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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 184

ページ: 184

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【欄外】    豊橋市史談  (松平信明と外交関係)                    三百四十 【本文】        理屈(りくつ)に合(あ)はぬ事と信(しん)ぜられるからである蓋(けだ)し信明(のぶあき)が蝦夷開拓(えぞかいたく)直営説(ちよくえいせつ)の主唱者(しゆせうしや)であつた事は又た事実(じじつ)と        信(しん)ぜられるのであるが其(その)熱心(ねつしん)に蝦夷(えぞ)の研究(けんきう)を重(かさ)ねた証拠物(せうこぶつ)は今(いま)も段々(だん〴〵)発見(はつけん)さるゝ次第(しだい)である兎(と)に角(かく)時(とき) 松平信濃守 の幕議(ばくぎ)は前(ぜん)申述(まをしの)ぶる如く直営(ちよくえい)を以て蝦夷(えぞ)を開拓(かいたく)することに一 決(けつ)し松平信濃守忠明(まつだひらしなのゝかみたゞあき)を以て蝦夷地(えぞち)の警衛(けいゑい)に        任(にん)じ石川忠房(いしかはたゞふさ)並(ならび)に羽太庄左衛門正養(はぶとせうさゑもんせうやう)及(およ)び大河内正壽(おほかうちまさかず)、 三橋成方(みつはしなりかた)をも同(おな)じく其(その)役(やく)に任(にん)じたのであるが此(この) 《割書:羽太正養の|休明光記》   羽太正養(はぶとせうやう)と云ふは後(のち)に安芸守(あきのかみ)となつた人で此(この)人(ひと)の著書(ちよしよ)にも「休明光記(きうめいくわうき)」と云ふものがあるが之(これ)亦(ま)た蝦夷(えぞ)       の事を書(か)いた書物(しよもつ)で己(おの)れが関係(くわんけい)した最初(さいしよ)から文化(ぶんか)四年まで自身(じしん)在職中(ざいしよくちう)の事柄(ことがら)を残(のこ)りなく記録(きろく)したもの       である誠(まこと)に此(この)当時(たうじ)に於ける蝦夷経営(えぞけいえい)に関(くわん)する事情(じぜう)を知(し)るには究竟(きうけう)の記録(きろく)であるがサテ幕府(ばくふ)は此(かく)の如き 間宮林蔵   次第(しだい)で一方に開拓(かいたく)の事を進(すゝ)むると同時(どうじ)に一方には北海(ほくかい)の探検(たんけん)をも勉(つと)めしめたので彼(か)の間宮林蔵(まみやりんざう)などゝ       云ふ人は此(この)探検(たんけん)の為には頗(すこぶ)る困苦(こんく)を甞(な)めたものである即(すなは)ち樺太(かばふと)から進(すゝ)むで大陸(たいりく)に入(い)り黒龍江(こくりうこう)を渡(わた)り山(さん)        海関(かいくわん)までも入(い)り込(こ)むだのであるが幕府(ばくふ)は又た寛政(かんせい)十二年に伊能忠敬(いのうたゞよし)をして蝦夷地(えぞち)の測量(そくれう)をもなさしめ 《割書:伊能忠敬の|地図》  たのである此(この)時(とき)忠敬(たゞよし)自身(じしん)に製作(せいさく)した蝦夷(えぞ)の図面(づめん)が今(いま)も大河内家(おほかうちけ)に保存(ほそん)してあるが此(この)図面(づめん)は実(じつ)に天下(てんか)の        逸品(いつぴん)であると思(おも)ふ之(これ)も信明(のぶあき)が当時(たうじ)主(しゆ)として此(この)事(こと)を実行(じつかう)せしめた結果(けつくわ)であると信(しん)じて疑(うたが)はざる次第(しだい)であ 《割書:伊能忠敬と|松平信明》  るが元来(がんらい)此(この)伊能忠敬(いのうたゞよし)と云ふひと人は松平信定信(まつだひらさだのぶ)がまだ補佐(ほさ)の職(しよく)にあつた頃(ころ)から幕命(ばくめい)を受(う)けて全国(ぜんこく)の海岸(かいがん)を測(そく)        量(れう)したものであることは諸君(しよくん)が御承知(ごせうち)の如(ごと)くである然(しか)るに定信(さだのぶ)退職後(たいしよくご)は矢張(やはり)信明(のぶあき)が最(もつと)も之(これ)等(ら)の事に鞅掌(おうせう)       したもので忠敬(たゞよし)の製作(せいさく)にかゝる日本全国(にほんぜんこく)の地図(ちづ)は右(みぎ)の蝦夷図(えぞづ)以外(いぐわい)に今(いま)悉(こと〴〵)く揃(そろ)つて大河内家(おほかうちけ)に残(のこ)つて       居るのである又(また)東京(とうけう)の帝国大学(ていこくだいがく)にも殆(ほとん)ど之(これ)と同様(どうやう)なる地図(ちづ)が保存(ほぞん)されて居るが之(これ)は或(あるひ)は幕府(ばくふ)に伝(つた)はつ       たものであろうかと思(おも)はれる先年(せんねん)遠州(ゑんしう)の浜松辺(はままつへん)でも忠敬(たゞよし)に地図(ちづ)が壱 枚(まい)発見(はつけん)せられたと云ふので頗(すこぶ)る喧(やかま)       しい問題(もんだい)であつたがそれ等(ら)に比(ひ)すれば実(じつ)に大河内家(おほかうちけ)に残(のこ)つて居(を)るものは絶品(ぜつぴん)とも称(せう)すべきで学術上(がくじつぜう)に 【欄外】        発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千二百三十七号附録    (大正元年十二月十日発行) 【本文】        取(と)りても容易(ようい)ならざる参考(さんかう)となるべきものであると考(かんが)へる       サテ話(はなし)は少(すこ)し横道(よこみち)に入(い)つたが初(はじ)めに戻(もど)る事として寛政(かんせい)と云ふ年号(ねんがう)は御承知(ごせうち)の如く其十三年目と於(おい)て享(けう) 蝦夷奉行   和(わ)と改(あらた)まつたのであるが其(その)享和(けうわ)の二年に至(いた)つて幕府(ばくふ)は初めて蝦夷奉行(えぞぶぎよう)と云ふものを置(お)き羽太正養(はぶとせいやう)、 戸(と)        川筑前守安倫(がはちくぜんのかみやすとも)を以(もつ)て之(これ)に命(めい)じたが之(これ)等(ら)は皆(みな)申(まを)す迄(まで)もなく信明(のぶあき)が幕政(ばくせい)の衝(せう)に当(あた)れる時代(じだい)である然(しか)るに前       にも申述(まをしの)べたる通(とほ)り信明(のぶあき)は其(その)翌年(よくねん)即(すなは)ち享和(けうわ)三年を以(もつ)て老中(らうちう)の職(しよく)を辞(じ)し一 時(じ)幕政(ばくせい)と関係(くわんけい)を絶(た)つに至(いた)つた 《割書:露国使節レ|サノツト長|崎に来る》  のであるが其(その)辞職中(じしよくちう)享和(けうわ)は文化(ぶんくわ)と改(あらた)まつた其(その)元年(がんねん)に彼(か)の露国(ろこく)の使節(しせつ)レサノツトは長崎(ながさき)へヤツテ来(き)て曩(さき)       に松前(まつまへ)に於て渡(わた)した彼(か)の信牌(しんはい)を持参(ぢさん)し切(せつ)に通商(つうせう)を求(もと)めたのである其(その)時(とき)幕府(ばくふ)の当局者(たうきよくしや)が之(これ)に対(たい)してなし       た処置(しよち)は頗(すこぶ)る其(その)当(たう)を得(え)なかつたのでレサノツトも大(おほい)に憤怨(ふんえん)して皈(かへ)つた様子(やうす)であるが其(その)後(のち)文化(ぶんくわ)三年 即(すなは)ち 《割書:露船北海に|寇す》   信明(のぶあき)復職(ふくしよく)の年(とし)に露船(ろせん)は又た樺太(かばふと)に来(きた)りて今度(このたび)は中々(なか〳〵)乱暴(らんぼう)を働(はたら)いた上(うへ)戌卒(じうそつ)四人を捕(とら)へて去(さ)つたと云ふ始(し)        末(まつ)であつたが其(その)四年四月には再(ふたゝ)び択捉(えとろふとう)ウルツプ諸島(しよとう)に寇(こう)し且(か)つ理井尻(りゐじり)に来(きた)つて前(まへ)に捕(とら)へし戌卒(じうそつ)をし       て書翰(しよかん)を齎(もた)らさしめ若(も)し通商(つうせう)を許(ゆる)さぬに於(おい)ては明年(みようねん)大挙(たいきよ)して攻(せ)め来(きた)るからソウ思(おも)へと云はしめたので       あるソコで此(この)事(こと)が幕府(ばくふ)の評議(へうぎ)となつたのであるが此(この)時(とき)林述斉(はやしじつさい)が満腔(まんくう)の意見(いけん)を認(したゝ)めて信明(のぶあき)に差出(さしだ)した書(しよ)       翰(かん)が今(いま)も大河内家(おほかうちけ)に残(のこ)つて居(を)るのであるコレは中々(なか〳〵)面白(おもしろ)いものであるから少(すこ)し長(なが)くはなるが段々(だん〴〵)と左(さ)       に申述(まをしの)べようと思(おも)ふのである 《割書:述斉の信明|に上りし意|見》   先(ま)づ述斉(じつさい)の此(この)書翰(しよかん)には溯(さかのぼつ)てレサノツトが長崎(ながさき)に来(きた)つた時(とき)の事(こと)から批評(ひへう)してある         此度(このたび)の大議(たいぎ)深々(ふか〴〵)相考候得(あひかんがへそうらへ)ば始終(しじう)へ懸(か)けいづれの方(はう)御決着有之候(ごけつちやくこれありそうろ)ても十 全(ぜん)の事には相成申間敷(あひなりまをしまじく)実(じつ)         以(もつて)心痛(しんつう)不過之事哉(これにすぎざることや)と奉存候(ぞんじたてまつりそろ)其(その)病源(べうげん)を窺候(うかがひそうら)へば長崎(ながさき)へ使節(しせつ)差越候節(さしこしそうろせつ)大機会(だいきくわい)をはづし事々失着(じゞしつちやく)        に相成(あひな)り此(この)末(すゑ)いかように仕(つかまつり)候ても取直(とりなほ)しは出来申間敷たとへば大病人(だいびようにん)を一 度(ど)誤治仕(ごぢつかまつり)病症(びようせう)一 変(ぺん)の後(のち) 【欄外】    豊橋市史談  (松平信明と外交関係)                    三百四十一

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(松平信明と外交関係) 三百四十 【本文】 理屈に合わない事と信じられるからである。おそらく信明が蝦夷開拓直営説の主唱者であったことは、また事実と信じられるのであるが、その熱心に蝦夷の研究を重ねた証拠物は今も段々発見される次第である。 とにかく時の幕議は前に申し述べるごとく、直営をもって蝦夷を開拓することに一決し、松平信濃守忠明をもって蝦夷地の警衛に任じ、石川忠房並びに羽太庄左衛門正養および大河内正寿、三橋成方をも同じくその役に任じたのであるが、この羽太正養という人は後に安芸守となった人で、この人の著書にも「休明光記」というものがあるが、これもまた蝦夷の事を書いた書物で、己れが関係した最初から文化四年まで、自身在職中の事柄を残りなく記録したものである。 **松平信濃守** **《小字:羽太正養の休明光記》** 誠にこの当時における蝦夷経営に関する事情を知るには究竟の記録であるが、さて幕府はこのような次第で、一方に開拓の事を進むると同時に、一方には北海の探検をも勉めさせたので、かの間宮林蔵などという人は、この探検のためには頗る困苦を嘗めたものである。 **間宮林蔵** すなわち樺太から進んで大陸に入り、黒龍江を渡り、山海関までも入り込んだのであるが、幕府はまた寛政十二年に伊能忠敬をして蝦夷地の測量をもなさしめたのである。 **《小字:伊能忠敬の地図》** この時、忠敬自身に製作した蝦夷の図面が今も大河内家に保存してあるが、この図面は実に天下の逸品であると思う。これも信明が当時主としてこの事を実行させた結果であると信じて疑わざる次第であるが、元来この伊能忠敬という人は、松平定信がまだ老中の職にあった頃から幕命を受けて全国の海岸を測量したものであることは諸君が御承知のごとくである。 **《小字:伊能忠敬と松平信明》** しかるに定信退職後は、やはり信明が最もこれ等の事に鞅掌したもので、忠敬の製作にかかる日本全国の地図は、右の蝦夷図以外に今悉く揃って大河内家に残っているのである。また東京の帝国大学にもほとんどこれと同様なる地図が保存されているが、これは或いは幕府に伝わったものであろうかと思われる。先年、遠州の浜松辺でも忠敬の地図が壱枚発見されたというので、頗る喧しい問題であったが、それ等に比すれば実に大河内家に残っているものは絶品とも称すべきで、学術上 【欄外】 発行兼印刷所 豊橋市紺屋町四十八番戸 参陽印刷合資会社 編輯人 中西謙三 発行兼印刷人 久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千二百三十七号附録(大正元年十二月十日発行) 【本文】 取りても容易ならざる参考となるべきものであると考える。 さて話は少し横道に入ったが、初めに戻ることとして、寛政という年号は御承知のごとく、その十三年目において享和と改まったのであるが、その享和の二年に至って幕府は初めて蝦夷奉行というものを置き、羽太正養、戸川筑前守安倫をもってこれに命じたが、これ等は皆申すまでもなく信明が幕政の衝に当たれる時代である。 **蝦夷奉行** しかるに前にも申し述べたる通り、信明はその翌年、すなわち享和三年をもって老中の職を辞し、一時幕政と関係を絶つに至ったのであるが、その辞職中、享和は文化と改まった。 **《小字:露国使節レザノフ長崎に来る》** その元年に、かの露国の使節レザノフは長崎へやって来て、曩に松前において渡したかの信牌を持参し、切に通商を求めたのである。その時幕府の当局者がこれに対してなした処置は頗るその当を得なかったので、レザノフも大いに憤怨して帰った様子であるが、その後文化三年、すなわち信明復職の年に、露船はまた樺太に来たりて、今度は中々乱暴を働いた上、戌卒四人を捕らえて去ったという始末であったが、その四年四月には再び択捉島エトロフ諸島に寇し、かつ利尻に来たりて、前に捕らえし戌卒をして書簡を齎らさしめ、もし通商を許さぬにおいては明年大挙して攻め来るからそう思えと云わしめたのである。 **《小字:露船北海に寇す》** そこでこの事が幕府の評議となったのであるが、この時、林述斎が満腔の意見を認めて信明に差し出した書簡が今も大河内家に残っているのである。これは中々面白いものであるから、少し長くはなるが段々と左に申し述べようと思うのである。 **《小字:述斎の信明に上りし意見》** まず述斎のこの書簡には、遡ってレザノフが長崎に来た時の事から批評してある。 この度の大議、深々相考え候えば、始終へかけいずれの方御決着ありそうろうても、十全の事には相成り申すまじく、実をもって心痛これに過ぎざることやと存じ奉り候。その病源を窺い候えば、長崎へ使節差し越し候節、大機会をはずし、事々失着に相成り、この末いかようにつかまつり候ても、取り直しは出来申すまじく、たとえば大病人を一度誤治つかまつり、病症一変の後 【欄外】 豊橋市史談(松平信明と外交関係) 三百四十一

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Nobuaki and Foreign Relations) 340 **Main Text:** does not make logical sense. Indeed, it is believed to be fact that Nobuaki was the main advocate for the direct management theory of Ezo development, and evidence of his earnest research into Ezo affairs continues to be discovered to this day. In any case, the shogunate council, as I mentioned before, decided to develop Ezo through direct management, appointing Matsudaira Shinano-no-kami Tadaaki to guard Ezo territory, and similarly appointing Ishikawa Tadafusa, Habuto Shōzaemon Masayasu, Ōkōchi Masakazu, and Mitsuhashi Narikata to the same role. This Habuto Masayasu later became Aki-no-kami, and among his writings is one called "Kyūmeikōki," which is also a book about Ezo affairs, comprehensively recording everything from when he first became involved until Bunka 4, during his entire time in office. **Matsudaira Shinano-no-kami** **《Small text: Habuto Masayasu's Kyūmeikōki》** This is truly an excellent record for understanding the circumstances of Ezo management at that time. Now, the shogunate proceeded with development on one hand while also promoting exploration of the northern seas on the other, so people like Mamiya Rinzō endured considerable hardships for these explorations. **Mamiya Rinzō** That is, he advanced from Sakhalin to enter the continent, crossed the Amur River, and even penetrated as far as Shanhaiguan. The shogunate also had Inō Tadayoshi survey Ezo territory in Kansei 12. **《Small text: Inō Tadayoshi's maps》** The map of Ezo that Tadayoshi himself created at that time is still preserved in the Ōkōchi family, and I believe this map is truly a masterpiece of the realm. I have no doubt this was also a result of Nobuaki primarily implementing this project at the time. Originally, this Inō Tadayoshi, as you all know, had been surveying the coasts of the entire country under shogunate orders since when Matsudaira Sadanobu was still in his senior councilor position. **《Small text: Inō Tadayoshi and Matsudaira Nobuaki》** However, after Sadanobu's retirement, it was Nobuaki who was most involved in these affairs, and all of Tadayoshi's maps of Japan, except for the aforementioned Ezo map, remain complete in the Ōkōchi family collection. Tokyo Imperial University also preserves maps almost identical to these, which were perhaps transmitted from the shogunate. Some years ago, when one of Tadayoshi's maps was discovered in the Hamamatsu area of Enshū, it became quite a sensational issue, but compared to those, what remains in the Ōkōchi family can truly be called supreme masterpieces and should serve as invaluable reference materials for academic purposes. **Margin:** Publisher and Printer: Sanyō Printing Company, 48 Kōnya-chō, Toyohashi City Editor: Nakanishi Kenzō Publisher and Printer: Kuno [?]kichi **Left Page:** **Margin:** Sanyō Newspaper No. 4237 Supplement (Published December 10, Taishō 1 [1912]) **Main Text:** Now, the story has digressed somewhat, but to return to the beginning: as you know, the Kansei era was changed to Kyōwa in its thirteenth year, and in the second year of Kyōwa, the shogunate first established the position of Ezo Magistrate, appointing Habuto Masayasu and Togawa Chikuzen-no-kami Yasutomo to these posts. Needless to say, these were all during the period when Nobuaki was at the center of shogunate affairs. **Ezo Magistrate** However, as I mentioned before, Nobuaki resigned from his senior councilor position in the following year, Kyōwa 3, temporarily severing his connection with shogunate affairs. During his resignation, Kyōwa was changed to Bunka. **《Small text: Russian envoy Rezanov comes to Nagasaki》** In the first year of Bunka, the Russian envoy Rezanov came to Nagasaki, bringing the letter of passage previously given at Matsumae, earnestly requesting trade. The measures taken by the shogunate authorities at that time were quite inappropriate, so Rezanov also returned with great resentment. Later, in Bunka 3, the year of Nobuaki's return to office, Russian ships came again to Sakhalin, this time acting quite violently and capturing four soldiers before departing. In the fourth month of the fourth year, they again raided Etorofu Island and came to Rishiri, having the previously captured soldiers deliver a letter saying that if trade were not permitted, they would attack in force the following year. **《Small text: Russian ships raid the northern seas》** This matter then became a subject of shogunate deliberation, and at this time, Hayashi Jussai wrote down his complete opinion and submitted it to Nobuaki in a letter that still remains in the Ōkōchi family. This is quite interesting, so although it will be somewhat lengthy, I will gradually present it below. **《Small text: Jussai's opinion submitted to Nobuaki》** First, Jussai's letter begins by critiquing the events from when Rezanov came to Nagasaki: "Considering deeply this great matter, no matter how it is resolved in the end, it cannot result in a perfect outcome, and truly this is a source of heartache beyond compare. Looking at the root of this problem, when the envoy came to Nagasaki, we missed a great opportunity and made mistakes in everything. No matter what we do from now on, it cannot be remedied. It is like misdiagnosing a seriously ill patient - once the symptoms change after one mistake in treatment..." **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Nobuaki and Foreign Relations) 341