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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 166

ページ: 166

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【欄外】    豊橋市史談  (松平資訓と其事蹟)                    三百四  【本文】 本庄宗資   豊後守(ぶんごのかみ)資訓であるが此(この)資訓の家(いへ)と云ふのは元(も)と二 條家(でうけ)の家人(けにん)で其(その)本姓(ほんせい)は本庄(ほんぜう)である而(しか)して其祖(そのそ)因幡守(いなばのかみ)         宗資(むねすけ)と云ふ人(ひと)は彼(か)の五 代将軍(だいせうぐん)綱吉(つなよし)の母(はゝ)桂昌院(けいせうゐん)の弟(おとゝ)で綱吉(つなよし)がまだ舘林(たてばやし)に居(を)つた頃(ころ)から之(これ)に仕(つか)へて段々(だん〴〵)と        引立(ひきた)てられたものである初(はじ)めは廩米(りまい)僅(わづ)かに五百 俵(ぺう)であつたが遂(つひ)には五万 石(ごく)の大名(だいみよう)とまで相成(あひな)つたのであ 《割書:本庄宗俊浜|松に封せら》  る其(その)子(こ)の宗俊(むねとし)は又(ま)た早(はや)くから綱吉(つなよし)に仕(つか)へ元禄(げんろく)十五年九月七万石に加増(かぞう)せられて遠州(ゑんしう)浜松(はままつ)の城主(じようしゆ)に封(ほう)ぜ 《割書:れ姓松平を|賜ふ》  られ且(か)つ又(ま)た宝永(ほうえい)二年三月廿三日 初(はじ)めて松平(まつだひら)の姓(せい)を賜(たまは)つたのであるが其(その)子(こ)が即(すなは)ち此(この)資訓である資訓は        元来(がんらい)佐野信濃守勝由(さのしなのゝかみかつよし)の末子(まつし)で本庄家(ほんぜうけ)へは養子(やうし)したものであるが幼名(えうめい)は捨(すて)五 郎(らう)と云つて初(はじ)め宗惇(そうじゆん)、 資惇(しじゆん)       とも称(せう)した享保(けうほ)八年 家督(かとく)を相続(さうぞく)し其(その)十四年二月 前(まへ)にも申述(まをしの)べた如(ごと)く浜松城(はままつじよう)から此(この)吉田(よしだ)へ移封(いほう)になつた 《割書:松平資訓復|び大河内氏》   次第(しだい)である此(この)人(ひと)は寛保(かんぽ)元年(がんねん)四月十二日 奏者衆(そうしやしう)となり寛延(かんえん)元年(がんねん)十二月 従(じゆ)四 位下(ゐか)に叙(ぢよ)せられ其(その)二年十月十 《割書:と交代して|浜松に封せ》  五日 京都所司代(けうとしよしだい)に補(ほ)せられたが此(この)時(とき)再(ふたゝ)び大河内氏(おほかうちし)と交代(かうたい)して此(この)吉田(よしだ)から浜松城(はままつじよう)へ移(うつ)されたのである宝(ほう) 《割書:らる   |》   暦(れき)二年三月廿六日五十三 歳(さい)で京都(けうと)に於(おい)て卒去(そつきよ)したが此(この)人(ひと)は中々(なか〳〵)和歌(わか)を能(よ)くし絵画(くわいが)も相当(さうたう)には出来(でき)たも       のである渥美郡(あつみぐん)牟呂吉田村(むろよしだむら)大字(おほあざ)西豊田(にしとよだ)の植田(うえだ)七三 郎君(らうくん)は其(その)祖先(そせん)が此(この)本庄家(ほんぜうけ)の御用達(ごようたつ)であつて資訓が浜(はま)        松(まつ)から吉田(よしだ)へ移封(いほう)になつた時(とき)付(つ)いて来(き)たものであるから今(いま)も多(おほ)く資訓の遺墨(ゐぼく)を蔵(ざう)して居(を)られるが之(これ)で        見(み)ると絵画(くわいが)は狩野家(かのけ)を学(まな)むだものでカナリには画(か)いたのである又(ま)た和歌(わか)は其(その)書風(しよふう)が中々(なか〳〵)見事(みごと)で推重(すいてう)す 《割書:松平資訓在|城中の事蹟》  るに足(た)ると思(おも)ふがサテ此(この)資訓が吉田在城(よしだざいじよう)は前(まへ)にも申述(まをしの)べた如(ごと)く享保(けうほ)十四年から寛延(かんえん)二年まで約(やく)廿一年        間であるが其(その)間(あひだ)に於(お)ける出来事(できごと)に就(つい)て申述(まをしの)ぶれば先(ま)づ享保(けうほ)は廿年で元文(げんぶん)となり元文(げんぶん)は五年で寛保(かんぽ)とな       り寛保(かんぽ)は三年で延享(えんけう)と成つたが其(その)二年九月朔日 徳川中興(とくがはちうこう)の祖(そ)と云(い)はれた八 代将軍(だいせうぐん)吉宗(よしむね)は自(みづか)ら隠居(ゐんきよ)して        其(その)子(こ)家重(いへしげ)が代(かは)つて征夷大将軍(せいゐたいせうぐん)に任(にん)ぜられたのである而(しか)して吉宗(よしむね)は西丸(にしまる)に居(を)つて大御所(おほごしよ)と称(せう)したがそれ       より七年目で宝暦(ほうれき)元年(がんねん)の六月廿日 年(とし)六十八を以(もつ)て薨去(こうきよ)されたのであるソコで此(この)家重(いへしげ)の治世(ぢせい)に就(つい)ても尚 【欄外】        発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千百八十四号附録    (大正元年十月八日発行) 【本文】       ほ少(すこ)しく申述(まをしの)ぶる必要(ひつえう)の事柄(ことがら)もあるが後章(こうせう)に於(おい)て追々(おい〳〵)に御話(おはなし)する考(かんがへ)であるから此処(こゝ)には之(これ)を略(りやく)する 出火頻々   事(こと)とするが此(この)資訓(すけのり)が吉田在城(よしだざいじよう)中(ちう)に於(おい)て吉田(よしだ)に起(おこ)つた事柄(ことがら)では最(もつと)も人(ひと)の注意(ちうい)を惹(ひ)くのが甚(はなは)だ出火(しゆつくわ)の多(おほ)か       つた事(こと)である旧記(きうき)に拠(よ)ると先(ま)づ享保(けうほ)十七年十二月晦日に中柴(なかしば)に出火(しゆつくわ)があつて三十六 戸(こ)焼失(せうしつ)したが其(その)頃(ころ)       の中柴(なかしば)はまだ誠(まこと)の村落(そんらく)で記録(きろく)にも中柴村(なかしばむら)と記(しる)してある位(くらゐ)であるからかゝる処(ところ)で卅六 戸(こ)の焼失(せうしつ)は中々(なか〳〵)大(たい)        火事(くわじ)と云(い)つてもよかつたであろう又(ま)た其(その)次(つぎ)が元文(げんぶん)元年(がんねん)十二月廿四日の火事(くわじ)で之(これ)は札木町(ふだぎまち)から初(はじ)まつて       五十九 戸(こ)焼失(せうしつ)したのであるそれからが新銭町(しんせんまち)の火事(くわじ)で之(これ)は元文(げんぶん)三年五月五日の事(こと)であるが焼失(せうしつ)戸数(こすう)は       十九 戸(こ)である其(その)次(つぎ)が寛保(かんぽ)二年十月廿七日 飽海(あくみ)の火事(くわじ)で其(その)焼失(せうしつ)戸数(こすう)は十四 戸(こ)であるが尚(な)ほ延享(えんけう)三年八月       九日には垉(はう)六 町(まち)、 下(くだ)り町(まち)に出火(しゆつくわ)があつたので之(これ)は今(いま)の花園町(はなぞのてう)であるが四十四 戸(こ)焼失(せうしつ)したのであるそれ       から寛延(かんえん)元年(がんねん)十二月六日には田町瀬古(たまちせこ)に七 戸(こ)の焼失(せうしつ)があり同(どう)二年正月朔日には又々(また〳〵)新銭町(しんせんまち)に廿四 戸(こ)の        焼失(せうしつ)があり而(しか)して同年(どうねん)同月(どうげつ)の十六日には田町(たまち)即(すなは)ち今(いま)の湊町(みなとまち)に廿四 戸(こ)の焼失(せうしつ)があつたのである随分(ずゐぶん)能(よ)く        出火(しゆつくわ)が続(つゞ)いた事(こと)であると思(おも)ふが藩主(はんしゆ)は其(その)都度(つど)罹災者(りさいしや)に対(たい)して米麦(こむむぎ)並(ならび)に松木(まつき)などを救恤(きうしゆつ)して居(を)るのである       が又(ま)た年賦(ねんぷ)を以(もつ)て金(かね)をも貸下(かしさ)げて居(を)るのである而(しか)も此(この)金(かね)は後(のち)に至(いた)り其(その)大部分(だいぶぶん)を棒引(ぼうびき)にして拝借者(はいしやくしや)へ下(か)        付(ふ)したのである此(かく)の如(ごと)く火事(くわじ)の続(つゞ)いた結果(けつくわ)として罹災者(りさいしや)に困難(こんなん)のものが出来(でき)たのは当然(たうぜん)であるが此(この)罹(り) 市民の困弊  災者(さいしや)以外(いぐわい)にも当時(たうじ)市中(しちう)には頗(すこぶ)る生計困難(せいけいこんなん)のものが多(おほ)かつたのである其(その)原因(げんゐん)は言(い)ふ迄(まで)もなく決(けつ)して出火(しゆつくわ)       の為(ため)のみではなかつたのであるが藩主(はんしゆ)は度々(たび〳〵)金穀(きんこく)を之(これ)等(ら)市内(しない)の住民(ぢうみん)に貸下(かしさ)げて助成(じよせい)した事実(じじつ)があるそ       れのみならず一度(いちど)徴収(てうしう)した炭(すみ)の運上(うんぜう)を免(めん)じ又(ま)た高足村(たかあしむら)から収納(しうのう)する処(ところ)の運上(うんぜう)を此(この)吉田(よしだ)の宿駅(しゆくえき)に下付(かふ)し       たなどの事実(じじつ)から推(お)しても当時(たうじ)宿駅(しゆくえき)の住民(ぢうみん)と云(い)ふものは一 方(ぽう)に商工業(せうこうげふ)の発展(はつてん)などは思(おも)ひも寄(よ)らざるの       みならず却(かへつ)て過重(くわぢう)の賦役(ふえき)に堪(た)へ兼(か)ねたものである事(こと)が歴々(れき〳〵)として見(み)へるのである此(この)救済(きうざい)に対(たい)しては前(まへ) 【欄外】    豊橋市史談  (松平資訓と其事蹟)                    三百五

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(松平資訓と其事蹟) 三百四 【本文】 豊後守資訓であるが、この資訓の家というのは元々二条家の家人で、その本姓は本庄である。そしてその祖先である因幡守宗資という人は、あの五代将軍綱吉の母桂昌院の弟で、綱吉がまだ館林にいた頃からこれに仕えて段々と引き立てられたものである。初めは廩米僅かに五百俵であったが、遂には五万石の大名にまで相成ったのである。その子の宗俊はまた早くから綱吉に仕え、元禄十五年九月に七万石に加増されて遠州浜松の城主に封ぜられ、かつまた宝永二年三月二十三日に初めて松平の姓を賜ったのであるが、その子が即ちこの資訓である。資訓は元来佐野信濃守勝由の末子で本庄家へは養子したものであるが、幼名は捨五郎と言って、初め宗惇、資惇とも称した。享保八年に家督を相続し、その十四年二月に前にも申し述べた如く浜松城からこの吉田へ移封になった次第である。この人は寛保元年四月十二日に奏者衆となり、寛延元年十二月に従四位下に叙せられ、その二年十月十五日に京都所司代に補せられたが、この時再び大河内氏と交代してこの吉田から浜松城へ移されたのである。宝暦二年三月二十六日に五十三歳で京都において卒去したが、この人は中々和歌を能くし、絵画も相当には出来たものである。 渥美郡牟呂吉田村大字西豊田の植田七三郎君は、その祖先がこの本庄家の御用達であって、資訓が浜松から吉田へ移封になった時について来たものであるから、今も多く資訓の遺墨を蔵しておられるが、これで見ると絵画は狩野家を学んだもので、かなりには描いたのである。また和歌はその書風が中々見事で推重するに足ると思う。 さてこの資訓が吉田在城は前にも申し述べた如く享保十四年から寛延二年まで約二十一年間であるが、その間における出来事について申し述べれば、先ず享保は二十年で元文となり、元文は五年で寛保となり、寛保は三年で延享と成ったが、その二年九月朔日に徳川中興の祖と言われた八代将軍吉宗は自ら隠居してその子家重が代って征夷大将軍に任ぜられたのである。そして吉宗は西丸にいて大御所と称したが、それより七年目で宝暦元年の六月二十日に年六十八を以って薨去されたのである。そこでこの家重の治世についてもなお 【欄外】 発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千百八十四号附録(大正元年十月八日発行) 【本文】 少しく申し述べる必要の事柄もあるが、後章において追々にお話しする考えであるからここにはこれを略することとするが、この資訓が吉田在城中において吉田に起こった事柄では最も人の注意を惹くのが甚だ出火の多かった事である。旧記によると先ず享保十七年十二月晦日に中柴に出火があって三十六戸焼失したが、その頃の中柴はまだ誠の村落で記録にも中柴村と記してある位であるから、かかる処で三十六戸の焼失は中々大火事と言ってもよかったであろう。またその次が元文元年十二月二十四日の火事で、これは札木町から始まって五十九戸焼失したのである。それからが新銭町の火事で、これは元文三年五月五日の事であるが、焼失戸数は十九戸である。その次が寛保二年十月二十七日の飽海の火事で、その焼失戸数は十四戸であるが、なお延享三年八月九日には垉六町、下り町に出火があったので、これは今の花園町であるが、四十四戸焼失したのである。それから寛延元年十二月六日には田町瀬古に七戸の焼失があり、同二年正月朔日にはまたまた新銭町に二十四戸の焼失があり、そして同年同月の十六日には田町即ち今の湊町に二十四戸の焼失があったのである。随分よく出火が続いた事であると思うが、藩主はその都度罹災者に対して米麦並びに松木などを救恤しているのであるが、また年賦を以って金をも貸し下げているのである。しかもこの金は後に至りその大部分を棒引きにして拝借者へ下付したのである。 このように火事の続いた結果として罹災者に困難の者が出来たのは当然であるが、この罹災者以外にも当時市中には頗る生計困難の者が多かったのである。その原因は言うまでもなく決して出火の為のみではなかったのであるが、藩主は度々金穀をこれ等市内の住民に貸し下げて助成した事実がある。それのみならず一度徴収した炭の運上を免じ、また高足村から収納する処の運上をこの吉田の宿駅に下付したなどの事実から推しても、当時宿駅の住民というものは一方に商工業の発展などは思いも寄らざるのみならず、却って過重の賦役に堪え兼ねたものである事が歴々として見えるのである。この救済に対しては前 【欄外】 豊橋市史談(松平資訓と其事蹟) 三百五

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Sukenori and His Achievements) 304 **Main Text:** ...Bungo-no-kami Sukenori. This Sukenori's family was originally retainers of the Nijō family, and their original surname was Honjō. Their ancestor, a man named Inaba-no-kami Munesuke, was the younger brother of Keishōin, mother of the fifth Shogun Tsunayoshi, and had served Tsunayoshi since he was still in Tatebayashi, gradually rising in his favor. Initially he received only five hundred hyō of stipend rice, but eventually became a daimyo of fifty thousand koku. His son Munetoshi also served Tsunayoshi from an early age, and in September of Genroku 15 (1702) was granted an increase to seventy thousand koku and was enfeoffed as lord of Hamamatsu Castle in Enshū Province. Moreover, on March 23rd of Hōei 2 (1705), he was first granted the Matsudaira surname. His son was this very Sukenori. Sukenori was originally the youngest son of Sano Shinano-no-kami Katsuyoshi and was adopted into the Honjō family. His childhood name was Sutegorō, and he was initially also called Sōjun and Shijun. He inherited the family headship in Kyōhō 8 (1723), and in the second month of Kyōhō 14 (1729), as I mentioned before, was transferred from Hamamatsu Castle to this Yoshida. This man became a member of the sōjashū on April 12th of Kanpō 1 (1741), was promoted to junior fourth rank lower in December of Kan'en 1 (1748), and was appointed as Kyoto deputy on October 15th of Kan'en 2 (1749). At this time he was again transferred from Yoshida to Hamamatsu Castle in exchange with the Ōkōchi clan. He died in Kyoto on March 26th of Hōreki 2 (1752) at the age of fifty-three. This man was quite skilled at waka poetry and was also reasonably accomplished at painting. Mr. Ueda Nanasaburō of Nishi-Toyota, Muro-Yoshida Village, Atsumi County, had ancestors who were purveyors to this Honjō family and came along when Sukenori was transferred from Hamamatsu to Yoshida, so he still possesses many of Sukenori's surviving writings and paintings. From these we can see that his paintings were done in the Kanō school style and were quite well executed. His waka poetry also shows excellent calligraphy that deserves appreciation. Now, this Sukenori's residence at Yoshida was, as I mentioned before, from Kyōhō 14 to Kan'en 2, approximately twenty-one years. Regarding the events during this period, first Kyōhō (which lasted twenty years) became Genbun, Genbun (five years) became Kanpō, and Kanpō (three years) became Enkyō. On the first day of the ninth month of Enkyō 2, the eighth Shogun Yoshimune, called the restorer of the Tokugawa, retired of his own accord, and his son Ieshige succeeded him as Seii Taishōgun. Yoshimune resided in the Western Compound and was called Ōgosho, but seven years later, on June 20th of Hōreki 1 (1751), he passed away at the age of sixty-eight. There are still some matters regarding this Ieshige's reign that need to be mentioned... **Margin:** Publisher and Printing House: San'yō Printing Company, 48 Kōnya-chō, Toyohashi City. Editor: Nakanishi Kenzō. Publisher and Printer: Kuno [?]kichi **Left Page:** **Margin:** San'yō Shinpō No. 4184 Supplement (Published October 8th, Taishō 1 [1912]) **Main Text:** ...but I plan to discuss these matters gradually in later chapters, so I will omit them here. However, among the events that occurred in Yoshida during Sukenori's residence there, what most draws people's attention is the extremely frequent occurrence of fires. According to old records, first there was a fire in Nakashiba on December 30th of Kyōhō 17 (1732) that destroyed thirty-six houses. Since Nakashiba at that time was still truly a village and is even recorded as "Nakashiba Village" in the records, the loss of thirty-six houses in such a place could well be called a major fire. Next was the fire of December 24th of Genbun 1 (1736), which started in Fudagi-machi and destroyed fifty-nine houses. Then came the fire in Shinsen-machi on May 5th of Genbun 3 (1738), which destroyed nineteen houses. Next was the fire in Akumi on October 27th of Kanpō 2 (1742), which destroyed fourteen houses. Furthermore, on August 9th of Enkyō 3 (1746), there was a fire in Hōroku-machi and Kudari-machi (present-day Hanazono-chō) that destroyed forty-four houses. Then on December 6th of Kan'en 1 (1748), seven houses were destroyed in Tamachi-Seko, and on New Year's Day of Kan'en 2 (1749), twenty-four houses were again destroyed in Shinsen-machi. On the 16th of the same month and year, twenty-four houses were destroyed in Tamachi, which is present-day Minato-machi. I think fires continued quite frequently, but the domain lord provided relief to disaster victims each time with rice, wheat, and pine wood, and also lent money on annual installment plans. Moreover, later most of this money was written off and gifted to the borrowers. As a result of these continuous fires, it was natural that some disaster victims fell into difficulty, but besides these disaster victims, there were also many people in the town at that time who had great difficulty making a living. The cause was needless to say not only due to fires, but the domain lord repeatedly lent money and grain to these townspeople for assistance. Not only that, but from facts such as exempting the charcoal transport tax that had once been collected and granting the transport tax collected from Takaashi Village to this Yoshida post station, we can clearly see that the residents of the post station at that time not only could not even dream of commercial and industrial development, but rather could barely endure the excessive corvée duties. Regarding this relief, previously... **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Sukenori and His Achievements) 305