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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 167

ページ: 167

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【欄外】    豊橋市史談  (大河内氏復び吉田に転封せらる)                三百六 【本文】 《割書:都市と行政|との関係》  にも申述(もをしの)べた如(ごと)く資訓(すけのり)は頗(すこぶ)る力(ちから)を用(もち)ゐたものであるが到底(たうてい)政治(せいぢ)の根本(こんぽん)と云(い)ふものが今日(こんにち)とは違(ちが)ふので       あるから市街地(しがいち)の発展(はつてん)は決(けつ)して望(のぞ)むべからざる状況(ぜうけふ)であつたのである然(しか)るに之(これ)を今日(こんにち)農村(のうそん)が自然(しぜん)に衰(おとろ)       えて農民(のうみん)が都市(とし)にのみ集(あつま)る状況(ぜうけふ)があると云(い)ふので大(おほい)に研究(けんきう)を要(えう)してる居(を)る時代(じだい)と比較対照(ひかくたいせう)したならば諸(しよ)        君(くん)は如何(いかん)の感(かん)を起(おこ)さるゝか其(その)原因(げんゐん)に就(つい)て研究(けんきう)するのは特(とく)に都市(とし)行政(ぎようせい)に心(こゝろ)を寄(よ)する者(もの)に取(とつ)ては好題目(かうだいもく)で       はあるまいかと思(おも)ふのである        其他(そのた)此(この)資訓(すけのり)の時代(じだい)には享保(けうほ)十七年と元文(げんぶん)五年とに大橋(おほはし)の普請(ふしん)があり又(ま)た下地(しもぢ)の水神祠(すいじんし)と云(い)ふものは元(げん) 《割書:吉田神社の|石華表》   文(ぶん)三年十一月の建立(こんりう)であるが資訓(すけのり)も亦(ま)た赤岩寺(あかいわでら)を初(はじ)め領内(れうない)寺社(じしや)を造営(ざうえい)した事(こと)が少(すくな)くなく現(げん)に吉田神社(よしだじんしや)       の石(いし)の鳥居(とりゐ)は此(この)人(ひと)の建立(こんりう)である尚(な)ほ一つ御紹介(ごせうかい)して置(お)きたいのは此(この)時代(じだい)のもので享保(けうほ)十九年 榎川岸(えのきかはぎし)の 《割書:船町保存の|文書類》   絵図面(ゑづめん)、 並(ならび)に元文(げんぶん)五年三月 船町(ふなまち)各戸(かくこ)の絵図類(ゑづるい)、 同町(どうてう)庄屋(せうや)浅井與次右衛門(あさゐよじうゑもん)が記録(きろく)せる船倉(ふなくら)附近(ふきん)の図面(づめん)な       どが今(いま)尚(な)ほ船町(ふなまち)の倉庫(さうこ)に保存(ほぞん)してある事(こと)である之(これ)は孰(いづ)れも市史(しし)の一 部分(ぶぶん)として大(おほい)に参考(さんかう)となるもので 孝子旌表  あると信(しん)ずる又(ま)た享保(けうほ)十五年 魚町(うをまち)に孫市(まごいち)と云(い)ふ親孝行(おやかう〳〵)の者(もの)があつて資訓(すけのり)は之(これ)に米(こめ)弐 俵(へう)を褒賞(ほうせう)して表奨(へうせう)       したが之(これ)も茲(こゝ)に伝(つた)ふべきものであると思(おも)ふ             ⦿大河内氏復び吉田に転封せらる        右(みぎ)の如(ごと)く吉田城主(よしだじようしゆ)であつた松平資訓(まつだひらすけのり)は寛延(かんえん)二年十月十五日 京都所司代(けうとしよしだい)に補(ほ)せられ同時(どうじ)に遠江国(とふとほみのくに)浜松城(はまゝつぜう)       に転封(てんほう)せられたが之(これ)と交代(かうたい)に浜松城(はまゝつじよう)から此(この)吉田(よしだ)へ移封(いほう)せられて来(き)たのは松平伊豆守信復(まつだひらいづのかみのぶなほ)である此(この)信復(のぶなほ)       は前(まへ)にも申述(もをしの)べてある如(ごと)く資訓(すけのり)の前(まへ)に此(この)吉田城主(よしだじようしゆ)であつた伊豆守信祝(いづのかみのぶとき)の長子(てうし)であるが信祝(のぶとき)は享保(けうほ)十四        年二月二日 大坂城代(おほさかじようだい)に任(にん)ぜらるゝと同時(どうじ)に資訓(すけのり)と交代(かうたい)して浜松城(はまゝつじよう)に移封(いほう)となり延享(えんけう)元年(がんねん)四月十九日 年(とし) 【欄外】 □豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】 □此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 《割書:松平伊豆守|信復》  六十二で卒去(そつきよ)したが信復(のぶなほ)は其(その)時(とき)年(とし)廿六で家督(かとく)を相続(さうぞく)し同年(どうねん)六月四日を以(もつ)て父(ちゝ)の遺領(ゐれう)七万石を其侭(そのまゝ)に賜(たまは)       つて浜松城主(はまゝつじようしゆ)となつたのである而(しか)して今度(こんど)寛延(かんえん)二年十月に至(いた)つてそれが又々(また〳〵)資訓(すけのり)と交代(かうたい)して此(この)吉田城(よしだじよう)      主(しゆ)と相成(あひな)つた次第(しだい)であるが当時(たうじ)は前章(ぜんせう)に於(おい)ても略(りやく)御承知(ごせうち)の如(ごと)く徳川将軍(とくがはせうぐん)は九 代家重(だいいへしげ)の時代(じだい)で丁度(ちようど)老中(らうちう)        上座(ぜうざ)の酒井雅樂守忠恭(さかゐうたのかみたゞやす)が引退(ゐんたい)して堀田相模守正亮(ほつたさがみのかみまさすけ)が老中上座(らうちうぜうざ)となつた頃(ころ)であるモツトモ其(その)頃(ころ)はまだ八 天下の大勢  代将軍(だいせうぐん)吉宗(よしむね)が西(にし)の丸(まる)に隠居(ゐんきよ)して大御所(おほごしよ)と称(せう)して居(を)つたが之(これ)は御承知(ごせうち)の如(ごと)く寛延(かんえん)四年 即(すなは)ち宝暦(ほうれき)元年(がんねん)の六       月廿日に薨去(こうきよ)となつたのである元来(がんらい)九 代将軍(だいせうぐん)の家重(いへしげ)と云(い)ふ人(ひと)は性質(せいしつ)惰弱(だじやく)で疳癖(かんぺき)が強(つよ)く且(か)つ極(きは)めて内行(ないかう)      が修(おさ)まらなかつたのみならず言語(げんご)が甚(はなは)だ不明瞭(ふめいれう)であつたので老中(らうちう)が其(その)意見(いけん)を承(うけたまは)るにも一々 側用人(そばようにん)の        大岡忠光(おほかたゞみつ)に通辞(つうじ)をして貰(もら)つたと云(い)ふ事(こと)であるが此(この)忠光(たゞみつ)は独(ひと)り能(よ)く家重(いへしげ)の言語(げんご)を解(かい)したので老中(らうちう)等(ら)も常(つね)       に忠光(たゞみつ)に対(たい)しては贈(おく)り物(もの)などをして只管(ひたすら)其(その)取(とり)なしを求(もと)めたとの事(こと)であるかゝる様(さま)であつたから政網(せいもう)は        次第(しだい)に乱(みだ)れ特(とく)に当時(たうじ)の人物(じんぶつ)であつた松平乗邑(まつだひらのりむら)を老中(らうちう)から斥(しりぞ)けて以来(いらい)は折角(せつかく)先代(せんだい)の吉宗(よしむね)が振興(しんこう)した幕政(ばくせい)       も益々(ます〳〵)紊乱(びんらん)するに至(いた)つたのである然(しか)るに之(これ)に反(はん)して其(その)当時(たうじ)又(ま)た一 方(ぱう)に於(おい)ては大(おほい)に学問(がくもん)の隆興(りうこう)を来(きた)した       ので之(これ)は誠(まこと)に不思議(ふしぎ)な事(こと)の様(やう)であるが其(その)学問(がくもん)と云(い)ふのが実(じつ)に勤王論(きんわうろん)の源泉(げんせん)を形造(かたづく)つたものである即(すなは)ち        御承知(ごせうち)の竹内式部(たけうちしきぶ)が京都(けうと)に於(おい)て堂々(どう〳〵)王政復古(わうせいふくこ)の説(せつ)を唱(とな)えたのも其(その)頃(ころ)であるが山縣大(やまがたたい)弐が柳子新論(りうししんろん)を        著(あら)はして大(おほい)に時弊(じへい)を論(ろん)じたのも其(その)当時(たうじ)である此(かく)の如(ごと)く東西(とうざい)に勤王論(きんわうろん)の鼓吹者(こすいしや)が現(あら)はれたが其(その)中(なか)でも特(とく)       に国学(こくがく)の勃興(ばつこう)を見(み)たのは大(おほい)に注意(ちうい)すべき事(こと)で彼(か)の荷田春満(かたはるみつ)の養子(やうし)在満(ありみつ)は江戸(えど)に出(い)でゝ将軍(せうぐん)の弟(おとゝ)田安宗(たやすむね)        武(たけ)に国学(こくがく)を講(かう)じ其(その)推薦(すゐせん)によつた加茂真淵(かもまぶち)の門人(もんじん)に村田春海(むらたはるうみ)、 加藤千蔭(かとうちかげ)の如(ごと)き秀才(しうさい)や本居宣長(もとをりのりなが)の如(ごと)き大(だい)        人物(じんぶつ)を出(いだ)したと云(い)ふのは或(あるひ)は時代(じだい)の反響(はんけう)とも見(み)るべきものではなかろうか兎(と)に角(かく)之(これ)等(ら)の事(こと)が結局(けつきよく)明治(めいぢ)        維新(いしん)の遠因(ゑんいん)となつて居(を)るとすれば実(じつ)に何(なん)とも云(い)へぬ味(あぢ)のある事(こと)ではあるまいかと信(しん)ずるのである先(ま)づ 【欄外】    豊橋市史談  (大河内氏復び吉田に転封せらる)                三百七

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(大河内氏復び吉田に転封せらる) 三百六 【本文】 前にも申し述べた如く、資訓は頗る力を用いたものであるが、到底政治の根本というものが今日とは違うのであるから、市街地の発展は決して望むべからざる状況であったのである。然るにこれを今日農村が自然に衰えて農民が都市にのみ集まる状況があると言うので大いに研究を要している時代と比較対照したならば、諸君は如何なる感を起こされるか。その原因について研究するのは特に都市行政に心を寄せる者にとっては好題目ではあるまいかと思うのである。 その他、この資訓の時代には享保十七年と元文五年とに大橋の普請があり、また下地の水神祠というものは元文三年十一月の建立であるが、資訓もまた赤岩寺をはじめ領内寺社を造営したことが少なくなく、現に吉田神社の石の鳥居はこの人の建立である。なお一つご紹介しておきたいのは、この時代のもので享保十九年榎川岸の絵図面、並びに元文五年三月船町各戸の絵図類、同町庄屋浅井与次右衛門が記録せる船倉附近の図面などが今なお船町の倉庫に保存してあることである。これはいずれも市史の一部分として大いに参考となるものであると信ずる。 また享保十五年、魚町に孫市という親孝行の者があって、資訓はこれに米二俵を褒賞して表彰したが、これもここに伝うべきものであると思う。 ⦿大河内氏復び吉田に転封せらる 右の如く吉田城主であった松平資訓は寛延二年十月十五日京都所司代に補せられ、同時に遠江国浜松城に転封せられたが、これと交代に浜松城からこの吉田へ移封せられて来たのは松平伊豆守信復である。この信復は前にも申し述べてある如く、資訓の前にこの吉田城主であった伊豆守信祝の長子であるが、信祝は享保十四年二月二日大坂城代に任ぜらるると同時に資訓と交代して浜松城に移封となり、延享元年四月十九日年 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 【左頁】 【欄外】 此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 六十二で卒去したが、信復はその時年二十六で家督を相続し、同年六月四日をもって父の遺領七万石をそのままに賜って浜松城主となったのである。そして今度寛延二年十月に至ってそれがまたまた資訓と交代してこの吉田城主と相成った次第であるが、当時は前章においても略ご承知の如く徳川将軍は九代家重の時代で、丁度老中上座の酒井雅楽守忠恭が引退して堀田相模守正亮が老中上座となった頃である。もっともその頃はまだ八代将軍吉宗が西の丸に隠居して大御所と称していたが、これはご承知の如く寛延四年即ち宝暦元年の六月二十日に薨去となったのである。 元来九代将軍の家重という人は性質惰弱で疳癖が強く、かつ極めて内行が修まらなかったのみならず言語が甚だ不明瞭であったので、老中がその意見を承るにも一々側用人の大岡忠光に通辞をしてもらったということであるが、この忠光は独り能く家重の言語を解したので老中等も常に忠光に対しては贈り物などをして只管その取りなしを求めたとのことである。かかる様であったから政網は次第に乱れ、特に当時の人物であった松平乗邑を老中から斥けて以来は折角先代の吉宗が振興した幕政も益々紊乱するに至ったのである。 然るにこれに反してその当時また一方においては大いに学問の隆興を来したので、これは誠に不思議なことの様であるが、その学問というのが実に勤王論の源泉を形造ったものである。即ちご承知の竹内式部が京都において堂々王政復古の説を唱えたのもその頃であるが、山県大弐が柳子新論を著して大いに時弊を論じたのもその当時である。このように東西に勤王論の鼓吹者が現れたが、その中でも特に国学の勃興を見たのは大いに注意すべきことで、あの荷田春満の養子在満は江戸に出でて将軍の弟田安宗武に国学を講じ、その推薦によった加茂真淵の門人に村田春海、加藤千蔭の如き秀才や本居宣長の如き大人物を出したというのは或いは時代の反響とも見るべきものではなかろうか。兎に角これ等のことが結局明治維新の遠因となっているとすれば、実に何とも言えぬ味のあることではあるまいかと信ずるのである。先ず 【欄外】 豊橋市史談(大河内氏復び吉田に転封せらる) 三百七

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Ōkōchi Clan Returns to Yoshida) 306 **Main Text:** As I mentioned before, Sukenori made considerable efforts, but since the fundamental nature of politics was different from today, the development of urban areas was in a completely hopeless situation. When we compare this with today's situation where villages naturally decline and farmers gather only in cities—a matter requiring great study—what feelings do you gentlemen experience? I think that research into the causes of this would be an excellent topic especially for those who concern themselves with municipal administration. In addition, during Sukenori's era there were major bridge construction projects in Kyōhō 17 (1732) and Genbun 5 (1740), and the Suijin Shrine at Shimoji was built in November of Genbun 3 (1738). Sukenori also frequently undertook construction of temples and shrines within his domain, beginning with Akaiwa Temple, and the stone torii gate at Yoshida Shrine was indeed built by this man. I would also like to introduce one more thing: from this period there are maps of the Enoki riverbank from Kyōhō 19 (1734), drawings of individual houses in Funa-machi from March of Genbun 5 (1740), and plans of the area around the ship warehouse recorded by the town headman Asai Yojizaemon, all of which are still preserved in warehouses in Funa-machi. I believe all of these serve as valuable references as part of the city's history. Also, in Kyōhō 15 (1730), there was a filial son named Magoichi in Uo-machi, and Sukenori rewarded him with two bales of rice and publicly honored him. I think this too should be recorded here. ⦿The Ōkōchi Clan Returns to Yoshida As described above, Matsudaira Sukenori, who was lord of Yoshida Castle, was appointed as Kyoto deputy on October 15th of Kan'en 2 (1749) and simultaneously transferred to Hamamatsu Castle in Tōtōmi Province. In exchange, Matsudaira Izu-no-kami Nobunao was transferred from Hamamatsu Castle to this Yoshida. This Nobunao was, as I mentioned before, the eldest son of Izu-no-kami Nobutoki, who had been lord of Yoshida Castle before Sukenori. Nobutoki was appointed as Osaka Castle deputy on February 2nd of Kyōhō 14 (1729) and simultaneously transferred to Hamamatsu Castle in exchange with Sukenori, dying on April 19th of Enkyō 1 (1744) at age... **Margin:** Mayor of Toyohashi Ōguchi Kiroku has devoted his vast knowledge and inexhaustible energy to compiling Toyohashi city history for over a year, and now his manuscript is nearly complete... **Left Page:** **Margin:** This Toyohashi City Historical Discourse is published once a week (Tuesdays) and presented to readers of the San'yō Newspaper. **Main Text:** ...sixty-two. Nobunao was twenty-six at the time and inherited the family headship, receiving his father's entire legacy of seventy thousand koku on June 4th of the same year and becoming lord of Hamamatsu Castle. Now, in October of Kan'en 2 (1749), he was again exchanged with Sukenori and became lord of this Yoshida Castle. At that time, as you roughly know from the previous chapter, the Tokugawa Shogun was the ninth generation Ieshige, and it was just when Sakai Uta-no-kami Tadayasu, the senior councilor, retired and Hotta Sagami-no-kami Masasuke became senior councilor. Of course, at that time the eighth Shogun Yoshimune was still retired in the Western Compound and called Ōgosho, but as you know, he died on June 20th of Kan'en 4, that is, Hōreki 1 (1751). Originally, the ninth Shogun Ieshige was by nature weak and irritable, with extremely poor personal conduct, and moreover his speech was extremely unclear, so when the senior councilors needed to receive his opinions, they had to have the chamberlain Ōoka Tadamitsu interpret everything. This Tadamitsu alone was able to understand Ieshige's speech, so the senior councilors and others constantly gave gifts to Tadamitsu and earnestly sought his mediation. Because of this situation, the government gradually fell into disorder, and especially after dismissing Matsudaira Norimura, who was a capable figure of the time, from the senior council, even the shogunal administration that the previous generation's Yoshimune had worked so hard to revitalize became increasingly chaotic. However, contrary to this, at the same time there was a great flourishing of learning, which seems truly strange, but this learning actually formed the source of loyalist thought. Indeed, the well-known Takeuchi Shikibu proclaimed the theory of imperial restoration openly in Kyoto around this time, and it was also then that Yamagata Daini wrote the "Ryūshi Shinron" and greatly discussed contemporary problems. Thus loyalist advocates appeared in both east and west, but among them the rise of National Learning was particularly noteworthy. Kada Arimitsu, the adopted son of the famous Kada Azumamaro, went to Edo and lectured on National Learning to the Shogun's brother Tayasu Munetake, and through his recommendation, disciples of Kamo Mabuchi such as talented men like Murata Harumi and Katō Chikage, and great figures like Motoori Norinaga emerged—perhaps this should be seen as a reflection of the times. In any case, if these matters ultimately became distant causes of the Meiji Restoration, I believe there is something truly indescribable about it. First... **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Ōkōchi Clan Returns to Yoshida) 307