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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 176

ページ: 176

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【欄外】    豊橋市史談 (信明老中を辞す)                    三百廿四 【本文】       て坐(おは)せば政事万端(せじばんたん)の事(こと)を直裁(じきさい)ありて上皇室(かみくわうしつ)の藩屏(はんべう)となり給(たま)ふべし加之(しなのみならず)定信(さだのぶ)生来(せうらい)の病体(びやうたい)は此上(このうへ)劇務(げきむ)に        服(ふく)するを許(ゆる)し候(そうら)はず此(この)故(ゆゑ)に之迄(これまで)しば〳〵辞職(じしよく)を申請(もをしこ)ひ候(そうら)ひしが何時(いつ)も優渥(ゆうあく)なる台命(たいめい)ありて許(ゆる)されず内(ない)        願(ぐわん)四 度(たび)に及(およ)び今度(このたび)こそは遂(つひ)に職(しよく)を解(と)かれ候(そうら)ひしなれ」と云(い)ふのにあるが如何(いか)にも定信(さだのぶ)の心事(しんじ)は此処(こゝ)に       あつたものと思(おも)はれる特(とく)に定信(さだのぶ)と云(い)ふ人(ひと)は前(まへ)にも申述(もをしの)べた如(ごと)く勤王(きんわう)の志(こゝろざし)に厚(あつ)かつた人(ひと)で其(その)意中(いちう)は色(いろ)        色(いろ)の事柄(ことがら)の上(うへ)にもチラ〳〵と見(み)ゆるのであるが既(すで)に徳川氏(とくがはし)が天下(てんか)の大権(だんけん)を握(にぎ)つて居(お)る以上(いぜう)は恐(おそ)れ多(おほ)い        事(こと)ではあるが時(とき)と場合(ばあひ)とによつては朝庭(てうてい)【朝廷の誤り】をも抑(おさ)へ奉(たてまつ)らねばならぬ事(こと)があるそれでなくては徳川氏(とくがはし)の天(てん)        下(か)は持(も)てぬ場合(ばあひ)になるので此(この)事(こと)は深(ふか)く定信(さだのぶ)の心(こゝろ)を痛(いた)ましめた処(ところ)でなくてはならぬが特(とく)に今度(このたび)の尊号事(そんがうじ)        件(けん)に対(たい)しては其(その)感慨(かんがい)を深(ふか)からしめたのではなかろうかと信(しん)ずるのである嵩岳君言行録(すがくくんげんこうろく)の中(なか)に定信(さだのぶ)退職(たいしよく)       の前夜(ぜんや)太田備中守資愛(おほたびちうのかみすけなる)から信明(のぶあき)に宛(あ)て大封(たいほう)の密書(みつしよ)が来(き)た然(しか)るに此(この)書翰(しよかん)は備中守(びちうのかみ)が誤(あやま)つて水中(すゐちう)に落(おと)して        濡(ぬ)れて居(お)つたが何分(なにぶん)火急(くわきう)の用事(ようじ)であるから其(その)儘(まゝ)で届(とど)けるとの事(こと)であつたが此(この)書翰(しよかん)は何(な)にか京都表(けうとおもて)から        申来(もをしきた)つたに因(よ)つての事(こと)と思(おも)はれた然(しか)るに其(その)翌日(よくじつ)定信(さだのぶ)は退職(たいしよく)する事(こと)になつたとしてあるが此(この)太田備中守(おほたびちうのかみ)       と云(い)ふ人(ひと)は寛政(かんせい)四年八月まで京都所司代(けうとしよしだい)を勤(つと)め五年三月から老中(らうちう)の列(れつ)に加(くは)わつたのである             ⦿信明老中を辞す       サテ定信(さだのぶ)退職(たいしよく)は信明(のぶあき)が同列(どうれつ)の戸田采女正氏教(とだうねめのしやううぢのり)、 太田備中守資愛(おほたびちうのかみすけなる)、安藤対馬守信成(あんどうたじまのかみのぶなり)、 本多弾正大弼忠(ほんだだんじやうおほすけたゞ) 信明の退職  数(かず)などと共(とも)に天下(てんか)の政治(せいじ)に任(にん)じたのであるが越(こ)えて十年 享和(けうわ)三年の十二月廿二日に至(いた)つて信明(のぶあき)も亦(ま)た       其(その)職(しよく)を辞退(じたい)するに至(いた)つたのであるモツトモ此(この)信明(のぶあき)の辞退(じたい)に就(つい)ても表面(へうめん)は病気(びやうき)の為(ため)であると云(い)ふ事(こと)にな       つては居(お)るが其(その)実(じつ)は矢張(やはり)甚(はなは)だ疑問(ぎもん)である嵩岳言行録(すがくげんこうろく)には此(この)時(とき)の事情(じぜう)を記(しる)して「十一月廿四日 大久保山(おほくぼやま) 【欄外】        発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千二百十四号附録    (大正元年十一月十二日発行) 【本文】        城守忠喜(しろのかみたゞよし)の養母(やうば)が卒(そつ)せられたが此(この)人(ひと)は信明(のぶあき)嫡母(ちやくば)の叔母(おば)であるから忌服(きふく)せられたトコロが其(その)廿八日に除(ぢよ)        服(ふく)の御沙汰(ごさた)があつたから翌日(よくじつ)からは登城(とじよう)さるゝ筈(はづ)であるのに病気(びやうき)と称(せう)して出仕(しゆつし)されないのみならず十       二月の初(はじめ)に至(いた)つて重臣(ぢうしん)を召(め)し我(われ)此頃(このごろ)登城(とじよう)致(いた)さぬは将軍(せうぐん)の旨(むね)に忤(さから)ひし事(こと)がある故(ゆゑ)である併(しか)し思(おも)ふ仔細(しさい)が       あるから決(けつ)して心配(しんぱい)するではないぞと云(い)はれたが其(その)廿二日になつて同列(どうれつ)の牧野備前守忠精(まきのびぜんのかみたゞきよ)から手翰(しゆかん)を        以(もつ)て辞表(じへう)を提出(ていしゆつ)すべき旨(むね)を申送(まをしおく)つたので其(その)十九日に信明(のぶあき)は月番(つきばん)戸田采女正氏教(とだうねめのしよううじのり)の許(もと)まで病気(びやうき)に付(つき)退職(たいしよく)       の願書(ぐわんしよ)を出(だ)したのである」と記(しる)してある蓋(けだ)し信明(のぶあき)と云(い)ふ人(ひと)前(まへ)に屡々(しば〴〵)申述(もをしの)べた如(ごと)く頗(すこぶ)る敏才(びんさい)でかつ且(か)つ直(ちよく)        言(げん)を憚(はばか)らぬ気性(きせう)であつたが何処(どこ)迄(まで)も寛政(かんせい)に於(お)ける弊政革新(へいせいかくしん)の実(じつ)を挙(あ)げたいと云(い)ふ意気込(いきごみ)が盛(さかん)であつた 信明の極諫 ので其(その)極(きよく)将軍(せうぐん)の旨(むね)にも忤(さから)つた事(こと)があつたであろうと思(おも)ふ之(これ)はまだ信明(のぶあき)が側用人(そばようにん)時代(じだい)で二十六 歳(さい)頃(ごろ)の話(はなし)       であるが嘗(かつ)て将軍(せうぐん)の家斉(いへなり)が近習(きんしふ)の者(もの)をして小座敷(こざしき)の庭(には)に仮山(かりやま)を築(きづ)かしめ盆池(ぼんち)などを設(もを)けて得意(とくい)に之(これ)を信(のぶ)        明(あき)に見(み)せしめた事(こと)があるスルト信明(のぶあき)は賞(ほ)めるかと思(おも)ひの外(ほか)忽(たちま)ち襟(えり)を正(たゞ)して凡(およ)そ天下国家(てんかこくか)を治(おさ)むる程(ほど)の        御身(おんみ)は海内(かいない)の山岳滄海(さんがくさうかい)皆(みな)御庭(おには)も同様(どうやう)である吉野龍田(よしのたつだ)の花紅葉(はなもみぢ)を御庭(おには)の花(はな)とも思召(おぼしめさ)るゝ御心持(おこゝろもち)がほしい       然(しか)るに此(かく)の如(ごと)き琑細(ささい)の事(こと)を以(もつ)て御楽(おたのしみ)になさるゝのは誠(まこと)に以(もつ)て狭(せま)き事(こと)である近習(きんしふ)の人々(ひと〳〵)もかゝるツマラ       ない事(こと)で貴重(きぢう)の暇(ひま)を費(ついや)すと云(い)ふ事(こと)は余(あま)り御為(おため)にもなるまいと申上(もをしあ)げた此(この)時(とき)近習(きんしふ)の人々(ひと〴〵)は手(て)に汗(あせ)を握(にぎ)つ       たが将軍(せうぐん)家斉(いへなり)も余(あま)り面白(おもしろ)くは感(かん)じなかつた様子(やうす)であつた併(しか)し遂(つひ)には之(これ)を嘉納(かのう)したと云(い)ふ事(こと)であるかゝ      る有様(ありさま)であつたから将軍(せうぐん)に於(おい)ても時々(とき〴〵)気(き)に入(い)らぬ事(こと)を云(い)はれて信明(のぶあき)の挙動(きうどう)には不満(ふまん)の点(てん)もあつたであ       ろうが此処(こゝ)には尚(なほ)別(べつ)に研究(けんきう)すべき大切(たいせつ)の事柄(ことがら)が一つあると思(おも)ふそれは外(ほか)でもないが此(この)将軍(せうぐん)家斉(いへなり)と云(い)ふ 大御所問題  人(ひと)は前(まへ)にも申述(まをしの)べた如(ごと)く元(も)と一橋治済(ひとばしはるなり)の子(こ)で入(いつ)て前将軍(せんせうぐん)家治(いへはる)の後(あと)を襲(つ)いだのであるから夙(つと)に其(その)生父(せいぼ)治(はる)        済(なり)を尊(たつと)むで大御所(おほごしよ)とし西丸(にしまる)に迎(むか)へたいと云(い)ふ志(こゝろざし)があつたのであるソコで定信(さだのぶ)在職(ざいしよく)の当時(たうじ)信明(のぶあき)と両人(れうにん) 【欄外】    豊橋市史談 (信明老中を辞す)                    三百廿五

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(信明老中を辞す) 三百二十四 【本文】 ておられるので、政事万端の事を直接処理されて皇室の藩屏となられるべきです。加えて定信生来の病体は、この上激務に服することを許しません。この故にこれまでしばしば辞職を申請してきましたが、いつも優渥なる台命があって許されず、内願四度に及び、今度こそは遂に職を解かれました」ということにあるが、いかにも定信の心事はここにあったものと思われる。 特に定信という人は前にも申し述べたように勤王の志に厚かった人で、その意中は色々の事柄の上にもちらちらと見えるのであるが、既に徳川氏が天下の大権を握っている以上は恐れ多いことではあるが、時と場合によっては朝廷をも抑え奉らねばならないことがある。それでなくては徳川氏の天下は持てない場合になるので、この事は深く定信の心を痛ましめたところでなくてはならぬが、特に今度の尊号事件に対してはその感慨を深からしめたのではなかろうかと信ずるのである。 『嵩岳君言行録』の中に、定信退職の前夜、太田備中守資愛から信明に宛てて大封の密書が来た。然るにこの書翰は備中守が誤って水中に落として濡れていたが、何分火急の用事であるからその儘で届けるとのことであった。この書翰は何か京都表から申し来たによってのことと思われた。然るにその翌日定信は退職することになったとしてあるが、この太田備中守という人は寛政四年八月まで京都所司代を勤め、五年三月から老中の列に加わったのである。 信明老中を辞す さて定信退職後は、信明が同列の戸田采女正氏教、太田備中守資愛、安藤対馬守信成、本多弾正大弼忠数などと共に天下の政治に任じたのであるが、越えて十年、享和三年の十二月二十二日に至って信明もまたその職を辞退するに至ったのである。 もっともこの信明の辞退についても表面は病気のためであるということになってはいるが、その実は矢張り甚だ疑問である。『嵩岳言行録』にはこの時の事情を記して「十一月二十四日、大久保山 【欄外】 発行兼印刷所 豊橋市紺屋町四十八番戸 参陽印刷合資会社 編輯人 中西謙三 発行兼印刷人 久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千二百十四号附録(大正元年十一月十二日発行) 【本文】 城守忠喜の養母が卒せられたが、この人は信明嫡母の叔母であるから忌服せられた。ところがその二十八日に除服の御沙汰があったから翌日からは登城される筈であるのに、病気と称して出仕されないのみならず、十二月の初めに至って重臣を召し、『我このごろ登城致さぬは将軍の旨に忤いし事がある故である。併し思う仔細があるから決して心配するではないぞ』と言われた。その二十二日になって同列の牧野備前守忠精から手紙をもって辞表を提出すべき旨を申し送ったので、その十九日に信明は月番戸田采女正氏教のもとまで病気につき退職の願書を出したのである」と記してある。 けだし信明という人は前に屡々申し述べたように頗る敏才で、かつ直言を憚らない気性であったが、何処までも寛政における弊政革新の実を挙げたいという意気込みが盛んであったので、その極、将軍の旨にも忤った事があったであろうと思う。 信明の極諫 これはまだ信明が側用人時代で二十六歳頃の話であるが、嘗て将軍の家斉が近習の者をして小座敷の庭に仮山を築かしめ、盆池などを設けて得意にこれを信明に見せしめた事がある。すると信明は賞めるかと思いの外、忽ち襟を正して「凡そ天下国家を治める程の御身は、海内の山岳滄海皆御庭も同様である。吉野・龍田の花紅葉を御庭の花とも思し召される御心持がほしい。然るにかくの如き琑細の事をもって御楽しみになされるのは誠にもって狭き事である。近習の人々もかかるつまらない事で貴重の暇を費すということは余りお為にもなるまい」と申し上げた。この時近習の人々は手に汗を握ったが、将軍家斉も余り面白くは感じなかった様子であった。併し遂にはこれを嘉納したということである。 かかる有様であったから、将軍においても時々気に入らない事を言われて信明の挙動には不満の点もあったであろうが、ここには尚別に研究すべき大切の事柄が一つあると思う。それは外でもないが、この将軍家斉という人は前にも申し述べたように元と一橋治済の子で入って前将軍家治の後を襲いだのであるから、夙にその生父治済を尊んで大御所とし、西丸に迎えたいという志があったのである。そこで定信在職の当時、信明と両人 大御所問題 【欄外】 豊橋市史談(信明老中を辞す) 三百二十五

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Nobuaki's Resignation as Senior Councilor) 324 **Main Text:** and thus should directly handle all governmental affairs and serve as a bulwark for the Imperial House. Furthermore, Sadanobu's lifelong frail health does not permit him to continue serving in such demanding duties. For this reason, he had repeatedly submitted requests for resignation, but each time received gracious commands to remain, and only after four private petitions was he finally allowed to resign from office." This seems to truly reflect Sadanobu's inner feelings. Sadanobu was particularly, as I have mentioned before, a person deeply committed to imperial loyalty, and this sentiment can be glimpsed in various matters. However, since the Tokugawa already held supreme power over the realm, though it was presumptuous, there were times when the court had to be restrained. Without this, the Tokugawa rule could not be maintained, and this must have deeply pained Sadanobu's heart, particularly regarding the recent Imperial Title Incident, which I believe deepened his anguish. In the "Records of Lord Sugaku's Words and Deeds," it states that on the night before Sadanobu's retirement, a large sealed confidential letter came from Ōta Bitchū-no-kami Sukenari to Nobuaki. However, this letter had accidentally been dropped in water by Bitchū-no-kami and was wet, but since it was urgent business, it was delivered as is. This letter seemed to concern some matter reported from Kyoto. The next day, Sadanobu retired from office. This Ōta Bitchū-no-kami had served as Kyoto deputy until the 8th month of Kansei 4 and joined the senior council from the 3rd month of year 5. **Nobuaki's Resignation as Senior Councilor** After Sadanobu's retirement, Nobuaki administered national affairs together with his colleagues Toda Une-no-shō Ujinori, Ōta Bitchū-no-kami Sukenari, Andō Tsushima-no-kami Nobunari, and Honda Danjō-no-daisuke Tadakazu. Ten years later, on the 22nd day of the 12th month of Kyōwa 3, Nobuaki also came to resign from his position. Though Nobuaki's resignation was ostensibly due to illness, this is highly questionable. The "Sugaku Records" describes the circumstances: "On the 24th of the 11th month, the adoptive mother of Ōkubo Yamashiro-no-kami Tadayoshi died. Since this person was the aunt of Nobuaki's legitimate mother, he went into mourning. When the mourning period ended on the 28th, he should have resumed court attendance the next day, but claiming illness, he not only failed to attend but in early 12th month summoned his senior retainers and said: 'My recent absence from court is because I have opposed the shogun's wishes. However, I have my reasons, so do not worry.' On the 22nd, his colleague Makino Bizen-no-kami Tadakiyo sent word by letter that he should submit his resignation, so on the 19th, Nobuaki submitted his retirement petition due to illness to the monthly duty officer Toda Une-no-shō Ujinori." Indeed, Nobuaki was, as I have repeatedly mentioned, extremely talented and of a temperament that did not hesitate to speak frankly, with a strong determination to achieve real reform of corrupt government during the Kansei era, which ultimately led to his opposing the shogun's wishes. **Nobuaki's Extreme Remonstrance** This incident occurred when Nobuaki was still a chamberlain, around age 26. Once, Shogun Ienari had his attendants build an artificial hill in a small room's garden, complete with miniature ponds, and proudly showed this to Nobuaki. Rather than praising it as expected, Nobuaki immediately straightened his posture and said: "One who governs the realm should consider all mountains, peaks, and seas within the nation as his garden. You should have the mindset to regard the cherry blossoms and autumn leaves of Yoshino and Tatsuta as flowers in your garden. To take pleasure in such trivial matters is truly narrow-minded. For the attendants to spend precious time on such worthless activities is hardly beneficial to you." At this, the attendants broke into nervous sweats, and Shogun Ienari also seemed displeased. However, he eventually accepted this counsel. Given such incidents, the shogun occasionally found Nobuaki's remarks disagreeable and may have been dissatisfied with his behavior. However, there is another important matter that requires investigation here. This Shogun Ienari was, as previously mentioned, originally the son of Hitotsubashi Harunari who was adopted to succeed the former shogun Ieharu, and he had long wished to honor his biological father Harunari as Ōgosho (retired shogun) and welcome him to the Western Citadel. During Sadanobu's tenure, both Nobuaki and he... **The Ōgosho Problem** **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Nobuaki's Resignation as Senior Councilor) 325