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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 168

ページ: 168

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【欄外】    豊橋市史談  (大河内氏復び吉田に転封せらる)                三百八 【本文】        之(これ)が信復(のぶなほ)の吉田城主(よしだじようしゆ)たりし時代(じだい)に於(お)ける天下(てんか)の大勢(たいせい)でズツト後章(こうせう)に至(いた)つて必要(ひつえう)の事(こと)もあるから少(すこ)しく        此処(こゝ)に申述(もをしの)べて置(お)くのであるが之(これ)より信復(のぶなほ)の治世(ぢせい)当時(たうじ)に於(お)ける此(この)地方(ちはう)の事柄(ことがら)に就(つい)て大要(たいえう)申述(もをしの)べたいと        思(おも)ふのである        信復(のぶなほ)は前(まへ)にも申述(もをしの)べた如(ごと)く先代(せんだい)伊豆守信祝(いづのかみのぶとき)の長子(てうし)で幼名(ようめい)は泉(せん)四 郎(らう)と云(い)つたが享保(けうほ)四年四月四日 江戸(えど)谷(や)        中(なか)の下屋輔(しもやしき)で生(うま)れたのである十五 歳(さい)の時(とき)初(はじ)めて将軍(せうぐん)吉宗(よしむね)並(ならび)に世子(せいし)家重(いへしげ)に謁(えつ)したが延享(ゑんけう)元年(がんねん)四月十八日        夜(よ)父(ちゝ)信祝(のぶとき)が卒去(そつきよ)したので同年(どうねん)六月四日 其(その)遺領(ゐれう)を相続(さうぞく)したのであるモツトモ此(この)事(こと)だの又(ま)た寛延(かんゑん)二年十月       十五日 松平資訓(まつだひらすけのり)と交代(かうたい)して此(この)吉田城(よしだじよう)に移封(いほう)せられた事(こと)は既(すで)に只今(たゞいま)も申述(もをしの)べたのであるから御存(ごぞんじ)の事(こと)と        思(おも)ふ而(しか)して其(その)領地(れうち)の朱印(しゆいん)と云(い)ふものは寛延(かんゑん)四年三月十一日 付(づけ)で下(くだ)つたのであるが其(その)全文(ぜんぶん)は大(おほい)に参考(さんかう)と       なるから左(さ)に掲較(けいさい)することとする        三河国渥美郡之内弐拾八箇村八名郡之内参拾九箇村宝飯郡之内四拾五箇村額田郡之内五箇村加茂郡        之内四拾七箇村遠江国敷知郡之内拾七箇村城東郡之内加茂村近江国浅井郡之内弐拾箇村伊香郡之内        弐箇村高島郡之内下開田村高七萬石《割書:目録在|別 紙》事宛行之訖可領地之状如件           寛延四年三月十一日                             松平伊豆守とのへ 《割書:信復時代の|吉田》 かくて信復(のぶなほ)が吉田(よしだ)に移封(いほう)されて後(のち)寛延(かんゑん)と云(い)ふ年号(ねんがう)は四年目に宝暦(ほうれき)と改(あらた)まり宝暦(ほうれき)は又(ま)た十三年で明和(めいわ)と        改(あらた)まつたが其(その)宝暦(ほうれき)の元年(がんねん)には前将軍(ぜんせうぐん)吉宗(よしむね)の薨去(こうきよ)があり六年と十年には江戸(えど)に大火(たいくわ)があつたが其(その)年(とし)将軍(せうぐん)        家重(いへしげ)は隠居(ゐんきよ)し子(こ)家治(いへはる)が襲(つ)いで征夷大将軍(せいゐたいせうぐん)に任(にん)ぜられたのである然(しか)るに家重(いへしげ)は其(その)翌(よく)十一年の六月に薨去(こうきよ)       し十四 年(ねん)には又(ま)た年号(ねんがう)が明和(めいわ)と改(あらた)まつたのであるが此(この)年(とし)の二月に朝鮮国(てうせんこく)の使節(しせつ)が来朝(らいてう)した御承知(ごせうち)の通(とほ) 【欄外】        発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千百九十一号附録    (大正元年十月十五日発行) 【本文】       り徳川幕府(とくがはばくふ)に於(おい)ては初(はじめ)より朝鮮国(てうせんこく)に対(たい)しては実(じつ)に好意(かうい)を表(へう)したもので其(その)使節(しせつ)に対(たい)しても大切(たいせつ)なる賓客(ひんかく)       の取扱(とりあつかひ)をしたものである現(げん)に豊橋市(とよはしゝ)大字(おほあざ)鍛冶(かぢ)には朝鮮人御来朝(てうせんじんごらいてう)に付(つき)云々(うんぬん)と記(しる)して取調(とりしら)べた地図(ちづ)が残(のこ)       つて居(を)る位(くらゐ)である併(しか)し之(これ)は此(この)明和(めいわ)のではないまだ後(のち)のものではあるが兎(と)に角(かく)朝鮮人(てうせんじん)の来朝(らいてう)に就(つい)ては藩(はん)        主(しゆ)から各(かく)町々(まち〳〵)へ命(めい)じて此(その)地図(ちづ)を差出(さしだ)さしめ之(これ)を朝鮮人(てうせんじん)宿泊(しゆくはく)の時(とき)に見(み)せたものと思(おも)はれる此(この)明和(めいわ)の来朝(らいてう)       の時(とき)は二月の五日に関屋(せきや)の悟眞寺(ごしんじ)へ宿泊(しゆくはく)したが其(その)当日(たうじつ)は同寺(どうじ)に於(おい)て其(その)翌日(よくじつ)は新居(あらゐ)の休憩所(きうけいじよ)に於(おい)て大(おほい)に        饗応(けうおう)をしたもので其(その)皈路(きろ)にも同年(どうねん)の三月廿七日に矢張(やはり)此(この)悟眞寺(ごしんじ)に宿泊(しゆくはく)したが饗応(けうおう)は前(まへ)の如(ごと)くであつた        事(こと)が大河内家(おほかうちけ)の記録(きろく)の中(なか)に載(の)つて居(を)るのであるそれのみならず船町(ふなまち)の記録(きろく)によると既(すで)に宝暦(ほうれき)元年(がんねん)には        朝鮮人(てうせんじん)来朝(らいてう)の為(ため)に両度(れうど)も大橋(おほはし)の検分(けんぶん)として幕吏(ばくり)を此(この)吉田(よしだ)に差向(さしむ)けたもので両度(れうど)共(とも)作事奉行(さくじぶぎよう)を初(はじ)め其(その)役(やく)        人(にん)並(ならび)に下(し)タ方(がた)の者(もの)で総計(そうけい)廿四五 人宛(にんづゝ)も来(き)て居(を)るのである実(じつ)に之(これ)で見(み)ても徳川時代(とくがはじだい)の政治向(せいぢむき)と云(い)ふもの       は伺(うかゝ)ひ知(し)れるように思(おも)ふのである夫(それ)から宝暦(ほうれき)二年と同(どう)四年同十年同十三年と明和(めいわ)五年とに橋普請(はしふしん)のあ       つたものであるが其(その)中(なか)で宝暦(ほうれき)二年と明和(めいわ)五年とは架替(かけかへ)で其(その)他(た)のは修理(しうり)であるが其(その)都度(つど)検分役(けんぶんやく)を大勢(おほぜい)江(え)        戸(ど)から寄越(よこ)したのであるから随分(ずいぶん)大袈裟(おほげさ)な事(こと)であつたと思(おも)ふ        信復(のぶなほ)時代(じだい)の出来事(できごと)で御話(おはなし)すべき事(こと)は大略(たいりやく)之(こ)れ位(くらゐ)の事(こと)であるがサテ明和(めいわ)五年九月 信復(のぶなほ)は吉田(よしだ)在城中(ざいじようちう)に病(やまひ)       に罹(かゝ)り其(その)十九日 正午(せうご)遂(つひ)に年(とし)五十 歳(さい)で卒去(そつきよ)されたのである遺骸(ゐがい)は武州(ぶしう)に送(おく)つて野火止(のびとめ)の平林寺(へいりんじ)先塋(せんけい)の列(れつ) 謙光院   に葬(ほうむ)つたのであるが謚号(いつごう)が謙光院(けんくわうゐん)と号(ごう)するのである             ⦿松平信復と其時代に於ける人物 信復の人格 ソコで此(この)信復(のぶなほ)の人物(じんぶつ)に就(つい)て尚(な)ほ少(すこ)しく御話(おはなし)したいのであるが先(さき)にも一寸(ちよつと)申述(もをしの)べた如(ごと)く信復(のぶなほ)が幼時(えうじ)から 【欄外】    豊橋市史談  (松平信復と其時代に於ける人物)              三百九

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(大河内氏復び吉田に転封せらる) 三百八 【本文】 これが信復の吉田城主たりし時代における天下の大勢で、ずっと後章に至って必要なこともあるから少しくここに申し述べておくのであるが、これより信復の治世当時におけるこの地方の事柄について大要申し述べたいと思うのである。 信復は前にも申し述べた如く、先代伊豆守信祝の長子で幼名は泉四郎といったが、享保四年四月四日江戸谷中の下屋敷で生まれたのである。十五歳の時初めて将軍吉宗並びに世子家重に謁したが、延享元年四月十八日夜父信祝が卒去したので、同年六月四日その遺領を相続したのである。もっともこのことだの、また寛延二年十月十五日松平資訓と交代してこの吉田城に移封された事は既にただ今も申し述べたのであるからご存じの事と思う。そしてその領地の朱印というものは寛延四年三月十一日付で下ったのであるが、その全文は大いに参考となるから左に掲載することとする。 三河国渥美郡之内二十八ヶ村、八名郡之内三十九ヶ村、宝飯郡之内四十五ヶ村、額田郡之内五ヶ村、加茂郡之内四十七ヶ村、遠江国敷知郡之内十七ヶ村、城東郡之内加茂村、近江国浅井郡之内二十ヶ村、伊香郡之内二ヶ村、高島郡之内下開田村、高七万石(目録在別紙)の事宛行うこと完了せり、領地の状かくの如し 寛延四年三月十一日 松平伊豆守殿へ かくて信復が吉田に移封されて後、寛延という年号は四年目に宝暦と改まり、宝暦はまた十三年で明和と改まったが、その宝暦の元年には前将軍吉宗の薨去があり、六年と十年には江戸に大火があったが、その年将軍家重は隠居し子家治が継いで征夷大将軍に任ぜられたのである。然るに家重はその翌十一年の六月に薨去し、十四年にはまた年号が明和と改まったのであるが、この年の二月に朝鮮国の使節が来朝した。ご承知の通り 【欄外】 発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編集人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千百九十一号附録(大正元年十月十五日発行) 【本文】 徳川幕府においては初めより朝鮮国に対しては実に好意を表したもので、その使節に対しても大切なる賓客の取扱いをしたものである。現に豊橋市大字鍛冶には「朝鮮人御来朝に付云々」と記して取調べた地図が残っている位である。併しこれはこの明和のではない、まだ後のものではあるが、兎に角朝鮮人の来朝については藩主から各町々へ命じてその地図を差出させ、これを朝鮮人宿泊の時に見せたものと思われる。この明和の来朝の時は二月の五日に関屋の悟真寺へ宿泊したが、その当日は同寺において、その翌日は新居の休憩所において大いに饗応をしたもので、その帰路にも同年の三月二十七日に矢張りこの悟真寺に宿泊したが、饗応は前の如くであったことが大河内家の記録の中に載っているのである。 それのみならず船町の記録によると、既に宝暦元年には朝鮮人来朝のために両度も大橋の検分として幕吏をこの吉田に差向けたもので、両度共作事奉行をはじめその役人並びに下方の者で総計二十四五人ずつも来ているのである。実にこれで見ても徳川時代の政治向きというものは窺い知れるように思うのである。 それから宝暦二年と同四年、同十年、同十三年と明和五年とに橋普請のあったものであるが、その中で宝暦二年と明和五年とは架替で、その他のは修理であるが、その都度検分役を大勢江戸から寄越したのであるから随分大袈裟な事であったと思う。 信復時代の出来事でお話すべき事は大略これ位の事であるが、さて明和五年九月、信復は吉田在城中に病に罹り、その十九日正午遂に年五十歳で卒去されたのである。遺骸は武州に送って野火止の平林寺先塋の列に葬ったのであるが、諡号が謙光院と号するのである。 ⦿松平信復と其時代における人物 そこでこの信復の人物について尚少しくお話したいのであるが、先にも一寸申し述べた如く信復が幼時から 【欄外】 豊橋市史談(松平信復と其時代における人物) 三百九

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Ōkōchi Clan Returns to Yoshida) 308 **Main Text:** This was the general situation of the realm during the era when Nobunao was lord of Yoshida Castle, and since there will be necessary matters to discuss in later chapters, I will briefly describe them here. From now on, I would like to outline the main affairs of this region during Nobunao's reign. Nobunao was, as I mentioned before, the eldest son of the previous lord Izu-no-kami Nobutoki, and his childhood name was Senshirō. He was born on April 4th of Kyōhō 4 (1719) at the lower residence in Yanaka, Edo. At age fifteen he first had audience with Shogun Yoshimune and heir apparent Ieshige, but when his father Nobutoki died on the night of April 18th of Enkyō 1 (1744), he inherited the domain on June 4th of the same year. Of course, this matter and also his transfer to Yoshida Castle in exchange with Matsudaira Sukenori on October 15th of Kan'en 2 (1749) have already been mentioned just now, so you are aware of these matters. The vermillion seal for his domain was issued on March 11th of Kan'en 4 (1751), and since the full text is very valuable for reference, I will reproduce it below: Within Mikawa Province: 28 villages in Atsumi District, 39 villages in Yana District, 45 villages in Hōi District, 5 villages in Nukata District, 47 villages in Kamo District; within Tōtōmi Province: 17 villages in Shiki District, Kamo village in Jōtō District; within Ōmi Province: 20 villages in Asai District, 2 villages in Ika District, Shimokaidenvillage in Takashima District; total assessment 70,000 koku (detailed list on separate paper) - this grant is hereby completed, the status of the domain being as stated herein. Kan'en 4, March 11th To Matsudaira Izu-no-kami Thus after Nobunao was transferred to Yoshida, the era name Kan'en changed to Hōreki in its fourth year, and Hōreki in turn changed to Meiwa after thirteen years. In the first year of Hōreki there was the death of former Shogun Yoshimune, and in the 6th and 10th years there were great fires in Edo. In that year Shogun Ieshige retired and his son Ieharu succeeded him and was appointed Seii Taishōgun. However, Ieshige died in June of the following 11th year, and in the 14th year the era name changed again to Meiwa. In February of this year, an envoy from Korea came to court. As you know... **Margin:** Publisher and Printing House: San'yō Printing Partnership, 48 Kōnya-chō, Toyohashi City. Editor: Nakanishi Kenzō. Publisher and Printer: Kuno □kichi **Left Page:** **Margin:** San'yō Newspaper No. 4191 Supplement (Published October 15th, Taishō 1) **Main Text:** ...the Tokugawa shogunate from the beginning showed real goodwill toward Korea and treated their envoys as important honored guests. Indeed, in the Kaji district of Toyohashi City there still remains a map prepared with the notation "Regarding the visit of Koreans" and so forth. However, this is not from the Meiwa period but from a later time, though in any case, for Korean visits the domain lord ordered each town to submit such maps, which were presumably shown during Korean lodging. During this Meiwa visit, they lodged at Gōshin Temple in Sekiya on February 5th, with great hospitality provided at the temple that day and at the rest station in Arai the following day. On their return journey they again lodged at this same Gōshin Temple on March 27th of the same year, with hospitality as before, according to records in the Ōkōchi family archives. Moreover, according to Funa-machi records, already in Hōreki 1 (1751) shogunal officials were sent to Yoshida twice to inspect the great bridge in preparation for Korean visits. Both times a total of twenty-four or twenty-five people came, including construction magistrates, their officials, and subordinates. This truly gives us insight into the governmental practices of the Tokugawa period. Then there were bridge construction projects in Hōreki 2, 4, 10, 13, and Meiwa 5. Among these, Hōreki 2 and Meiwa 5 involved complete reconstruction, while the others were repairs, but each time they sent many inspection officials from Edo, so it must have been quite an elaborate affair. The events worth discussing from Nobunao's time are roughly these, but in September of Meiwa 5 (1768), Nobunao fell ill while residing in Yoshida Castle and finally died at noon on the 19th at age fifty. His remains were sent to Musashi Province and buried in the ancestral plot at Heirin Temple in Nobidome, and his posthumous name was Kenkōin. ⦿Matsudaira Nobunao and the People of His Era Now I would like to discuss Nobunao's character a bit more, and as I briefly mentioned before, from Nobunao's childhood... **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Nobunao and the People of His Era) 309