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【欄外】
豊橋市史談 (松平信復と其時代に於ける人物) 三百十
【本文】
の漢学(かんがく)の師範(しはん)は彼(か)の三浦竹渓(みうらちくけい)であつて竹渓(ちくけい)の性格(せいかく)が前(まへ)に御話(おはなし)した如(ごと)くであるから信復(のぶなほ)は余程(よほど)刻苦(こつく)して
勉学(べんがく)したものと思(おも)はれる今(いま)も大河内家(おほかうちけ)に其(その)自筆(じしつ)の漢籍(かんせき)を訓解(くんかい)したものが大部(だいぶ)残(のこ)つて居(お)るが一々 難解(なんかい)の
処(ところ)へ注釈(ちうしやく)を加(くは)へて厳正(けんせい)に筆記(しつき)したもので其(その)着実(ちやくじつ)に苦学(くがく)した有様(ありさま)が伺(うかゞ)へるのである又(ま)た其(その)当時(たうじ)の日課表(につかへう)
も残(のこ)つて居(お)るが之(こ)れ亦(ま)た信復(のぶなほ)自(みづか)ら毎日(まいにち)自身(じしん)の勉学(べんがく)する時間(じかん)と課目(かもく)とを定(さだ)めて自制(じせい)したものである此処(こゝ)
らは其(その)師(し)たる竹渓(ちくけい)の性格(せいかく)と比較対照(ひかくたいせう)して見(み)ると実(じつ)に趣味(しゆみ)のある問題(もんだい)だと思(おも)ふ又(また)信復(のぶなほ)は詩歌(しか)を善(よ)くし画(ぐわ)
をも書(か)いた其(その)遺墨(ゐぼく)は同家(どうけ)に数点(すうてん)保存(ほぞん)されてあるが決(けつ)して俗(ぞく)に云(い)ふ殿様(とのさま)の製作品(せいさくひん)ではない大河内家譜(おほかうちかふ)に
は信復(のぶなほ)に関(くわん)して左(さ)の如(ごと)く記(しる)してあるが以(もつ)て其(その)人物(じんぶつ)の大要(たいえう)が分(わか)ると思(おも)ふ
平日詩歌書画鼓琴以為娯、大好古楽、尤善横笛、弱冠師平義質《割書:物徂徠|門人》、研究六経、該覧古文辞十三家
博渉百家、精於歴史廿一史、以疾故止於宋史、雖疾篤、手不軽巻、所撰則有橋上集六巻、添削集二
巻、文集一巻、詩集五巻、和歌集廿巻、楽譜筌蹄二巻矣、為政清静、士民寧一、卒之日、関境如喪
考妣、願言擡昇霊柩護送東都者、都三百余人、有司節為六十人東道、以為美称矣
右(みぎ)の内(うち)で平義質(たひらよしかた)とあるのは即(すなは)ち三浦竹渓(みうらちくけい)の事(こと)であるが只(た)だ私(わたくし)はまだ右(みぎ)に書(か)いてある信復(のぶなほ)の著書(ちよしよ)の実見(じつけん)
する暇(いとま)のないのを遺憾(ゐかん)とすることである
又(ま)た此(この)時代(じだい)に於(おい)て現(あら)はれたる当地方(たうちはう)の人物(じんぶつ)に就(つい)て一二 御話(おはなし)したいと思(おも)ふのであるが三浦竹渓(みうらちくけい)の事(こと)は既(すで)
林正森 に先(さき)にも申述(もをしの)べた如(ごと)くであるから之(これ)は別(べつ)として此(この)吉田(よしだ)の一 市人(しじん)であつて稍伝(やゝつた)ふべきのは林弥次右衛門(はやしやじうゑもん)
と云(い)ふ人(ひと)の事(こと)である此(この)人(ひと)は吉田町(よしだまち)の年寄役(としよりやく)で利町(とぎまち)と中世古(なかせこ)の庄屋(せうや)を兼(か)ねて居(ゐ)たのであるが名乗(なのり)を正森(まさもり)
と云(い)ひ号(ごう)を自見(じけん)と称(せう)した其(その)祖先(そせん)に林(はやし)十 右衛門景政(うゑもんかげまさ)と云(い)ふのがあつて射(しや)を善(よ)くし元亀(げんき)三年 武田信玄(たけだしんげん)が此(この)
地(ち)に攻(せ)め寄(よ)せた時(とき)に之(これ)を飽海口(あくみぐち)に防(ふせ)いで功(こう)があつたので時(とき)の城将(じようせう)酒井忠次(さかゐたゞつぐ)から賞(せう)せられたと伝(つた)へられ
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
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【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
て居(お)ることは前章(ぜんせう)既(すで)に申述(もをしの)べて置(お)いた如(ごと)くである而(しか)して其(その)弟(おとゝ)助兵衛正秀(すけへうゑまさひで)と云(い)ふ人(ひと)は池田輝政(いけだてるまさ)に仕(つか)へて長(なが)
久手(くて)の役(えき)で戦死(せんし)したが其(その)子孫(しそん)が遂(つひ)に此(この)吉田(よしだ)に在住(ざいぢう)するに至(いた)つたものであるとは其(その)家伝(かでん)であつて今(いま)御話(おはなし)
する正森(まさもり)は其(その)正秀(まさひで)の六 世(せい)の孫(そん)であると称(せう)されて居(お)る併(しか)し今(いま)は一 市人(しじん)たるに過(す)ぎぬのであつたが最(もつと)も篤(とく)
志(し)の人(ひと)で独力(どくりよく)以(もつ)て三州吉田記(さんしうよしだき)と云(い)ふものを著(あらは)して居(お)るのである其(その)序文(ぢよぶん)には寛延(かんえん)三年九月とあるが一 市(し)
人(じん)として其(その)当時(たうじ)之(こ)れ丈(だけ)の事(こと)を調(しら)べ上(あ)げるには頗(すこぶ)る年月(ねんげつ)を費(つひや)したものでなくてはなるまいモツトモ今日(こんにち)
から見(み)れば別(べつ)に貴重(きてう)とすべき程(ほど)の値(あたひ)はなかろうが又(また)其(その)内(うち)には参考(さんかう)となるべき節(ふし)も少(すく)なくないのである
而(しか)して此(この)人(ひと)は余程(よほど)熱心(ねつしん)に旧事古跡(きうじこせき)の討究(とうきう)をしたもので彼(か)の龍拈寺(りうねんじ)の開基塚(かいきつか)の処(ところ)に牧野古白(まきのこはく)の碑(ひ)を建立(こんりう)
したのも此(この)人(ひと)であるが其(その)碑文(ひぶん)の写(うつし)は今(いま)も同寺(どうじ)に伝(つた)はつて居(お)るのである然(しか)るに何故(なにゆゑ)か其(その)実物(じつぶつ)が存在(そんざい)して
居(お)らぬのは遺憾(ゐかん)とする処(ところ)である尚(な)ほ其(その)他(た)にも此(この)人(ひと)の著書(ちよしよ)で上梓(ぜうせう)したものが一二あるが之(これ)は孰(いづ)れも随筆(ずゐしつ)
であつて殆(ほとん)ど今日(こんにち)に伝(つたは)つて居(お)らぬのは惜(おし)い事(こと)であると思(おも)ふ
僧教春 尚(な)ほ之(これ)に関連(くわんれん)して一つ申述(もをしの)べたいのは此(この)正森(まさもり)の叔父(おぢ)に教春(けうしゆん)と云(い)ふ僧侶(そうりよ)があつた事(こと)である此(この)人(ひと)は正森(まさもり)の
祖父(そふ)弥次右衛門景品(やじうゑもんかげしな)の十三 男(なん)で珍(めつ)らしく男子(だんし)の兄弟(けうだい)が多(おほ)くあつたものであるが幼(えう)にして渥美郡(あつみぐん)雲(う)の谷(や)
の普門寺(ふもんじ)に入(い)つて僧(そう)となり一 時(じ)其(その)住職(ぢうしよく)となつたが後(のち)高野山(かうやさん)に登(とは)つて北宝院(ほくほうゐん)の門主(もんしゆ)となり大教正(たいけうせい)にまで
なつたのである宝暦(ほうれき)元年(がんねん)十二月十二日八十三 歳(さい)で寂(じやく)したが碩学(せきがく)の聞(きこゑ)が高(たか)かつた人(ひと)である其(その)筆蹟(しつせき)は今(いま)も
其(その)子孫(しそん)に当(あた)る当(たう)船町(ふなまち)の林佐平(はやしさへい)氏(し)方(かた)に蔵(ざう)されて居(お)るが最(もつと)も脱俗(だつらく)の風(ふう)が見(み)える
尚(な)ほ此(この)際(さい)序(ついで)に一つ補(おぎな)つて置(お)きたい話(はなし)があるが夫(それ)は例(れい)の三河国二葉松(みかはのくにふたはまつ)と云(い)ふ著書(ちよしよ)に関(くわん)してである此(この)書(しよ)が
《割書:三河国二葉|松の著者》 出来(でき)たのは元文(げんぶん)年中(ねんちう)の事(こと)で恰(あたか)も松平豊後守資訓(まつだひらぶんごのかみすけのり)在城(ざいじよう)当時(たうじ)であるが其(その)著者(ちよしや)は宝飯郡(ほゐぐん)長山村(ながやまむら)の人(ひと)佐野監物(さのけんもつ)
と云(い)ふ者(もの)で吉田城内(よしだじようない)の小笠原(をがさはら)大弐(だいに)仝田町(どうたまち)の渡邊体伯(わたなべたいはく)外(ほか)四 人(にん)が加筆(かしつ)したものである其(その)加筆者(かしつしや)の中(なか)に牛久(うしく)
【欄外】
豊橋市史談 (松平信復と其時代に於ける人物) 三百十一
現代語訳
【欄外】
豊橋市史談(松平信復と其時代における人物) 三百十
【本文】
の漢学の師範は彼の三浦竹渓であって、竹渓の性格が前にお話した如くであるから、信復は余程刻苦して勉学したものと思われる。今も大河内家にその自筆の漢籍を訓解したものが大部残っているが、一々難解の処へ注釈を加えて厳正に筆記したもので、その着実に苦学した有様が伺えるのである。また、その当時の日課表も残っているが、これまた信復自ら毎日自身の勉学する時間と課目とを定めて自制したものである。ここらはその師たる竹渓の性格と比較対照して見ると実に趣味のある問題だと思う。また信復は詩歌を善くし画をも書いた。その遺墨は同家に数点保存されてあるが、決して俗に言う殿様の製作品ではない。大河内家譜には信復に関して左の如く記してあるが、以てその人物の大要が分かると思う。
「平日詩歌書画鼓琴以為娯、大好古楽、尤善横笛、弱冠師平義質(物徂徠門人)、研究六経、該覧古文辞十三家博渉百家、精於歴史廿一史、以疾故止於宋史、雖疾篤、手不軽巻、所撰則有橋上集六巻、添削集二巻、文集一巻、詩集五巻、和歌集廿巻、楽譜筌蹄二巻矣、為政清静、士民寧一、卒之日、関境如喪考妣、願言擡昇霊柩護送東都者、都三百余人、有司節為六十人東道、以為美称矣」
右の内で平義質とあるのは即ち三浦竹渓のことであるが、ただ私はまだ右に書いてある信復の著書の実見する暇のないのを遺憾とすることである。
また、この時代において現れたる当地方の人物について一二お話したいと思うのであるが、三浦竹渓のことは既に先にも申し述べた如くであるからこれは別として、この吉田の一市人であって稍伝うべきのは林弥次右衛門という人のことである。この人は吉田町の年寄役で利町と中世古の庄屋を兼ねていたのであるが、名乗を正森と言い号を自見と称した。その祖先に林十右衛門景政という人があって射を善くし、元亀三年武田信玄がこの地に攻め寄せた時にこれを飽海口に防いで功があったので、時の城将酒井忠次から賞せられたと伝えられ
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる知識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際[...]
【左頁】
【欄外】
この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
ていることは前章既に申し述べて置いた如くである。そして、その弟助兵衛正秀という人は池田輝政に仕えて長久手の役で戦死したが、その子孫が遂にこの吉田に在住するに至ったものであるとはその家伝であって、今お話する正森はその正秀の六世の孫であると称されている。併し今は一市人たるに過ぎなかったが、最も篤志の人で独力以て『三州吉田記』というものを著しているのである。その序文には寛延三年九月とあるが、一市人として其の当時これだけの事を調べ上げるには頗る年月を費やしたものでなくてはなるまい。もっとも今日から見れば別に貴重とすべき程の値はなかろうが、また其の内には参考となるべき節も少なくないのである。
そして、この人は余程熱心に旧事古跡の討究をしたもので、彼の龍拈寺の開基塚の処に牧野古白の碑を建立したのもこの人であるが、その碑文の写しは今も同寺に伝わっているのである。然るに何故か其の実物が存在していらぬのは遺憾とする処である。尚其の他にもこの人の著書で上梓したものが一二あるが、これは孰れも随筆であって殆ど今日に伝わっていらぬのは惜しいことであると思う。
尚これに関連して一つ申し述べたいのは、この正森の叔父に教春という僧侶があったことである。この人は正森の祖父弥次右衛門景品の十三男で、珍しく男子の兄弟が多くあったものであるが、幼にして渥美郡雲の谷の普門寺に入って僧となり、一時その住職となったが、後高野山に登って北宝院の門主となり大教正にまでなったのである。宝暦元年十二月十二日八十三歳で寂したが、碩学の聞えが高かった人である。その筆蹟は今もその子孫に当たる当船町の林佐平氏方に蔵されているが、最も脱俗の風が見える。
尚この際序でに一つ補って置きたい話があるが、それは例の『三河国二葉松』という著書に関してである。この書が出来たのは元文年中のことで、恰も松平豊後守資訓在城当時であるが、その著者は宝飯郡長山村の人佐野監物という者で、吉田城内の小笠原大弐、同田町の渡邊体伯外四人が加筆したものである。その加筆者の中に牛久
【欄外】
豊橋市史談(松平信復と其時代における人物) 三百十一
英語訳
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Nobunao and the People of His Era) 310
**Main Text:**
His Chinese studies teacher was the famous Miura Chikukei, and since Chikukei's character was as I described before, Nobunao must have studied with considerable diligence and perseverance. Even now, the Ōkōchi family preserves many volumes of Chinese classics annotated in his own hand, with careful annotations added to every difficult passage and written with strict precision, showing clearly how steadily and earnestly he pursued his studies. Daily study schedules from that time also remain, which Nobunao himself created to set daily study times and subjects for self-discipline. When compared with the character of his teacher Chikukei, this becomes a truly interesting topic. Nobunao was also skilled in poetry and painting. Several examples of his calligraphy are preserved by the family, and they are by no means the typical amateurish works of a lord. The Ōkōchi family genealogy records the following about Nobunao, which I think gives us a good overview of his character:
"In daily life he found pleasure in poetry, calligraphy, painting, and playing the koto. He greatly loved ancient music and was especially skilled at the horizontal flute. In his youth he studied under Taira Yoshikata (a disciple of Ogyū Sorai), researching the Six Classics and comprehensively studying ancient prose styles of thirteen schools and widely reading works of a hundred schools. He was expert in history, having studied twenty-one historical works, but stopped at the Song History due to illness. Even when seriously ill, he never set books aside. His works include the Kyōjō Collection (6 volumes), Revision Collection (2 volumes), Prose Collection (1 volume), Poetry Collection (5 volumes), Waka Collection (20 volumes), and Musical Score Collection (2 volumes). His governance was peaceful and quiet, and the samurai and common people lived in harmony. On the day of his death, the entire domain mourned as if losing their own parents. Those who wished to escort his coffin to Edo numbered over 300 people, though officials limited it to 60 for the journey, which became a beautiful tribute."
Among the above, Taira Yoshikata refers to Miura Chikukei, but I regret that I have not yet had the opportunity to examine Nobunao's writings mentioned above.
I would also like to discuss one or two figures who appeared in this region during this era. Since I have already discussed Miura Chikukei, I will set that aside and speak of Hayashi Yajizaemon, a townsman of Yoshida who is somewhat worth mentioning. This person served as an elder of Yoshida town and also as headman of Togi-machi and Nakaseko. His formal name was Masamori and his literary name was Jiken. His ancestor was Hayashi Jūzaemon Kagemasa, who was skilled in archery and distinguished himself by defending the Akumi entrance when Takeda Shingen attacked this region in Genki 3 (1572), for which he was rewarded by the castle commander Sakai Tadatsugu, as mentioned...
**Margin:**
Toyohashi Mayor Ōkōchi Kiroku has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling the history of Toyohashi City for over a year, and now as the manuscript nears completion...
**Left Page:**
**Margin:**
This Toyohashi City Historical Discourse is published once a week (Tuesdays) and presented to readers of the San'yō Newspaper
**Main Text:**
...as I already mentioned in the previous chapter. His younger brother, Sukebei Masahide, served Ikeda Terumasa and died in battle at Nagakute, but his descendants eventually came to reside in Yoshida, according to their family tradition. The Masamori we are discussing is said to be the sixth-generation descendant of that Masahide. However, he was now merely a townsman, but a most devoted person who independently authored a work called "Records of Sanshū Yoshida." Its preface is dated September of Kan'en 3 (1750), and for a townsman to research such matters at that time must have taken considerable years. Though it may not be particularly valuable by today's standards, it contains many passages that serve as useful references.
This man was quite enthusiastic in researching old events and historical sites. He was the one who erected a monument to Makino Kohaku at the founder's tomb of Ryūnen Temple, and a copy of that inscription is still preserved at the temple. However, it is regrettable that the actual monument no longer exists. He also published one or two other books, all essays, but it is unfortunate that almost none survive today.
In connection with this, I would like to mention that Masamori's uncle was a monk named Kyōshun. This person was the thirteenth son of Masamori's grandfather Yajizaemon Kageshina - unusually, there were many male siblings. As a child he entered Fumon Temple in Akumi District's Kumo-no-tani, became a monk and served as its head priest for a time, then later went to Mount Kōya where he became head of Hokuhō-in and rose to the rank of Daikyōsei. He died on December 12th of Hōreki 1 (1751) at age eighty-three, and was renowned for his great learning. His calligraphy is still preserved at the home of Hayashi Sahei in Funa-machi, his descendant, and shows a most otherworldly style.
I would like to add one more related story about the famous book "Mikawa-no-kuni Futaba-matsu." This book was completed during the Gembun era (1736-1741), precisely during the time when Matsudaira Bungo-no-kami Sukenori was residing in the castle. Its author was Sano Kenmotsu from Nagayama village in Hōi District, with additions by Ogasawara Daini from within Yoshida Castle, Watanabe Taihaku from Dōta-machi, and four others. Among these collaborators was Ushiku...
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Nobunao and the People of His Era) 311