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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 171

ページ: 171

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【欄外】    豊橋市史談  (松平信明と白河楽翁公)                  三百十四 【本文】       られる事(こと)と相成(あひな)つたのであるソコで此(この)家治(いへはる)も最初(さいしよ)は大(おほい)に治世(ぢせい)に志(こゝろざし)があつて頗(すこぶ)る勉強(べんけう)した様子(やうす)が認(みと)め       られるのであるが程(ほど)なく其(その)成績(せいせき)が挙(あが)らぬようになつたのみならず要職(えうしよく)に然(しか)るべき人物(じんぶつ)が居(ゐ)なかつたの 田沼意次  で次第(しだい)に例(れい)の側用人(そばようにん)政治(せいぢ)の弊(へい)に陥(おちゐ)つて遂(つひ)に御承知(ごせうち)の田沼主殿頭意次(たぬまとのものかみおきつぐ)が独(ひと)り威権(ゐけん)を弄(ろう)するに至(いた)つたの       である元来(がんらい)此(この)田沼意次(たぬまおきつぐ)と云(い)ふ人(ひと)は八 代将軍(だいせうぐん)吉宗(よしむね)の小姓(こせう)で享保(けうほ)二十年に家督(かとく)を継(つ)ぎ其(その)際(さい)は知行(ちぎよう)僅(わづか)に六百        石(こく)の小身(せうしん)であつた然(しか)るに其(その)後(のち)家治(いへはる)の御側衆(おそばしう)に付(つ)けられ次第(しだい)々々(しだい)に親任(しんにん)せられて宝暦(ほうれき)八年には一万石に        取立(とりた)てられて諸侯(しよこう)の列(れつ)に加(くは)はり明和(めいわ)四年には更(さら)に二万石を加増(かぞう)せられて遠江国(とふとほみのくに)相良(さがら)の城主(じようしゆ)となり新城(しんじよう)       を築(きづ)いて之(これ)に根拠(こんきよ)を構(かま)え程(ほど)なく安永(あんえい)元年(がんねん)には遂(つひ)に老中(ろうちう)に任(にん)ぜられ五万七千石に迄(まで)至(いた)つたと云(い)ふ男(おとこ)であ       る此(かく)の如(ごと)きわ訳(わけ)であるから此(この)家治(いへはる)の時代(じだい)殊(こと)に明和(めいわ)安永(あんえい)の間(あひだ)にあつては意次(おきつぐ)の権勢(けんせい)と云(い)ふもの頗(すこぶ)る強大(けうだい)       なもので士気(しき)は堕落(だらく)し賄賂(わいろ)横行(おうかう)の事実(じじつ)なとも一 般(ぱん)に認(みと)めらるゝ処(ところ)である先(ま)づ之(こ)れが其(その)当時(たうじ)に於(お)ける事(じ)        情(ぜう)の大要(たいえう)であるが松平信明(まつだひらのぶあき)は実(じつ)に此(かく)の如(ごと)き時世(じせい)にあつて成長(せいてう)したもので之(これ)が後(のち)に松平定信(まつだひらさだのぶ)即(すなは)ち白河(しらかは)        楽翁公(らくおうこう)と云(い)はれた人(ひと)の推挙(すいきよ)を受(う)けて幕府(ばくふ)重要(ちようえう)の地位(ちゐ)に当(あた)り弊政改革(へいせいかいかく)の衝(せう)に当(あた)る事(こと)になつたのであるが之(これ)       より順(じゆん)を追(お)ふてそれ等(ら)の事柄(ことがら)を段々(だん〴〵)申述(もをしの)べたいと思(おも)ふのである             ⦿松平信明と白河楽翁公 松平定信   世(よ)に白河楽翁公(しらかはらくおうこう)と云(い)つて尊敬(そんけい)せらるゝ人(ひと)は前(まへ)にも申述(もをしの)べた通(とほ)り松平越中守定信(まつだひらゑつちうのかみさだのぶ)と云(い)つた人(ひと)の事であ       るが私(わたくし)がクダ〳〵しく申(もを)す迄(まで)もなく実(じつ)に非凡(ひぼん)の人物(じんぶつ)で後世(こうせ)迄(まで)も推重(すゐちよう)せられて居(お)る処(ところ)の名臣(めいしん)である之(これ)等(ら)       の事(こと)は諸君(しよくん)は既(すで)に能(よ)く御承知(ごせうち)の事(こと)であるとは思(おも)ふが此(この)人(ひと)は元(も)と田安中納言宗武(たやすちうなごんむねたけ)の第(だい)三 子(し)であるから八        代将軍(だいせうぐん)吉宗(よしむね)から云(い)ふと其(その)実孫(じつそん)である然(しか)るに色々(いろ〳〵)の事情(じぜう)から奥州白河(おうしうしらかは)の城主(じようしゆ)松平定邦(まつだひらさだくに)の養子(やうし)となつて 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】        其(その)家(いへ)を襲(つ)いだのであるが元来(がんらい)此(この)十 代将軍(だいせうぐん)家治(いへはる)には家基(いへもと)と云(い)ふ実子(じつし)があつたが安永(あんえい)八年二月 急病(きうびやう)で逝去(せいきよ)       せられてより子(こ)がなかつたので遂(つひ)に一ツ橋家(はしけ)から養子(やうし)することとなつて入(い)つて継嗣(けいし)となつたのが後(のち)に十 《割書:十一代将軍|家斉》  一 代将軍(だいせうぐん)と云(い)はれた家斉(いへなり)であるトコロが此(この)家斉(いへなり)は吉宗(よしむね)から云ふと曽孫(そうそん)に当(あた)るのみならず其(その)祖父(そふ)一ツ橋(はし)        宗尹(むねたゞ)は定信(さだのぶ)の父(ちゝ)宗武(むねたけ)に対(たい)して弟(おとゝ)であるから全体(ぜんたい)徳川将軍家(とくがはせうぐんけ)に取(と)つては家斉(いへなり)よりは定信(さだのぶ)の方(はう)が余程(よほそ)重(おも)い        事(こと)になるのである其(その)上(うへ)定信(さだのぶ)は前(まへ)にも申述(もをしの)べた如(ごと)く幼少(えうせう)より聡明(そうめい)の人(ひと)であつたから当時(たうじ)権勢(けんせい)を専(もつぱら)にし       て居(お)つた意次(おきつぐ)は出来(でき)得(う)る限(かぎ)り定信(さだのぶ)を遠(とほ)ざくる事(こと)に焦慮(せうりよ)したものと信(しん)ぜられる今(いま)一々は申述(もをしの)べぬが之(これ)に       は随分(ずゐぶん)穿(うが)つた説(せつ)も伝(つた)はつて居(お)るのである而(しか)して此(この)定信(さだのぶ)は宝暦(ほうれき)八年十二月廿七日の生(うまれ)であるから信明(のぶあき)に        比(くら)ぶれば恰(あたか)も五 歳(さい)の年長者(ねんてうしや)であるが青年時代(せいねんじだい)から頻(しき)りに有為(いうゐ)の友人(いうじん)を集(あつ)めて精神(せいしん)の修養(しうやう)に勉(つと)め時世(じせい)を 定信と信明  慨嘆(がいたん)して世(よ)の為(た)め国(くに)の為(ため)には大(おほい)に貢献(こうけん)せむとしたものである信明(のぶあき)は蓋(けだ)し此(この)時分(じぶん)から既(すで)に定信(さだのぶ)に知(し)られ       て居(お)つたもので彼(か)の定信(さだのぶ)の自筆(じしつ)にかゝる「宇下(うか)の人言(じんごん)」と云(い)ふ書(しよ)の中(なか)には信明(のぶあき)を評(へう)して松平伊豆守(まつだひらいづのかみ)は        明敏(めいびん)で能(よ)く人(ひと)を遇(ぐう)す才(さい)は徳(とく)に勝(かつ)ると云ふべきである又(ま)た予(よ)には何事(なにごと)も包(つゝ)まず赤心(せきしん)を明(あ)かしてくれるが        屡々(しば〴〵)予(よ)の足(た)らざる処(ところ)をも補(おぎな)つてくれると云ふ意(い)が記(しる)してあるとのことであるモツトモ此(この)書(しよ)は他見(たけん)を許(ゆる)さ       ぬ秘書(ひしよ)であつたから私(わたくし)はまだ実見(じつけん)する機会(きくわい)を得(え)ぬのであるが右(みぎ)の話(はなし)は此(この)頃(ころ)某(ぼう)先輩(せんぱい)から聞(き)く事(こと)を得(え)た次(し) 《割書:定信より信|明に贈りし|書簡》   第(だい)であるそれのみならず今(いま)大河内家(おほかうちけ)には其(その)頃(ころ)定信(さだのぶ)から信明(のぶあき)に贈(おく)つた書簡(しよかん)が幸(さいはひ)五 通(つう)保存(ほぞん)されて居(お)る       のである之(これ)は維新後(ゐしんご)本具(ほんぐ)の中(なか)に入(い)れられて殆(ほとん)ど顧(かへり)みられずに埋没(まいぼつ)されて居(お)つたのであるが旧臣(きうしん)の長尾(ながを)        清江(きよえ)君(くん)が虫干(むしぼし)の際(さい)兎(と)に角(かく)格別(かくべつ)に保存(ほぞん)して置(お)かれたので今日(こんにち)容易(ようい)ならざる資料(しれう)として世(よ)に紹介(せうかい)することが       出来(でき)るのである長尾氏(ながをし)が逝去(せいきよ)せられた今日(こんにち)となつては私(わたくし)は一 言(げん)長尾氏(ながをし)の功績(こうせき)を此処(こゝ)に申述(もをしの)べて置(お)きた       いと思(おも)ふのである 【欄外】    豊橋市史談  (松平信明と白河楽翁公)                  三百十五

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(松平信明と白河楽翁公) 三百十四 【本文】 られることとなったのである。そこでこの家治も最初は大いに治世に志があって頗る勉強した様子が認められるのであるが、程なくその成績が上がらなくなったのみならず、要職に然るべき人物が居なかったので、次第に例の側用人政治の弊に陥って、遂にご承知の田沼主殿頭意次が独り威権を弄するに至ったのである。元来この田沼意次という人は八代将軍吉宗の小姓で、享保二十年に家督を継ぎ、その際は知行わずか六百石の小身であった。然るにその後家治のお側衆に付けられ、次第次第に親任されて宝暦八年には一万石に取り立てられて諸侯の列に加わり、明和四年には更に二万石を加増されて遠江国相良の城主となり、新城を築いてこれに根拠を構え、程なく安永元年には遂に老中に任ぜられ五万七千石にまで至ったという男である。このような訳であるから、この家治の時代、殊に明和安永の間にあっては意次の権勢というもの頗る強大なもので、士気は堕落し賄賂横行の事実なども一般に認められる処である。まずこれがその当時における事情の大要であるが、松平信明は実にこのような時世にあって成長したもので、これが後に松平定信すなわち白河楽翁公と言われた人の推挙を受けて幕府重要の地位に当たり、弊政改革の衝に当たることになったのであるが、これより順を追ってそれらの事柄を段々申し述べたいと思うのである。 ◎松平信明と白河楽翁公 世に白河楽翁公と言って尊敬される人は前にも申し述べた通り松平越中守定信と言った人のことであるが、私がくだくだしく申すまでもなく実に非凡の人物で後世まで推重されている処の名臣である。これらのことは諸君は既によくご承知のことであるとは思うが、この人は元田安中納言宗武の第三子であるから八代将軍吉宗から言うとその実孫である。然るに色々の事情から奥州白河の城主松平定邦の養子となって 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏はその該博なる知識と不尽の精力を傾け、豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際し... 【左頁】 【欄外】 この豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 その家を襲いだのであるが、元来この十代将軍家治には家基という実子があったが安永八年二月急病で逝去されてより子がなかったので、遂に一橋家から養子することとなって入って継嗣となったのが後に十一代将軍と言われた家斉である。ところがこの家斉は吉宗から言うと曽孫に当たるのみならず、その祖父一橋宗尹は定信の父宗武に対して弟であるから、全体徳川将軍家にとっては家斉よりは定信の方が余程重いことになるのである。その上定信は前にも申し述べた如く幼少より聡明の人であったから、当時権勢を専らにしていた意次は出来得る限り定信を遠ざけることに焦慮したものと信ぜられる。今一々は申し述べぬがこれには随分穿った説も伝わっているのである。そしてこの定信は宝暦八年十二月二十七日の生まれであるから信明に比ぶれば恰も五歳の年長者であるが、青年時代から頻りに有為の友人を集めて精神の修養に勉め、時世を慨嘆して世のため国のためには大いに貢献せんとしたものである。信明は蓋しこの時分から既に定信に知られていたもので、彼の定信の自筆にかかる「宇下の人言」という書の中には信明を評して「松平伊豆守は明敏で能く人を遇す。才は徳に勝ると云うべきである。また予には何事も包まず赤心を明かしてくれるが、屡々予の足らざる処をも補ってくれる」という意が記してあるとのことである。もっともこの書は他見を許さぬ秘書であったから私はまだ実見する機会を得ぬのであるが、右の話はこの頃某先輩から聞くことを得た次第である。それのみならず今大河内家にはその頃定信から信明に贈った書簡が幸い五通保存されているのである。これは維新後本具の中に入れられて殆ど顧みられずに埋没されていたのであるが、旧臣の長尾清江君が虫干しの際にとに角格別に保存して置かれたので、今日容易ならざる資料として世に紹介することが出来るのである。長尾氏が逝去された今日となっては私は一言長尾氏の功績をここに申し述べて置きたいと思うのである。 【欄外】 豊橋市史談(松平信明と白河楽翁公) 三百十五

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Nobuaki and Shirakawa Rakuō-kō) 314 **Main Text:** ...was appointed to this position. Initially, this Ieharu also had great aspirations for governance and showed considerable diligence in his studies, but before long his performance declined, and moreover there were no suitable persons in important positions, so he gradually fell into the evils of the usual soba-yōnin (chamberlain) politics, until finally the well-known Tanuma Tonomo-no-kami Okitsugu came to wield power alone. Originally, this Tanuma Okitsugu was a page to the eighth shogun Yoshimune, succeeded to family headship in Kyōhō 20 (1735), at which time he was a minor retainer with stipend of only 600 koku. However, he was later appointed to Ieharu's personal attendants and gradually gained favor, being elevated to 10,000 koku in Hōreki 8 (1758) and joining the ranks of daimyo. In Meiwa 4 (1767) he received an additional 20,000 koku and became lord of Sagara Castle in Tōtōmi Province, built a new castle and established his base there, and soon in An'ei 1 (1772) was finally appointed rōjū (senior councilor) and reached 57,000 koku. For these reasons, during Ieharu's reign, especially during the Meiwa-An'ei period, Okitsugu's power was extremely strong, morale declined, and bribery became rampant - this is generally recognized. This gives the general outline of conditions at that time, but Matsudaira Nobuaki grew up in precisely such times, and later received recommendation from the person known as Matsudaira Sadanobu, or Shirakawa Rakuō-kō, to serve in an important position in the shogunate and take charge of administrative reform. I would like to describe these matters in order from here. ◎Matsudaira Nobuaki and Shirakawa Rakuō-kō The person respected throughout the world as Shirakawa Rakuō-kō is, as I mentioned before, the man called Matsudaira Etchū-no-kami Sadanobu. Without my going into tedious detail, he was truly an extraordinary figure and a distinguished retainer who continues to be highly regarded by later generations. I think you gentlemen are already well aware of these matters, but this person was originally the third son of Tayasu Chūnagon Munetake, making him a direct grandson of the eighth shogun Yoshimune. However, due to various circumstances he became the adopted son of Matsudaira Sadakuni, lord of Shirakawa Castle in Ōshū, and **Margin:** Toyohashi City Mayor Ōguchi Kiroku has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling the history of Toyohashi City for over a year, and now as his manuscript nears completion... **Left Page:** **Margin:** This Toyohashi City Historical Discourse is published once per week (on Tuesdays) and presented to readers of San'yō Newspaper **Main Text:** ...succeeded to that house. Originally this tenth shogun Ieharu had a real son named Iemoto, but when he died suddenly of illness in February of An'ei 8 (1779), leaving no children, it was decided to adopt from the Hitotsubashi family, and the one who entered and became heir was later known as the eleventh shogun, Ienari. However, this Ienari was not only Yoshimune's great-grandson, but his grandfather Hitotsubashi Munetada was younger brother to Sadanobu's father Munetake, so overall for the Tokugawa shogun family, Sadanobu had much more weight than Ienari. Moreover, as I mentioned before, Sadanobu had been intelligent from childhood, so Okitsugu, who monopolized power at that time, is believed to have been anxious to keep Sadanobu at a distance as much as possible. I won't go into details now, but some quite penetrating theories about this have been passed down. This Sadanobu was born on December 27th of Hōreki 8 (1758), making him exactly five years older than Nobuaki, but from his youth he actively gathered worthy friends to cultivate their spirits, lamenting the times and seeking to contribute greatly for the sake of the world and country. Nobuaki was apparently already known to Sadanobu from around this time, and in Sadanobu's autograph work "Uka no Jingon" (Words of People Under Heaven), he evaluates Nobuaki: "Matsudaira Izu-no-kami is intelligent and good at dealing with people. One could say his talent exceeds his virtue. Also, he conceals nothing from me and shows his true heart, and often supplements my deficiencies." However, this book was a secret document not permitted to be shown to others, so I have not yet had the opportunity to see it myself, but I was able to hear this story from a certain senior recently. Moreover, the Ōkōchi family fortunately preserves five letters that Sadanobu sent to Nobuaki at that time. These were put away among tools after the Meiji Restoration and had been almost completely forgotten and buried, but former retainer Nagao Kiyoe preserved them with special care during periodic airing, so today they can be introduced to the world as invaluable historical materials. Now that Nagao has passed away, I would like to mention his contributions here. **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Nobuaki and Shirakawa Rakuō-kō) 315