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【欄外】
豊橋市史談 (信明老中を辞す) 三百廿八
【本文】
の姿(すがた)に傾(かたむ)いて来(き)たが国(くに)の柱石(ちうせき)とも仰(あふ)ぎ万人倚頼(ばんにんいらい)の望(のぞみ)あるを以(もつ)て一 日(にち)々々と持耐(もちこた)へて来(き)たので一 且(たん)意外(いぐわい)
の変事(へんじ)が出来(でき)た場合(ばあひ)には易(えき)に所謂(いはゆる)霜(しも)を踏(ふ)むで堅氷(けんぴよう)至(いた)るで何処(どこ)迄(まで)行(ゆ)くか分(わか)らぬ之(これ)よりは君子(くんし)道消(みちき)え小人(せうにん)
道(みち)長(ちよう)ずるの地(ち)へ進(すゝ)むのは是非(ぜひ)ない事(こと)である実(じつ)に天災地妖(てんさいちよう)よりは人事(じんじ)の変程(へんほど)恐(おそ)るべきものはない此(この)上(うへ)何(な)
にか大変事(たいへんじ)は出来(でき)は仕(し)まいかと志(こゝろざし)あるものは心中(しんちう)に覚悟(かくご)を極(きは)むるの外(ほか)はないのである扨(さて)又(また)閣下(かくか)は未(いま)
だ春秋(しゆんしう)に富(と)むで居(を)られるから御退職後(ごたいしよくご)も国家(こくか)の事(こと)は朝暮(てうぼ)に思(おも)ひ出(いだ)され御養生(ごやうぜう)を専(せん)一にせられたい大丈(だいじよ)
夫(うぶ)の進退出処(しんたいしゆつしよ)は元(も)と皆(みな)世(よ)の為(た)め国(くに)の為(ため)で我身(わがみ)を我物(わがもの)と思(おも)ふは狭小(けうせう)の見(けん)とも云(い)ふべきであるから古(いにしへ)よ
り自(みづか)ら任(にん)ずるの士(し)は其身(そのみ)を自愛(じあい)して待(ま)つ処(ところ)がある仮令(たとへ)太平(たいへい)の時節(じせつ)たり共(とも)国(くに)の為(た)め君(きみ)の為(た)め身(み)を棄(す)つべ
き時(とき)はあるべきかと思(おも)はれる返(かへ)す〴〵も自愛(じあい)を第(だい)一に致(いた)されたい心中黙止(しんちうもくし)し難(がた)いから申上(まをしあげ)るが此(この)書翰(しよかん)
は御自身(ごじしん)に火(ひ)に投(とう)じて貰(もら)いたい又(また)此(この)節(せつ)嫌疑(けんぎ)を避(さ)くる仔細(しさい)有(あ)つて拝候(はいこう)せなむだが春(はる)にもなつたなら御(お)
目(め)に掛(かゝ)りに参(まゐ)りたい」と先(ま)づ之(これ)が其(その)書翰(しよかん)の大要(たいえい)であるが勿論(もちろん)述斉(じつさい)として辞職後(じしよくご)の信明(のぶあき)に故(ことさ)ら阿諛(あゆ)する
必要(ひつえう)もなく特(とく)に其(その)文辞(ぶんじ)より見(み)るも実(じつ)に熱誠(ねつせい)を籠(こ)めたもので何処(どこ)迄(まで)も述斉(じつさい)の真意(しんい)たる事(こと)は疑(うたがひ)を容(い)れざる
処(ところ)であるが実(じつ)は之(これ)が当時(たうじ)に於(お)ける識者間(しきしやかん)の与論(よろん)とも云(い)ふべきものであつた事(こと)と信(しん)ずるが而(しか)して述斉(じつさい)は
又(ま)た其(その)後(のち)一ケ年(ねん)立(た)つた処(ところ)で再(ふたゝ)び信明(のぶあき)に書翰(しよかん)を送(おく)つた此(この)書翰(しよかん)も亦(ま)た幸(さいはひ)に大河内家(おほかうちけ)に残(のこ)つて居(を)るのである
ソコで其(その)要旨(えうし)を御話(おはなし)して見(み)るとコウである
「光陰(くわうゐん)は早(はや)いもので一 年(ねん)は瞬(またゝ)く間(ま)に過(すぎ)たが君(きみ)には未(いま)だ御出勤(ごしゆつきん)の運(はこ)びに至(いた)らぬドウか早(はや)く御出勤(ごしゆつきん)ある様(やう)
に致(いた)したい昔(むかし)から賢相良輔(けんさうれうほ)の苦心(くしん)して組立(くみた)てた善政(ぜんせい)も美事(びじ)も小人(せうにん)が代(かは)れば其(その)人(ひと)を憎(にく)むで其(その)事(こと)迄(まで)をも廃(はい)
する様(やう)になる歴代(れきだい)其(その)例(れい)は少(すくな)くないのであるから此(この)際(さい)閣下(かくか)一 身(しん)の進退(しんたい)は国家(こくか)に関(くわん)する処(ところ)が多(おほ)い折角(せつかく)御改(ごかい)
革(かく)の結果(けつくわ)今日(こんにち)の太平(たいへい)となつたるものを百 年(ねん)之(これ)をなして足(た)らず一 朝(てう)之(これ)を敗(やぶ)るに余(あまり)ありと云(い)ふ事(こと)もあるか
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千二百廿二号附録 (大正元年十一月廿一日発行)
【本文】
らムザ〳〵金甌(きんぺい)の天下(てんか)へ瑕(きづ)をつけるのは惜(おし)いものである早(はや)く再(ふたゝ)び職(しよく)につかれて此(この)天下(てんか)を維持(ゐぢ)して貰(もら)ひ
たい」とコウ云(い)ふ意味(いみ)で熱心(ねつしん)に信明(のぶあき)の再就職(さいしうしよく)を促(うなが)したものである
かくて此(この)書翰(しよかん)に対(たい)しては信明(のぶあき)からも返書(へんしよ)を送(おく)つたのであるがそれが如何(いか)なる意味(いみ)の事(こと)を答(こた)へたもので
あるか遺憾(ゐかん)ながら今(いま)分明(ぶんめい)せぬのである併(しか)し述斉(じつさい)からは更(さら)に又(ま)た重(かさ)ねて其(その)再就職(さいしうしよく)を熱望(ねつぼう)する所以(ゆゑん)を細(こま)
細(ごま)折回(おりかへ)して申送(まをしおく)つたのである此(この)書翰(しよかん)の方(はう)は今(いま)も大河内家(おほかうちけ)に残(のこ)つて居(を)る併(しか)し余(あま)りクダ〳〵しいから此処(こゝ)
には詳述(せうじゆつ)せぬが兎(と)に角(かく)信明(のぶあき)の辞職(じしよく)は当時(たうじ)甚(はなは)だしく識者間(しきしやかん)に惜(おし)まれたもので其(その)再就職(さいしうしよく)は又(ま)た実(じつ)に輿望(よぼう)で
あつた事(こと)が証拠立(せうこた)てられると思(おも)ふ然(しか)るに前(まへ)にも申述(まをしの)べた如(ごと)く信明(のぶあき)の辞職(じしよく)に就(つい)ては種々(しゆ〴〵)の事情(じぜう)が其(その)間(あひだ)に
介在(かいざい)して居(を)つた事(こと)であるから仮令(たとへ)信明(のぶあき)自身(じしん)も亦(ま)た己(おの)れが再(ふたゝ)び出(いづ)るでなくては天下(てんか)の事(こと)は治(おさ)まらぬと思(おも)
つたにしても到底(とうてい)其(その)意(い)の如(ごと)くにはならなかつたのである
⦿信明再び老職に任ず
信明と和歌 「位山(くらゐやま)ふもとの里(さと)にたち返(かへ)りこゝろのどけき春(はる)はきにけり」とは信明(のぶあき)が辞職(じしよく)の翌年(よくねん)即(すなは)ち文化(ぶんくわ)元年(がんねん)の正(せう)
月(ぐわつ)に読(よ)むだ歌(うた)であるが信明(のぶあき)も辞職後(じしよくご)は一 時(じ)閑散(かんさん)の身(み)となつたので頻(しき)りに和歌(わか)の稽古(けいこ)をしたものと見(み)え
る既(すで)に前(まへ)にも申上(まをしあげ)た如(ごと)く此(この)人(ひと)は幼少(やうせう)の時(とき)から能書(のうしよ)であつて詩(し)も上手(ぜうづ)であり又(ま)た篆刻(てんこく)などを能(よ)くした事(こと)
は有名(いうめい)なものであるが其(その)熱心(ねつしん)に和歌(わか)を学(まな)むだのは却(かへ)て此(この)頃(ごろ)の事(こと)であつたと信(しん)ぜられる即(すなは)ち芝山前中納(しばやまぜんちうな)
言持豊卿(ごんもちとよけう)に添削(てんさく)を請(こ)つたものであるが「谷(たに)の戸(と)はかさなる雲(くも)にあけやらでなつの夜(よ)長(なが)きさみだれの宿(やど)」
《割書:さみだれの|侍従》 と云(い)ふ歌(うた)は秀逸(しういつ)であると云(い)ふので公卿(くげ)の間(あひだ)には信明(のぶあき)を称(せう)してさみだれのう侍従(じぜう)と呼(よ)むだとの事(こと)であるサ
《割書:信明国に就|く》 テ文化(ぶんくわ)二 年(ねん)の四月には夫人(ふじん)井上氏(ゐのうへし)逝去(せいきよ)の事(こと)があり同年(どうねん)六月より帰国(きこく)を許(ゆる)されて廿一日 江戸(えど)を発(はつ)し廿七
【欄外】
豊橋市史談 (信明再び老職に任ず) 三百廿九
現代語訳
【欄外】
豊橋市史談(信明老中を辞す) 三百二十八
【本文】
の姿に傾いて来たが、国の柱石とも仰ぎ万人倚頼の望があるので一日々々と持ち堪えて来たので、一旦意外の変事が出来た場合には易にいわゆる霜を踏んで堅氷に至るで何処まで行くか分からない。これよりは君子道消え小人道長ずる地へ進むのは仕方ない事である。実に天災地妖よりは人事の変ほど恐るべきものはない。この上何にか大変事は出来はしまいかと志あるものは心中に覚悟を極めるの外はないのである。さて又閣下は未だ春秋に富んでおられるから、ご退職後も国家の事は朝夕に思い出され、ご養生を専一にされたい。大丈夫の進退出処は元と皆世のため国のためで、我が身を我が物と思うは狭小の見とも言うべきであるから、古より自ら任ずる士はその身を自愛して待つ処がある。たとえ太平の時節たりとも、国のため君のため身を棄つべき時はあるべきかと思われる。返す返すも自愛を第一に致されたい。心中黙止し難いから申し上げるが、この書翰はご自身に火に投じて貰いたい。またこの節嫌疑を避くる仔細有って拝候せねばならないが、春にもなったならお目にかかりに参りたい」
と先ずこれがその書翰の大要であるが、勿論述斎として辞職後の信明に故更阿諛する必要もなく、特にその文辞より見るも実に熱誠を籠めたもので、何処までも述斎の真意たる事は疑いを容れざる処であるが、実はこれが当時における識者間の世論とも言うべきものであった事と信ずる。而して述斎はまたその後一ヶ年立った処で再び信明に書翰を送った。この書翰もまた幸いに大河内家に残っているのである。そこでその要旨をお話して見るとこうである。
「光陰は早いもので一年は瞬く間に過ぎたが、君には未だご出勤の運びに至らない。どうか早くご出勤あるように致したい。昔から賢相良輔の苦心して組み立てた善政も美事も、小人が代われば其の人を憎むで其の事までをも廃する様になる。歴代その例は少なくないのであるから、この際閣下一身の進退は国家に関する処が多い。折角ご改革の結果今日の太平となったるものを、百年これをなして足らず一朝これを敗るに余りありということもあるか
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千二百二十二号附録 (大正元年十一月二十一日発行)
【本文】
らむざむざ金甌の天下へ瑕をつけるのは惜しいものである。早く再び職につかれてこの天下を維持して貰いたい」
とこう言う意味で熱心に信明の再就職を促したものである。
かくてこの書翰に対しては信明からも返書を送ったのであるが、それが如何なる意味の事を答えたものであるか、遺憾ながら今分明せぬのである。しかし述斎からは更にまた重ねてその再就職を熱望する所以を細々折回して申し送ったのである。この書翰の方は今も大河内家に残っているが、あまりくだくだしいから此処には詳述せぬが、とにかく信明の辞職は当時甚だしく識者間に惜しまれたもので、その再就職はまた実に世望であった事が証拠立てられると思う。然るに前にも申し述べたごとく信明の辞職については種々の事情がその間に介在していた事であるから、たとえ信明自身もまた己れが再び出るでなくては天下の事は治まらぬと思ったにしても、到底その意のごとくにはならなかったのである。
**信明再び老職に任ず**
**信明と和歌**
「位山ふもとの里にたち返り心のどけき春は来にけり」とは信明が辞職の翌年すなわち文化元年の正月に詠んだ歌であるが、信明も辞職後は一時閑散の身となったので頻りに和歌の稽古をしたものと見える。既に前にも申し上げたごとく、この人は幼少の時から能書であって詩も上手であり、また篆刻などを能くした事は有名なものであるが、その熱心に和歌を学んだのは却ってこの頃の事であったと信ぜられる。すなわち芝山前中納言持豊卿に添削を請ったものであるが、
「谷の戸は重なる雲に開けやらで夏の夜長きさみだれの宿」
という歌は秀逸であるというので、公卿の間には信明を称してさみだれの侍従と呼んだとの事である。
**信明国に就く**
さて文化二年の四月には夫人井上氏逝去の事があり、同年六月より帰国を許されて二十一日江戸を発し二十七
【欄外】
豊橋市史談(信明再び老職に任ず) 三百二十九
英語訳
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (Nobuaki's Resignation as Senior Councilor) 328
**Main Text:**
...declining toward such a state, but because he was looked up to as a pillar of the nation with the hopes of ten thousand people relying on him, they had been enduring day by day. However, should some unexpected incident occur, it would easily lead to what is called "stepping on frost and reaching solid ice," with no telling how far it might go. From this point, it would be inevitable to advance toward a situation where the way of gentlemen disappears and the way of small men flourishes. Truly, nothing is more fearful than changes in human affairs compared to natural disasters and earthly calamities. Those with aspirations have no choice but to steel their resolve in their hearts, wondering if some great catastrophe might not occur.
Now, since Your Excellency is still rich in years, even after retirement you will undoubtedly think of national affairs morning and evening, so please focus primarily on maintaining your health. The advance and retreat, the coming forth and withdrawal of great men are fundamentally all for the sake of the world and the nation. To think of one's body as one's own possession could be called a narrow view. Since ancient times, those who take responsibility upon themselves have cherished their bodies and waited for the right moment. Even in times of peace, there may come times when one must sacrifice oneself for the nation and sovereign. I repeatedly urge you to put self-care first. Since I cannot remain silent about what is in my heart, I must speak, but please burn this letter yourself. Also, there are reasons I must avoid suspicion at this time and cannot visit, but when spring comes I would like to come see you."
This is roughly the gist of that letter. Of course, Jussai had no need to deliberately flatter Nobuaki after his resignation, and judging particularly from the literary style, it was truly filled with passionate sincerity. There is no doubt that this represented Jussai's true feelings throughout, but I believe this actually represented what could be called public opinion among intellectuals at the time. Jussai again sent another letter to Nobuaki a year later. This letter also fortunately remains in the Ōkōchi family. The gist of it was as follows:
"Time passes quickly - a year has gone by in the blink of an eye, but you have still not returned to service. I very much hope you will return to duty soon. Since ancient times, even the good government and fine achievements painstakingly constructed by wise ministers and good advisors tend to be abandoned when petty men take over, as they hate the person and therefore destroy even their works. There are many such examples throughout history, so at this time Your Excellency's personal advance or retirement greatly affects the nation. The peaceful times of today resulted from your reforms, but while it takes a hundred years to build something, it can be destroyed in a single morning..."
**Margin:**
Publisher and Printer: Sanyo Printing Company, 48 Konya-machi, Toyohashi City; Editor: Nakanishi Kenzo; Publisher and Printer: Kuno □kichi
**Left Page:**
**Margin:**
Sanyo Newspaper No. 4222 Supplement (Published November 21, Taishō 1 [1912])
**Main Text:**
"...It would be regrettable to carelessly put flaws in this golden basin of a realm. Please quickly return to office again and help maintain this realm."
This was the meaning by which he earnestly urged Nobuaki's return to service.
Nobuaki sent a reply to this letter, but unfortunately it is not clear what he answered. However, Jussai sent yet another detailed letter repeatedly expressing his reasons for earnestly hoping for Nobuaki's return to service. This letter also remains in the Ōkōchi family today, but since it is quite lengthy, I will not describe it in detail here. In any case, I think this proves that Nobuaki's resignation was deeply regretted by intellectuals at the time, and his return to service was truly the hope of the people. However, as I mentioned before, various circumstances intervened regarding Nobuaki's resignation, so even if Nobuaki himself thought that the affairs of the realm could not be settled unless he returned, it ultimately could not proceed as he wished.
**Nobuaki Again Appointed to Senior Office**
**Nobuaki and Waka Poetry**
"Returning to the village at the foot of Mount Kurai, a peaceful spring has come to my heart" - this was a poem Nobuaki composed in the first month of Bunka 1, the year after his resignation. After his resignation, Nobuaki became temporarily idle and appears to have frequently practiced waka poetry. As I mentioned before, this person was famous from childhood for his excellent calligraphy, skill at poetry, and ability at seal carving, but his earnest study of waka poetry seems to have occurred particularly during this period. He requested corrections from Former Middle Counselor Shibayama Mochitoyō, and the poem:
"The valley door cannot open through the layered clouds - a dwelling of long summer nights in the rainy season"
was considered excellent, so the court nobles called Nobuaki "the Rainy Season Chamberlain."
**Nobuaki Returns to His Domain**
In the fourth month of Bunka 2, his wife from the Inoue family passed away, and from the sixth month of the same year he was permitted to return to his domain. He departed Edo on the 21st day and on the 27th...
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (Nobuaki Again Appointed to Senior Office) 329