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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 172

ページ: 172

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【欄外】    豊橋市史談  (松平信明と白河楽翁公)                  三百十六 【本文】       サテ右(みぎ)の五 通(つう)の書簡(しよかん)と云ふのは独(ひと)り定信(さだのぶ)信明(のぶあき)両人(れうにん)が青年時代(せいねんじだい)に於(お)ける親交(しんかう)を現(あら)はせるのみならず実(じつ)に        当時(たうじ)の情況(ぜうけふ)が分(わか)るので甚(はなは)だ貴重(きちよう)のものであると思(おも)ふが前(まへ)にも申述(もをしの)べた如(ごと)く独(ひと)り当世(たうせい)に権勢(けんせい)を専(ほしいまゝ)にし       て田沼意次(たぬまおきつぐ)も安永(あんえい)年間(ねんかん)を過(す)ぎて世(よ)は天明(てんめい)と相成(あひな)つた其(その)四年三月廿四日に子(こ)田沼山城守意知(たぬまやましろのかみおきとも)が営中(えうちう)に於 意次の解職 て佐野善左衛門(さのぜんさゑもん)政言の為(ため)に刃傷(にんぜう)せられてから甚(はなは)だ不首尾(ふしゆび)の端緒(たんちよ)を開(ひら)いたので其(その)六年八月廿七日 遂(つひ)に職(しよく)       を解(と)かるゝに至つたのであるモツトモ時(とき)の将軍(せうぐん)家治は当時(たうじ)重病(じゆうびよう)であつて其(その)年(とし)の九月八日を以(もつ)て薨去(こうきよ)       せられた事(こと)に相成(あひな)つては居(お)るが其(その)実(じつ)は其(その)年(とし)の八月廿日 既(すで)に薨去(こうきよ)せられたものであると云ふのが事実(じゞつ)と        信(しん)ぜられる然(しか)るに三 家(け)並(ならび)に諸閣老(しよかくらう)は堅(かた)く喪(も)を秘(ひ)して置(お)いて先(ま)づ台命(たいめい)と称(せう)して田沼(たぬま)を黜(しりぞ)け然(しか)る後(のち)漸(やうや)く喪(も)       を発(はつ)したものと思(おも)はれる蓋(けだ)し家治(いへはる)の病(やまひ)革(あらたま)るや近臣(きんしん)の者(もの)は堅(かた)く意次(おきつぐ)の疾(やまひ)に侍(じ)するのを拒(こば)むだもので若(も)       し意次(おきつぐ)が強(しゐ)て将軍(せうぐん)の病(やまひ)に侍(じ)せむと云(い)ふならば刺(さ)し殺(ころ)してもそうはさせまじと謀(はか)つたので意次(おきつぐ)も之(これ)には        恐(おそ)れをなして遂(つひ)に内(うち)に入(い)ることを敢(あへ)てせなかつたが其(その)内(うち)に台命(たいめい)であると云(い)ふので解職(かいしよく)を仰付(あふせつ)けられたと        云(い)ふ次第(しだい)である       かくて家治(いへはる)の喪(も)が発(はつ)せらるゝと共(とも)に即日(そくじつ)家斉(いへなり)は本城(ほんじよう)に移(うつ)りて其(その)後(あと)を襲(つ)いだのであるが十月四日には家(いへ) 《割書:意次封地を|減ぜらる》   治(はる)の葬式(そうしき)を上野東叡山(うへのとうえいざん)に於(おい)て営(いとな)まれ閏(うるふ)十月の五日には田沼意次(たぬまおきつぐ)の封地(ほうち)の内(うち)二万石を収(おさ)め大坂蔵屋敷(おほさかくらやしき)並(ならび) 天明の饑饉 に江戸神田橋(えどかんだばし)の上屋敷(かみやしき)を収(おさ)められたのである而(しか)も其頃(そのころ)は所謂(いはゆる)天明(てんめい)の饑饉(ききん)と云(い)はれた凶歳(けうさい)続(つゞ)きで特(とく)に其(その)       四年五年 即(すなは)ち辰年(たつとし)巳年(みのとし)の不作(ふさく)は甚(はなはだ)しきものであつたが其(その)最中(さいちう)へ此(この)騒(さわぎ)であつたから都下(とか)の人心(じんしん)は恟々(けう〳〵)       たる有様(ありさま)であつた即(すなは)ち前(まへ)に申述(もをしの)べた定信(さだのぶ)が信明(のぶあき)に寄越(よこ)した書簡(しよかん)と云(い)ふのは此(この)頃(ころ)の情況(ぜうけう)が分(わか)るので其(その)五        通(つう)は孰(いづ)れも天明(てんめい)六年の九月より閏(うるふ)十月に掛(か)けてのものであるが先(ま)づ最初(さいしよ)のは九月九日 付(づけ)で其(その)次(ころ)のは日(ひ)        付(づけ)がないが事実(じゞつ)から推(お)して之(これ)はドウしても其(その)月(つき)の中旬(ちうじゆん)のものに相違(さうゐ)ないのである夫(それ)から十月十八日 付(づけ) 【欄外】        発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千二百二号附録    (大正元年十月廿九日発行) 【本文】        閏(うるふ)十月十八日 付(づけ)同月(どうげつ)廿一日 付(づけ)のものである而(しか)して九月九日 付(づけ)のものには将軍(せうぐん)家治(いへはる)薨去(こうきよ)の事(こと)に就(つい)て「大(たい)        方(かた)の君(きみ)の恵(めぐみ)を思(おも)ふ身(み)は落涙(らくるゐ)も置所(おきところ)なき程(ほど)に日夜(にちや)恐入奉(おそれいりたてまつ)り候(そろ)今日(こんにち)節句(せつく)と申候(まをしそろ)ても扨々(さて〳〵)心痛(しんつ)恐入(おそれいり)候(そろ)義(ぎ)幾(いく)        千代(ちよ)と祈(いの)りし事(こと)もあやなくて涙(なみだ)くみそふ菊(きく)の盃(さかすき)にて御座候(ござそろ)」と書(か)いてある又(また)其(その)頃(ころ)定信(さだのぶ)は領地(れうち)白河(しらかは)を検(けん)        分(ぶん)する為(ため)に発向(はつこう)する筈(はづ)で幕府(ばくふ)の許可(きよか)をさえ得(え)たのであつたが自分(じぶん)の都合(つごう)で一二日 延引(えんゐん)して居(お)る処(ところ)へ将(せう)        軍(ぐん)の喪(も)を聞(き)いて遂(つひ)に発足(はつそく)を見合(みあは)せた事(こと)が書(か)いてある其(その)文意(ぶんい)から見(み)ると家治(いへはる)の薨去(こうきよ)は九月八日を以(もつ)て発(はつ)        表(ぺう)せらるゝ迄(まで)は定信(さだのぶ)と雖(いへど)も一 向(こう)に知(し)らなかつたものと信(しん)ぜられる果(はた)して将軍(せうぐん)の薨去(こうきよ)が事実(じじつ)に於(おい)て前(まへ)に        申述(もをしの)べた如(ごと)く八月の廿日 頃(ごろ)であつたとすれば余程(よほど)厳重(げんじう)に秘(ひ)せられたものであると思(おも)はれる又(また)此(この)書簡(しよかん)中(ちう)       には奥州地方(おうしうちはう)連年(れんねん)不作(ふさく)の情況(ぜうけう)も書(か)いてあるが特(とく)に田沼(たぬま)の退職(たいしよく)となつた結果(けつくわ)は賄賂横行(わいろわうかう)の事実(じじつ)が止(や)むに        至(いた)るであろうと云(い)ふのを喜(よろこ)むで特(とく)に諧謔(かいぎやく)の口調(くてう)を用(もち)ゐ         権門(けんもん)は止(や)みそうと人々(ひと〴〵)申候(もをしそろ)之(これ)はまづ結構(けつかう)至極(しごく)と難有奉存候(ありがたくぞんじたてまつりそろ)弥々(いよ〳〵)止(や)み候(そうろ)はゞ私儀(わたくしぎ)守銭(しゆせん)の奴(ど)は別(べつ)し        て大慶(たいけい)仕(つかまつり)○(コレ)をたくはへ可申(もをすべく)と存候(ぞんじそろ)諸大名(しよだいめう)の勝手(かつて)にとり候(そろ)ても大分(だいぶん)の事(こと)と被存候(ぞんじられそろ) 《割書:定信信明の|親交》  と書(か)いてあるが之(これ)に依(よ)れば当時(たうじ)の様子(やうす)は勿論(もちろん)如何(いか)にも定信(さだのぶ)信明(のぶあき)の両人(れうにん)が交情(かうぜう)極(きは)めて親密(しんみつ)であつて互(たがひ)に        相容(あひよう)して居(お)つた状態(ぜうたい)が躍如(やくぢよ)として見(み)ゆるように思(おも)はるゝのである        而(しか)して十月十八日 付(づけ)の書簡(しよかん)は定信(さだのぶ)が既(すで)に其(その)領地(れうち)奥州(おうしう)の白河(しらかは)へ到着(たうちやく)して其処(そこ)から送(おく)り越(こ)したものである       が其(その)中(なか)にも         都下(とか)先比(さきごろ)巷説如沸候(こうせつわくがごとくにそろ)よしけしからぬ事(こと)に御座候(ござそろ)嘸々(さぞ〳〵)御痛心(ごつうしん)の御事(おんこと)と奉存候(ぞんじたてまつりそろ)御(ご)三 家方(けがた)御居(おんゐ)         残(のこ)り等(とう)も度々(たび〴〵)になどゝ風説相聞(ふうせつあひきこ)へ申候(もをしそろ)あなた方(がた)の御寄合(おんよりあひ)などと申(もをす)は御大切(ごたいせつ)の義(ぎ)       云々(うんぬん)と云(い)ふ事(こと)が書(か)いてある之(これ)は前(まへ)に申述(もをしの)べた田沼意次(たぬまおきつぐ)が其(その)封(ほう)二万石を収められ大坂蔵敷(おほさかくらしき)並(ならび)に神田橋(かんだばし)の 【欄外】    豊橋市史談  (松平信明と白河楽翁公)                  三百十七

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(松平信明と白河楽翁公) 三百十六 【本文】 さて右の五通の書簡というのは、ひとり定信・信明両人が青年時代における親交を現すのみならず、実に当時の情況が分かるので甚だ貴重のものであると思うが、前にも申し述べた如くひとり当世に権勢を専らにして田沼意次も安永年間を過ぎて世は天明となったその四年三月二十四日に子の田沼山城守意知が営中において佐野善左衛門政言のために刃傷されてから甚だ不首尾の端緒を開いたので、その六年八月二十七日、遂に職を解かれるに至ったのである。もっとも時の将軍家治は当時重病であってその年の九月八日をもって薨去されたことになってはいるが、その実はその年の八月二十日既に薨去されたものであるというのが事実と信じられる。然るに三家並びに諸閣老は堅く喪を秘しておいて、まず台命と称して田沼を退け、然る後漸く喪を発したものと思われる。蓋し家治の病が重くなると近臣の者は堅く意次の病に侍するのを拒むだもので、もし意次が強いて将軍の病に侍せんというならば刺し殺してもそうはさせまじと謀ったので、意次もこれには恐れをなして遂に内に入ることを敢えてしなかったが、その内に台命であるというので解職を仰せ付けられたという次第である。 かくて家治の喪が発せられると共に即日家斉は本城に移ってその後を襲いだのであるが、十月四日には家治の葬式を上野東叡山において営まれ、閏十月の五日には田沼意次の封地の内二万石を収め、大坂蔵屋敷並びに江戸神田橋の上屋敷を収められたのである。しかもその頃は所謂天明の飢饉と言われた凶歳続きで、特にその四年五年、即ち辰年・巳年の不作は甚だしいものであったが、その最中へこの騒ぎであったから都下の人心は恟々たる有様であった。即ち前に申し述べた定信が信明に寄越した書簡というのはこの頃の情況が分かるのでその五通はいずれも天明六年の九月より閏十月にかけてのものであるが、まず最初のは九月九日付で、その次のは日付がないが事実から推してこれはどうしてもその月の中旬のものに相違ないのである。それから十月十八日付 【欄外】 発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千二百二号附録(大正元年十月二十九日発行) 【本文】 閏十月十八日付、同月二十一日付のものである。そして九月九日付のものには将軍家治薨去のことについて「大方の君の恵みを思う身は落涙も置所なき程に日夜恐れ入り奉り候。今日節句と申し候ても、さてさて心痛恐れ入り候義、幾千代と祈りし事もあやなくて涙汲みそう菊の盃にて御座候」と書いてある。また其頃定信は領地白河を検分する為に発向する筈で幕府の許可をさえ得たのであったが、自分の都合で一二日延引している処へ将軍の喪を聞いて遂に発足を見合わせた事が書いてある。その文意から見ると家治の薨去は九月八日をもって発表されるまでは定信といえども一向に知らなかったものと信じられる。果たして将軍の薨去が事実において前に申し述べた如く八月の二十日頃であったとすれば余程厳重に秘せられたものであると思われる。またこの書簡中には奥州地方連年不作の情況も書いてあるが、特に田沼の退職となった結果は賄賂横行の事実が止むに至るであろうということを喜んで、特に諧謔の口調を用い「権門は止みそうと人々申し候。これはまず結構至極と有難く存じ奉り候。弥々止み候はば私儀守銭の奴は別して大慶仕り、これを蓄え申すべくと存じ候。諸大名の勝手にとり候ても大分の事と存ぜられ候」と書いてあるが、これに依れば当時の様子はもちろん、いかにも定信・信明の両人が交情極めて親密であって互いに相容していた状態が躍如として見えるように思われるのである。 そして十月十八日付の書簡は定信が既にその領地奥州の白河へ到着してその処から送り越したものであるが、その中にも「都下先頃巷説沸くが如く候よし、けしからぬ事に御座候。嘸々御痛心の御事と存じ奉り候。御三家方御居残り等も度々になどと風説相聞え申し候。あなた方の御寄合などと申すは御大切の義」云々ということが書いてある。これは前に申し述べた田沼意次がその封二万石を収められ、大坂蔵敷並びに神田橋の 【欄外】 豊橋市史談(松平信明と白河楽翁公) 三百十七

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Nobuaki and Shirakawa Rakuō-kō) 316 **Main Text:** Now, these five letters not only reveal the close friendship between Sadanobu and Nobuaki during their youth, but are extremely valuable because they show the actual conditions of that time. As I mentioned before, Tanuma Okitsugu, who had monopolized power, passed through the An'ei years and into the Tenmei era, when on March 24th of Tenmei 4 (1784) his son Tanuma Yamashiro-no-kami Okitomo was attacked by Sano Zenzaemon Masakoto in the castle, marking the beginning of his downfall. On August 27th of Tenmei 6 (1786), he was finally dismissed from office. At that time, Shogun Ieharu was seriously ill and officially died on September 8th of that year, but it is believed that he actually died on August 20th of that year. The three branch families and senior councilors strictly kept the death secret, first dismissing Tanuma under the pretext of the shogun's orders, and only then gradually announced the death. When Ieharu's illness became critical, his close retainers firmly refused to allow Okitsugu to attend the sick shogun, and if Okitsugu had insisted on attending the shogun's sickbed, they plotted to kill him rather than allow it. Okitsugu, frightened by this, dared not enter the inner chambers, and during this time received orders for dismissal under the name of imperial command. When Ieharu's death was announced, Ienari immediately moved to the main castle and succeeded him. Ieharu's funeral was held at Tōeizan in Ueno on October 4th, and on the 5th of intercalary October, 20,000 koku were confiscated from Tanuma Okitsugu's domain, along with the Osaka warehouse and the upper residence at Kandabashi in Edo. Moreover, this was during the consecutive bad harvests known as the Tenmei Famine, particularly the severe crop failures of years 4 and 5 (dragon and snake years), and with this turmoil occurring at the height of the crisis, the people of the capital were in a state of great anxiety. The letters that Sadanobu sent to Nobuaki that I mentioned earlier show the conditions of this time - all five letters date from September through intercalary October of Tenmei 6. The first is dated September 9th, the next has no date but from the facts must certainly be from mid-month, then October 18th... **Margin:** Publisher and Printer: San'yō Printing Partnership, 48 Kon'ya-chō, Toyohashi City; Editor: Nakanishi Kenzō; Publisher and Printer: Kuno □kichi **Left Page:** **Margin:** San'yō Newspaper No. 4,202 Supplement (Published October 29, Taishō 1 [1912]) **Main Text:** ...intercalary October 18th, and the 21st of the same month. In the September 9th letter, regarding Shogun Ieharu's death, he writes: "One who thinks of our great lord's benevolence has tears with nowhere to fall, and I am terrified day and night. Even though today is a festival day, it is truly heartbreaking and frightening - the thousands of years we prayed for have come to naught, and tears mix with the chrysanthemum wine cup." At that time Sadanobu was supposed to depart to inspect his domain of Shirakawa and had even obtained shogunal permission, but had delayed departure a day or two for personal reasons when he heard of the shogun's death and finally postponed his departure. From the content, it appears that even Sadanobu knew nothing of Ieharu's death until it was announced on September 8th. If the shogun's death was indeed around August 20th as I mentioned earlier, it must have been kept extremely secret. This letter also describes the consecutive crop failures in the Ōshū region, and particularly celebrates that Tanuma's retirement would end the practice of rampant bribery, using a humorous tone: "People say the powerful gates will cease their practices. This is most excellent and gratifying. If it truly ceases, I as a money-grubbing fellow would be especially delighted and could accumulate wealth. It would be quite beneficial for the various daimyo as well." From this we can see not only the conditions of the time but how extremely intimate the friendship between Sadanobu and Nobuaki was, and how they confided in each other. The October 18th letter was sent after Sadanobu had already arrived at his domain of Shirakawa in Ōshū, and it contains: "I hear rumors have been boiling in the capital recently - what a deplorable situation. You must surely be distressed by this. I hear repeated rumors about members of the three branch families remaining behind. Your meetings and such are matters of great importance..." This refers to the confiscation of 20,000 koku from Tanuma Okitsugu and the Osaka warehouse and Kandabashi... **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Nobuaki and Shirakawa Rakuō-kō) 317