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【欄外】
豊橋市史談 (松平信明と白河楽翁公) 三百十八
【本文】
上屋敷(かみやしき)を収(をさ)められた所謂(いはゆる)田沼処分(たぬましよぶん)当時(たうじ)の情況(ぜうけう)を窺(うかゞ)ふべきもので此(この)田沼(たぬま)が神田橋(かんだばし)上屋敷(かみやしき)引(ひ)き揚(あ)げの際(さい)は
中々(なか〳〵)喧(やかま)しかつたものであるが此(この)言渡(いひわたし)は閏(うるふ)十月五日の事(こと)で閏(うるふ)十月廿一日 付(づけ)の書簡(しよかん)の中(なか)にも
田沼(たぬま)御寛怒(ごかんぢよ)の義(ぎ)難有義(ありがたきぎ)いづれ無事(ぶじ)の方(はう)可然哉(しかるべきや)引越(ひきこし)の節(せつ)乱雑(らんざつ)の事(こと)承伝(うけたまはりつた)へ候(そろ)
と云(い)ふ事(こと)が見(み)える又(ま)た前記(ぜんき)十八日の書簡(しよかん)の中(なか)には信明(のぶあき)に対(たい)して左(さ)の如(ごと)き事(こと)も記(しる)してある
信明の性行 不絶御力行(たへすごりきかう)の義(ぎ)奉感候(かんじたてまつりそろ)随分(ずゐぶん)御出精(ごしゆつせい)可被成候(なされべくそろ)戸田(とだ)も貴君(きくん)の御才徳(ごさいとく)に感(かん)し候(そろ)と申越候(もをしこしそろ)御明敏(ごめいひん)は御油(ごゆ)
断(だん)被成(なされ)まじく候(そろ)御書物(おんしよもつ)御出精(ごしゆつせい)のよし何(なに)より〳〵珍慶(ちんけい)に奉存候(ぞんじたてまつりそろ)不学(ふがく)おもてに牆(かき)するが如(ごと)くとも申(もをし)
候(そろ)よし不学無術(ふがくぶじゆつ)にては難奏功(こうをそうしがたく)奉存候(ぞんじたてまつりそろ)
之(これ)で見(み)ると誠(まこと)に信明(のぶあき)が当時(たうじ)才気横溢(さいきおういつ)の青年(せいねん)であつた事(こと)が窺(うかゞ)はるゝのみならず同時(どうじ)に定信(さだのぶ)の人(ひと)となりも
分(わか)るが又(ま)た此(この)両人間(れうにんかん)の交情(かうぜう)が一 層(そう)明瞭(めいれう)になるように思(おも)はるゝのであるが尚(なほ)其(その)事(こと)に就(つい)ては閏(うるふ)十月廿一日
の書簡(しよかん)の中(なか)にも
しかしそれは大(おほい)に〳〵〳〵秘(ひ)し候事(そろこと)たとひ加納氏(かのうし)へも御内見(ごないけん)は大(おほい)に御無用(ごむよう)〳〵〳〵御他見(ごたけん)御他言(ごたごん)は
無用(むよう)〳〵〳〵に奉願候(ねがひたてまつりそろ)左様(さやう)無之(これなき)と私(わたくし)の寸志(すんし)水(みづ)に罷成申候(まかりなりもをしそろ)(中略(ちうりやく))御独覧(ごどくらん)のうへ直(たゞち)に御(おん)かへし可(くだ)
被下候(されべくそろ)御他言(ごたごん)は御無用也(ごむようなり)貴君(きくん)へ入貴覧申度(きらんにいれもをしたく)と奉存候(ぞんじたてまつりそろ)趣意(しゆい)は御要用(ごえうよう)の御役(おんやく)に御進(おんすゝ)み被成(なされ)て享保(けうほ)慶(けい)
長(てう)のむかしへ御返(おんか)へし被成候(なされそろ)やうにと心願(しんぐわん)いたし候書付(そろかきつけ)にて御座候(ござそろ)
と云(い)ふ事(こと)があるので之(これ)は何(な)にか極秘(ごくひ)の書付(かきつけ)を特(とく)に定信(さだのぶ)から信明(のぶあき)に送(おく)つた時(とき)の事(こと)で其(その)書付(かきつけ)は当時(たうじ)信任(しんにん)し
て居(お)つた加納遠江守(かのうとほとふみのかみ)にさえ見(み)せるなと云(い)ふのであるから其(その)信明(のぶあき)に対(たい)する親交(しんかう)と云(い)ふものは到底(たうてい)並(ならび)一
ト通(とほり)ではなかつたものと思(おも)はねばならぬのである殊(こと)に面白(おもしろ)く思(おも)はるゝのは其(その)九月 中旬頃(ちうじゆんころ)のものと思(おも)は
るゝ書簡(しよかん)の中(なか)に「只今(たゝいま)夜食(やしよく)たべかけ候間(そろあひだ)其(その)疎答恐入奉存候(そたうおそれいりぞんじたてまつりそろ)」と云(い)ふ事(こと)が書(か)いてある事(こと)である之(これ)
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
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【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
定信の襟度 は云(い)ふ迄(まで)もなく両人(れうにん)が平常(へいぜう)の交情(かうぜう)も分(わか)るが又(ま)た定信(さだのぶ)の襟度快豁(きどかいかつ)なる処(ところ)も窺(うかゞ)はれると思(おも)ふのである
兎(と)に角(かく)定信(さだのぶ)信明(のぶあき)両人(れうにん)が青年時代(せいねんじだい)に於(お)ける親交(しんかう)並(ならび)に其(その)当時(たうじ)の事情(じぜう)と云(い)ふものは前述(ぜんじゆつ)の如(ごと)くであるがイヨ
〳〵田沼(たぬま)は黜(しりぞ)けられ家斉(いへなり)が十一 代将軍(だいせうぐん)の職(しよく)に就(つ)いたと云(い)ふ其(その)翌年(よくねん)即(すなは)ち天明(てんめい)七年の六月十九日に至(いた)つて
《割書:定信輔佐職|となる》 定信(さだのぶ)は遂(つひ)にる老中(らうちう)に任(にん)せらるゝ事(こと)となり其(その)上座(ぜうざ)に就(つ)いたが八年の三月四日には将軍(せうぐん)が尚(な)ほ少弱(せうじやく)なるの故(ゆゑ)
を以(もつ)て特(とく)に輔佐(ほさ)の職(しよく)にあつて大政(たいせい)を総攬(そうらん)すべき旨(むね)を仰付(あふせつ)けられたのである蓋(けだ)し之(これ)は前(まへ)にも申述(もをしの)べた如(ごと)
《割書:信明老中に|推挙せらる》 く田沼(たぬま)弊政(へいせい)の後(のち)を受(う)けて大(おほい)に幕政(ばくせい)の革新(かくしん)を要(えう)する時(とき)であつたので三 家(け)初(はじ)め疑議(ぎぎ)する所(ところ)があつて其(その)結果(けつくわ)
ドウしても此(この)定信(さだのぶ)を起(おこ)すより外(ほか)にはないと云(い)ふ事(こと)になつたものと思(おも)はれるいづれソウ云(い)ふ趨勢(すうせい)の結果(けつくわ)
として来(きた)つたものであろうが右(みぎ)の如(ごと)く定信(さだのぶ)が要職(ようしよく)に就(つ)いて後程(のちほど)なく天明(てんめい)七年の十月二日を以(もつ)て田沼意(たぬまをき)
次(つぐ)は復(ふたゝ)び在職中(ざいしよくちう)不正(ふせい)の儀(ぎ)が多(おほ)かつたと云(い)ふ簾(かど)を以(もつ)て更(さら)に先代(せんだい)賜(たま)ふ処(ところ)の所領(しよれう)弐万七千石を召上(めしあ)げらるゝ
こととなつて遠江国(とほとふみのくに)相良(さがら)の城(しろ)を収(をさ)められたが之(これ)で田沼(たぬま)の事件(じけん)は略(ほ)ぼ一 段落(だんらく)となつたのであるソコで定信(さだのぶ)
は前(まへ)に一寸(ちよつと)御話(おはなし)して置(お)いた加納遠江守久周(かのふとう〳〵みのかみひさのり)を挙(あ)げて側衆(そばしう)となし本多弾正少弼忠壽(ほんだだんじうせうせうしつたゞかず)を以(もつ)て若年寄(わかとしより)に任(にん)
じ更(さら)に八年の二月には信明(のぶあき)を引(ひ)き挙(あ)げて側用人(そばようにん)となし僅(わづか)二ヶ月 経(た)つか経(た)たぬに之(これ)を老中(らうちう)に推挙(すゐきよ)したの
寛政の政治 である信明(のぶあき)は此(この)時(とき)年(とし)僅(わづか)に廿六 歳(さい)であつたが之(これ)より定信(さだのぶ)を輔(たす)けて天下(てんか)の政事(せいじ)に参与(さんよ)する事(こと)と相成(あひな)つた次(し)
第(だい)で所謂(いはゆる)寛政(かんせい)の政治(せいじ)と云(い)ふものは之等(これら)の人(ひと)によつて振興(しんこう)せられたものである
⦿尊号事件と信明
サテ定信(さだのぶ)が要職(えうしよく)に任用(にんよう)せられて以来(いらい)前章(ぜんせう)に申述(もをしの)べた如(ごと)く段々(だん〴〵)と枢要(すうえう)の地位(ちゐ)へ然(しか)るべき人物(じんぶつ)を登用(とうよう)し政(せい)
治(ぢ)向(むき)も次第(しだい)に改革(かいかく)せられ田沼時代(たぬまじだい)の弊風(へいふう)も殆(ほとん)ど一 掃(さう)せらるゝに至(いた)つたのであるが天明(てんめい)と云(い)ふ年号(ねんごう)も其(その)
【欄外】
豊橋市史談 (尊号事件と信明) 三百十九
現代語訳
【欄外】
豊橋市史談(松平信明と白河楽翁公) 三百十八
【本文】
上屋敷を収められた、いわゆる田沼処分当時の情況をうかがうべきもので、この田沼が神田橋上屋敷引き上げの際は中々やかましかったものであるが、この言い渡しは閏十月五日のことで、閏十月二十一日付の書簡の中にも「田沼御寛怒の義有難き義、いずれ無事の方しかるべきや。引越しの節乱雑のこと承り伝え候」ということが見える。また前記十八日の書簡の中には信明に対して次のような事も記してある。
「絶えず御力行の義感じ奉り候。随分御出精なされるべく候。戸田も貴君の御才徳に感じ候と申し越し候。御明敏は御油断されまじく候。御書物御出精のよし何より珍慶に存じ奉り候。不学は表に牆するがごときとも申し候よし、不学無術にては功を奏し難く存じ奉り候」
これで見ると誠に信明が当時才気横溢の青年であったことがうかがわれるのみならず、同時に定信の人となりも分かるが、またこの両人間の交情が一層明瞭になるように思われるのであるが、なおその事については閏十月二十一日の書簡の中にも
「しかしそれは大いにに秘し候事、たとひ加納氏へも御内見は大いに御無用に、御他見御他言は無用に奉願い候。左様これなきと私の寸志水に罢り成り申し候(中略)御独覧の上直ちに御返しくださるべく候。御他言は御無用なり。貴君へ入り貴覧申したくと存じ奉り候。趣意は御要用の御役に御進みなされて享保慶長の昔へ御返しなされ候ようにと心願いたし候書付にて御座候」
ということがあるので、これは何にか極秘の書付を特に定信から信明に送った時のことで、その書付は当時信任していた加納遠江守にさえ見せるなというのであるから、その信明に対する親交というものは到底並み一通りではなかったものと思わねばならぬのである。殊に面白く思われるのはその九月中旬頃のものと思われる書簡の中に「只今夜食食べかけ候間、その疎答恐れ入り存じ奉り候」ということが書いてあることである。これ
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏はその博学なる知識と不尽の精力を傾け豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際し
【左頁】
【欄外】
この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
は言うまでもなく両人が平常の交情も分かるが、また定信の襟度快活なる処もうかがわれると思うのである。
とにかく定信・信明両人が青年時代における親交並びにその当時の事情というものは前述のごとくであるが、いよいよ田沼は退けられ家斉が十一代将軍の職に就いたというその翌年、即ち天明七年の六月十九日に至って定信は遂に老中に任せられることとなり、その上座に就いたが、八年の三月四日には将軍がなお少弱なるの故をもって特に輔佐の職にあって大政を総攬すべき旨を仰せ付けられたのである。けだしこれは前にも申し述べたごとく田沼弊政の後を受けて大いに幕政の革新を要する時であったので、三家をはじめ疑議するところがあってその結果、どうしてもこの定信を起こすより外にはないということになったものと思われる。いずれそういう趨勢の結果として来たものであろうが、右のごとく定信が要職に就いて後程なく天明七年の十月二日をもって田沼意次は再び在職中不正の儀が多かったという科をもってさらに先代賜る処の所領二万七千石を召し上げられることとなって、遠江国相良の城を収められたが、これで田沼の事件は略ぼ一段落となったのである。そこで定信は前に一寸お話ししておいた加納遠江守久周を挙げて側衆となし、本多弾正少弼忠寿をもって若年寄に任じ、さらに八年の二月には信明を引き挙げて側用人となし、僅か二ヶ月経つか経たぬにこれを老中に推挙したのである。信明はこの時年僅かに二十六歳であったが、これより定信を輔けて天下の政事に参与することとなった次第で、いわゆる寛政の政治というものはこれらの人によって振興されたものである。
⦿尊号事件と信明
さて定信が要職に任用されて以来、前章に申し述べたごとく段々と枢要の地位へしかるべき人物を登用し、政治向きも次第に改革され、田沼時代の弊風もほとんど一掃されるに至ったのであるが、天明という年号もその
【欄外】
豊橋市史談(尊号事件と信明) 三百十九
英語訳
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Nobuaki and Shirakawa Rakuō-kō) 318
**Main Text:**
...upper residence was confiscated - the so-called Tanuma punishment - and we can glimpse the situation at that time. When Tanuma evacuated his Kandabashi upper residence, it was quite a commotion, but this order was given on the 5th of intercalary October, and in the letter dated intercalary October 21st it says: "Regarding Tanuma's lenient punishment, it is a fortunate matter - surely peaceful resolution would be best. I heard there was much confusion during the moving." Also in the aforementioned 18th letter, the following is written to Nobuaki:
"I am moved by your constant diligent practice. You should continue to exert yourself fully. Toda also speaks of being impressed by your talents and virtue. You must not neglect your keen intelligence. I am most delighted to hear of your diligent study of books. They say that ignorance faces a wall, and without learning and skill, success is difficult to achieve."
From this we can see that Nobuaki was indeed a brilliant young man overflowing with talent at that time, and we can also understand Sadanobu's character. The friendship between these two men becomes even clearer, and regarding this matter, in the intercalary October 21st letter it also says:
"However, this must be kept highly secret - even showing it to Kanō-shi would be most inadvisable. Please do not show it to others or speak of it. If this is not observed, my sincere intentions will come to naught... After you alone have read it, please return it immediately. Do not speak of it to others. I wish to submit this for your exclusive perusal. The intent is that you advance in important duties and restore the days of Kyōhō and Keichō - this is a document expressing my heartfelt wish."
Since even the trusted Kanō Tōtōmi-no-kami was not to see this extremely secret document that Sadanobu specially sent to Nobuaki, we must conclude that his friendship with Nobuaki was by no means ordinary. What I find particularly interesting is that in a letter believed to be from mid-September, he writes: "I am just now in the middle of eating my evening meal, so please forgive this brief response." This...
**Margin:**
Toyohashi Mayor Ōguchi Kiroku, with his extensive knowledge and inexhaustible energy, has devoted more than a year to compiling the Toyohashi City history, and now as the manuscript nears completion...
**Left Page:**
**Margin:**
This Toyohashi City Historical Discourse is published once weekly (Tuesdays) and presented to readers of the San'yō Newspaper
**Main Text:**
...not only shows us their usual friendship but also reveals Sadanobu's open and cheerful disposition.
In any case, the friendship between Sadanobu and Nobuaki in their youth and the circumstances of that time were as described above. After Tanuma was finally dismissed and Ienari assumed the position of 11th shogun, on June 19th of the following year (Tenmei 7), Sadanobu was finally appointed as senior councilor and took the senior position. On March 4th of Tenmei 8, because the shogun was still young and weak, he was specially appointed to the position of regent to oversee all government affairs. This was, as I mentioned before, a time when major shogunal reform was needed after the corrupt Tanuma administration, and the three branch families and others had doubts, concluding that only Sadanobu could be called upon. This was likely the result of such trends. Soon after Sadanobu assumed this important position, on October 2nd of Tenmei 7, Tanuma Okitsugu had another 27,000 koku of land confiscated for numerous improprieties during his tenure, and his castle at Sagara in Tōtōmi Province was seized, bringing the Tanuma affair to a conclusion. Sadanobu then appointed Kanō Tōtōmi-no-kami Hisanori (whom I mentioned earlier) as a personal attendant, made Honda Danjō-shōyū Tadakazu a wakadoshiyori, and in the 2nd month of Tenmei 8, elevated Nobuaki to personal aide, and within barely two months promoted him to senior councilor. Nobuaki was only 26 years old at this time, but from then on he assisted Sadanobu in participating in national governance. The so-called Kansei administration was promoted by these men.
⦿The Imperial Title Incident and Nobuaki
Now, since Sadanobu was appointed to important office, as described in the previous chapter, he gradually appointed suitable people to key positions, political affairs were progressively reformed, and the corrupt practices of the Tanuma era were almost entirely swept away. The Tenmei era name also...
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (The Imperial Title Incident and Nobuaki) 319