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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 180

ページ: 180

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【欄外】    豊橋市史談 (信明復職当時の形勢)                    三百卅二 【本文】 我儘隠居   元来(がんらい)将軍(せうぐん)の生父(せいふ)一橋治済(ひとつばしはるなり)と云(い)ふ人(ひと)は世(よ)に我儘隠居(わがまゝゐんきよ)と噂(うはさ)せられた位(くらゐ)の人(ひと)で随分(ずゐぶん)幕府(ばくふ)の重職(ぢうしよく)等(ら)も持(も)て余(あま)し       たのであるが之(これ)には又(ま)た奸臣(かんしん)等(ら)の阿附(あふ)するものが多(おほ)く孰(いづ)れも此(この)治済(はるなり)を利用(りよう)して何(な)にか一 仕事(しごと)をしよう       と云(い)ふ心根(こゝろね)のものばかりであるので流石(さすが)の定信(さだのぶ)でさへ之(これ)には苦心(くしん)したのであつたさればこそ定信(さだのぶ)が辞(じ) 水野忠友   職(しよく)して後(のち)僅(わづか)に三四年で寛政(かんせい)九年の二月には彼(か)の水野忠友(みづのたゝとも)が再勤(さいきん)の事となり其(その)十一月には遂(つひ)に此(この)人(ひと)が西(にし)       の丸(まる)の老中(らうちう)に復(ふく)することとなつたが之(これ)も治済(はるなり)の意(こゝろ)であつたと云(い)ふ事である蓋(けだ)し此(この)忠友(たゞとも)と云(い)ふ人(ひと)は田沼時(たぬまじ)        代(だい)に於(おい)て意次(おきつぐ)に媚付(びふ)して側用人(そばようにん)となり遂(つひ)に老中(らうちう)に准(じゆん)ぜられたのであるが其(その)養子(やうし)忠徳(たゞのり)と云(い)ふのは実(じつ)は意(おき)        次(つぐ)の次男(じなん)で此(この)両人(れうにん)は互(たがひ)に相結托(あひけつたく)して権勢(けんせい)を弄(もてあそ)むだのである然(しか)るに前(せん)に申述(まをしの)べた如(ごと)く天明(てんめい)六年に意次(おきつぐ)       が斥(しりぞ)けらるゝ事と相成(あひなつ)たらば忠友(たゞとも)は忽(たちま)ちに豹変(ひようへん)して其(その)養子(やうし)をも離別(りべつ)したので世人(せじん)は其(その)澆薄(げうはく)に驚(おどろ)いたと       の事(こと)であるがそれにも拘(かゝは)らず此(この)人(ひと)も程(ほど)なく職(しよく)を罷(や)められて仕舞(しま)つたのであるにそれが前(せん)申(まを)す如(ごと)く寛政(かんせい)       九年に又々(また〳〵)復職(ふくしよく)したのであるから老中(らうちう)本多忠籌(ほんだたゞかず)は到底(とうてい)居堪(ゐたま)らずして奥勤(おくつとめ)を罷(や)むるに至(いた)つたと云(い)ふ始末(しまつ)       で之(これ)では折角(せつかく)定信(さだのぶ)等(ら)の苦心(くしん)した事も水泡(すゐほう)に皈(き)しはしないかと気遣(きつか)はれた事(こと)であつたが忠友(たゞとも)は程(ほど)なく享(けう)        和(わ)二年九月廿日 年(とし)七十二で卒去(そつきよ)したがサテ治済(はるなり)に付(つ)き纏(まとま)つて居(を)る者共(ものども)の勢(いきほひ)は益々(ます〳〵)漫延(まんえん)する計(ばか)りで其(その)翌(よく)       三年には前章(ぜんせう)に申述(まをしの)べた如(ごと)く信明(のぶあき)も一たび其(その)職(しよく)を退(しりぞ)くの止(やむ)を得(え)ざる事情(じぜう)に立至(たちいた)り其(その)翌年(よくねん)に当(あた)る文化(ぶんくわ)元(がん) 水野忠成   年(ねん)にはイヨ〳〵治済(はるなり)の党(たう)が時(とき)を得(え)て忠友(たゞとも)の養子(やうし)水野出羽守忠成(みづのではのかみたゞしげ)は若年寄(わかどしより)となり奥掛(おくがゝり)に任(にん)ぜられ段々(だん〴〵)と        政局(せいきよく)に其(その)手(て)を伸(のば)さむとしたのである勿論(もちろん)之(これ)も治済(はるなり)の意(い)に出(い)でたと云ふ事であるが此(この)忠成(たゞしげ)と云(い)ふ人(ひと)は元(がん)        来(らい)岡野(をかの)備前守知隣の次男(じなん)で忠徳(たゞのり)離別(りべつ)の後(のち)に養子(やうし)となつて忠友(たゞとも)の後(あと)を襲(つ)いだのであるが中々(なか〳〵)父(ちゝ)に劣(おと)らぬ        策士(さくし)で後年(こうねん)に至(いた)つて大(おほい)に世(よ)を紊(みだ)したのは実(じつ)に此(この)人(ひと)であるので仮令(たとへ)前(ぜん)申述(まをしの)べたように久田(ひさだ)立花(たちばな)等(ら)一 味(み)の       ものは其(その)後(ご)斥(しりぞ)けられたにしてもマダ中々(なか〳〵)治済(はるなり)の一 派(ぱ)と云(い)ふものは一 方(ぱう)に割拠(かつきよ)して居(を)る次第(しだい)であるから 【欄外】        発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千二百廿五号附録    (大正元年十一月廿六日発行) 【本文】        此(この)時(とき)に方(あた)つて信明(のぶあき)の復職(ふくしよく)は実(じつ)に容易(ようい)ならぬ苦労(くろう)であつた事と信(しん)ぜられるのであるそれのみならず当時(たうじ)       は既(すで)に盛(さかん)に外交(ぐわいかう)の問題(もんだい)が起(おこ)つて居(ゐ)たのである 《割書:露国の使節|レサノツト|の来航》   諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の如(ごと)く彼(か)の露国(ろこく)の使節(しせつ)レサノツトが初(はじ)めて我(わ)が長崎(ながさき)へやつて来(き)て通商(つうせう)を求(もと)めたのは恰(あたか)も        文化(ぶんくわ)元年(がんねん)の事で即(すなは)ち信明(のぶあき)が辞職中(じしよくちう)の出来事(できごと)であるが其(その)以前(いぜん)既(すで)に寛政(かんせい)の二三 年頃(ねんごろ)から北海(ほくかい)には屡々(しば〳〵)露船(ろせん)が 《割書:英艦長崎へ|来る》  やつて来(き)て毎度(まいど)何(なん)とかの事(こと)があつたのである而(しか)して信明(のぶあき)が復職(ふくしよく)した翌々年(よく〳〵ねん)即(すなは)ち文化(ぶんくわ)五 年(ねん)には又(ま)た英艦(えいかん)       が長崎(ながさき)へやつて来(き)て抄掠(しようれう)を行(おこな)つたので時(とき)の長崎奉行(ながさきぶぎやう)松平図書頭康英(まつだひらずしよのかみやすひで)は深(ふか)く其(その)暴状(ぼうぜう)を憤(いきどほ)り故(ことさ)らに薪水(しんすゐ)       を供給(けふきう)して油断(ゆだん)をさせ其(その)隙(すき)を窺(うかゞ)つて之(これ)を夜打(ようち)にせむと謀(はか)つたのであるが徴募(てうぼ)の兵(へい)がまだ集(あつま)らざる中(うち)に        英船(えいかん)の方(はう)が早(はや)くも錨(いかり)を揚(あ)げて立(た)ち去(さ)つたので康英(やすひで)は其(その)機(き)を失(うしな)つたのを遺憾(ゐかん)とし且(かつ)は憤懣(ふんまん)に堪(た)へざる処 《割書:松平康英の|憤死》  から遂(つひ)に割腹(かつぷく)して死(し)むだと云(い)ふ珍事(ちんじ)があつたのである此(かく)の如(ごと)く我国(わがくに)の辺彊(へんきよう)は北(きた)も南(みなみ)も外国(ぐわいこく)の事(こと)がある       にも拘(かゝは)らず先(さ)きに信明(のぶあき)忠籌(たゞかず)等(ら)の如(ごと)き定信(さだのぶ)の意志(いし)を継続(けいぞく)せるものが引退(ひきしりぞ)きて而(しか)も前(まへ)に申述(まをしの)べた如(ごと)く治済(はるなり)       に属(ぞく)する一 派(ぱ)の人々(ひと〴〵)が次第(しだい)に勢力(せいりよく)を得(う)るに至(いた)つてからと云(い)ふものは都(みやこ)は益々(ます〳〵)奢侈(しやし)の風(ふう)が盛(さかん)になり政綱(せいかう)       は漸(やうや)く弛(ゆる)み出(だ)して人心(じん〳〵)の隋弱(だじやく)に流(なが)れむとした事は将(まさ)に田沼時代(たぬまじだい)を再現(さいげん)せむとする有様(ありさま)であつたのであ 《割書:深川八幡祭|礼の珍事》  る現(げん)に文化(ぶんくわ)四年八月十九日 江戸(えど)の深川(ふかがは)八 幡宮祭礼(まんぐうさいれい)の時(とき)の如(ごと)きは練物(ねりもの)作(つく)り物(もの)など実(じつ)に風流(ふうりう)華美(かび)を競(きそ)つた       もので見物(けんぶつ)の群集(ぐんしう)は近年(きんねん)に稀(まれ)なる事であつたが為(ため)に永代橋(えいたいばし)が中間(ちうかん)から断落(だんらく)して千五百 余(よ)の溺死人(できしにん)を出(いだ)       したと云(い)ふ有名(いうめい)なる話(はなし)がある程(ほど)である此(かく)の如(ごと)き事情(じぜう)であつたから信明(のぶあき)は復職(ふくしよく)すると同時(どうじ)に此(この)難局(なんきよく)に方(あた)       つて偏(ひとへ)に英意(えいい)以(もつ)て治(ぢ)を求(もと)めたものである之(これ)も矢張(やはり)述斉(じつさい)が信明(のぶあき)に送(おく)つた書翰(しよかん)で大河内家(おほかうちけ)の所蔵(しよざう)であるが        文化(ぶんくわ)五年九月のもので誠(まこと)に当時(たうじ)を知(し)るべき究意(きうい)の史料(しれう)であると思(おも)ふのがあるから此処(こゝ)に先(ま)づ其(その)書翰(しよかん)に        就(つい)て申述(まをしの)べて見(み)たいと思(おも)ふ 【欄外】    豊橋市史談 (信明復職当時の形勢)                    三百卅三

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(信明復職当時の形勢) 三百三十二 【本文】 **我儘隠居** 元来将軍の生父一橋治済という人は世に我儘隠居と噂された位の人で、随分幕府の重職等も持て余したのであるが、これにはまた奸臣等の阿諛するものが多く、いずれもこの治済を利用して何か一仕事をしようという心根のものばかりであるので、流石の定信でさえこれには苦心したのであった。さればこそ定信が辞職して後、僅かに三四年で寛政九年の二月には彼の水野忠友が再勤の事となり、その十一月には遂にこの人が西の丸の老中に復することとなったが、これも治済の意であったという事である。 **水野忠友** 蓋しこの忠友という人は田沼時代において意次に媚び付いて側用人となり、遂に老中に准ぜられたのであるが、その養子忠徳というのは実は意次の次男で、この両人は互いに相結託して権勢を弄んだのである。然るに前に申し述べたごとく天明六年に意次が斥けられる事と相成ったらば、忠友は忽ちに豹変してその養子をも離別したので、世人はその澆薄に驚いたとの事である。しかしそれにも拘らずこの人も程なく職を罷められてしまったのであるに、それが前申すごとく寛政九年に又々復職したのであるから、老中本多忠籌は到底居堪らずして奥勤を罷むるに至ったという始末で、これでは折角定信等の苦心した事も水泡に帰しはしないかと気遣われた事であった。しかし忠友は程なく享和二年九月二十日年七十二で卒去した。 さて治済に付き纏っている者共の勢いは益々蔓延するばかりで、その翌三年には前章に申し述べたごとく信明も一たびその職を退くの止むを得ざる事情に立至り、その翌年に当る文化元年にはいよいよ治済の党が時を得て、忠友の養子水野出羽守忠成は若年寄となり奥掛りに任ぜられ、段々と政局にその手を伸ばさむとしたのである。 **水野忠成** 勿論これも治済の意に出でたという事であるが、この忠成という人は元来岡野備前守知隣の次男で、忠徳離別の後に養子となって忠友の後を襲いだのであるが、中々父に劣らぬ策士で、後年に至って大いに世を紊したのは実にこの人であるので、仮令前申し述べたように久田・立花等一味のものはその後斥けられたにしても、まだ中々治済の一派というものは一方に割拠している次第であるから、 【欄外】 発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千二百二十五号附録(大正元年十一月二十六日発行) 【本文】 この時に方って信明の復職は実に容易ならぬ苦労であった事と信ぜられるのである。それのみならず当時は既に盛んに外交の問題が起こっていたのである。 **露国の使節レザノフの来航** 諸君も御承知のごとく彼の露国の使節レザノフが初めて我が長崎へやって来て通商を求めたのは恰も文化元年の事で、即ち信明が辞職中の出来事であるが、その以前既に寛政の二三年頃から北海には屡々露船がやって来て毎度何とかの事があったのである。 **英艦長崎へ来る** 而して信明が復職した翌々年即ち文化五年には又た英艦が長崎へやって来て掠奪を行ったので、時の長崎奉行松平図書頭康英は深くその暴状を憤り、故らに薪水を供給して油断をさせ、その隙を窺ってこれを夜打ちにせむと謀ったのであるが、徴募の兵がまだ集まらざる中に英船の方が早くも錨を揚げて立ち去ったので、康英はその機を失ったのを遺憾とし、且は憤懣に堪えざる処から遂に割腹して死んだという珍事があったのである。 **松平康英の憤死** 此の如く我国の辺境は北も南も外国の事があるにも拘らず、先に信明・忠籌等のごとき定信の意志を継続せるものが引退いて、而も前に申し述べたごとく治済に属する一派の人々が次第に勢力を得るに至ってからというものは、都は益々奢侈の風が盛んになり、政綱は漸く弛み出して人心の隋弱に流れむとした事は、将に田沼時代を再現せむとする有様であったのである。 **深川八幡祭礼の珍事** 現に文化四年八月十九日江戸の深川八幡宮祭礼の時のごときは、練物・作り物など実に風流華美を競ったもので、見物の群集は近年に稀なる事であったが、為に永代橋が中間から断落して千五百余の溺死人を出したという有名なる話がある程である。 此の如き事情であったから、信明は復職すると同時にこの難局に方って偏に英意以て治を求めたものである。これも矢張り定信が信明に送った書翰で大河内家の所蔵であるが、文化五年九月のもので、誠に当時を知るべき貴重の史料であると思うのがあるから、此処に先づその書翰について申し述べて見たいと思う。 【欄外】 豊橋市史談(信明復職当時の形勢) 三百三十三

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Situation at the Time of Nobuaki's Return to Office) 332 **Main Text:** **The Selfish Retired Lord** Originally, Hitotsubashi Harusada, the biological father of the shogun, was such a person that he was rumored in the world as "the selfish retired lord," and even the senior officials of the shogunate found him quite troublesome. However, he had many sycophantic retainers who flattered him, all with the intention of using this Harusada to accomplish something for themselves. Even the great Sadanobu struggled with this situation. This is precisely why, after Sadanobu's resignation, in just three or four years, in the 2nd month of Kansei 9, that Mizuno Tadatomo returned to service, and in the 11th month, this person finally returned to the position of Senior Councilor of the Western Citadel - this too was said to be Harusada's will. **Mizuno Tadatomo** Indeed, this Tadatomo had ingratiated himself with Okitsugu during the Tanuma era, becoming a personal attendant and eventually being appointed to a position equivalent to Senior Councilor. His adopted son Tadanori was actually Okitsugu's second son, and these two men colluded with each other to manipulate power. However, as I mentioned before, when Okitsugu was dismissed in Tenmei 6, Tadatomo immediately changed his allegiance and even severed relations with his adopted son, shocking the world with his fickleness. Nevertheless, though this man was soon dismissed from office, he returned to service again in Kansei 9 as I mentioned, causing Senior Councilor Honda Tadakazu to find the situation absolutely unbearable and resign from his palace duties. This made people worry that all of Sadanobu's painstaking efforts would come to nothing. However, Tadatomo soon died on the 20th day of the 9th month of Kyōwa 2 at the age of 72. Now, the influence of those clinging to Harusada only continued to spread, and in the following third year, as I described in the previous chapter, Nobuaki found himself in unavoidable circumstances that forced him to retire from office. In the following year, Bunka 1, Harusada's faction finally gained power, and Tadatomo's adopted son Mizuno Dewa-no-kami Tadashige became a Junior Councilor and was appointed to palace duties, gradually attempting to extend his influence into political affairs. **Mizuno Tadashige** Of course, this too was said to originate from Harusada's will. This Tadashige was originally the second son of Okano Bizen-no-kami Tomochika. After Tadanori's separation, he became the adopted son and succeeded Tadatomo. He was quite a schemer, no less than his father, and it was truly this person who greatly disturbed the world in later years. Even though those of Hisada and Tachibana's faction were later dismissed as I mentioned before, Harusada's faction still maintained control over one area of influence. **Margin:** Publisher and Printer: Sanyo Printing Partnership Company, 48 Konya-cho, Toyohashi City; Editor: Nakanishi Kenzo; Publisher and Printer: Kuno [?]kichi **Left Page:** **Margin:** Sanyo Newspaper Issue 4,225 Supplement (Published November 26, Taishō 1) **Main Text:** At this time, Nobuaki's return to office was believed to have involved truly extraordinary difficulties. Moreover, foreign diplomatic problems had already become quite active at that time. **The Arrival of Russian Envoy Rezanov** As you all know, the Russian envoy Rezanov first came to our Nagasaki seeking trade exactly in Bunka 1, which was during Nobuaki's period of resignation. Even before this, from around Kansei 2-3, Russian ships had frequently come to the northern seas, causing various incidents each time. **English Warships Come to Nagasaki** Then, in the year after next following Nobuaki's return to office - that is, in Bunka 5 - English warships came to Nagasaki and conducted raids. The Nagasaki magistrate at the time, Matsudaira Zusho-no-kami Yasuhide, was deeply enraged by their violent behavior and deliberately supplied them with firewood and water to make them careless, planning to catch them off guard and launch a night attack. However, before the recruited soldiers could be assembled, the English ships had already weighed anchor and departed. Yasuhide regretted missing this opportunity and, unable to contain his indignation, committed seppuku - a remarkable incident. **Matsudaira Yasuhide's Death by Indignation** Thus, while our nation's borders faced foreign issues both north and south, and while those like Nobuaki and Tadakazu who had continued Sadanobu's policies had retired, and as I mentioned before, those belonging to Harusada's faction gradually gained power, the capital increasingly indulged in luxury, political discipline gradually loosened, and people's hearts began to flow toward weakness - a situation that seemed to be recreating the Tanuma era. **The Strange Incident at the Fukagawa Hachiman Festival** Indeed, during the Fukagawa Hachiman Shrine festival in Edo on the 19th day of the 8th month of Bunka 4, the parade floats and decorative displays competed in elegance and splendor, drawing crowds of spectators in numbers rarely seen in recent years. As a result, the Eitai Bridge collapsed in the middle, causing over 1,500 drowning deaths - such is the famous story. Given such circumstances, when Nobuaki returned to office, he simultaneously faced this difficult situation and sought governance solely through imperial will. There is also a letter that Sadanobu sent to Nobuaki, preserved in the Ōkōchi family collection, dated the 9th month of Bunka 5, which I believe is truly precious historical material for understanding that time. I would like to first discuss this letter here. **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Situation at the Time of Nobuaki's Return to Office) 333