Code4Lib JAPAN ✕ みんなで翻刻

コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 181

ページ: 181

翻刻

【欄外】    豊橋市史談 (信明復職当時の形勢)                    三百卅四 【本文】        即(すなは)ち此(この)書翰(しよかん)は当時(たうじ)述斉(じつさい)が極密書(ごくみつしよ)として其(その)意見(いけん)を信明(のぶあき)に申送(まをしおく)つたものであるが随分(ずゐぶん)長文句(ながもんく)で先(ま)づ最初(さいしよ)に       は「熟(つらつ)ら世(よ)の中(なか)の有様(ありさま)を考候(かんがへそろ)に古(いにしへ)より二百年 引続(ひきつゞき)たる太平(たいへい)と申事(まをすこと)は書冊(しよさつ)にも見(み)へざる程(ほど)の事(こと)にて        目出度義(めでたきぎ)には候(そうら)へ共(ども)近来(きんらい)人心(じん〳〵)風俗(ふうぞく)の日(ひ)に随(したが)ひ成(な)り降(くだ)り候所(そろところ)歎(なげ)ケ敷事(しきこと)も少(すくな)からず候(そろ)遠(とほ)き事(こと)は暫(しばらく)さし措(お)       き近(ちか)くは私(わたくし)御奉公(ごほうこう)始(はじめ)より十ケ年 程(ほど)の間(あひだ)は誠(まこと)に難有(ありがたき)世風(せふう)に候(そうら)ひき其後(そののち)に至(いた)り候(そうろ)てはひた〳〵と陵遅(れうち)し        朝夕(てうせき)耳目(じもく)に觸(ふ)れ候事共(そろことども)痛脳(つうのう)の事多(ことおほ)く此上(このうへ)の移(うつ)りは甚(はなは)だ掛念仕候事(けねんつかまつりそろこと)に御座候(ござそろ)亥年(ゐのとし)御退職(ごたいしよく)の節(せつ)封書(ふうしよ)を以(もつ)て        人事(じんじ)の変(へん)茲(こゝ)に至候時(いたりそろとき)は此後(このご)如何(いか)なる事(こと)出来(しゆつたい)仕(つかまつ)るべくも計(はか)り難(がた)くと申上候(まをしあげそろ)」と云(い)ふような事(こと)が書(か)いて       ある元来(がんらい)述斉(じつさい)が初(はじ)めて仕官(しくわん)したのは寛政(かんせい)五年で恰(あたか)も定信(さだのぶ)辞職(じしよく)の当年(たうねん)であるが即(すなは)ち其(その)頃(ころ)より享和(けうわ)二年の        頃(ころ)まで前後(ぜんご)十ケ年 許(ばかり)の間(あひだ)は誠(まこと)に有難(ありがた)きよい時世(じせい)であつたがその後(のち)と云(い)ふものは段々(だん〳〵)と世風(せふう)が乱(みだ)れて朝(てう)        夕(せき)耳目(じもく)に觸(ふ)るゝ事柄(ことがら)が心痛(しんつう)の外(ほか)はない夫故(それゆゑ)に享和(けうわ)三年 閣下(かくか)御辞職(ごじしよく)の時(とき)に天災地妖(てんさいちよう)よりは寧(むし)ろ人事(じんじ)の変(へん)       が恐(おそ)るべきであるから速(すみやか)に国家(こくか)の為(ため)に御復職(ごふくしよく)ある様(やう)にと云(い)ふ事(こと)を申上(まをしあげ)て置(お)いたのであると云(い)ふ意(い)を此(こ)        処(こ)に書(か)いたものであるがそれから次(つぎ)に「子年(ねのとし)オロシヤ入船(にふせん)引続(ひきつゞ)き夷狄(いてき)の変(へん)毎年(まいねん)引(ひき)もきらず候様(そろやう)に相成(あひなり)        候(そろ)も又(また)不思儀(ふしぎ)の至(いたり)に御座候(ござそろ)」と云(い)ふ事が書(か)いてあつて又(ま)た其次(そのつぎ)に「其(その)果(はて)奉行(ぶぎやう)の変死(へんし)など申事(まをすこと)道理(どうり)は差(さし)        措(お)き申(まを)さば不吉(ふきち)とも可申事哉(まをすべきことや)に候(そろ)」とあるが子年(ねのとし)とあるのは勿論(もちろん)文化(ぶんくわ)元年(がんねん)でオロシヤの船(ふね)とはレサノ       ツトの長崎(ながさき)に来(き)た事を云(い)つたものであるが奉行(ぶぎやう)の変死(へんし)とは前(まへ)にも申上(まをしあげ)た如(ごと)く長崎奉行(ながさきぶぎやう)松平康英(まつだひらやすひで)が今度(このたび)        切腹(せつぷく)をした事変(じへん)を指(さ)したものであるそれから述斉(じつさい)は此(この)書翰(しよかん)に於(おい)て益々(ます〳〵)筆(ふで)を転(てん)じて漸(やうや)く世(よ)の様(さま)の陵遅(れうち)に        趣(おもむ)き人心(じん〳〵)の腐敗(ふはい)に傾(かたむ)ける事を慨嘆(がいたん)した後(のち)更(さら)に「御退職前(ごたいしよくぜん)より勤来(つとめきた)り候(そろ)御役人(おやくにん)も少(すくな)からず候(そうら)へ共(ども)時世(じせい)に       つれ皆流儀(みなりうぎ)を代(か)へ同(おな)じ人(ひと)にて事は大(おほい)に変(へん)じ申候(まをしそろ)何事(なにごと)も上(かみ)の事(こと)下(しも)へ通(つう)じ申(まを)さず下情(かぜう)は又(ま)た雍閉(えうへい)して上達(ぜうたつ)        仕(つかまつ)らず」云々(うんぬん)「それに付候(つきそうら)ては善(よ)き人(ひと)は善事(ぜんじ)の十 分出来(ぶんでき)申(まを)さざるを憤(いきどほ)り悪(あし)き輩(やから)は却(かへつ)て権威(けんゐ)を弄(ろう)し 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       苞苴を参(さん)じ候事(そろこと)出来(でき)不仕候(つかまつらずそろ)とて恨(うら)み一 世(せ)の君子(くんし)小人(せうにん)ともに一 人(にん)として得意(とくい)のものなく皆(みな)失意仕候(しついつかまつりそろ)に        付寄合候(つきよりあひそろ)へば時(とき)を誹(そし)り人(ひと)を評(へう)し正路(せいろ)の事は絶(たゑ)て之(こ)れなく邪路(じやろ)にばかり目(め)を付(つ)け居申候(をりまをしそろ)」と云(い)ふような       事が書(か)いてあつて最後(さいご)には又(ま)たコウ云(い)ふ事が書(か)いてあるのである「始終(しじう)小人(せうにん)の魁(さきがけ)として毒(どく)を天下(てんか)に        流(なが)すべきは水羽州(みづうしう)に相違(さうゐ)有之間敷(これありまじく)其人(そのひと)小材(せうさい)ありて小人(せうにん)の才(さい)あるものを愛(あい)し候(そろ)手術之有(しゆじつこれあり)前々(ぜん〴〵)よりの所業(しよげうと)        存居候所(ぞんじをりそろところ)も有之(これあり)松泉州(まつせんしう)と無(む)二の交(まじはり)を結(むす)び相互(あひたがひ)に援引(ゑんいん)して世(よ)を一 変(へん)するの含有之(ふくみこれあり)其手(そのて)に付(つ)き候(そろ)小身(せうしん)の        面々(めん〳〵)小才(こさい)あるもの少(すくな)からず(中略)羽州(うしゆう)泉州(せんしゆう)志(こゝろざし)を得候(えそうら)て内外(ないぐわい)釣合候(つりあひそうら)はんとの巧(たく)み其上(そのうへ)に蜷相州(になさうしゆう)へ       も陰(ゐん)に結(むす)び候次第有之(そろしだいこれあり)彼家(かれいへ)所々(しよ〳〵)へ手(て)を入(い)れ候(そろ)妙策(みようさく)おもしろきほどの事も有之(これあり)後年(こうねん)の殃(わざわひ)之(これ)より起(おこ)り候事(そろこと)        必然(ひつぜん)に御座候(ござそろ)」云々(うんぬん)、 即(すなは)ち文中(ぶんちう)水羽州(みづうしゆう)とあるは前(まへ)に申述(まをしの)べた水野出羽守忠成(みづのではのかみたゞしげ)の事で松泉州(まつせんしゆう)とあるのは        松平和泉守乗寛(まつだひらいづみのかみのりひろ)が事(こと)蜷相州(になさうしゆう)とあるのは蜷川相模守親文(にながはさがみのかみちかぶみ)が事(こと)である        右(みぎ)の如(ごと)き訳(わけ)で当時(たうじ)述斉(じつさい)が心中(しんちう)に秘(ひ)せる処(ところ)は以上(いぜう)の如(ごと)きものであつたが遉(さす)がに信明(のぶあき)が復職後(ふくしよくご)と云(い)ふもの       は此(この)水野忠成(みづのたゞしげ)等(ら)も如何(いかん)ともする事が出来(でき)なかつたので一 時(じ)は全(まつた)く其(その)爪(つめ)を収(をさ)めて居(を)つたのであるが果(はた)せ       るかな文化(ぶんくわ)十四年八月 信明(のぶあき)の卒去後(そつきよご)は僅々(きん〳〵)数日(すうじつ)ならざるに忽(たちま)ち忠成(たゞしげ)が勝手掛(かつてがゝり)に任(にん)せられ其翌(そのよく)文政(ぶんせい)元年(がんねん)       八月には早(は)や老中(らうちう)の位置(ゐち)に上(あが)つたと云(い)ふ始末(しまつ)で従(したがつ)て松平和泉守(まつだひらいづみのかみ)等(ら)一 派(ぱ)の人々(ひと〳〵)も時(とき)を得(え)て文政(ぶんせい)年間(ねんかん)か       ら天保(てんぱう)の初年(しよねん)へかけては忠成(たゞしげ)の勢威(せいゐ)実(じつ)に盛大(せいだい)を極(きは)むるに至(いた)つたものであるが平常(へいぜう)の登城(とじよう)にも忠成(たゞしげ)は虎(とら)       の皮(かわ)の鞍置(くらおき)を許(ゆる)されたと云(い)ふ位(くらゐ)で世(よ)の中(なか)は再(ふたゝ)び奢侈(しやし)に陥(おちゐ)り賄賂(わいろ)は殆(ほとん)ど公然(こうぜん)に行(おこな)はるゝと云(い)ふ状態(ぜうだい)で天(てん)        下(か)は実(じつ)に危殆(きたい)の有様(ありさま)に瀕(ひん)したのである即(すなは)ち述斉(じつさい)は信明(のぶあき)に送(おく)つた右(みぎ)の書翰(しよかん)に於(おい)て明(あきらか)に十年 後(ご)の此(この)事態(じたい) 述斉の予言 を予言(よげん)し其(その)先見(せんけん)が少(すこ)しも誤(あやま)らなかつたのであるから炯眼(けいがん)誠(まこと)に驚(おどろ)くの外(ほか)ないと思(おも)ふのであるが之(これ)と同時(どうじ)       に信明(のぶあき)が復職(ふくしよく)以来(いらい)如何(いか)に群小(ぐんせう)を抑制(よくせい)し其(その)在職中(ざいしよくちう)は能(よ)く寛政(かんせい)当時(たうじ)の美風(びふう)を保持(ほぢ)し又(ま)た己(おの)れが主張(しゆてう)をも着(ちやく) 【欄外】    豊橋市史談 (信明復職当時の形勢)                    三百卅五

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(信明復職当時の形勢) 三百三十四 【本文】 即ちこの書翰は当時、定信が極秘書として其の意見を信明に申し送ったものであるが、随分長文で、先ず最初には「つらつら世の中の有様を考えるに、古より二百年引き続いた太平ということは書冊にも見えない程のことで、めでたいことではあるが、近来人心風俗の日に従い成り下がる所、嘆かわしいことも少なからない。遠いことは暫く差し措き、近くは私が御奉公始めより十ヶ年程の間は誠に有難き世風であったが、その後に至っては一途に陵遅し、朝夕耳目に触れることども痛脳のこと多く、この上の移りは甚だ掛念仕ることに御座る。亥年御退職の節、封書を以て人事の変ここに至る時は、この後如何なることが出来するべくも計り難いと申し上げた」というようなことが書いてある。 元来、定信が初めて仕官したのは寛政五年で、恰も定信辞職の当年であるが、即ちその頃より享和二年の頃まで前後十ヶ年許りの間は誠に有難きよい時世であったが、その後というものは段々と世風が乱れて、朝夕耳目に触れる事柄が心痛の外はない。それゆえに享和三年閣下御辞職の時に、天災地妖よりはむしろ人事の変が恐るべきであるから、速やかに国家のために御復職あるようにということを申し上げて置いたのであるという意を、ここに書いたものである。 それから次に「子年オロシヤ入船引き続き、夷狄の変毎年引きも切らない様になったのも、また不思議の至りに御座る」ということが書いてあって、また其の次に「其の果て奉行の変死など申すこと、道理は差し措き申せば不吉とも申すべきことであろうか」とあるが、子年とあるのは勿論文化元年で、オロシヤの船とはレザノフが長崎に来たことを言ったものであるが、奉行の変死とは前にも申し上げたように、長崎奉行松平康英が今度切腹をした事変を指したものである。 それから定信はこの書翰において益々筆を転じて、漸く世の様の陵遅に趣き、人心の腐敗に傾けることを慨嘆した後、更に「御退職前より勤め来たる御役人も少なからないが、時世につれ皆流儀を代え、同じ人にて事は大いに変じ申す。何事も上のこと下へ通じ申さず、下情はまた壅蔽して上達仕らず」云々「それについては善き人は善事の十分出来申さざるを憤り、悪しき輩は却って権威を弄し 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏は其の該博なる知識と不尽の精力を傾け、豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際し 【左頁】 【欄外】 この豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し、参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 賄賂を参じることが出来ないとて恨み、一世の君子小人ともに一人として得意のものなく、皆失意仕るについて、寄り合えば時を謗り人を評し、正路のことは絶えてこれなく、邪路にばかり目を付けており申す」というようなことが書いてあって、最後にはまたこう言うことが書いてあるのである。 「始終小人の魁として毒を天下に流すべきは水羽州に相違あるまじく、其の人小材ありて小人の才あるものを愛し候。手術これあり、前々よりの所業と存じおる所もあり、松泉州と無二の交わりを結び、相互に援引して世を一変するの含みこれあり。其の手に付く小身の面々、小才あるもの少なからず(中略)羽州泉州志を得て、内外釣り合わんとの巧み、其の上に蜷相州へも陰に結ぶ次第あり。彼の家所々へ手を入れる妙策、面白きほどのこともあり、後年の災いこれより起こることは必然に御座る」云々 即ち文中水羽州とあるは前に申し述べた水野出羽守忠成のことで、松泉州とあるのは松平和泉守乗寛のこと、蜷相州とあるのは蜷川相模守親文のことである。 右のような訳で、当時定信が心中に秘せる処は以上のようなものであったが、さすがに信明が復職後というものは、この水野忠成等も如何ともすることが出来なかったので、一時は全くその爪を収めていたのであるが、果たせるかな文化十四年八月信明の卒去後は、僅々数日ならざるに忽ち忠成が勝手掛りに任ぜられ、其の翌文政元年八月には早や老中の位置に上ったという始末で、従って松平和泉守等一派の人々も時を得て、文政年間から天保の初年へかけては忠成の勢威実に盛大を極めるに至ったものである。 平常の登城にも忠成は虎の皮の鞍置きを許されたという位で、世の中は再び奢侈に陥り、賄賂は殆ど公然に行われるという状態で、天下は実に危殆の有様に瀕したのである。 **定信の予言** 即ち定信は信明に送った右の書翰において明らかに十年後のこの事態を予言し、その先見が少しも誤らなかったのであるから、炯眼誠に驚くの外ないと思うのであるが、これと同時に信明が復職以来如何に群小を抑制し、その在職中は能く寛政当時の美風を保持し、また己れが主張をも着 【欄外】 豊橋市史談(信明復職当時の形勢) 三百三十五

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Situation at the Time of Nobuaki's Return to Office) 334 **Main Text:** This letter was one that Sadanobu sent to Nobuaki as a top-secret document containing his opinions at the time. It was quite lengthy, and it began with: "Reflecting carefully on the state of the world, the two hundred years of continuous peace since ancient times is something rarely seen in historical records, and while this is indeed fortunate, the daily decline in people's hearts and customs in recent times has brought no small number of lamentable matters. Setting aside distant matters for now, in the near past, the ten years or so from when I began my service were truly blessed with favorable social conditions. However, since then, there has been nothing but steady decline, and the matters that meet my eyes and ears morning and evening are mostly painful. I am deeply concerned about what further changes may come. When you retired in the year of the boar, I wrote in a sealed letter that when human affairs reach this state, it is impossible to predict what may happen next." Originally, Sadanobu first entered government service in Kansei 5, exactly the year of Sadanobu's resignation. From that time until around Kyōwa 2, for about ten years, it was truly a blessed and good era. However, after that, social customs gradually became disordered, and the matters encountered morning and evening brought nothing but heartache. Therefore, when His Lordship resigned in Kyōwa 3, I advised that changes in human affairs were more fearsome than natural disasters and earthly omens, and urged a swift return to office for the sake of the nation - this is the meaning written here. Next, it states: "Since the rat year when Russian ships arrived, barbarian troubles have continued without cease each year, which is also most strange." And then: "The violent death of a magistrate and such matters - setting aside the reasoning - might indeed be called inauspicious." The rat year mentioned is of course Bunka 1, and the Russian ships refer to Rezanov's arrival at Nagasaki. The violent death of a magistrate refers to the recent incident of Nagasaki Magistrate Matsudaira Yasuhide's seppuku, as I mentioned before. From there, Sadanobu increasingly turned his brush to lament how the world had gradually declined and people's hearts had turned toward corruption, and then wrote: "There are not a few officials who have served since before your retirement, but following the times, they have all changed their ways, and though they are the same people, matters have greatly changed. Nothing from above reaches below, and lower sentiments are blocked and do not reach above." And so on: "Therefore, good people become indignant that they cannot fully accomplish good deeds, while evil people instead manipulate authority and **Margin:** Mayor of Toyohashi Ōguchi Kiroku has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling the history of Toyohashi City for over a year, and now as his manuscript nears completion **Left Page:** **Margin:** This Toyohashi City Historical Discourse is published once a week (Tuesdays) and presented to readers of the Sanyo Newspaper **Main Text:** resent their inability to offer bribes. Among the gentlemen and petty men of this generation, not one is satisfied, and all are disappointed. When they gather, they criticize the times and judge people; there is nothing of the righteous path, and they focus only on evil ways." Finally, it contains this statement: "The one who will certainly lead the petty men and spread poison throughout the realm is undoubtedly Mizu-Ushū. This person has small talents and loves those with the talents of petty men. He has techniques, and I am aware of his past conduct. He has formed an inseparable bond with Matsu-Senshū, and they mutually support each other with the intention of completely changing the world. Among the lower-ranking people who follow him, there are not a few with small talents... When Ushū and Senshū achieve their ambitions and balance internal and external affairs through their schemes, they also have secret connections with Nina-Sōshū. Their ingenious strategies for infiltrating that house and various places are quite remarkable, and future disasters will inevitably arise from this." In the text, Mizu-Ushū refers to Mizuno Dewa-no-kami Tadashige mentioned earlier, Matsu-Senshū refers to Matsudaira Izumi-no-kami Norihiro, and Nina-Sōshū refers to Ninagawa Sagami-no-kami Chikafumi. Given these circumstances, Sadanobu's innermost thoughts at the time were as described above. However, after Nobuaki's return to office, even Mizuno Tadashige and others could do nothing against him, so for a time they completely retracted their claws. But sure enough, after Nobuaki's death in the 8th month of Bunka 14, within just a few days Tadashige was appointed to financial affairs, and in the 8th month of the following year, Bunsei 1, he had already risen to the position of Senior Councilor. Consequently, Matsudaira Izumi-no-kami and others of his faction also found their opportunity, and from the Bunsei era through the early Tenpō period, Tadashige's power and authority reached truly magnificent heights. Even for ordinary castle attendance, Tadashige was permitted to use a tiger-skin saddle blanket, showing his status. The world again fell into luxury, bribes were conducted almost openly, and the realm truly approached a state of danger. **Sadanobu's Prophecy** Indeed, in the letter Sadanobu sent to Nobuaki, he clearly prophesied this situation ten years later, and his foresight was not mistaken in the slightest. His keen insight is truly astonishing. At the same time, it shows how Nobuaki suppressed the petty officials after his return to office, maintained the good customs of the Kansei era during his tenure, and implemented his own policies. **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Situation at the Time of Nobuaki's Return to Office) 335