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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 170

ページ: 170

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【欄外】    豊橋市史談  (松平伊豆守信礼)                    三百十二 【本文】        保(ぼ)の渡邊自休(わたなべじきう)と云(い)ふ人(ひと)もあるが之(これ)等(ら)の人々(ひと〴〵)は当時(たうじ)に於(お)ける此(この)地方(ちほう)の地理歴史研究家(ちりれきしけんきうか)であつたものと見(み)       へて本史談(ほんしだん)の最初(さいしよ)に申述(もをしの)べてある如(ごと)く彼(か)の牧野成行(まきのしげゆき)氏(し)の家(いへ)に伝(つた)はつて居(お)る牧野氏御由緒書(まきのしごゆうちよしよ)と題(だい)する記(き)        録(ろく)は享保(けうほ)十六 年(ねん)に佐野監物(さのけんもつ)と渡邊自休(わたなべじきう)との両人(れうにん)が同家(どうけ)からの依頼(いらい)を受(う)けて取調(とりしら)べたものである同書(どうしよ)は        主(おも)に牧野氏(まきのし)の祖先(そせん)の事(こと)特(とく)に古白築城(こはくちくじよう)の当時(たうじ)より其(その)子(こ)信成(のぶしげ)等(ら)の戦死(せんし)などに関(くわん)して取調(とりしら)べたものであるが       其(その)中(なか)には参考(さんかう)となるべきものが少(すくな)くないのである之(これ)等(ら)著者(ちよしや)の伝記(でんき)などが誠(まこと)に分(わか)り兼(か)ぬるのは遺憾(ゐかん)であ       るが責(せ)めては此(この)際(さい)其(その)名前(なまへ)丈(だけ)なりとも此処(こゝ)に御話(おはなし)して置(お)きたいと思(おも)ふのである            ⦿松平伊豆守信礼 松平信礼   前章(ぜんせう)に申述(もをしの)べた如(ごと)く吉田城主(よしだじようしゆ)松平伊豆信復(まつだひらいづのかみのぶなほ)は明和(めいわ)五 年(ねん)九月 吉田在城中(よしだざいじようちう)病(やまひ)で卒去(そつきよ)されたが仝年(どうねん)十一月       十六日を以(もつ)て其(その)長子(てうし)信礼(のぶいや)が家督(かとく)を相続(さうぞく)して父(ちゝ)の遺領(ゐれう)を継(つ)いだのである        信礼(のぶいや)幼名(えうめい)は音之助(おとのすけ)初(はじ)め甲斐守(かひのかみ)に叙(ぢよ)せられたが家督(かとく)相続(さうぞく)と同時(どうじ)に伊豆守(いづのかみ)に改(あらた)まつたのである元文(げんぶん)二年八       月十一日の生(うまれ)であるから三十二 歳(さい)で家督(かとく)を相続(さうぞく)した訳(わけ)であるが此(この)人(ひと)は在職(ざいしよく)僅(わづか)に一ケ年有余(ねんいうよ)で明和(めいわ)七       年六月廿二日を以(もつ)て卒去(そつきよ)せられたのである従(したがつ)て此処(こゝ)に申述(もをしの)ぶべき事蹟(じせき)も誠(まこと)に少(すくな)いのであるが併(しか)し領(れう)        地(ち)の内(うち)遠江国(とふとほみのくに)城東郡(じようとうごほり)加茂村(かもむら)の地(ち)を返納(へんのう)して其(その)代(かは)りに三河国(みかはのくに)加茂郡(かもごほり)で五ケ村(そん)宝飯郡(ほゐごほり)で御馬村(おんまむら)外(ほか)一ケ        村(そん)を賜(たまは)つたのは明和(めいわ)七 年(ねん)五月の事(こと)で此(この)信礼(のぶいや)の時代(じだい)である而(しか)して信礼(のぶいや)は幼時(えうじ)より父(ちゝ)と同(おな)じく学(がく)を三浦竹(みうらちく)        渓(けい)に受(う)けたのであるが頗(すこぶ)る国史漢籍(こくしかんせき)に通(つう)じ特(とく)に武芸(ぶげい)には堪能(たんのう)であつたのである嘗(かつ)て鳥銃(てうじう)の試射(ししや)をやつ       て二十 発(ぱつ)二十 中(ちう)したと云(い)ふので其(その)的(まと)は大河内家(おほかうちけ)に保存(ほぞん)されてある筈(はづ)である又(ま)た詩歌(しか)並(ならび)に絵画(くわいが)を能(よ)くし        詩集漫筆(ししふまんひつ)なども遺(のこ)されて居(お)る其(その)仁慈(じんじ)の心(こゝろ)が深(ふか)かつた事(こと)は嘗(かつ)て其(その)侍臣(じしん)が誤(あやま)つて信礼(のぶいや)の居間(ゐま)にあつた新製(しんせい) 【欄外】        発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千百九十六号附録    (大正元年十月廿二日発行) 【本文】       の大小(だいせう)を刀掛(かたなかけ)から落(おと)して瑕(きづ)を拵(こしら)へたが侍臣(じしん)は実(じつ)に恐入(おそれい)つて有体(ありてい)に自分(じぶん)の粗忽(そこつ)を謝(しや)し只管(ひたすら)罪(つみ)を待(ま)つたの       である然(しか)るに信礼(のぶいや)は甚(はなはだ)しく之(これ)を咎(とが)めむともせず此(この)事(こと)は決(けつ)して他人(たにん)に語(かた)るなと命(めい)じて自(みづか)ら其(その)刀(かたな)を其(その)筋(すぢ)       のものに渡(わた)して修理(しうり)せしめたので侍臣(じしん)は誠(まこと)に有難(ありがた)い事(こと)に思(おも)つて恐縮(けうしゆく)したと云(い)ふ事(こと)が藩主(はんしゆ)柴田善伸(しばたぜんしん)の聞(きゝ)        書(がき)にあるのである之(これ)等(ら)の話(はなし)は稍々(やゝ)信礼(のぶいや)の人格(じんかく)を窺(うかゞ)ふ上(うへ)に於(おい)て面白(おもしろ)いものであると思(おも)ふ信礼(のぶいや)の遺骸(ゐがい)は矢(や)        張(はり)武州(ぶしう)野火留(のひどめ)の平林寺(へいりんじ)に葬(はうむ)つて慈雲院(じうんゐん)と諡(おくりな)したのである             ⦿松平信明の幼時 《割書:松平信明の|幼時》   明和(めいわ)七 年(ねん)六月 松平伊豆守信礼(まつだひらいづのかみのぶいや)卒去(そつきよ)に付(つき)其(その)後(あと)を襲(つ)いで吉田城主(よしだじようしゆ)となつたのは其(その)長子(てうし)信明(のぶあき)であるが信明(のぶあき)は        宝暦(ほうれき)十三年二月十日の生(うまれ)であるから其(その)家督(かとく)を相続(さうぞく)したのは恰(あたか)も八 歳(さい)の時(とき)であつた然(しか)るに此(この)人(ひと)は実(じつ)に稟(りん)        性(せい)穎悟(えいご)で幼少(えうせう)の時(とき)から既(すで)に非凡(ひぼん)であつたが其(その)当時(たうじ)は名(な)を春(はる)之 丞(じよう)と云(い)つて書(しよ)を三井親和(みつゐしんな)に就(つい)て学(まな)むだ然(しか)       るに如何(いか)にも能書(のうしよ)で親和(しんな)も敬服(けいふく)の余(あま)り恐(おそ)れながら君(きみ)の筆道(ひつどう)を善(よ)くせらるゝ事(こと)到底(とうてい)愚老(ぐらう)の及(およ)ぶ処(ところ)でない        去(さ)れば愚老(ぐらう)の印(いん)を御貸(おか)し申上(もをしあ)ぐるから之(これ)を御押(おんお)しなされと云(い)ふので印(いん)を差出(さしだ)した信明(のぶあき)は之(これ)を興(けう)ある事(こと) 《割書:伊豆公の親|和》  に思(おも)つて自分(じぶん)の書(か)いた書(しよ)へベタ〳〵と親和(しんな)の印(いん)を押(お)したのである之(これ)が伊豆公(いづこう)の親和(しんな)と唱(とな)えて珍重(ちんぢゆう)さる       ゝ 処(ところ)となつて居(を)るが今(いま)も大河内家(おほかうちけ)に其(その)六 歳(さい)頃(ころ)の書(しよ)が残(のこ)つて居(を)る又(ま)た豊橋市(とよはしゝ)本町(ほんまち)の兼子洋平(かねこようへい)氏(し)の家(いへ)にも       其(その)八 歳(さい)頃(ころ)に書(か)いたものと思(おも)はるゝ富士(ふじ)の画(ぐわ)が蔵(ざう)されて居(を)るが孰(いづ)れも上出来(ぜうでき)で到底(たうてい)小供(こども)の書(か)いたものと       は思(おも)はれぬ位(くらゐ)のものである其他(そのた)詩(し)をも能(よ)くし篆刻(れいこく)も上手(ぜうづ)であつたがサテ其(その)頃(ころ)は恰(あたか)も十 代将軍(だいせうぐん)家治(いへはる)の治(ぢ)        世(せい)であつて前章(ぜんせう)にも申述(もをしの)べて置(お)いた如(ごと)く九 代将軍(だいせうぐん)の家重(いへしげ)と云(い)ふ人(ひと)は頗(すこぶ)る惰弱(だじやく)の性(せい)であつたから風紀(ふうき)は 《割書:十代将軍家|治の治世》   紊(みだ)れる財政(ざいせい)は益(ます〳〵)窮乏(きうばう)すると云(い)ふ状勢(ぜうせい)であつたが宝暦(ほうれき)十年 隠居(ゐんきよ)して此(この)家治(いへはる)が代(かは)つて征夷大将軍(せいゐたいせうぐん)に任(にん)ぜ 【欄外】    豊橋市史談  (松平信明の幼時)                    三百十三

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(松平伊豆守信礼) 三百十二 【本文】 保の渡辺自休という人もあるが、これらの人々は当時におけるこの地方の地理歴史研究家であったものと見えて、本史談の最初に申し述べてある通り、彼の牧野成行氏の家に伝わっている『牧野氏御由緒書』と題する記録は、享保十六年に佐野監物と渡辺自休との両人が同家からの依頼を受けて調べたものである。同書は主に牧野氏の祖先のこと、特に古白築城の当時よりその子信成等の戦死などについて調べたものであるが、その中には参考となるべきものが少なくないのである。これらの著者の伝記などが誠に分からないのは遺憾であるが、せめてはこの際その名前だけなりともここにお話して置きたいと思うのである。 ◎松平伊豆守信礼 前章に申し述べた通り、吉田城主松平伊豆守信復は明和五年九月吉田在城中病気で卒去されたが、同年十一月十六日をもってその長子信礼が家督を相続して父の遺領を継いだのである。 信礼の幼名は音之助、初め甲斐守に叙せられたが、家督相続と同時に伊豆守に改められたのである。元文二年八月十一日の生まれであるから三十二歳で家督を相続した訳であるが、この人は在職わずかに一ヶ年有余で明和七年六月二十二日をもって卒去せられたのである。従ってここに申し述ぶべき事跡も誠に少ないのであるが、しかし領地の内遠江国城東郡加茂村の地を返納してその代わりに三河国加茂郡で五ヶ村、宝飯郡で御馬村外一ヶ村を賜ったのは明和七年五月のことで、この信礼の時代である。そして信礼は幼時より父と同じく学を三浦竹渓に受けたのであるが、頗る国史漢籍に通じ特に武芸には堪能であったのである。かつて鳥銃の試射をやって二十発二十中したと言うので、その的は大河内家に保存されてある筈である。また詩歌並びに絵画を良くし、詩集漫筆なども遺されている。その仁慈の心が深かったことは、かつてその侍臣が誤って信礼の居間にあった新製 【欄外】 発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編集人中西謙三 発行兼印刷人久野○吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千百九十六号附録(大正元年十月二十二日発行) 【本文】 の大小を刀掛けから落として傷を作ったが、侍臣は実に恐れ入って有体に自分の粗忽を謝し、ひたすら罪を待ったのである。然るに信礼は甚だしくこれを咎めることもせず、「この事は決して他人に語るな」と命じて自らその刀をその筋のものに渡して修理させたので、侍臣は誠に有り難いことに思って恐縮したということが、藩士柴田善伸の聞書きにあるのである。これらの話はやや信礼の人格を窺う上において面白いものであると思う。信礼の遺骸はやはり武州野火止の平林寺に葬って慈雲院と諡したのである。 ◎松平信明の幼時 明和七年六月松平伊豆守信礼卒去に付きその後を襲って吉田城主となったのはその長子信明であるが、信明は宝暦十三年二月十日の生まれであるからその家督を相続したのは恰も八歳の時であった。然るにこの人は実に稟性穎悟で幼少の時から既に非凡であったが、その当時は名を春之丞と言って書を三井親和に就いて学んだ。然るに如何にも能書で、親和も敬服の余り「恐れながら君の筆道を善くせらるること、到底愚老の及ぶ処でない。されば愚老の印をお貸し申し上げるからこれをお押しなされ」と言うので印を差し出した。信明はこれを興ある事に思って、自分の書いた書へべたべたと親和の印を押したのである。これが伊豆公の親和と唱えて珍重される処となっているが、今も大河内家にその六歳頃の書が残っている。また豊橋市本町の兼子洋平氏の家にもその八歳頃に書いたものと思われる富士の画が蔵されているが、いずれも上出来で到底子供の書いたものとは思われない位のものである。その他詩をも良くし篆刻も上手であったが、さてその頃は恰も十代将軍家治の治世であって、前章にも申し述べて置いた通り九代将軍の家重という人は頗る惰弱の性であったから風紀は乱れる、財政は益々窮乏するという状勢であったが、宝暦十年隠居してこの家治が代わって征夷大将軍に任ぜ 【欄外】 豊橋市史談(松平信明の幼時) 三百十三

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Izu-no-kami Nobuyoshi) 312 **Main Text:** ...Watanabe Jikyū of Ushikubo. These people appear to have been geographical and historical researchers of this region at that time. As I mentioned at the beginning of this historical discourse, the record titled "Makino Family Genealogical Records" preserved in the house of Makino Nariyuki was researched by both Sano Kenmotsu and Watanabe Jikyū at the family's request in Kyōhō 16 (1731). This book mainly investigates the ancestors of the Makino family, particularly from the time of Kohaku's castle construction through the deaths in battle of his son Nobushige and others, and contains much that serves as valuable reference material. It is regrettable that I cannot learn more about the biographies of these authors, but I would like to at least mention their names here on this occasion. ◎Matsudaira Izu-no-kami Nobuyoshi As I mentioned in the previous chapter, Yoshida castle lord Matsudaira Izu-no-kami Nobunao died of illness while residing at Yoshida Castle in September of Meiwa 5 (1768), and on November 16th of the same year, his eldest son Nobuyoshi succeeded to the headship and inherited his father's domain. Nobuyoshi's childhood name was Otonosuke. He was first appointed Kai-no-kami but changed to Izu-no-kami upon succeeding to the family headship. Born on August 11th of Genbun 2 (1737), he succeeded at age thirty-two, but served only slightly over one year before dying on June 22nd of Meiwa 7 (1770). Therefore there are truly few accomplishments to mention here, but during his time the domain returned the lands of Kamo village in Jōtō District of Tōtōmi Province and received in exchange five villages in Kamo District of Mikawa Province and Onma village plus one other village in Hōi District in May of Meiwa 7. Like his father from childhood, Nobuyoshi studied under Miura Chikukei and was well-versed in Japanese history and Chinese classics, being particularly skilled in martial arts. It is said he once test-fired a gun twenty times with twenty hits, and that target should still be preserved by the Ōkōchi family. He was also skilled in poetry and painting, leaving behind poetry collections and essays. His benevolent heart is shown by an incident when one of his retainers accidentally dropped his newly-made **Margin:** Publisher and Printing Office: San'yō Printing Company, 48 Kōya-machi, Toyohashi City; Editor: Nakanishi Kenzō; Publisher and Printer: Kuno [?]kichi **Left Page:** **Margin:** San'yō Newspaper No. 4196 Supplement (Published October 22nd, Taishō 1 [1912]) **Main Text:** ...daishō swords from their rack in Nobuyoshi's room, damaging them. The retainer was truly mortified and honestly apologized for his carelessness, waiting only for punishment. However, Nobuyoshi did not severely blame him and commanded "Never speak of this to others," personally having the swords sent for repair through proper channels. The retainer was truly grateful and felt deeply apologetic, according to the written account of domain retainer Shibata Zenshin. These stories give us some insight into Nobuyoshi's character. Nobuyoshi's remains were also buried at Heirin Temple in Nohidome, Musashi Province, and he was given the posthumous name Jiun-in. ◎Matsudaira Nobuaki's Childhood When Matsudaira Izu-no-kami Nobuyoshi died in June of Meiwa 7 (1770), he was succeeded as Yoshida castle lord by his eldest son Nobuaki. Nobuaki was born on February 10th of Hōreki 13 (1763), so he inherited the family headship at exactly age eight. However, this person was truly gifted by nature and already showed extraordinary ability from his youth. At that time he was called Harunojō and studied calligraphy under Mitsui Shinwa. He was such an excellent calligrapher that Shinwa, in great admiration, said "With all respect, your skill in the way of brush far exceeds what this old fool can achieve. Therefore I will lend you my seal - please use it," and offered his seal. Nobuaki found this amusing and stamped Shinwa's seal all over his own calligraphy. This came to be called "Izu-kō's Shinwa" and was greatly treasured. Even now the Ōkōchi family preserves calligraphy he wrote around age six. The home of Kaneko Yōhei in Honmachi, Toyohashi City also preserves a painting of Mount Fuji thought to have been painted when he was about eight, but all are so well-executed that they hardly seem the work of a child. He was also skilled in poetry and expert at seal carving. At that time it was precisely the reign of the tenth shogun Ieharu. As I mentioned in the previous chapter, the ninth shogun Ieshige was of quite indolent character, so public morals deteriorated and finances became increasingly impoverished, but in Hōreki 10 (1760) he retired and this Ieharu took over as Sei-i Taishōgun... **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Nobuaki's Childhood) 313