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【欄外】
豊橋市史談 (尊号事件と信明) 三百二十
【本文】
九年に至(いた)つて寛政(かんせい)と改(あらた)まり程(ほど)なく起(おこ)つた一 問題(もんだい)が諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の彼(か)の有名(いうめい)なる尊号事件(そんごうじけん)と云(い)ふのであ
る
《割書:尊号事件の|端緒》 サテ此(この)尊号事件(そんごうじけん)と云(い)ふのは申(もをす)も畏(かしこ)きことであるが時(とき)の聖天子(せいてんし)光格天皇(くわうかくてんのう)は閑院宮(かんゐんのみや)典仁 親王(しんのう)の御子(おんこ)で入(い)つて
大統(たいとう)を継(つ)ぎ給(たまは)つたのであるから夙(つと)に御父君(おんちゝぎみ)を尊(たつと)むで太上天皇(だじやうてんのう)の号(ごう)を奉(たてまつ)らむとの叡慮(えいりよ)があらせられたの
であるソコで寛政(かんせい)元年(がんねん)の八月 先(ま)づ幕府(ばくふ)の意見(いけん)を御諮問(ごしもん)になろうと云(い)ふので伝奏(でんそう)万里小路政房(までのこうぢまさふさ)同(どう)久我信(くがのぶ)
通(みち)の二 卿(けう)を以(もつ)て時(とき)の京都所司代(けうとしよしだい)太田備中守(おほたびつちうのかみ)資愛に向(む)けて其(その)旨(むね)を伝(つた)へしめられたのが其(その)起(おこ)りである蓋(けだ)し
聖天子(せいてんし)に於(お)かせられては早(はや)くより此(この)思召(おぼしめし)があらせられたのであるから天明(てんめい)の末年(まつねん)既(すで)に中山愛親卿(なかやまあいしんけう)に命(めい)
ぜられて其(その)先例(せんれい)を考(かんが)へしめ給(たまは)つたのであるがイヨ〳〵今度(このたび)表向(おもてむ)きに所司代(しよしだい)まで右(みぎ)の趣(おもむき)を御申達(ごしんだつ)になつ
た次第(しだい)であるソコで太田備中守(おほたびつちうのかみ)は直(たゞ)ちに其(その)趣(おもむき)を幕府(ばくふ)へ申送(もをしおく)つたのであるが幕府(ばくふ)に於(おい)ては第(だい)一に定信(さだのぶ)が
定信の意見 固(かた)く執(こ)つて此(この)事(こと)を不可(ふか)としたのであるモツトモ其(その)原因(げんゐん)に就(つい)ては種々(しゆ〴〵)の説(せつ)もあるので其(その)真相(しんさう)は今(いま)容易(ようい)に
断定(だんてい)すべきではあるまいが兎(と)に角(かく)定信(さだのぶ)が理由(りゆう)とする処(ところ)はコウであつたのである元来(がんらい)万乗(ばんぜう)の御位(みくらゐ)は絶対(ぜつたい)
に尊(たつと)いものであるから未(いま)だ其(その)位(くらゐ)を践(ふ)まずして其(その)名(な)をのみ奉(たてま)つると云(い)ふ事(こと)は誠(まこと)に理(り)のない事(こと)で仮令(たとへ)故事(こじ)
先例(せんれい)があるにしては之(これ)は必(かなら)ず倣(なら)はねばならぬと云(い)ふものではない時世(じせい)の如何(いかん)と道理(どうり)の善悪(ぜんあく)とを詮索(せんさく)し
て取捨(しゆしや)すべきである従(したがつ)て何卒(なにとぞ)其(その)思召(おぼしめし)丈(だけ)は御無用(ごむよう)になさるように願(ねが)ひたい若(も)し御孝心(ごかうしん)より御実父(ごじつふ)を御(おん)
敬(うやまひ)になりたい御思召(おぼしめし)であるならば相当(さうたう)に御領(ごれう)でも御増進(ごぞうしん)に相成(あひな)つたならば如何(いかゞ)であらうと云(い)ふにあ
つたのである全体(ぜんたい)定信(さだのぶ)と云(い)ふ人(ひと)は前(まへ)にも申述(もをしの)べた如(ごと)く実(じつ)に人格(じかく)の高(たか)い且(か)つ聡明(さうめい)で学問(がくもん)もあり其(その)上(うへ)皇室(くわうしつ)
に対(たい)しても屡々(しば〳〵)勤王(きんわう)の行(おこなひ)が現(あら)はれて居(お)つた位(くらゐ)の人(ひと)であるから今回(こんくわい)の事(こと)も決(けつ)して聖旨(せいし)に対(たい)し奉(たてま)つて之(これ)
を御抑(おんおさ)へ申(もを)さむとのみ思(おも)つた筈(はづ)はないのであるが前(まへ)にも申述(もをしの)ぶる如(ごと)く之(これ)には種々(しゆ〳〵)の関係(くわんけい)があつたので
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千二百八号附録 (大正元年十一月五日発行)
【本文】
止(やむ)を得(え)ず遂(つひ)に此(この)問題(もんだい)に対(たい)しては是非共(ぜひとも)御止(おとゞ)め申(もを)さねばならぬと云(い)ふ境遇(けうぐう)にあつたものと確信(かくしん)さるゝの
であるソコで定信(さだのぶ)は先(ま)づ私信(ししん)を以(もつ)て其(その)意見(いけん)を関白(くわんぱく)鷹司輔平公(たかつかさすけひらこう)に申送(もをしおく)つたのであるが兎(と)に角(かく)其(その)時(とき)は之(これ)等(ら)
《割書:尊号事件再|燃》 の関係(くわんけい)で一 時(じ)御中止(ごちうし)の模様(もやう)と相成(あひな)つたのである然(しか)るにソレが寛政(かんせい)三年の二月に至(いた)つて復(ふたゝ)び持(も)ち上(あが)つた
ので翌(よく)四年の正月(せうぐわつ)には朝廷(てうてい)よりは遂(つひ)に群議(ぐんぎ)の写(うつし)に御内諭(ごないゆ)を添(そ)へられて公然(こうぜん)幕府(ばくふ)へ諮問(しもん)になつたのであ
るが前(ぜん)申上(もをしあげ)た如(ごと)き事情(じぜう)であるから幕府(ばくふ)に於(おい)ては早速(さつそく)奉答(ほうたう)は仕兼(しか)ねたので段々(だん〴〵)と遷延(せんえん)したが遂(つひ)に止(やむ)を得(え)
ず当初(たうしよ)の方針(はうしん)に従(したが)つて其(その)儀(ぎ)は然(しか)るべからずとの旨(むね)を御答(おこたへ)申上(もをしあ)ぐるに至(いた)つたのである此(こゝ)に於(おい)て事態(じたい)は頗(すこぶ)
事件の落着 る不穏(ふおん)なつたが朝廷(てうてい)の方(はう)に於(お)かせられて結局(けけつきよく)尊号(そんがう)の議(ぎ)は一 時(じ)御停止(ごていし)と云(い)ふ事(こと)に相成(あひな)つたので茲(こゝ)に幕(ばく)
府(ふ)の意見(いけん)が通(とほ)つた訳(わけ)になつて事(こと)は落着(らくちやく)したのである然(しか)るに此(この)事(こと)の未(いま)だ終局(しうきよく)を告(つ)げさる以前(いぜん)に幕府(ばくふ)の方(はう)
から京都(けうと)の方(はう)へ向(む)けて尋(たづ)ねたい事(こと)があるから伝奏(でんそう)議奏(ぎそう)の人々(ひと〴〵)に江戸(えど)に下(くだ)らるゝようにと云(い)ふ事(こと)を申送(もをしおく)
つたのである之(これ)に就(つい)ては少(すくな)からず宸襟(しんきん)をも脳(なや)まさせ給(たま)つたと伝(つた)へられて居(お)るが翌年(よくねん)の二月 遂(つひ)に京都(けうと)か
《割書:中山正親町|二卿の東下》 ら中山愛親(なかやまなるちか)正親町公明(おほぎまちきみあき)の両卿(れうけう)が東下(とうか)する事(こと)と成(な)つたのであるソコで此(この)両卿(れうけう)は江戸(えど)に着(ちやく)してから或(あるひ)は定(さだ)
信(のぶ)の役宅(やくたく)に於(おい)て又(また)は柳営(りうえい)に於(おい)て幕府(ばくふ)の要職(えうしよく)と数回(すうくわい)の対問(たいもん)かあつて互(たがひ)に此(この)尊号事件(そんがうじけん)に就(つい)て論難(ろんなん)したので
信明の弁論 あるが此(この)時(とき)信明(のぶあき)は恰(あたか)も三十一 歳(さい)で老中(らうちう)の末座(まつざ)に列(つらな)つたのであるトコロが此(この)対問中(たいもんちう)定信(さだのぶ)は中山愛親卿(なかやまなるちかけう)の
為(ため)に論詰(ろんきつ)せられ答弁(たふべん)に窮(きう)した場合(ばあひ)があつたので信明(のぶあき)は末座(まつせき)より進(すゝ)み出(い)でゝ之(これ)に応答(おうたう)する処(ところ)があつたが
理義明白(りぎめいはく)で聴(き)く者(もの)感服(かんぷく)せざるはなかつたとの事(こと)が嵩岳公言行録(すをかくこうげんこうろく)などの中(なか)に記(しる)されて居(お)るのである
トコロが此(この)尊号事件(そんがうじけん)の最中(さいちう)寛政(かんせい)四年に京都所司代(けうとしよしだい)に交迭(かうてつ)があつて太田備中守(おほたびつちうのかみ)の替(かは)りに堀田相模守(ほつたさがみのかみ)が大(おほ)
坂城代(さかじようだい)から転(てん)じて此(この)京都(けうと)の所司代(しよしだい)と成(な)つたのである然(しか)るに京都所司代(けうとしよしだい)に更迭(かうてつ)のあつた時(とき)は必(かなら)ず其(その)事務(じむ)
信明の上京 引継(ひきつぎ)には江戸(えど)から老中(らうちう)が出張(しゆつてう)したのであるが此(この)時(とき)は信明(のぶあき)が其(その)職務(しよくむ)を帯(お)びて上京(ぜうけう)する事(こと)になつたのであ
【欄外】
豊橋市史談 (尊号事件と信明) 三百廿一
現代語訳
【欄外】
豊橋市史談(尊号事件と信明) 三百二十
【本文】
九年に至って寛政と改元され、程なく起こった一問題が諸君もご承知のあの有名な尊号事件というのである。
さてこの尊号事件というのは申すも畏れ多いことであるが、時の聖天子光格天皇は閑院宮典仁親王の御子で入って大統を継がれたのであるから、早くから御父君を尊んで太上天皇の号を奉ろうとの叡慮がおありになったのである。そこで寛政元年の八月、まず幕府の意見を御諮問になろうということで、伝奏万里小路政房、同久我信通の二卿をもって時の京都所司代太田備中守資愛に向けてその旨を伝えさせられたのがその起こりである。けだし聖天子におかせられては早くからこの思し召しがおありになったのであるから、天明の末年既に中山愛親卿に命ぜられてその先例を考えさせ給うたのであるが、いよいよ今度表向きに所司代まで右の趣を御申し達しになった次第である。そこで太田備中守は直ちにその趣を幕府へ申し送ったのであるが、幕府においては第一に定信が固く執ってこの事を不可としたのである。もっともその原因については種々の説もあるのでその真相は今容易に断定すべきではあるまいが、とにかく定信が理由とするところはこうであったのである。元来万乗の御位は絶対に尊いものであるから、未だその位を践まずしてその名のみを奉るということは誠に理のないことで、仮令故事先例があるにしてもこれは必ず倣わねばならぬというものではない。時世の如何と道理の善悪とを詮索して取捨すべきである。従って何卒その思し召しだけは御無用になさるように願いたい。若し御孝心より御実父を御敬いになりたい御思し召しであるならば、相当に御領でも御増進に相成ったならば如何であろうということにあったのである。全体定信という人は前にも申し述べたごとく実に人格の高いかつ聡明で学問もあり、その上皇室に対してもしばしば勤王の行いが現れていた位の人であるから、今回の事も決して聖旨に対し奉ってこれを御抑え申さんとのみ思った筈はないのであるが、前にも申し述べるごとくこれには種々の関係があったので
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千二百八号附録(大正元年十一月五日発行)
【本文】
止むを得ず遂にこの問題に対しては是非とも御止め申さねばならぬという境遇にあったものと確信されるのである。そこで定信はまず私信をもってその意見を関白鷹司輔平公に申し送ったのであるが、とにかくその時はこれ等の関係で一時御中止の模様と相成ったのである。然るにそれが寛政三年の二月に至って再び持ち上がったので、翌四年の正月には朝廷よりは遂に群議の写しに御内諭を添えられて公然幕府へ諮問になったのであるが、前申し上げたような事情であるから幕府においては早速奉答は仕兼ねたので段々と遷延したが、遂に止むを得ず当初の方針に従ってその儀はしかるべからずとの旨を御答え申し上げるに至ったのである。ここにおいて事態はすこぶる不穏となったが、朝廷の方におかせられて結局尊号の議は一時御停止ということに相成ったのでここに幕府の意見が通った訳になって事は落着したのである。然るにこの事の未だ終局を告げさる以前に幕府の方から京都の方へ向けて尋ねたい事があるから伝奏議奏の人々に江戸に下らるるようにということを申し送ったのである。これについては少なからず宸襟をも悩ませ給うたと伝えられているが、翌年の二月遂に京都から中山愛親・正親町公明の両卿が東下することと成ったのである。そこでこの両卿は江戸に着してから或いは定信の役宅において又は柳営において幕府の要職と数回の対問があって互いにこの尊号事件について論難したのであるが、この時信明は恰も三十一歳で老中の末座に列したのである。ところがこの対問中定信は中山愛親卿のために論詰せられ答弁に窮した場合があったので、信明は末座より進み出でてこれに応答するところがあったが、理義明白で聴く者感服せざるはなかったとのことが嵩岳公言行録などの中に記されているのである。
ところがこの尊号事件の最中寛政四年に京都所司代に交替があって太田備中守の替りに堀田相模守が大坂城代から転じてこの京都の所司代と成ったのである。然るに京都所司代に更迭のあった時は必ずその事務引継には江戸から老中が出張したのであるが、この時は信明がその職務を帯びて上京することになったのであ
【欄外】
豊橋市史談(尊号事件と信明) 三百二十一
英語訳
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (The Imperial Title Incident and Nobuaki) 320
**Main Text:**
In the 9th year, the era name was changed to Kansei, and shortly thereafter arose the famous Imperial Title Incident that you are all familiar with.
Now, this Imperial Title Incident - and it is presumptuous to speak of such matters - involved the then Sacred Emperor Kōkaku, who was the son of Prince Sukehito of the Kan'in Imperial family and had ascended to the throne. Having long wished to honor his father by bestowing upon him the title of Retired Emperor (Daijō Tennō), in the 8th month of Kansei 1 (1789), he first sought to consult the shogunate's opinion. He had the two court nobles Madenokōji Masafusa and Kuga Nobumichi, both serving as court-shogunate liaisons (densō), convey this intention to the Kyoto deputy (shoshidai) Ōta Bitchū-no-kami Sukechika. Indeed, His Majesty had harbored this intention for some time, as evidenced by his having commanded Nakayama Naruchika in the final years of Tenmei to research precedents. Now he had formally communicated this matter to the shogunate through the deputy. Ōta Bitchū-no-kami immediately reported this to the shogunate, but Sadanobu was the first to firmly oppose this matter. While there are various theories about his motivations, and the true reasons cannot easily be determined today, Sadanobu's stated reasoning was as follows: The imperial throne is absolutely sacred, and to bestow the title without having actually occupied the position lacks proper justification. Even if there were historical precedents, they need not necessarily be followed - one should examine the circumstances of the times and the propriety of the matter before deciding. Therefore, he wished the emperor would abandon this intention. If it was from filial piety that he wished to honor his real father, perhaps increasing the father's domain holdings would be more appropriate. Generally speaking, Sadanobu was, as I mentioned before, a person of high character, intelligence, and learning, who had frequently demonstrated loyalty to the imperial house. So this incident was surely not motivated by simple desire to suppress imperial wishes, but as mentioned before, various circumstances...
**Margin:**
Publisher and Printing Office: San'yō Printing Partnership Company, 48 Kōya-chō, Toyohashi City. Editor: Nakanishi Kenzō. Publisher and Printer: Kuno [□]kichi
**Left Page:**
**Margin:**
San'yō Newspaper No. 4208 Supplement (Published November 5, Taishō 1 [1912])
**Main Text:**
...compelled him to take the position that this matter must absolutely be stopped. Sadanobu first sent his views privately to Chancellor Takatsukasa Sukehira, and due to these circumstances, the matter was temporarily suspended. However, it was revived in the 2nd month of Kansei 3, and by the 1st month of the following 4th year, the court formally consulted the shogunate, adding private instructions to copies of court deliberations. Given the aforementioned circumstances, the shogunate could not respond immediately and delayed considerably, but finally felt compelled to reply according to their original policy that such a matter was inappropriate. This made the situation quite tense, but the court ultimately decided to temporarily suspend the title discussion, so the shogunate's position prevailed and the matter was settled. However, before this affair completely concluded, the shogunate requested that court-shogunate liaison officials come down to Edo for consultation. This reportedly caused considerable distress to His Majesty, but in the 2nd month of the following year, court nobles Nakayama Naruchika and Ōgimai Kimiaki finally came east. These two nobles, after arriving in Edo, had several discussions with shogunate officials both at Sadanobu's official residence and at the shogun's castle, debating this Imperial Title Incident. At this time, Nobuaki was exactly 31 years old and ranked at the bottom of the senior councilors. During these discussions, when Sadanobu was pressed in argument by Nakayama Naruchika and found himself unable to respond adequately, Nobuaki stepped forward from his junior position to respond. His reasoning was so clear and logical that all listeners were impressed, as recorded in works such as the "Records of Lord Sūgaku's Words and Deeds."
During this Imperial Title Incident, in Kansei 4 there was a change in the Kyoto deputy position - Horita Sagami-no-kami was transferred from Osaka castle keeper to replace Ōta Bitchū-no-kami as Kyoto deputy. When there was a change in the Kyoto deputy position, a senior councilor would always travel from Edo to handle the transition of duties, and this time Nobuaki was assigned this responsibility and traveled to Kyoto...
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (The Imperial Title Incident and Nobuaki) 321