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【欄外】
豊橋市史談 (信明老中を辞す) 三百廿六
【本文】
を召(め)して此(この)事(こと)を諮(はか)つたが両人(れうにん)は之(これ)を不可(ふか)としたのである其(その)翌日(よくじつ)将軍(せうぐん)は更(さら)に定信(さだのぶ)一 人(にん)を呼(よ)むで再度(さいど)此(この)事(こと)
を熟談(じゆくだん)したが定信(さだのぶ)は矢張(やはり)固(かた)く執(と)つて之(これ)を不可(ふか)とし語気(ごき)漸(やうや)く激烈(げきれつ)となつたので将軍(せうぐん)も遂(つひ)に色(いろ)を変(へん)じて側(そば)
にあつた刀(かたな)に手(て)を掛(か)けた此(この)時(とき)御側衆(おそばしう)の平岡頼長(ひらをかよりなが)と云(い)ふ人(ひと)が傍(かたはら)に居(ゐ)たが気転(きてん)のきいた人(ひと)であつたから
其(その)仔細(しさい)を知(し)らざる真似(まね)をして定信(さだのぶ)に向(むか)ひ越中守殿(えつちうのかみどの)御佩刀(ごはいとう)を賜(たま)はるから早(はや)く御受(おう)けし給(たま)へと云(い)つたので
将軍(せうぐん)も止(やむ)を得(え)ず執(と)つた刀(かたな)を投出(なげだ)して内(うち)に入(い)られたとの事(こと)であるが其(その)後(のち)年(とし)を経(へ)て将軍(せうぐん)は又(ま)た此(この)大御所(おほごしよ)問(もん)
題(だい)を青山下野守忠裕(あをやましもつけのかみたゞひろ)にも諮(はか)つた事(こと)があるが之(これ)も不可(ふか)を唱(とな)へた此(かく)の如(ごと)き事(こと)があつて此(この)件(けん)丈(だけ)はドウしても
実行(じつかう)されては種々(しゆ〴〵)の差障(さしさは)りを生(せう)ずる幕府(ばくふ)の重大事件(ぢうだいじけん)であると云(い)ふので定信(さだのぶ)は結局(けつきよく)此(この)問題(もんだい)との対照上(たいせうぜう)止(やむ)
を得(え)ず彼(か)の尊号事件(そんがうじけん)をも御拒(おこば)み申上(まをしあ)げねばならぬ事情(じぜう)になつたのであるとの説(せつ)がある兎(と)に角(かく)之(これ)は当時(たうじ)
に於(お)ける余程(よほど)の難問題(なんもんだい)で閣老(かくらう)の間(あひだ)には苦心(くしん)されたものである
久田縫殿頭 元来(がんらい)此(この)一橋治済(ひとつばしはるなり)には久田縫殿頭(ひさだぬひどののかみ)長考と云(い)ふ家老(かろう)があつて治済(はるなり)の寵(てう)を専(ほしいまゝ)にして居(を)つたが之(これ)が中々(なか〳〵)の野(や)
心家(しんか)で之(これ)には大分(だいぶん)其(その)徒党(ととう)もあるそソコで定信(さだのぶ)等(ら)の意見(いけん)では治済(はるなり)の大御所(おほごしよ)の号(がう)を上(あ)ぐれば随(したがつ)て此(この)久田(ひさだ)は
益々(ます〳〵)権威(けんゐ)を弄(ろう)する様(やう)になるかくては折角(せつかく)田沼(たぬま)を斥(しりぞ)けて多年(たねん)の積弊(せきへい)を改革(かいかく)しようと云(い)ふ事(こと)も茲(こゝ)に第(だい)二の
田沼(たぬま)が出来(でき)て其(その)仕事(しごと)は遂(つひ)に水泡(すゐはう)に皈(き)し再(ふたゝ)び弊害(へいがい)を助長(じよてう)するのは当然(たうぜん)であると云(い)ふのにあつた事(こと)と信(しん)ぜ
られる夫(それ)故(ゆゑ)にイヨ〳〵定信(さだのぶ)が退職(たいしよく)の後(のち)の事(こと)であるが信明(のぶあき)の謀議(ぼうぎ)で先(ま)づ此(この)久田(ひさだ)を治済(はるなり)の膝元(ひざもと)から離(はな)すの
が一 策(さく)であると云(い)ふ処(ところ)から之(これ)を大目付役(おほめつけやく)に転任(てんにん)せしめたのである特(とく)に信明(のぶあき)が辞職(じしよく)の前(まへ)であるが二の丸(まる)
が造営(ざうえい)せられて将軍(せうぐん)は治済(はるなり)を之(これ)に移(うつ)さむとする下心(したごゝろ)であつたが信明(のぶあき)はドウしても之(これ)を御受(おうけ)致(いた)さなかつ
たのである其(その)時(とき)の落首(らくしゆ)に
二の丸へ渡しかけたる一つ橋
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
踏みはづしたらなんと将軍
と云(い)ふのが出来(でき)たと云(い)ふ事(こと)であるが先(ま)づ大要(たいえう)は右(みぎ)の如(ごと)き事情(じぜう)から信明(のぶあき)は老職(らうしよく)を辞(じ)するに至(いた)つたものと
《割書:久田等の専|横》 信(しん)ぜられる果(はた)して信明(のぶあき)辞職(じしよく)後(ご)は久田(ひさだ)長考が若年寄(わかとしより)の立花出雲守種周(たちばないづものかみたねのり)と謀(はか)り合(あは)せて私望(しぼう)を遂(とげ)むとし信明(のぶあき)
辞職(じしよく)の享和(けうわ)三年を去(さ)る僅(わづか)に三年 遂(つひ)に其(その)不埒(ふらち)が露顕(ろけん)して遉(さすが)の将軍(せうぐん)も愛想(あひさう)をつかし文化(ぶんくわ)三年十二月十九日
を以(もつ)て孰(いづ)れも免官(めんくわん)となり蟄居(ちつきよ)を申付(まをしつ)けらるゝに至(いた)つたのであるが其(その)事(こと)のあつた翌(よく)四年の五月には信明(のぶあき)
は再(ふたゝ)び召(め)されて老中(らうちう)の職(しよく)に就(つ)き特(とく)に其(その)上座(ぜうざ)を命(めい)ぜられて幕政(ばくせい)を握(にぎ)るに至(いた)つた処(ところ)から見(み)ても益々(ます〳〵)其(その)間(あひだ)の
《割書:林述斉と信|明》 消息(せうそく)が判(わか)る事(こと)と思(おも)ふのであるモツトモ信明(のぶあき)辞職(じしよく)の当時(たうじ)は人(ひと)の意外(いぐわい)とした事(こと)で志(こゝろざし)あるものは最(もつと)も之(これ)を
惜(おし)むだのである彼(か)の林大学頭(はやしだいがくのかみ)述斉が其(その)当時(たうじ)信明(のぶあき)に贈(おく)つた書翰(しよかん)は今(いま)も大河内家(おほかうちけ)に残(のこ)つて居(を)るので甚(はなは)だ
価値(かち)のあるものであると思(おも)ふ
元来(がんらい)此(この)林述斉(はやしじつさい)と云(い)ふ人(ひと)は美濃国(みのゝくに)岩村(いはむら)の城主(じようしゆ)松平能登守(まつだひらのとのかみ)乗蘊(大給松平(だいきふまつだひら)の支族(しぞく))の次男(じなん)で名(な)を衡(こう)幼名(えうめい)を熊(くま)
蔵(ざう)と云(い)つたが寛政(かんせい)五年四月五日 林大学頭(はやしだいがくのかみ)信敬 病没(びやうぼつ)せるも嗣(よつぎ)なきの故(ゆゑ)を以(もつ)て将軍(せうぐん)の特旨(とくし)により其(その)後(あと)
を襲(つ)いたのである併(しか)し実(じつ)は定信(さだのぶ)等(ら)の推薦(すゐせん)によつたものであるとの事(こと)であるが此(この)人(ひと)は性質(せいしつ)快豁(くわいかつ)で胆気(たんき)あ
り能(よ)く人(ひと)の意表(いへう)に出(い)でゝ直言家(ちよくげんか)であつた且(か)つ実(じつ)に誠意(せいい)があつて学問(がくもん)に於(おい)ても頗(すこぶ)る勝(すぐ)れて居(を)つたのであ
る信明(のぶあき)とは恰(あたか)も四 歳(さい)違(ちが)ひで信明(のぶあき)の方(はう)が年長(ねんてう)であつたが信明(のぶあき)辞職(じしよく)の時(とき)に送(おく)つた書翰(しよかん)の大要(たいえう)と云(い)ふのは大(たい)
要(えう)左(さ)の如(ごと)くである
述斉の書翰 「今般(こんぱん)御病気(ごびやうき)に付(つき)御免職(ごめんしよく)なされ扨々(さて〳〵)不慮(ふりよ)の義(ぎ)である此(この)節(せつ)朝野(てうや)は賢愚(けんぐ)の別(べつ)なく嘆惜痛腕(たんせきつうゑん)のみであるが之(これ)
は畢竟(ひつけう)平日(へいじつ)正大明白(せいだいめいはく)の御心事(ごしんじ)を世上(せぜう)一 統(とう)が信(しん)じて居(を)るからである即(すなはち)御辞職(ごじしよく)の事(こと)は閣下(かくか)御(ご)一 人(にん)に取(と)りて
は御本望(ごほんもう)であろうが国家(こくか)の為(ため)には誠(まこと)に以(もつ)て然(しか)るべからざる義(ぎ)と概嘆(がいたん)する外(ほか)はない近来(きんらい)追々(おひ〳〵)世風(せふう)が陵遅(れうち)
【欄外】
豊橋市史談 (信明老中を辞す) 三百廿七
現代語訳
【欄外】
豊橋市史談(信明老中を辞す) 三百二十六
【本文】
を召して此の事を相談したが、両人はこれを不可としたのである。その翌日将軍は更に定信一人を呼んで再度この事を詳しく話し合ったが、定信は矢張り固く執ってこれを不可とし、語気漸く激烈となったので将軍も遂に色を変じて側にあった刀に手を掛けた。この時御側衆の平岡頼長という人が傍に居たが、気転のきいた人であったから、その事情を知らざる振りをして定信に向かい「越中守殿、御佩刀を賜わるから早くお受けし給え」と言ったので、将軍も止むを得ず執った刀を投げ出して内に入られたとのことであるが、その後年を経て将軍はまたこの大御所問題を青山下野守忠裕にも相談した事があるが、これも不可を唱えた。
このような事があってこの件だけはどうしても実行されては種々の差し障りを生ずる幕府の重大事件であるということで、定信は結局この問題との対照上、止むを得ず彼の尊号事件をもお断り申し上げねばならない事情になったのであるとの説がある。とにかくこれは当時における余程の難問題で、閣老の間には苦心されたものである。
**久田縫殿頭**
元来この一橋治済には久田縫殿頭長考という家老があって治済の寵を専らにしていたが、これが中々の野心家で、これには大分その徒党もある。そこで定信等の意見では治済の大御所の号を上げれば随ってこの久田は益々権威を弄する様になる。かくては折角田沼を斥けて多年の積弊を改革しようということも、ここに第二の田沼が出来てその仕事は遂に水泡に帰し、再び弊害を助長するのは当然であるということにあった事と信ぜられる。
それ故にいよいよ定信が退職の後の事であるが、信明の謀議で先ずこの久田を治済の膝元から離すのが一策であるというところから、これを大目付役に転任せしめたのである。特に信明が辞職の前であるが、二の丸が造営されて将軍は治済をこれに移さんとする下心であったが、信明はどうしてもこれをお受け致さなかったのである。その時の落首に
二の丸へ渡しかけたる一つ橋
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる知識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
【左頁】
【欄外】
この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
踏み外したらなんと将軍
という句が出来たということであるが、先ず大要は右のような事情から信明は老職を辞するに至ったものと信ぜられる。
**久田等の専横**
果たして信明辞職後は久田長考が若年寄の立花出雲守種周と謀り合せて私望を遂げんとし、信明辞職の享和三年を去ること僅かに三年、遂にその不埒が露顕して流石の将軍も愛想をつかし、文化三年十二月十九日をもっていずれも免官となり蟄居を申し付けられるに至ったのであるが、その事のあった翌四年の五月には信明は再び召されて老中の職に就き、特にその上座を命ぜられて幕政を握るに至ったところから見ても、益々その間の消息が分かることと思うのである。
**林述斎と信明**
もっとも信明辞職の当時は人の意外とした事で、志あるものは最もこれを惜しんだのである。彼の林大学頭述斎がその当時信明に贈った書翰は今も大河内家に残っているので、甚だ価値のあるものであると思う。
元来この林述斎という人は美濃国岩村の城主松平能登守乗蘊(大給松平の支族)の次男で、名を衡、幼名を熊蔵と言ったが、寛政五年四月五日、林大学頭信敬病没せるも嗣なきの故をもって将軍の特旨によりその後を襲いだのである。しかし実は定信等の推薦によったものであるとのことであるが、この人は性質快活で胆気があり、能く人の意表に出でて直言家であった。かつ実に誠意があって学問においても頗る優れていたのである。
信明とは恰も四歳違いで信明の方が年長であったが、信明辞職の時に送った書翰の大要というのは大要左のごとくである。
**述斎の書翰**
「今般ご病気につきご免職なされ、さてさて不慮の義である。この節朝野は賢愚の別なく嘆惜痛腕のみであるが、これは畢竟平日正大明白のご心事を世上一統が信じているからである。すなわちご辞職の事は閣下ご一人に取りてはご本望であろうが、国家のためには誠にもって然るべからざる義と慨嘆する外はない。近来追々世風が陵遅
【欄外】
豊橋市史談(信明老中を辞す) 三百二十七
英語訳
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (Nobuaki's Resignation as Senior Councilor) 326
**Main Text:**
summoned both of them to consult on this matter, but both opposed it. The following day, the shogun again called Sadanobu alone to discuss this matter thoroughly a second time, but Sadanobu still firmly maintained his opposition, and as his tone gradually became more vehement, the shogun finally changed color and reached for the sword at his side. At this time, a member of the inner circle named Hiraoka Yorinaga was nearby, and being quick-witted, he pretended not to understand the situation and said to Sadanobu, "Etchū-no-kami-dono, you are being granted a sword, so please accept it quickly." The shogun had no choice but to throw down the sword he had grasped and retire to his inner chambers. Years later, the shogun also consulted Aoyama Shimotsuke-no-kami Tadahiro on this Ōgosho problem, but he too opposed it.
Given such incidents, this matter alone would create various complications if implemented, making it a serious governmental issue. There is a theory that Sadanobu ultimately had to refuse the Imperial Title Incident as well, given the contrast with this problem. In any case, this was quite a difficult problem at the time, causing much concern among the senior councilors.
**Hisada Nuinosuke**
Originally, this Hitotsubashi Harunari had a chief retainer named Hisada Nuinosuke Nagakō who monopolized Harunari's favor. This man was quite ambitious and had considerable followers. Therefore, in the opinion of Sadanobu and others, if Harunari were granted the title of Ōgosho, this Hisada would naturally wield even greater authority. In this way, the efforts to dismiss Tanuma and reform the accumulated abuses of many years would come to naught with the creation of a second Tanuma, and the work would ultimately dissolve into bubbles, inevitably promoting corruption again.
Therefore, after Sadanobu's retirement, through Nobuaki's planning, the first strategy was to separate this Hisada from Harunari's immediate vicinity, so he was transferred to the position of chief inspector. Particularly before Nobuaki's resignation, the Ni-no-maru (Western Citadel) was being constructed, and the shogun intended to move Harunari there, but Nobuaki absolutely refused to accept this. A satirical verse of the time went:
*A bridge halfway extended to Ni-no-maru*
**Margin:**
Toyohashi Mayor Ōguchi Kiroku has devoted his vast knowledge and inexhaustible energy to compiling the history of Toyohashi City for over a year, and now as the manuscript is nearly complete...
**Left Page:**
**Margin:**
This Toyohashi City Historical Discourse is published once weekly (Tuesdays) and presented to readers of the Sanyo Newspaper
**Main Text:**
*What would happen to the shogun if he mistepped?*
It is believed that these were roughly the circumstances that led to Nobuaki's resignation from senior office.
**The Arbitrary Rule of Hisada and Others**
Indeed, after Nobuaki's resignation, Hisada Nagakō conspired with junior councilor Tachibana Izumo-no-kami Tanenori to achieve their private ambitions. Only three years after Nobuaki's resignation in Kyōwa 3, their misconduct was finally exposed, and even the tolerant shogun lost patience. On the 19th day of the 12th month of Bunka 3, both were dismissed from office and ordered into house arrest. However, in the 5th month of the following year 4, Nobuaki was summoned again to assume the position of senior councilor, and was particularly commanded to take the highest seat and control government affairs. This clearly shows the circumstances of that period.
**Hayashi Jussai and Nobuaki**
Nobuaki's resignation was certainly unexpected at the time, and those with aspirations deeply regretted it. The letter that the scholar Hayashi Daigaku-no-kami Jussai sent to Nobuaki at that time still remains in the Ōkōchi family and is considered quite valuable.
Originally, this Hayashi Jussai was the second son of Matsudaira Noto-no-kami Norikazu, lord of Iwamura Castle in Mino Province (a branch of the Ōkyū Matsudaira family). His given name was Kō and his childhood name was Kumazō. When Hayashi Daigaku-no-kami Nobuyoshi died of illness on the 5th day of the 4th month of Kansei 5 without an heir, Jussai succeeded him by special decree of the shogun. However, this was actually due to the recommendation of Sadanobu and others. This person had a cheerful and bold nature, could often surprise people with unexpected actions, and was known for frank speech. He also had genuine sincerity and was quite outstanding in scholarship.
There was exactly a four-year age difference with Nobuaki, with Nobuaki being the elder. The gist of the letter he sent when Nobuaki resigned was roughly as follows:
**Jussai's Letter**
"Your dismissal due to illness this time is truly an unexpected matter. At this time, both court and country, regardless of wise or foolish, feel only grief and regret, but this is ultimately because all society trusts in your normally upright and clear intentions. While your resignation may fulfill your personal wishes, for the nation it is truly an unacceptable matter that can only be lamented. Recently the customs of the world have gradually been declining..."
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (Nobuaki's Resignation as Senior Councilor) 327