person. Among the women who came with this lady from the Kyōgoku family was one called Nagai-no-Tsubone, who also had an extraordinary personal history. Regarding the biography of this Nagai-no-Tsubone, it was once written in novel form in Tokyo's Jiji Shinpō some years ago, and it is also recorded in a book called "Beauties of Sanuki" recently published by Mr. Tsuda Jusei of Marugame in Sanuki.
**Margin:**
Publisher and Printing Office: San'yō Printing Partnership, 48 Kōnya-machi, Toyohashi City. Editor: Nakanishi Kenzō. Publisher and Printer: Kuno [?]kichi
**Left Page:**
**Margin:**
San'yō Shinpō Issue 4,178 Supplement (Published October 1, Taishō 1 [1912])
**Main Text:**
Now I would like to tell you the main points here. This Nagai-no-Tsubone's real name was Amasaki Satoya, and she was born in Kazefukuro-machi in Marugame. Her father was a foot soldier in the Kyōgoku family's archery unit named Amasaki Kōemon. At that time, among Kōemon's colleagues was a man named Iwabuchi Den'nai, who was a scoundrel of very bad character. He became deeply infatuated with Satoya's mother, and one time, watching for when her husband Kōemon was away, he came to their house. At first he tried to seduce her with sweet words, but finally he attempted to resort to violence. At that moment, her husband Kōemon happened to return home from outside, so Satoya's mother immediately called her husband to another room and told him of this outrageous behavior. Thereupon Kōemon became extremely angry and confronted Den'nai about his rudeness, but since Den'nai was fundamentally a black-hearted scoundrel, he finally resorted to violence and killed Kōemon on the spot. Satoya's mother was greatly shocked to see this, but at that time Den'nai had already fled more than ten paces outside, so she had no choice but to take her husband's sword and throw it at Den'nai from behind. This successfully wounded his shoulder, but Den'nai still managed to escape and disappeared without a trace. The domain also searched for Den'nai's whereabouts based on this complaint, but could never find him. Satoya's mother, taking with her this Satoya who was two years old at the time, had no choice but to live as a dependent in the house of her husband's brother-in-law, a man named Sekine Motoemon. However, the constant worry day and night must have damaged her health, for though there was no particular cause of illness, she also died of sickness about half a year later, filled with infinite resentment. Thus this Satoya became an unfortunate orphan, but her uncle Motoemon thereafter raised Satoya as if she were his own child.
When Satoya turned thirteen, Motoemon first revealed the circumstances to her. Since Satoya had only thought that she was Motoemon's real child, she was shocked almost to the point of fainting. However, she pulled herself together and from then on served her uncle even more faithfully, though at this time Satoya had already resolved in her heart to take revenge. When Satoya reached eighteen years of age, she finally asked her uncle's permission to go to Edo, and this was truly the beginning of her path to revenge...
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (Kyōgoku and Nagai-no-Tsubone) 301