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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 182

ページ: 182

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【欄外】    豊橋市史談 (松平信明と外交関係)                    三百卅六 【本文】        着(ちやく)実行(じつかう)したと云(い)ふ事(こと)に想到(さうたう)すれば其(その)苦心(くしん)の程(ほど)も思(おも)ひやらるゝが又(ま)た其(その)人物(じんぶつ)の非凡(ひぼん)であつた事も推測(すゐそく)さ       るゝと思(おも)ふのである先(ま)づ此(この)話(はなし)は此処(ここ)らに止(とゞ)めて尚(なほ)之(これ)から私(わたくし)は信明(のぶあき)と外交(ぐわいかう)に関(くわん)する事柄(ことがら)に就(つい)て少(すこ)しく申(まをし)        述(の)ぶる処(ところ)がありたいと思(おも)ふのである             ⦿松平信明と外交関係        抑(そも〳〵)露国人(ろこくじん)が初(はじ)めて蝦夷地(えぞのち)に入込(いりこ)むに至(いた)つたのは余程(よほど)以前(いぜん)の事で明和(めいわ)二年にイバンレエンチゝと云(い)ふ露(ろ)        国人(こくじん)が蝦夷地(えぞのち)の内(うち)レシヤハ島(とう)に来(きた)り其(その)翌々年(よく〳〵ねん)迄(まで)択捉島(えとろふとう)やウルツプ島(とう)の間(あひだ)に越年(ゑつねん)して皈帆(きはん)するに方(あた)り土(ど)        人(じん)に対(たい)して乱暴(らんぼう)を働(はたら)いたのが最初(さいしよ)であると伝(つた)へられて居(を)る然(しか)るに安永(あんせい)【あんえいの誤り】七年には根室(ねむろ)に上陸(ぜうりく)して通商(つうせう)を        求(もと)め其(その)後(ご)屡(しば〳〵)来航(らいかう)して遂(つひ)には千島群島(ちしまぐんとう)の内(うち)に移住(いぢう)せるものすらありしも従来(じうらい)は之(これ)を松前侯(まつまへかう)に任(まか)せきりで        幕府(ばくふ)は余(あま)り干渉(かんせう)しなかつたのであるが天明(てんめい)五年に至(いた)り遂(つひ)に捨置(すてお)かれぬ事(こと)となつたので幕府(ばくふ)から勘定奉(かんでうぶ) 松本伊豆守  行(ぎやう)松本伊豆守(まつもといづのかみ)に命(めい)じて其(その)属吏(ぞくり)を蝦夷地(えぞのち)に派遣(はけん)せしめて巡視(じゆんし)せしめたがそれが其(その)翌年(よくねん)になつて復命(ふくめい)した       のである然(しか)るに其(その)時(とき)には丁度(ちようど)将軍(せうぐん)家治(いへはる)が薨去(こうきよ)に際(さい)したのであるが其(その)後(のち)定信(さだのぶ)が補佐職(ほさしよく)となつても例(れい)の田(た) 最上徳内   沼処分(ぬましよぶん)やら色々(いろ〳〵)で手(て)廻(まは)り兼(か)ねた有様(ありさま)であつたが寛政(かんせい)四年には蝦夷地(えぞのち)の経営(けいえい)は実(じつ)に急務(きふむ)であると云(い)ふの       で最上徳内常矩(もがみとくないつねのり)と云(い)ふ人(ひと)を派遣(はけん)したのである此(この)人(ひと)は其(その)以前(いぜん)天明(てんめい)六年に既(すで)に一度(ひとたび)単身(たんしん)で北地(ほくち)の探検(たんけん)をな       し具(つぶさ)に辛苦(しんく)を甞(な)めて彼(か)の地(ち)にて露人(ろじん)にも会(あ)つて来(き)たので曩(さき)に其(その)意見書(いけんしよ)を採用(さいよう)して定信(さだのぶ)が之(これ)を普請役(ふしんやく)に 《割書:露国我が漂|流民を送り|来る》   登用(とうよう)したのであるが今度(こんど)復(ま)た此(この)人(ひと)を派遣(はけん)することになつたのである然(しか)るに其(その)年(とし)の十月 露国(ろこく)の大船(たいせん)が根室(ねむろ)       に来(き)て我国(わがくに)の漂流人(へうりうにん)幸太夫(かうたいう)、 小市(こいち)、 磯吉(いそきち)と云(い)ふ三 人(にん)を護送(ごそう)して通商(つうせう)を求(もと)め国書(こくしよ)並(ならび)に方物(ほうもつ)【宝物か】を江戸(えど)へ致(いた)さ       むことを請(こ)つたのである其(その)使節(しせつ)はアダム、ラツクスマンと云(い)ふ人(ひと)で一 行(かう)は四十一 人(にん)であつたがソコで松(まつ) 【欄外】        発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千二百三十一号附録    (大正元年十二月三日発行) 【本文】        前家(まへけ)に於ては其(その)事(こと)を幕府(ばくふ)に急報(きふほう)して指揮(しき)を請(こ)つたのであるから幕府(ばくふ)に於ては即(すなは)ち目付(めつけ)石川将監忠房(いしかはせうげんたゞふさ)、        村上大学義礼(むらかみだいがくぎれい)、 御徒目付(おんかちめつけ)後藤(ごとう)十 次郎(じらう)を松前(まつまへ)に派遣(はけん)し之(これ)等(ら)の人々は其(その)翌年(よくねん)松前(まつまへ)に於て露国(ろこく)の使節(しせつ)等(ら)と会(くわい)        見(けん)して我国(わがくに)では長崎(ながさき)以外(いぐわい)の地(ち)では外国(ぐわいこく)との通商(つうせう)は相(あひ)ならぬ定(さだめ)であるから兎(と)に角(かく)速(すみやか)に此処(こゝ)をば立去(たちさ)る 《割書:露国使節に|信牌を与ふ》  がよいと云ふ事を告(つ)げて米(こめ)其他(そのた)薪水(しんすゐ)を供給(けふきう)し且(か)つ左(さ)の信牌(しんはい)を与(あた)へて去(さ)らしめたのである        オロシヤの船(ふね)一 艘(そう)長崎(ながさき)に至(いた)るため験(しらべ)の事(こと)         爾(なんぢ)等(ら)諭(さと)す旨(むね)を承諾(せうだく)して長崎(ながさき)に至(いた)らむとす抑(そも〳〵)切支丹(きりしたん)の教(おしへ)は我国(わがくに)の大禁也(たいきんなり)其(その)像(ぜう)及(およ)び器物(きぶつ)書物(しよもつ)等(とう)を持来(もちきた)る        事なかれ必(かならず)害(がい)せらるゝことならむ此(この)旨(むね)能(よく)格遵(かくじゆん)して彼地(かのち)に至らば猶(なほ)研究(けんきう)して上陸(ぜうりく)をゆるすべき也                                 石  川  将  監  判                                 村  上  大  学  判          寛政五年六月廿七日        時(とき)宛(あたか)も江戸(えど)に於ては彼(か)の尊号事件(せうごうじけん)で中山(なかやま)正親町(おほぎまち)の二 卿(けう)が東下(とうか)されて喧(やか)ましかつたのであるがそれも此(この)        年(とし)の三月 僅(わづか)に其(その)局(きよく)を結(むす)むだのである併(しか)し松前(まつまへ)に於て此(この)信牌(しんはい)を与(あた)へた翌月 即(すなは)ち七月の廿三日には前(まへ)にも        申述(まをしの)べた如く定信(さだのぶ)は急(きふ)に補佐(ほさ)の職(しよく)を退(しりぞ)いたと云ふ始末(しまつ)で中々(なか〳〵)騒(さは)がしかつた其(その)中(なか)へ石川将監(いしかはせうげん)等(ら)は前(まへ)にも        申述(まをしの)ぶる如く兎(と)に角(かく)一時を彌縫(ひほう)して十二月に皈着(きちやく)し露国人(ろこくじん)との会見(くわいけん)の顛末(てんまつ)を幕府(ばくふ)に報告(ほうこく)したのである       かくて蝦夷(えぞ)の経営(けいえい)も又々二三年間 等閑(とうかん)に付(ふ)せられて居(を)つたが彼(か)の漂流民(ひようりうみん)が江戸(えど)に到着(とうちやく)した時 将軍(せうぐん)家斉(いへなり)       は親(みづか)ら吹上馬見所(ふきあげうまみしよ)に召(め)して之(これ)を見(み)たのみならず有司(いうじ)をして漂流(ひようりう)の顛末(てんまつ)をも尋問(じんもん)せしめたのでそれ等(ら)が 《割書:寛政九年の|発令》   動機(どうき)となつて余程(よほど)彼国(かのくに)の事情(じぜう)を詳(つまびらか)にする事が出来(でき)たものと見(み)え即(すなは)ち寛政(かんせい)九年十二月 幕府(ばくふ)は左(さ)の命(めい)を 【欄外】    豊橋市史談 (松平信明と外交関係)                    三百卅七

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(松平信明と外交関係) 三百三十六 【本文】 実際に実行したということを思うと、その苦心の程も思いやられるが、またその人物の非凡であったことも推測されると思うのである。先ずこの話はここらに止めて、なお これから私は信明と外交に関する事柄について少しく申し述べる処がありたいと思うのである。 **松平信明と外交関係** そもそもロシア人が初めて蝦夷地に入り込むに至ったのは余程以前のことで、明和二年にイワン・レーエンチッチという ロシア人が蝦夷地の内のレシャバ島に来て、その翌々年まで択捉島やウルップ島の間に越年して帰帆するに当たり、土人に対して乱暴を働いたのが最初であると伝えられている。しかるに安永七年には根室に上陸して通商を求め、その後屡々来航して遂には千島群島の内に移住せる者すらあったが、従来はこれを松前侯に任せ切りで、幕府は余り干渉しなかったのである。しかし天明五年に至り遂に捨て置かれぬこととなったので、幕府から勘定奉行松本伊豆守に命じて、その属吏を蝦夷地に派遣させて巡視させたが、それが その翌年になって復命したのである。 **松本伊豆守** しかるにその時には丁度将軍家治が薨去に際したのであるが、その後定信が補佐職となっても、例の田沼処分やら色々で手回りかねた有様であったが、寛政四年には蝦夷地の経営は実に急務であるということで、最上徳内常矩という人を派遣したのである。 **最上徳内** この人はその以前天明六年に既に一度単身で北地の探検をなし、具さに辛苦を嘗めて彼の地にて露人にも会って来たので、さきにその意見書を採用して定信がこれを普請役に登用したのであるが、今度復た この人を派遣することになったのである。 **《小字:ロシアが我が漂流民を送り来る》** しかるにその年の十月、ロシアの大船が根室に来て、我が国の漂流人である幸太夫、小市、磯吉という三人を護送して通商を求め、国書並びに方物を江戸へ致すことを請うたのである。その使節はアダム・ラクスマンという人で、一行は四十一人であったが、そこで松 【欄外】 発行兼印刷所 豊橋市紺屋町四十八番戸 参陽印刷合資会社 編輯人 中西謙三 発行兼印刷人 久野〇吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千二百三十一号附録(大正元年十二月三日発行) 【本文】 前家においてはその事を幕府に急報して指揮を請うたのであるから、幕府においては即ち目付石川将監忠房、村上大学義礼、御徒目付後藤十次郎を松前に派遣し、これ等の人々はその翌年松前において露国の使節等と会見して、我が国では長崎以外の地では外国との通商は相ならぬ定めであるから、とにかく速やかにここを立ち去るがよいということを告げて、米その他薪水を供給し、且つ左の信牌を与えて去らしめたのである。 **《小字:露国使節に信牌を与ふ》** オロシヤの船一艘長崎に至るため験の事 汝等諭す旨を承諾して長崎に至らんとす。そもそもキリシタンの教は我が国の大禁なり。その像及び器物書物等を持ち来ることなかれ。必ず害せらるることならん。この旨能く格遵して彼地に至らば、なお研究して上陸を許すべきなり。 石川将監 判 村上大学 判 寛政五年六月廿七日 時恰も江戸においては、かの尊号事件で中山・正親町の二卿が東下されて喧ましかったのであるが、それもこの年の三月僅かにその局を結んだのである。しかし松前においてこの信牌を与えた翌月、即ち七月の廿三日には前にも申し述べたごとく定信は急に補佐の職を退いたという始末で、中々騒がしかった。その中へ石川将監等は前にも申し述べるごとく、とにかく一時を弥縫して十二月に帰着し、露国人との会見の顛末を幕府に報告したのである。 かくて蝦夷の経営もまた二三年間等閑に付せられていたが、かの漂流民が江戸に到着した時、将軍家斉は親ら吹上馬見所に召してこれを見たのみならず、有司をして漂流の顛末をも尋問させたので、それ等が動機となって余程彼国の事情を詳らかにすることが出来たものと見え、即ち寛政九年十二月、幕府は左の命を **《小字:寛政九年の発令》** 【欄外】 豊橋市史談(松平信明と外交関係) 三百三十七

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Nobuaki and Foreign Relations) 336 **Main Text:** When we consider that he actually implemented these policies, we can imagine the extent of his struggles, and we can also infer that his character was extraordinary. Let me stop this story here for now, and I would like to discuss matters concerning Nobuaki and foreign relations. **Matsudaira Nobuaki and Foreign Relations** Originally, Russians first entered Ezo territory quite some time ago. In Meiwa 2, a Russian named Ivan Reenchich came to Reshaba Island in Ezo territory, and until the year after next, he wintered between Etorofu Island and Uruppu Island. When he departed, he committed violence against the natives, which is said to be the first such incident. Later, in An'ei 7, they landed at Nemuro seeking trade, and after that they came frequently, with some even settling in the Kuril Islands. Previously, this had been left entirely to the Matsumae lord, and the shogunate did not interfere much. However, by Tenmei 5, it could no longer be ignored, so the shogunate ordered Accounting Magistrate Matsumoto Izu-no-kami to dispatch his subordinates to Ezo territory for inspection, and they reported back the following year. **Matsumoto Izu-no-kami** However, at that time, Shogun Ieharu had just died, and even after Sadanobu became assistant, he was too busy with the Tanuma affair and other matters. But in Kansei 4, the development of Ezo territory became truly urgent, so a man named Mogami Tokunai Tsunenori was dispatched. **Mogami Tokunai** This man had already conducted a solo expedition to the northern territories in Tenmei 6, enduring great hardships and even meeting Russians there. His opinion paper had been adopted earlier, and Sadanobu had promoted him to construction magistrate. Now this same person was being dispatched again. **《Small text: Russia sends back our castaways》** However, in the 10th month of that year, a large Russian ship came to Nemuro, escorting three Japanese castaways named Kōtayū, Koichi, and Isokichi, seeking trade and requesting to deliver a state letter and tribute to Edo. The envoy was a man named Adam Laxman, and his party numbered forty-one. So the Matsu- **Margin:** Publisher and Printing Office: Sanyō Printing Partnership Company, 48 Konyamachi, Toyohashi City / Editor: Nakanishi Kenzō / Publisher and Printer: Kuno [?]kichi **Left Page:** **Margin:** Sanyō Newspaper No. 4231 Supplement (Published December 3, Taishō 1) **Main Text:** -mae house urgently reported this matter to the shogunate and requested instructions. The shogunate immediately dispatched Inspector Ishikawa Shōgen Tadafusa, Murakami Daigaku Girei, and Foot Inspector Gotō Jūjirō to Matsumae. These men met with the Russian envoys in Matsumae the following year and told them that in our country, trade with foreign countries is not permitted anywhere except Nagasaki, so they should depart from here promptly. They supplied rice and other provisions and firewood and water, and gave them the following letter of passage before sending them away. **《Small text: Giving a letter of passage to the Russian envoys》** Concerning the inspection of one Russian ship proceeding to Nagasaki: You accept what we have explained and wish to go to Nagasaki. The Christian religion is strictly forbidden in our country. Do not bring any images, vessels, books, or other such items. You will certainly be harmed if you do. If you strictly observe this and reach that place, we will investigate further and may permit you to land. Ishikawa Shōgen (seal) Murakami Daigaku (seal) Kansei 5, 6th month, 27th day At exactly that time in Edo, there was great commotion over the honorary title incident, with Lords Nakayama and Ōgimachi coming east, but this matter was barely resolved in the 3rd month of that year. However, the month after giving this letter of passage at Matsumae - that is, on the 23rd day of the 7th month - Sadanobu suddenly resigned from his assistant position, as I mentioned before. It was quite turbulent. Meanwhile, Ishikawa Shōgen and others, as I mentioned before, somehow managed to patch things up temporarily, returned in the 12th month, and reported to the shogunate on their meeting with the Russians. Thus the development of Ezo was again neglected for two or three years. But when those castaways arrived in Edo, Shogun Ienari personally summoned them to the Fukiage horse-viewing pavilion to see them, and had officials question them about the details of their drifting. This apparently served as motivation to learn much about that country's circumstances, and in the 12th month of Kansei 9, the shogunate issued the following order: **《Small text: The edict of Kansei 9》** **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Nobuaki and Foreign Relations) 337