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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 165

ページ: 165

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【欄外】    豊橋市史談  (京極と永井局)                    三百二 【本文】        出(で)とも云(い)ふべきもので其(その)時(とき)里也(さとや)は叔父(おぢ)の尽力(じんりよく)で同藩(どうはん)の士(し)村瀬藤馬(むらせとうま)と云(い)ふ人(ひと)に伴(ともな)はれて江戸(えど)に下(くだ)つたの       であつたが藤馬(とうま)は更(さら)に里也(さとや)を麾下(きか)の士(し)永井源介(ながゐげんすけ)と云(い)ふ剣客(けんかく)の処(ところ)へ世話(せわ)をしたのであるソコで里也(さとや)は此(この)        家(いへ)の炊掃(すゐさう)の婢(ひ)として住(す)み込(こ)むだが元(も)と目的(もくてき)が目的(もくてき)であるから暇(ひま)さへあれば剣術(けんじゆつ)の道場(どうぜう)へ行(い)つては熱心(ねつしん)       に其(その)仕合(しあひ)を見(み)て居(を)つたのであるこれが遂(つひ)に主人(しゆじん)永井(ながゐ)の為(ため)に恠(あやし)まるゝに至(いた)つたので永井(ながゐ)は一 日(にち)里也(さとや)を己(おの)       れの膝下(ひざもと)に呼(よ)むで其(その)志(こゝろざし)を問(と)つたのであるが里也(さとや)は今(いま)は包(つゝ)むによしなく遂(つひ)に其(その)志(こゝろざし)を永井(ながゐ)に明(あ)かした       ソコで永井(ながゐ)は之(これ)を聞(き)いて深(ふか)く感激(かんげき)し遂(つひ)に誓(ちか)つて其(その)宿志(しゆくし)を遂(と)げしむる事(こと)を約(やく)したのである之(これ)より永井(ながゐ)は        竊(ひそ)かに里也(さとや)に教(おし)ゆるに武技(ぶぎ)を以(もつ)てし丹誠(たんせい)を凝(こ)らして其(その)研磨(けんま)を積(つ)ましめたが熱心(ねつしん)は恐(おそ)ろしいもので僅(わづ)か       二ケ 年(ねん)の間(あひだ)に里也(さとや)の技(ぎ)は大(おほい)に進(すゝ)むだのであるソコで永井(ながゐ)は或日(あるひ)里也(さとや)に諭(さと)して速(すみやか)に其(その)家(いへ)を去(さ)り此上(このうへ)は        仇(あだ)伝内(でんない)を尋(たづ)ね出(いだ)すべき方略(はうりやく)を講(こう)ぜよと勧告(くわんこく)したが之(これ)より里也(さとや)は各処(かくしよ)に流寓(るうぐう)し爾来(じらい)十二ケ 年(ねん)の間(あひだ)主人(しゆじん)を        易(か)ゆること七十四 具(つぶさ)に辛苦(しんく)を甞(な)めて只管(ひたすら)其(その)仇(あだ)を尋(たづ)ね出(いだ)す事(こと)を勉(つと)めたのである其(その)堅忍不抜(けんにんふばつ)の精神(せいしん)と云(い)ふも       のは実(じつ)に聞(き)くものをして感泣(かんきう)せしむるものがある       トコロで里也(さとや)が最終(さいしう)に住(す)み込(こ)むだのが坂根安兵衛(さかねやすべゑ)と云ふ旗本(はたもと)の邸(やしき)で本所(ほんじよ)に住(す)むで居(を)つたのであるが其(その)        家(いへ)に小泉文内(こいづみぶんない)と云ふ一人(ひとり)の若党(わかとう)があつた年(とし)は五十 余(あま)りで頗(すこぶ)る酒好(さけずき)であつたが一 夕(せき)酔余(すゐよ)の雑談(ざつだん)として物(もの)        語(がた)つた話(はなし)の内(うち)に里也(さとや)はドウも之(これ)が仇(あだ)の伝内(でんない)ではないか知(し)らぬと思(おも)はるゝ節(ふし)を発見(はつけん)したソコで里也(さとや)は轟(とゞろ)       く胸(むね)を押(お)し鎮(しづ)めて段々(だん〴〵)と話(はなし)を導(みちび)き出(だ)して見(み)た処(ところ)が文内(ぶんない)も遂(つひ)には調子(てうし)に乗(の)つてありし昔語(むかしがたり)を繰(く)り返(かへ)し        己(おの)れが其(その)岩淵伝内(いはぶちでんない)なる事(こと)をも告(つ)げて往年(おうねん)里也(さとや)の母(はゝ)が怨(うらみ)を籠(こ)めし刀(かたな)の痕(あと)までをも示(しめ)したのである里也(さとや)は        実(じつ)に優曇華(うどんげ)の花待(はなま)ち得(え)たる心地(こゝち)したが翌日(よくじつ)早速(さつそく)永井源介(ながゐげんすけ)の処(ところ)へ馳付(はせつ)けて事(こと)の顛末(てんまつ)を告(つ)げたのであるソ       コで永井(ながゐ)は丁度(ちようど)在勤中(ざいきんちう)の村瀬藤馬(むらせとうま)にも計(はか)つて之(これ)を公儀(こうぎ)に訴(うつた)へ出(い)で直様(すぐさま)伝内(でんない)を召取(めしと)つて丸亀藩(まるがめはん)に護送(ごそう)し 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       たが程(ほど)なく丸亀藩(まるがめはん)に於(おい)ては式(かた)の如(ごと)く仇討(あだうち)の場所(ばしよ)を設(まを)けて伝内(でんない)里也(さとや)両人(れうにん)をして雌雄(しゆう)を決(けつ)せしめたのであ 《割書:尼崎里也父|の仇を復す》  る此(この)時(とき)村瀬藤馬(むらせとうま)は里也(さとや)の差添(さしそへ)として出頭(しゆつとう)したが里也(さとや)の孝心(かうしん)は凝(こ)つて此(この)悪漢(あくかん)伝内(でんない)を切(き)り伏(ふ)せ他(た)の助太刀(すけだち)       をも要(えう)せず見事(みごと)に復仇(ふくきう)をなし遂(と)げたとの事(こと)である蓋(けだ)し里也(さとや)は二 歳(さい)の時(とき)に父(ちゝ)を喪(うしな)ひ三 歳(さい)で又(ま)た母(はゝ)に別(わか)れ       十八 歳(さい)にして初(はじ)めて仇討(あだうち)の門出(かどで)をなしたが爾来(じらい)苦辛惨憺(くしんさんたん)十七 年目(ねんめ)で初(はじ)めて其(その)目的(もくてき)を達(たつ)したのである之(これ)       が恰(あたか)も元禄(げんろく)十三 年頃(ねんごろ)の事(こと)であるが京極家(けうごくけ)に於(おい)ては此(この)里也(さとや)の孝烈苦節(かうれつくせつ)を感(かん)じて士分(しぶん)に取(と)り立(た)て其(その)愛女(あいぢよ)の        傅(ふ)たらしめたのであるが里也(さとや)は其(その)後(のち)恩人(おんじん)源介(げんすけ)の厚情(かうぜう)を忘(わす)れぬ為(ため)とあつて永井(ながゐ)を称(せう)したので遂(つひ)に永井(ながゐ)の        局(つぼね)と呼(よ)はるゝに至(いた)つたが此(この)京極家(けうごくけ)の愛女(あいぢよ)と云(い)ふのは即(すなは)ち信祝(のぶとき)夫人(ふじん)となられた於種殿(おたねどの)で此(この)人(ひと)が松平家(まつだひらけ)       に輿入(こしいれ)の時(とき)は矢張(やはり)永井局(ながゐのつぼね)も御付人(おつきひと)として随従(ずいじう)したのである其(その)後(のち)松平家(まつだひらけ)に於(おい)ては此(この)永井局(ながゐのつぼね)の為(ため)に一 家(か)を        起(おこ)さしめたと云(い)ふ事(こと)であるが無論(むろん)江戸(えど)住居(すまゐ)であつたから此(この)豊橋(とよはし)には何等(なんら)遺(のこ)つたものもないのみならず        其(その)跡(あと)と云(い)ふものが甚(はなは)だ不明(ふめい)であるのは遺憾(ゐかん)である私(わたくし)も平常(へいぜう)其(その)後(のち)の経歴(けいれき)に就(つい)ては心掛(こゝろが)けて研究(けんきう)して居(を)る       ものであるが「讃岐(さぬき)の佳人(かじん)」の著者(ちよしや)からも数々(しば〳〵)申越(まをしこ)された事(こと)もあるのである幸(さいはひ)に諸君(しよくん)の中(なか)に何分(なにぶん)にても        此(この)人(ひと)の事(こと)に関(くわん)して御承知(ごせうち)の方(かた)があつたならば平(ひら)に御教示(ごけふじ)を請(こ)ひたいものであると思(おも)ふ併(しか)し私(わたくし)は此(この)信祝(のぶとき)        夫人(ふじん)京極氏(けうごくし)が前(まへ)にも申述(まをしの)ふる如(ごと)く尋常(じんぜう)一 様(やう)の婦人(ふじん)でないと云(い)ふのを見(み)るに付(つ)けても其(その)半面(はんめん)には又(ま)た何(なん)       となく此(この)永井局(ながゐのつぼね)が面影(おもかげ)を見(み)らるゝように思(おも)つて居(を)るのである             ⦿松平資訓と其事蹟 《割書:松平信祝と|松平資訓と|の交代》   前(まへ)に申述(まをしの)べた如(ごと)く松平伊豆守信祝(まつだひらいづのかみのぶとき)は享保(けうほ)十四年二月二日 大坂城代(おほさかじようだい)に任(にん)ぜられたが其(その)月(つき)の十五日 遠江(とほとふみの)        国(くに)浜松城(はままつじよう)に移封(いほう)と相成(あいな)つたのである而(しか)して之(これ)と相(あい)交代(かうたい)して浜松(はままつ)から此(この)吉田城(よしだじよう)に転封(てんほう)と成(な)つたのが松平(まつだひら) 【欄外】    豊橋市史談  (松平資訓と其事蹟)                    三百三

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(京極と永井局) 三百二 【本文】 出でとも言うべきもので、その時里也は叔父の尽力で同藩の士村瀬藤馬という人に伴われて江戸に下ったのであったが、藤馬は更に里也を麾下の士永井源介という剣客の処へ世話をしたのである。そこで里也はこの家の炊事掃除の女中として住み込んだが、元々目的が目的であるから暇さえあれば剣術の道場へ行っては熱心にその仕合を見ていたのである。これが遂に主人永井の為に怪しまれるに至ったので、永井は一日里也を自分の膝元に呼んでその志を問うたのであるが、里也は今は包む由もなく遂にその志を永井に明かした。そこで永井はこれを聞いて深く感激し、遂に誓ってその宿志を遂げさせる事を約したのである。これより永井は密かに里也に教えるに武技を以てし、丹精を凝らしてその研磨を積ませたが、熱心は恐ろしいもので僅か二ヶ年の間に里也の技は大いに進んだのである。そこで永井はある日里也に諭して速やかにその家を去り、この上は仇伝内を尋ね出すべき方略を講ぜよと勧告したが、これより里也は各処に流寓し、爾来十二ヶ年の間主人を替えること七十四、つぶさに辛苦を嘗めて只管その仇を尋ね出す事を努めたのである。その堅忍不抜の精神というものは実に聞く者をして感泣させるものがある。 ところで里也が最終に住み込んだのが坂根安兵衛という旗本の屋敷で、本所に住んでいたのであるが、その家に小泉文内という一人の若党があった。年は五十余りで頗る酒好きであったが、一夕酔余の雑談として物語った話の内に里也はどうもこれが仇の伝内ではないか知らぬと思われる節を発見した。そこで里也は轟く胸を押し鎮めて段々と話を導き出して見た処が、文内も遂には調子に乗ってありし昔語りを繰り返し、己れがその岩淵伝内なる事をも告げて、往年里也の母が怨を籠めし刀の痕までをも示したのである。里也は実に優曇華の花待ち得たる心地したが、翌日早速永井源介の処へ馳せ付けて事の顛末を告げたのである。そこで永井は丁度在勤中の村瀬藤馬にも計ってこれを公儀に訴え出で、直様伝内を召し取って丸亀藩に護送し 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏はその該博なる智識と不尽の精力を傾け豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際し 【左頁】 【欄外】 この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 たが程なく丸亀藩においては式の如く仇討ちの場所を設けて伝内里也両人をして雌雄を決させたのである。この時村瀬藤馬は里也の差添として出頭したが、里也の孝心は凝ってこの悪漢伝内を切り伏せ、他の助太刀をも要せず見事に復讐をなし遂げたとの事である。蓋し里也は二歳の時に父を失い三歳でまた母に別れ、十八歳にして初めて仇討ちの門出をなしたが、爾来苦辛惨憺十七年目で初めてその目的を達したのである。これが恰も元禄十三年頃の事であるが、京極家においてはこの里也の孝烈苦節を感じて士分に取り立て、その愛女の傅とさせたのであるが、里也はその後恩人源介の厚情を忘れぬ為とあって永井を称したので、遂に永井の局と呼ばれるに至ったが、この京極家の愛女というのは即ち信祝夫人となられたお種殿で、この人が松平家に輿入れの時は矢張り永井局も御付人として随従したのである。その後松平家においてはこの永井局の為に一家を起こさせたという事であるが、無論江戸住居であったからこの豊橋には何等残ったものもないのみならず、その跡というものが甚だ不明であるのは遺憾である。私も平常その後の経歴については心掛けて研究しているものであるが、「讃岐の佳人」の著者からも数々申し越された事もあるのである。幸いに諸君の中に何分にでもこの人の事に関して御承知の方があったならば、平に御教示を請いたいものであると思う。しかし私はこの信祝夫人京極氏が前にも申し述べる如く尋常一様の婦人でないというのを見るにつけても、その半面にはまた何となくこの永井局が面影を見られるように思っているのである。 ⦿松平資訓と其事蹟 前に申し述べた如く松平伊豆守信祝は享保十四年二月二日大坂城代に任ぜられたが、その月の十五日遠江国浜松城に移封と相成ったのである。而してこれと相交代して浜松からこの吉田城に転封と成ったのが松平 【欄外】 豊橋市史談(松平資訓と其事蹟) 三百三

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Kyōgoku and Nagai-no-Tsubone) 302 **Main Text:** ...could be called the beginning of her quest for revenge. At that time, Satoya went down to Edo accompanied by a retainer of the same domain named Murase Tōma through her uncle's efforts, and Tōma further arranged for Satoya to be looked after by a swordsman named Nagai Gensuke, one of his subordinate retainers. So Satoya lived as a maid doing cooking and cleaning in this household, but since her original purpose was what it was, whenever she had free time she would go to the sword training hall and earnestly watch the matches. This eventually aroused the suspicions of her master Nagai, so one day Nagai called Satoya to his side and asked about her intentions. Satoya now had no reason to conceal anything and finally revealed her purpose to Nagai. Thereupon Nagai was deeply moved upon hearing this and finally swore to help her achieve her long-cherished goal. From then on, Nagai secretly taught Satoya martial arts, applying himself earnestly to her training, and enthusiasm is a fearsome thing - in just two years Satoya's skills improved greatly. Then one day Nagai advised Satoya to leave his household quickly and from then on devise strategies to track down her enemy Den'nai. From this point, Satoya wandered from place to place, and over the next twelve years changed masters seventy-four times, experiencing every hardship while single-mindedly striving to find her enemy. Her spirit of steadfast perseverance truly moves listeners to tears. Now, the last place Satoya lived was in the residence of a hatamoto named Sakane Yasubē who lived in Honjo, and in that household there was a retainer named Koizumi Bun'nai. He was over fifty years old and quite fond of drink, and one evening during drunken conversation, in the stories he told, Satoya discovered hints that made her wonder if this might be her enemy Den'nai. So Satoya suppressed her pounding heart and gradually drew out more of his story, whereupon Bun'nai eventually got carried away and repeated old tales, even revealing that he was indeed that Iwabuchi Den'nai and showing her the scar from the sword that Satoya's mother had thrown at him with all her resentment. Satoya felt as if she had finally encountered the legendary udumbara flower, and the next day she immediately rushed to Nagai Gensuke and told him the whole story. Then Nagai consulted with Murase Tōma, who happened to be on duty in Edo, reported this to the authorities, immediately had Den'nai arrested and escorted to Marugame domain. **Margin:** Mayor of Toyohashi, Mr. Ōguchi Kiroku, has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling the history of Toyohashi City for over a year, and now as the manuscript is nearly complete... **Left Page:** **Margin:** This Toyohashi City Historical Discourse is published once a week (on Tuesdays) and presented to readers of San'yō Shinpō. **Main Text:** Soon after, Marugame domain formally arranged a place for the revenge duel and had the two, Den'nai and Satoya, settle their score. At this time Murase Tōma appeared as Satoya's second, but Satoya's filial devotion was concentrated, and she struck down this villain Den'nai, needing no other assistance and accomplishing her revenge magnificently. Indeed, Satoya had lost her father at age two and was separated from her mother at three, first embarking on her path of revenge at eighteen, and after seventeen years of bitter hardship finally achieved her goal. This was around Genroku 13 (1700), and the Kyōgoku family, moved by Satoya's filial devotion and steadfast endurance, elevated her to samurai status and made her attendant to their beloved daughter. Afterward, out of gratitude for her benefactor Gensuke's kindness, she took the name Nagai, and thus came to be called Nagai-no-Tsubone. This beloved daughter of the Kyōgoku family was none other than Lady Tane, who became Nobutoki's wife, and when this lady married into the Matsudaira family, Nagai-no-Tsubone also accompanied her as a personal attendant. Later, the Matsudaira family established a separate household for this Nagai-no-Tsubone, but since she naturally resided in Edo, nothing remains of her in Toyohashi, and it is regrettable that her subsequent traces are quite unclear. I myself am constantly researching her later career, and the author of "Beauties of Sanuki" has also inquired about this several times. If any of you gentlemen happen to know anything about this person, I would humbly request your instruction. However, when I consider that Nobutoki's wife Lady Kyōgoku was not an ordinary woman as I mentioned before, I somehow feel I can also see the influence of this Nagai-no-Tsubone in the other half of her character. ⦿ Matsudaira Sukenori and His Achievements As I mentioned before, Matsudaira Izu-no-kami Nobutoki was appointed as Osaka Castle keeper on February 2nd of Kyōhō 14 (1729), and on the 15th of that month was transferred to Hamamatsu Castle in Tōtōmi Province. And in exchange for this, the one who was transferred from Hamamatsu to this Yoshida Castle was Matsudaira... **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Sukenori and His Achievements) 303