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【欄外】
豊橋市史談 (今橋築城と牧野古白) 十
【本文】
《割書:足利義教の|富士遊覧》 教(のり)が富士遊覧(ふぢいうらん)の為(た)め京都(けうと)より下向(げこう)の事があつた、 其時(そのとき)随行者(ずいこうしや)に藤原雅世(ふぢはらまさよ)と釈堯行(しやくぎようこう)と云(い)ふ二人(ふたり)があつた
両人(れうにん)共(とも)に道中記(どうちうき)を書(か)いた、 雅世(まさよ)のは富士記行(ふぢきこう)、 堯行(ぎようこう)のは覧富士記(らんふぢき)と称(せう)せられて居(を)る、 何(いづ)れも内容(ないよう)は大(だい)
同小異(どうせうゐ)で今橋(いまはし)と云(い)ふ地名(ちめい)は行(ゆ)き帰(かへ)りに記(しる)されてあるが茲(こゝ)に疑問(ぎもん)となつて居(を)るのは其当時(そのとうじ)に於(お)ける今橋(いまはし)
の発展(はつてん)程度(ていど)如何(いかん)である、 覧富士記(らんふぢき)の九月十四日の項(こう)に「今橋(いまはし)の御泊(おとま)りにてあかす明(あ)け行(ゆ)く月(つき)を見(み)て」
とあつて「夜(よ)と共(とも)に月(つき)澄(す)み渡(わた)る今橋(いまはし)や明(あ)け過(す)ぐるまでたちぞやすろう」と云(い)ふ歌(うた)が載(の)つて居(を)る、 此記(このき)
事(じ)から推(お)して此日(このひ)には将軍(せうぐん)が今橋(いまはし)に一 泊(ぱく)されたのであるとの説(せつ)がある、 殊(こと)に仝日(どうじつ)は其(その)朝(あさ)矢作(やはぎ)を出発(しゆつぱつ)さ
れたのであるから今橋(いまはし)に宿(やど)されるのに道程(みちのり)の上(うへ)より見(み)るも適当(てきとう)な様(よう)に思(おも)はれる、 処(ところ)が一 方(ぱう)富士記行(ふぢきこう)の
方(ほう)には 宿(やど)られた事が見(み)えぬのみならず今橋(いまはし)の事を書いた処(ところ)に一日の相違(さうゐ)がある、 又(また)帰途(きと)には二十四日
に此処(こゝ)を通過(つうくわ)せられたのであるが宿泊(しくはく)はされなんだ、 然(しか)るに吉田名蹤綜録(よしだめいじうそうろく)には前(ぜん)の覧富士記(らんふぢき)の歌(うた)を引(ひ)
ゐて義教公(よしのりこう)の宿泊(しくはく)せられたるに就(つい)ては当時(とうじ)此地(このち)に巍然(きぜん)たる城廓(ぜうくわく)と迄(まで)にあらずともかき上(あげ)如(ごと)きの城壁(ぜうへき)な
らんにはかりそめにも将軍(せうぐん)の御止宿(おんししく)あるべけんやと論(ろん)じて既(すで)に相当(さうとう)の城塁(ぜうるい)のあつたものだと説(と)いて居(を)
《割書:今橋の発展|程度》 るが此節(このせつ)は少(すこ)しく穿(うが)ち過(す)ぎては居(を)るまいか、 併(しか)し五百 年内外(ねんないがい)の以前(いぜん)に於(おい)て此地(このち)が既(すで)に宿駅(しくえき)の状態(ぜうたい)に迄(ま)
で発達(はつたつ)して居(ゐ)たと云(い)ふ事は判然(はんぜん)たるものであると思(おも)ふ、 以上(いぜう)述(の)べ来(きた)つた処(ところ)は今橋(いまはし)築城以前(ぜちくぜういぜん)の事に属(ぞく)す
るのであるが之(これ)より築城(ちくぜう)当時(とうじ)の事に就(つい)て御話(おはな)しする。
⦿今橋築城と牧野古白
今橋(いまはし)の城(しろ)の出来上(できあが)つたのは永正(えいせう)二 年(ねん)(距今(いまをさる)四百〇七 年前(ねんぜん))で牧野古白(まきのこはく)と云(い)ふ人(ひと)によつて築(きづ)かれたのであ
る、 其頃(そのころ)の事情(じぜう)を詳(くは)しく御話(おはなし)するには先(ま)づ当時(とうじ)に於(お)ける天下(てんか)の大勢(たいせい)から説(と)き起(おこ)す必要(ひつよう)があると思(おも)ふ、
抑(そもそ)も其頃(そのころ)は将軍(せうぐん)足利義澄(あしかゞよしずみ)が職(しよく)を退(しりぞい)て足利義稙(あしかゞよしたね)が再(ふたゝ)び将軍職(せうぐんしよく)に就(つ)くと云(い)ふ時代(じだい)で西(にし)には大内義興(おほうちよしおき)が威(い)
群雄割拠 を振(ふる)ひ東(ひがし)には今川氏親(いまかはうぢちか)は勿論(もちろん)北条早雲(ほうぜうさううん)が斬(やうや)く関東(くわんとう)で巾(はゞ)を利(き)かせんとする有様(ありさま)で所謂(いはゆる)群雄割拠(ぐんゆうかつきよ)して将(まさ)に
血腥(ちなまぐ)さき戦国時代(せんこくじだい)に入(い)らむとする時(とき)であつた、 其当時(そのとうじ)の三河(みかは)の守護職(しゆごしよく)は吉良氏(きらうぢ)であつて其(その)根拠地(こんきよち)は幡(は)
豆郡(づごほり)の今(いま)の西尾(にしを)であつたが西尾町(にしをまち)より約(やく)一 里(り)許(ばかり)の処(ところ)に駮馬村(まだらめむら)と云(い)ふ所(ところ)がある、 此処(こゝ)に其(その)新家(しんけ)が分(わか)れて
居(ゐ)て此(こ)の両家(れうけ)を東条家(とうぜうけ)西条家(せいぜうけ)と称(とな)へたのである、 此(この)両家(れうけ)は非常(ひぜう)な軋轢(あつれき)をして屡々(しば〴〵)擾乱(ぜうらん)を醸(かも)し到底(とうてい)国内(こくない)
が一 致(ち)しないので、 足利幕府(あしかゞばくふ)は更(さら)に細川讃岐守成之(ほそかはさぬきのかみしげゆき)を三河(みかは)の守護職(しゆごしよく)に任(にん)じたが此人(このひと)も矢張(やはり)京都(けうと)に居(ゐ)て
国内(こくない)を平定(へいてい)しようと仕(し)ない又(ま)た出来(でき)もしなかつたであらう国(くに)は益々(ます〳〵)乱(みだ)れて豪族(ごうぞく)は諸処(しよ〳〵)に割拠(かつきよ)し兵乱(へいらん)を
起(おこ)す様(よう)になつた、 其(その)乱(らん)が到底(とうてい)取鎮(とりしづ)められぬ処(ところ)から足利幕府(あしかゞばくふ)の伊勢貞親(いせさだちか)は寛正(かんせい)六 年(ねん)五月二十六日 附(づけ)(距(いまを)
《割書:松平氏並に|戸田氏》 今(さる)四百四十七 年前(ねんぜん))で三河(みかは)の豪族(ごうぞく)松平和泉守信光(まつだひらいづみのかみのぶみつ)及(およ)び十田弾正宗光(とだだんぜうむねみつ)へ手紙(てがみ)を以(もつ)て頼(たの)みに寄越(よこ)した現(げん)に
其(その)文書(ぶんしよ)の写(うつし)は今(いま)も確実(かくじつ)に遺(や)つて居(を)ることである、 此(この)十田(とだ)と云(い)ふのは当時(とうじ)田原(たはら)に居(を)つた戸田(とだ)の事(こと)で松平信(まつだひらのぶ)
光(みつ)は即(すなは)ち徳川家康(とくがはいへやす)六 世(せ)の祖(そ)である之(これ)より松平(まつだひら)、 戸田(とだ)の両氏(れうし)が世(よ)に現(あら)はるゝに至(いた)つたので特(とく)に松平信光(まつだひらのぶみつ)
と云(い)ふ人(ひと)は子(こ)が沢山(たくさん)あつて之(これ)を一々 分家(ぶんけ)したのであるが徳川氏(とくがはし)の基礎(きそ)は実(じつ)に此時(このとき)既(すで)に出来(でき)たものと云
一色城 ふてよかろうと思(おも)ふ、 当時(とうじ)宝飯郡(ほゐごほり)に一 色城(しきぜう)と云(い)ふのがあつたが、 今(いま)の牛久保(うしくぼ)に該当(がいとう)する、 古図(こづ)で見(み)る
と現今(げんこん)の牛久保(うしくぼ)停車場(ていしやぜう)以南(いなん)の地(ち)に当(あた)つて居(を)るけれども城跡(ぜうせき)は更(さら)に止(とゞ)めて居(ゐ)ない、 現(げん)に停車場(ていしやぜう)附近(ふきん)に城(ぜう)
跡(せき)と見(み)ゆる処(ところ)があるがあれは牛久保城(うしくぼぜう)となつてからのでなくてはならぬ 此(この)一 色城(しきぜう)と云(い)ふのは元(も)と鎌(かま)
倉(くら)足利氏(あしかゞし)の臣(しん)一色刑部(いしきけうぶ)某(なにがし)が来(きた)つて拠(よ)つた所(ところ)であるが文明年中(ぶんめいねんちう)其(そ)の臣(しん)秦野全慶(はたのぜんけい)と云(い)ふ者(もの)の為(た)めの横領(わうれう)さ
れた一色刑部(いしきけうぶ)の墓(はか)は現(げん)に牛久保(うしくぼ)の大聖寺(だいせいじ)にある、 其後(そのご)明応(めいおう)二 年(ねん)(距今(いまをさる)四百十九 年前(ねんぜん))に至(いたつ)て牧野古白(まきのこはく)は
宝飯郡(ほゐぐん)の牧野村(まきのむら)から起(おこ)つて此(この)全慶(ぜんけい)を誅(ちう)し一 色城(しきぜう)を掌握(せうあく)したのである。
【欄外】
豊橋市史談 (今橋築城と牧野古白) 十一
現代語訳
【欄外】
豊橋市史談 (今橋築城と牧野古白) 十
【本文】
《割書:足利義教の富士遊覧》 教が富士遊覧のため京都より下向したことがあった。その時随行者に藤原雅世と釈堯行という二人があった
両人共に道中記を書いた。雅世のは『富士記行』、堯行のは『覧富士記』と称されている。いずれも内容は大
同小異で今橋という地名は行き帰りに記されてあるが、ここに疑問となっているのはその当時における今橋
の発展程度である。『覧富士記』の九月十四日の項に「今橋の御泊まりにて明かし明け行く月を見て」
とあって「夜と共に月澄み渡る今橋や明け過ぐるまで立ち止まろう」という歌が載っている。この記
事から推してこの日には将軍が今橋に一泊されたのであるとの説がある。殊にその日はその朝矢作を出発
されたのであるから、今橋に宿されるのに道程の上より見るも適当なように思われる。ところが一方『富士記行』の
方には宿られたことが見えないのみならず、今橋のことを書いた所に一日の相違がある。また帰途には二十四日
にここを通過されたのであるが宿泊はされなかった。ところが『吉田名蹤綜録』には前の『覧富士記』の歌を引
いて義教公の宿泊されたことについては「当時この地に巍然たる城郭とまでにあらずともかき上げごときの城壁な
らずにはかりそめにも将軍の御宿泊あるべけんや」と論じて、既に相当の城塁があったものだと説いてい
《割書:今橋の発展程度》 るが、この説は少しく穿ち過ぎてはいるまいか。しかし五百年内外の以前においてこの地が既に宿駅の状態にま
で発達していたということは判然たるものであると思う。以上述べてきたところは今橋築城以前のことに属す
るのであるが、これより築城当時のことについてお話しする。
⦿今橋築城と牧野古白
今橋の城の出来上がったのは永正二年(今から四百〇七年前)で牧野古白という人によって築かれたので
ある。その頃の事情を詳しくお話しするには、まず当時における天下の大勢から説き起こす必要があると思う。
そもそもその頃は将軍足利義澄が職を退いて足利義稙が再び将軍職に就くという時代で、西には大内義興が威
群雄割拠 を振るい、東には今川氏親はもちろん北条早雲がようやく関東で勢力を利かせようとする有様で、所謂群雄割拠してまさに
血なまぐさい戦国時代に入らんとする時であった。その当時の三河の守護職は吉良氏であって、その根拠地は幡
豆郡の今の西尾であったが、西尾町より約一里ばかりのところに駮馬村というところがある。ここにその新家が分かれて
おり、この両家を東条家・西条家と称したのである。この両家は非常な軋轢をして屡々擾乱を醸し、到底国内
が一致しないので、足利幕府は更に細川讃岐守成之を三河の守護職に任じたが、この人も矢張り京都にいて
国内を平定しようとしない、またできもしなかったであろう。国は益々乱れて豪族は諸処に割拠し兵乱を
起こすようになった。その乱が到底取り鎮められぬところから、足利幕府の伊勢貞親は寛正六年五月二十六日付(今か
《割書:松平氏並びに戸田氏》 ら四百四十七年前)で三河の豪族松平和泉守信光及び十田弾正宗光へ手紙をもって頼みによこした。現に
その文書の写しは今も確実に残っていることである。この十田というのは当時田原にいた戸田のことで、松平信
光はすなわち徳川家康六世の祖である。これより松平、戸田の両氏が世に現れることに至ったので、特に松平信光
という人は子が沢山あって、これを一々分家したのであるが、徳川氏の基礎は実にこの時既にできたものと言
一色城 ってよかろうと思う。当時宝飯郡に一色城というのがあったが、今の牛久保に該当する。古図で見る
と現今の牛久保停車場以南の地に当たっているけれども、城跡は更に止めていない。現に停車場附近に城
跡と見えるところがあるが、あれは牛久保城となってからのでなくてはならぬ。この一色城というのは元と鎌
倉足利氏の臣一色刑部某が来て拠ったところであるが、文明年中その臣秦野全慶という者のために横領
された。一色刑部の墓は現に牛久保の大聖寺にある。その後明応二年(今から四百十九年前)に至って牧野古白は
宝飯郡の牧野村から起こってこの全慶を誅し、一色城を掌握したのである。
【欄外】
豊橋市史談 (今橋築城と牧野古白) 十一
英語訳
【Margin】
Toyohashi Historical Discussion (Construction of Imahashi Castle and Makino Kohaku) 10
【Main text】
《Interlinear note: Ashikaga Yoshinori's Mt. Fuji Excursion》 Yoshinori made a journey down from Kyoto for the purpose of viewing Mt. Fuji. At that time, his entourage included two men named Fujiwara Masayo and the monk Gyōkō.
Both men wrote travel records. Masayo's is called 'Fuji Kikō,' and Gyōkō's is called 'Ran Fuji-ki.' Both have largely similar content with minor differences, and the place name Imahashi is recorded in both the outbound and return journeys, but the question here is the degree of development of Imahashi at that time. In the 'Ran Fuji-ki' entry for September 14th it states "spending the night at the lodging in Imahashi, watching the moon as dawn breaks,"
and includes the poem "Night and moon shine clearly over Imahashi, I shall stand here until past dawn." From this record some argue that the shogun stayed one night in Imahashi on this day. Particularly since they had departed Yahagi that morning, it seems appropriate in terms of travel distance to lodge in Imahashi. However, the 'Fuji Kikō' shows no evidence of lodging there, and moreover there is a one-day discrepancy in where it records Imahashi. Also, on the return journey they passed through here on the 24th but did not stay overnight. However, the 'Yoshida Meishō Sōroku' quotes the poem from the aforementioned 'Ran Fuji-ki' and argues regarding Yoshinori's lodging that "if this place did not have at least some fortified walls if not a magnificent castle, how could the shogun have casually stayed overnight," claiming there were already substantial fortifications.
《Interlinear note: Degree of Imahashi's Development》 But isn't this argument perhaps overstated? However, I think it is clear that around 500 years ago this place had already developed to the state of a post station. What I have described above pertains to the period before the construction of Imahashi Castle, but now I will discuss the time of castle construction.
⦿Construction of Imahashi Castle and Makino Kohaku
Imahashi Castle was completed in Eishō 2 (407 years ago) and was built by a man named Makino Kohaku.
To discuss the circumstances of that time in detail, I think it necessary to first explain the general situation of the realm at that time.
In those days, Shogun Ashikaga Yoshizumi had retired from office and Ashikaga Yoshitane had resumed the shogunal position. In the west, Ōuchi Yoshioki wielded authority,
Competing Warlords and in the east, Imagawa Ujichika and of course Hōjō Sōun were beginning to assert power in the Kantō region - it was an era of so-called competing warlords on the verge of entering
the bloody Warring States period. At that time the shugo (military governor) of Mikawa was the Kira clan, whose stronghold was in present-day Nishio in Hazu District. About one ri from Nishio town there is a place called Madarame village, where the branch family had separated,
and these two houses were called the Tōjō and Saijō houses. These two houses had tremendous friction and frequently caused disturbances, so the country could never be unified. The Ashikaga shogunate further appointed Hosokawa Sanuki-no-kami Shigeyuki as shugo of Mikawa, but this person also remained in Kyoto and
made no attempt to pacify the province, nor could he have done so. The country became increasingly disordered, with powerful clans establishing themselves in various places and causing military conflicts.
Since these disorders could not be suppressed, Ise Sadachika of the Ashikaga shogunate sent a letter dated the 26th day of the 5th month of Kanshō 6 (447 years ago
《Interlinear note: The Matsudaira and Toda clans》 from now) requesting help from the Mikawa magnates Matsudaira Izumi-no-kami Nobumitsu and Toda Danjō Munemitsu. Indeed,
copies of these documents remain reliably preserved today. This "Jūda" refers to the Toda who were at Tahara at the time, and Matsudaira Nobumitsu was the sixth-generation ancestor of Tokugawa Ieyasu. From this point the Matsudaira and Toda clans came to prominence in the world. Matsudaira Nobumitsu in particular had many sons whom he established as separate branch families, and I think we can say that the foundation of the Tokugawa clan was
Isshiki Castle actually laid at this time. At that time there was a castle called Isshiki in Hōi District, corresponding to present-day Ushikubo. Looking at old maps,
it was located in the area south of the present Ushikubo station, but no castle remains are preserved there now. There is a place near the station that appears to be castle remains, but that must be from after it became Ushikubo Castle. This Isshiki Castle was originally where a retainer of the Kamakura Ashikaga clan, one Isshiki Gyōbu, had come and established himself, but during the Bunmei era it was usurped by his retainer Hatano Zenkei.
Isshiki Gyōbu's grave still exists at Daiseiji temple in Ushikubo. Later, in Meiō 2 (419 years ago), Makino Kohaku arose from Makino village in Hōi District, killed this Zenkei, and seized control of Isshiki Castle.
【Margin】
Toyohashi Historical Discussion (Construction of Imahashi Castle and Makino Kohaku) 11