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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 18

ページ: 18

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【欄外】 豊橋市史談   (築城以前の豊橋)                      八 【本文】       それが遂(つひ)には吉田(よしだ)となり豊橋(とよはし)となり今日(こんにち)の状況(ぜうけふ)に至(いた)つたのである。        ●補遺(●●)  続日本記(ぞくにほんき)聖武天皇(せいむてんくわう)天平(てんぺい)十二 年(ねん)六月の条(くだり)に牟礼大野(むれおほの)、 飽海古良比(あくみこらひ)が罪(つみ)を犯(おか)した事が載(の)つて居(を)         るが村岡氏(むらをかし)の日本地理史料(にほんちりしれう)には此(こ)の牟礼(むれ)とあるは渥美郡(あつみごほり)牟呂(むろ)の事で飽海(あくみ)とあるのは此地(このち)の古名(こめい)た         る飽海(あくみ)であるとしてある果(はた)して然(しか)らば飽海(あくみ)の地名(ちめい)は今(いま)を去(さ)る千二百七十二 年(ねん)の古(いにし)へにも既(すで)にあつ         たものであると云(い)ふ証拠(せうこ)になるのである此所(こゝ)に追補(つひほ)して諸君(しよくん)の御参考(ごさんこう)に資(し)せたいと思(おも)ふ。        以上(いぜう)述(の)べた処(ところ)が先(ま)づ今橋(いまはし)の起因(きゐん)とも云(い)ふべきものであるが、サテ 此地方(このちほう)は元来(がんらい)如何(いか)なる支配(しはい)を受(う)けた 神領地   ものであつたかと云(い)ふに古(ふる)くより大神宮(だいじんぐう)の神領地(しんれうち)であつたのである、 此(この)神領地(しんれうち)は戦国時代(せんごくじだい)に至(いた)つて武(ぶ)        家(け)の横領(わうれう)する処(ところ)となつたのである、 現(げん)に此地方(このちほう)には神明宮(しんめいぐう)が多数(たすう)にある之(これ)は全(まつた)く元(も)と神領地(しんれうち)であつた        結果(けつくわ)である、 又(ま)た今(いま)の豊橋(とよはし)の市内(しない)に古(ふる)くより薑(はぢかみ)と呼(よ)んだ地(ち)があつた、 之(これ)は恰度(てふど)今日(こんにち)で云(い)ふ二連木(にれんぎ)の地(ち) 薑の地名  に当(あた)るので今(いま)も尚(な)ほ薑(はぢかみ)と云(い)ふ字名(あざな)が残(のこ)つて居(を)るのである、 此(この)薑(はぢかみ)幷(ならひ)に飽海(あくみ)、 幡太(はだ)などが古(ふる)く大神宮(だいじんぐう)の        神領地(しんれうち)であつた事は大神宮(だいじんぐう)の事を記(しる)した神鳳抄(しんほうせう)の中(うち)にも其他(そのた)大神宮(だいじんぐう)雑例集(ざつれいしふ)は勿論(もちろん)吾妻鏡(あづまかゞみ)氏経記(うぢつねき)などに        見(み)へて居(を)るが今(いま)詳(くわ)しく此処(こゝ)に之(これ)を述(のべ)ることは余(あま)り必要(ひつよう)がなかろう。        扨(さ)て今橋(いまはし)の地名(ちめい)なるもの何年(なんねん)の頃(ころ)より起(おこ)つたものであるかと云(い)ふ確(たしか)なることに就(つい)ては残念(ざんねん)なが之(こ)れ       を証拠(せうこ)立(だ)つるものがないので明(あきら)かに云(い)ふ事が出来(でき)ぬのである、 此事(このこと)を記(しる)した書物(しよもつ)は沢山(たくさん)にあるが信用(しんよう)       を措(お)くに足(た)る程(ほど)のものがないから遺憾(ゐかん)である、 併(しか)し稍々(やゝ)参考(さんこう)に資(し)するの価値(かち)ありと思(おも)ふものは悟眞寺(ごしんじ)       の古記(こき)であつて此(この)書物(しよもつ)は貞享(じやうきよう)元禄(げんろく)時分(じぶん)に記(しる)したものであろうと察(さつ)せられる、と云(い)ふのは此書(このしよ)の初(はじ)めよ       り元禄(げんろく)近辺(きんぺん)迄(まで)の記事(きじ)は何(いづ)れも同(おな)じ手筋(てすじ)で同(おな)じ墨色(すみいろ)で書(か)いてある上(うへ)から観測(かんそく)したのであるが此(この)書物(しよもつ)の中(うち) 《割書:浄業院の創|立》   に、 善忠上人(ぜんちうせうにん)は東三河(ひがしみかは)の地(ち)に来(きた)り今橋(いまはし)に着(ちやく)し貞治(ていじ)五 年(ねん)に始(はじ)めて浄業院(ぜうげういん)と云(い)ふ寺(てら)を建立(こんりつ)した即(すなは)ち之(これ)が現(げん) 【欄外】           発行兼印刷所豊橋市西八町一番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野笹吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千六百八十八号附録   ( 明治四十四年二月二十一日発行 ) 【本文】        在(ざい)の悟眞寺(ごしんじ)の起(おこ)りであると記(しる)してある、 貞治(ていじ)五 年(ねん)は北朝(ほくてう)の年号(ねんごう)で南朝(なんてう)の正平(せいへい)二十一 年(ねん)(距今(いまをさる)五百二十       二 年(ねん)に当(あた)るが此(こ)の年(とし)に此(こ)の寺(てら)を建(た)てたと云(い)ふ事に就(つい)ては別(べつ)に屈竟(くつけう)の確証(かくせう)が遺(のこ)つて居(を)る、それは善忠上(ぜんちうぜう)        人(にん)の画像(ぐわぞう)で悟眞寺(ごしんじ)の所蔵(しよぞう)であるが全(まつた)く当時(とうじ)のものと鑑定(かんてい)せられる、 而(しか)して其(その)頭書(とうしよ)に「放行万木尽花開       地住于山却竾猜在寺春秋満三十天元不動地恢々肯応永貳暦八月二十八日」と云(い)ふ賛(さん)がある、 之(こ)れに依(よ)       れば悟眞寺(ごしんじ)の開山(かいざん)善忠上人(ぜんちうぜうにん)は応永(おうえい)二 年(ねん)に寂(じやく)せられて在寺(ざいじ)が三十ケ 年(ねん)であつた事が分(わか)る、 即(すなは)ち応永(おうえい)二 年(ねん)       から遡(さかのぼ)つて三十 年(ねん)は貞治(ていじ)五 年(ねん)に当(あた)るのであるから其年(そのとし)に上人(ぜうにん)が初(はじ)めて寺(てら)を此地(このち)に創(おこ)された事は確実(かくじつ)に       なるのである、 併(しか)し其頃(そのころ)果(はた)して悟眞寺(ごしんじ)旧記(きうき)にある如(ごと)く此地(このち)を既(すで)に今橋(いまはし)と云(い)ひしや否(いな)やは少(すこ)しく断定(だんてい)に        苦(くる)むのである。 《割書:悟眞寺二世|慈智上人納》    然(しか)るに仝寺(どうじ)二 代目(だいめ)の慈智上人(じちぜうにん)か宝飯郡(ほゐごほり)の御津神社(みとじんしや)へ納(おさ)めた経文(けふもん)があつた之(これ)には其(その)奥書(おくしよ)に応永(おうえい)十六 年(ねん)十 《割書:経|  》     二月二十九日 写(うつ)し終(をは)る参州(さんしう)今橋(いまはし)悟眞寺(ごしんじ)に於(おい)てと云(い)ふことが書(か)いてある、 応永(おうえい)十六 年(ねん)は今(いま)を去(さ)る五百〇三        年(ねん)の昔(むかし)で之(これ)は我(わが)豊橋(とよはし)に取(と)り大切(たいせつ)なものであるが惜(おし)いことには其(その)経文(けふもん)が今(いま)現存(げんぞん)して居(ゐ)ない、 併(しか)し羽田野敬(はだのたか)        雄翁(ををう)が生前(せいぜん)に実地調査(じつちてうさ)をされた時(とき)には実物(じつぶつ)を見(み)られたものゝ様(よう)で仝翁(どうをう)の遺著(ゐちよ)の記事(きじ)で察(さつ)せられるのみ       ならず宝飯郡(ほゐごほり)下地町(しもぢまち)の人(ひと)山本貞晨(やまもとていしん)の著(ちよ)吉田名蹤綜録(よしだめいじうそうろく)の中(うち)にも其(その)写(うつし)を載(の)せられて居(を)る処(ところ)より見(み)れば其(その)経(けふ)        文(もん)は嘗(かつ)て有(あ)つたものに相違(さうゐ)ない、 私(わたくし)も此頃(このころ)仝神社(どうじんしや)に就(つい)て調査(てうさ)して見(み)たが成程(なるほど)応永(おうえい)以前(いぜん)の納経(のうけふ)が三十 巻(くわん)        以上(いぜう)もあつて実(じつ)に珍重(ちんちよう)すべきものである、 其(そ)の中(なか)には七八 分(ぶ)通(とほ)りも腐朽(ふきう)してボロ〴〵に成(な)つたのがあ       る、 此点(このてん)から考(かんがふ)れば豊橋(とよはし)に取(と)つて大切(たいせつ)な右(みぎ)の経文(けふもん)も多分(たぶん)腐朽(ふきう)したものと思(おも)われる、 返(かへ)す〳〵も惜(おし)むべ       き事であるが兎(と)に角(かく)五百 余年前(よねんぜん)悟眞寺(ごしんじ)二 代目(だいめ)の時(とき)には明(あきら)かに此地(このち)を今橋(いまはし)と云(い)つたものであることは先(ま)づ        確信(かくしん)すべきものであると断(だん)じてよかろう、 降(くだつ)て永享(えいけう)四 年(ねん)九月(距今(いまをさる)四百八十 年前(ねんぜん))になつて将軍(せうぐん)足利義(あしかゞよし) 【欄外】 豊橋市史談   (築城以前の豊橋)                      九

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談  (築城以前の豊橋)                      八 【本文】       それがついには吉田となり豊橋となり今日の状況に至ったのである。        ●補遺 『続日本紀』聖武天皇天平十二年六月の条に牟礼大野、飽海古良比が罪を犯したことが載って         るが、村岡氏の『日本地理史料』にはこの牟礼とあるのは渥美郡牟呂のことで、飽海とあるのはこの地の古名た         る飽海であるとしてある。もしそうであるならば、飽海の地名は今から千二百七十二年の昔にも既にあっ         たものであるという証拠になる。ここに追補して諸君の参考に提供したいと思う。        以上述べたところがまず今橋の起因とも言うべきものであるが、さてこの地方は元来いかなる支配を受けた 神領地   ものであったかというに、古くより大神宮の神領地であったのである。この神領地は戦国時代に至って武        家の横領するところとなったのである。現にこの地方には神明宮が多数にある。これは全く元と神領地であった        結果である。また今の豊橋の市内に古くより薑と呼んだ地があった。これは丁度今日で言う二連木の地 薑の地名  に当たるので、今も尚薑という字名が残っている。この薑並びに飽海、幡太などが古く大神宮の        神領地であったことは、大神宮のことを記した『神鳳抄』の中にもその他『大神宮雑例集』はもちろん『吾妻鏡』『氏経記』などに        見えているが、今詳しくここにこれを述べることは余り必要がなかろう。        さて今橋の地名なるもの何年の頃より起こったものであるかという確かなことについては、残念ながらこ       れを証拠立てるものがないので明らかに言うことが出来ないのである。このことを記した書物は沢山にあるが、信用       を置くに足る程のものがないから遺憾である。しかし稍々参考に資するの価値ありと思うものは悟眞寺       の古記であって、この書物は貞享・元禄時分に記したものであろうと察せられる。というのはこの書の初め       より元禄近辺まての記事はいずれも同じ手筋で同じ墨色で書いてあるうえから観測したのであるが、この書物の中 《割書:浄業院の創立》   に、善忠上人は東三河の地に来り今橋に着し、貞治五年に初めて浄業院という寺を建立した。すなわちこれが現 【欄外】           発行兼印刷所豊橋市西八町一番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野笹吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千六百八十八号附録   (明治四十四年二月二十一日発行) 【本文】        在の悟眞寺の起こりであると記してある。貞治五年は北朝の年号で南朝の正平二十一年(今から五百二十       二年)に当たるが、この年にこの寺を建てたということについては別に動かぬ確証が残っている。それは善忠上        人の画像で悟眞寺の所蔵であるが、全く当時のものと鑑定される。そしてその頭書に「放行万木尽花開       地住于山却竾猜在寺春秋満三十天元不動地恢々肯応永貳暦八月二十八日」という賛がある。これによ       れば悟眞寺の開山善忠上人は応永二年に寂し、在寺が三十ヶ年であったことが分かる。すなわち応永二年       から遡って三十年は貞治五年に当たるのであるから、その年に上人が初めて寺をこの地に創されたことは確実       になるのである。しかしその頃果たして悟眞寺旧記にあるごとく、この地を既に今橋と言ったかどうかは少しく断定に        苦しむのである。 《割書:悟眞寺二世慈智上人納経》   ところが同寺二代目の慈智上人が宝飯郡の御津神社へ納めた経文があった。これにはその奥書に応永十六年十 《割書:経》     二月二十九日写し終わる参州今橋悟眞寺においてということが書いてある。応永十六年は今から五百〇三        年の昔で、これは我が豊橋にとり大切なものであるが、惜しいことにその経文が今現存していない。しかし羽田野敬        雄翁が生前に実地調査をされた時には実物を見られたもののようで、同翁の遺著の記事で察せられるのみ       ならず、宝飯郡下地町の人山本貞晨の著『吉田名蹤綜録』の中にもその写しを載せられているところより見れば、その経        文は嘗てあったものに相違ない。私もこの頃同神社について調査してみたが、成程応永以前の納経が三十巻        以上もあって実に珍重すべきものである。その中には七八分通りも腐朽してボロボロに成ったのがあ       る。この点から考えれば、豊橋にとって大切な右の経文も多分腐朽したものと思われる。返す返すも惜しむべ       き事であるが、ともかく五百余年前悟眞寺二代目の時には明らかにこの地を今橋と言ったものであることは先ず        確信すべきものであると断じてよかろう。降って永享四年九月(今から四百八十年前)になって将軍足利義 【欄外】 豊橋市史談  (築城以前の豊橋)                      九

英語訳

【Margin】 Toyohashi Historical Discussion  (Toyohashi before castle construction)                      8 【Main text】       and this eventually became Yoshida, then Toyohashi, reaching today's situation.        ●Supplement In the 'Shoku Nihongi,' Emperor Shōmu, Tenpyō 12, 6th month, it records that Mure no Ōno and Akumi no Korahi committed crimes, but Muraoka's 'Nihon Chiri Shiryō' states that this Mure refers to Muro in Atsumi District, and that Akumi refers to the ancient name Akumi of this place. If this is correct, then the place name Akumi existed 1,272 years ago as evidence. I would like to add this here for your reference.        What I have described above can be considered the origin of Imahashi, but now, what kind of governance did this region originally receive? Shrine Territory  From ancient times it was shrine territory of the Grand Shrine of Ise. This shrine territory came to be usurped by warrior families during the Warring States period.        Currently this region has numerous Shinmei shrines. This is entirely the result of formerly being shrine territory. Also, within present-day Toyohashi city there was a place called Hajikami from ancient times. This corresponds exactly to what is now called Nirengi area, Hajikami Place Name  and the character name Hajikami still remains today. That this Hajikami, along with Akumi, Hada, and others were anciently shrine territory of the Grand Shrine of Ise        is evident in records about the Grand Shrine such as the 'Shinpōshō,' as well as the 'Daijingū Zatsureishū,' and of course the 'Azuma Kagami' and 'Ujitsune-ki,' but        it would not be very necessary to describe this in detail here.        Now, regarding the exact period when the place name Imahashi originated, unfortunately there is no evidence to prove       this, so it cannot be stated clearly. There are many writings that record this matter, but it is regrettable that none are reliable enough to trust. However, what I think has some value for reference is the ancient records of Goshин-ji temple, and this writing appears to have been recorded during the Jōkyō-Genroku period. I observed this from the fact that the entries from the beginning of this book to around Genroku are all written with the same handwriting and same ink color, and in this book 《Interlinear note: Establishment of Jōgyō-in》   it records that the monk Zenshū came to the land of eastern Mikawa, arrived at Imahashi, and in Teiji 5 first established a temple called Jōgyō-in. This is the origin of the present-day 【Margin】           Publisher and Printer: Sanyō Printing Partnership, 1 Nishi-hatchō, Toyohashi City Editor: Nakanishi Kenzō Publisher and Printer: Kuno Sasakichi 【Left Page】 【Margin】 Sanyō Shinpō No. 3688 Supplement   (Published February 21, Meiji 44) 【Main text】        Goshin-ji temple. Teiji 5 is a Northern Court era name corresponding to Shōhei 21 of the Southern Court (522 years ago), and regarding the establishment of this temple in that year, there remains separate irrefutable evidence. This is a portrait of the monk Zenshū in Goshin-ji's possession, authenticated as genuinely from that period. Its inscription contains the eulogy: "Hōgyō manmoku jin kakai chi jū u san kyaku takesai zai ji shunjū man sanjū tengen fudō chi kaikai kō Ōei ni reki hachigatsu nijūhachinichi." From this we can understand that Goshin-ji's founder Zenshū died in Ōei 2, having been at the temple for thirty years. Since thirty years back from Ōei 2 corresponds to Teiji 5, it becomes certain that the monk first established the temple at this location in that year. However, whether this place was already called Imahashi at that time, as stated in Goshin-ji's old records, is somewhat difficult to determine definitively. 《Interlinear note: Second Abbot Jichi's Donated Sutras》   However, there was a sutra text that the temple's second abbot Jichi donated to Mitsu Shrine in Hōi District. Its colophon states "Finished copying on the 29th day of the 12th month of Ōei 16 at Goshin-ji temple, Imahashi, Sanshū." Ōei 16 was 503        years ago, and this is important for our Toyohashi, but regrettably that sutra text no longer exists. However, when Hadano Takao conducted field research during his lifetime, he apparently saw the actual item, as can be inferred not only from articles in his posthumous works but also because Yamamoto Teishin of Shimoji-chō, Hōi District, included a copy in his 'Yoshida Meishō Sōroku,' so that sutra text certainly once existed. I also recently investigated the same shrine and found there are indeed more than thirty volumes of donated sutras from before Ōei period, which are truly precious. Among them some are 70-80% decayed and completely tattered.       From this we can consider that the important sutra text for Toyohashi probably also decayed. This is truly regrettable, but in any case, we can definitely conclude that over 500 years ago, during the time of Goshin-ji's second abbot, this place was clearly called Imahashi. Later, in Eikyō 4, 9th month (480 years ago), Shogun Ashikaga Yoshi- 【Margin】 Toyohashi Historical Discussion  (Toyohashi before castle construction)                      9