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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 186

ページ: 186

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【欄外】    豊橋市史談  (松平信明と外交関係)                    三百四十四 【本文】        と奉存候 不残心底(のこらずしんでい)一 杯(ぱい)に申上置申候(まをしあげおきまをしそろ)能(よ)く〳〵御探謀被為立(ごたんばうたてなされ)候 様(やう)奉存候(ぞんじたてまつりそろ)残念(ざんねん)なる事は先年(せんねん)長崎(ながさき)の         時(とき)閣下(かくか)御在職(ございしよく)にも候はばかく迄は相成(あひな)り申間敷哉(まをすまじくや)今更(いまさら)申候(まをしそろ)てもかへり申(まを)さぬ事に御座候ただ〳〵此        上の失策(しつさく)を甚(はなは)だ恐(おそ)れ云々(うん〳〵)       と結(むす)むである尚(なほ)此(こ)の他(た)にも一 通(つう)の書翰(しよかん)があるが矢張(やはり)其(その)中(なか)にも今度(このたび)の事件(じけん)を論(ろん)じた処があるので左(さ)に御        紹介(せうかい)したいと思(おも)ふ        此度(このたび)の事たとへ此末(このすへ)平和(へいわ)に相成候迚(あひなりそろとて)カラフトの蕃人(ばんじん)を生擒(いけどり)丸小屋(まるこや)焼払(やきはらひ)雑物(ざつぶつ)奪取(だつしゆ)今般(こんぱん)又(また)同断(どうだん)の取計(とりはからひ)         有之候上(これありそろうへ)は最早(もはや)敵国(てきこく)のあしらひに相成(あひなり)中々(なか〳〵)隣誼(りんぎ)を結(むす)び候 主意(しゆい)は立不申候(たちまをさずそろ)夫(それ)を柔(やわ)らかに取扱候(とりあつかひそろ)ては         此方(このはう)の弱(よわき)を示(しめ)し候に相成候間(あひなりそろあひだ)此上(このうへ)ます〳〵跋扈(ばつこ)の志(こゝろざし)を生(せう)じ可申(まをすべく)も難計(はかりがたく)云々(うん〳〵)       と論(ろん)じた後(のち)更(さら)に北海(ほくかい)に於ける我国鎮戌(わがくにちんじう)の不利(ふり)なる点(てん)を挙(あ)げて之(これ)に対(たい)する方法(はう〳〵)として         兵機(へいき)は迅速(じんそく)を貴(たつと)び候事 勿論(もちろん)の事にて今日(こんにち)の事にても一と廉立候儀(かどたちそろぎ)機会(きくわい)を失(うしな)ひ候ては勝算(せうさん)は得(え)がたき         儀(ぎ)に御座候(ござそろ)先(さき)んずる時(とき)は人を制(せい)し後(おく)るゝ時は人に制(せい)せらるゝの場合(ばあひ)緊要(きんえう)に御座候(ござそろ)       と云(い)ふように云(い)つて居(を)るが之(これ)等(ら)の意見(いけん)は悉(こと〴〵)く信明(のぶあき)の意(い)に叶(かな)つた事で信明(のぶあき)が毎(つね)に此(この)方針(はうしん)によつた事は段(だん)        段(だん)事実(じじつ)の上(うへ)に於ても現(あら)はれて居(を)るのである       サテ今度(このたび)の事件(じけん)に就(つい)て露国船(ろこくせん)が最初(さいしよ)択捉(えとろふ)ウルツプあたりに寇(こう)した当時(たうじ)南部(なんぶ)、 津軽(つがる)、 松前(まつまへ)などの諸侯(しよかう)か       らは孰(いづ)れも急使(きうし)を以て之(これ)を幕府(ばくふ)に注進(ちうしん)したのであるが幕府(ばくふ)に於ては将軍(せうぐん)家斉(いへなり)を初(はじ)め之(これ)は容易(ようい)ならぬ事       であると心痛(しんつう)し早速(さつそく)中奥(なかおく)に於て評議(へうぎ)があつたのである其(その)時(とき)信明(のぶあき)が意見(いけん)の一 部分(ぶぶん)として伝(つた)はつて居(を)るの       は「露船(ろせん)が我(わが)北辺(ほくへん)を窺(うかゞ)ふ事は到底(たうてい)一 朝(てう)一 夕(せき)の事ではない万一にも彼(かれ)をして蝦夷(えぞ)又(また)は佐渡(さど)に拠(よ)らしむる 《割書:松前若狭守|の転封》  が如(ごと)き事があつたならばソレこそ実(じつ)に国家(こくか)の一 大事(だいじ)であるソコで先(ま)づ松前若狭守(まつまへわかさのかみ)に関(くわん)する一 件(けん)を落着(らくちやく) 【欄外】        発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千二百四十四号附録    (大正元年十二月十七日発行) 【本文】       せしめて更(さら)に奥羽両国(おうれうこく)の大名(だいみよう)に命(めい)じ津軽(つがる)外(そと)ケ浜(はま)から蝦夷(えぞ)松前(まつまへ)に至(いた)るまでの固(かた)めを厳重(げんぢう)にするのが急務(きうむ)       である殊(こと)に一人 幕府(ばくふ)から然(しか)るべき人物(じんぶつ)を蝦夷地(えぞち)に派遣(はけん)して其(その)巡視(じゆんし)に任(にん)じたい」と云ふにあつたが之(これ)は        嵩岳君言行録(すうがくくんげんかうろく)などにも記(しる)してある処であるモツトモ右(みぎ)の内(うち)で松前若狭守(まつまへわかさのかみ)に関(くわん)する一 件(けん)と云ふ事に付(つい)て       は少(すこ)しく説明(せつめい)を要(えう)するのであるが之(これ)は例(れい)の松前侯(まつまへこう)転封問題(てんほうもんだい)である元来(がんらい)此(この)松前若狭守(まつまへわかさのかみ)の先代(せんだい)章広(あきひろ)と云ふ       人は一橋治済(ひとつばしはるなり)の御気(おき)に入(い)りで定信(さだのぶ)補佐(ほさ)時代(じだい)から注目(ちうもく)されて居(を)つた人であつたが身持(みもち)放蕩(はうたう)の故(ゆゑ)を以(もつ)て此(この)        年(とし)の三月 永蟄居(ながのちつきよ)を命(めい)ぜられたのであるソコで幕府(ばくふ)では之(これ)を機(き)として当主(たうしゆ)若狭守(わかさのかみ)から此(この)蝦夷地(えぞち)の全部(ぜんぶ)を        上地(ぜうち)せしめて直接(ちよくせつ)経営(けいえい)をしたいと云ふのが此(この)問題(もんだい)の主(おも)なるものであつたが此際(このさい)幕府(ばくふ)は先(ま)づ之(これ)を実行(じつかう)し       たので其(その)時(とき)幕府(ばくふ)から若狭守(わかさのかみ)への申達書(しんたつしよ)に         蝦夷地(えぞち)の儀(ぎ)は古来(こらい)より其方(そのはう)家(いへ)にて進退致来候得共(しんたいいたしきたりそうらへども)異国(ゐこく)へ接(せつ)し候島々(そろしま〴〵)万端(ばんたん)の手当(てあて)難整様子(とゝのへがたきやうす)に付(つき)先達(せんだつて)         東蝦夷(ひがしえぞ)上(あ)げ地(ち)被仰出(あふせいでられ)従公儀(こうぎより)御処置(ごしよち)被仰付候(あふせつけられそろ)西蝦夷之儀(にしえぞのぎ)も非常之備等(ひぜうのそなへとう)其方(そのはう)手限(てかぎり)難行届段申立(ゆきとゞきがたきだんまをしたて)外国(がいこく)        之境(のさかひ)不容易事に被思召(おぼしめされ)候間 此度(このたび)松前(まつまへ)西蝦夷(にしえぞ)一円 被召上候(めしあげられそろ)云々(うん〳〵)       とあるので其(その)主旨(しゆし)は明瞭(めいれう)であると思(おも)ふが当時(たうじ)松前家(まつまへけ)に対(たい)する代償(だいせう)としては陸奥(むつ)、 上野(かうづけ)両国(れうごく)の内(うち)で表面(へうめん)       は九千石 事実(じつ)は一万二千石許もある土地(とち)を与(あた)へて之(これ)で打切(うちき)つたのであるソレからはイヨ〳〵幕府(ばくふ)に於(おい) 松前奉行  て蝦夷(えぞ)全島(ぜんとう)を直営(ちよくえい)することとなつたのであるが前(まへ)にも申述(まをしの)べた如(ごと)く最初(さいしよ)は蝦夷奉行(えぞぶぎよう)と云ふのが置(お)かれて       あつたのを其後(そののち)函館奉行(はこだてぶぎよう)と改(あらた)められたが今度(このたび)は又(また)更(さら)に之(これ)を松前奉行(まつまへぶぎよう)と改(あらた)めて蝦夷全島(えぞぜんとう)の事を支配(しはい)せし       むる様になしたのであるモツトモ此(この)信明(のぶあき)の意見(いけん)には老中(らうちう)の一人 牧野忠精(まきのたゞきよ)も大(おほい)に賛成(さんせい)したのであるが蝦(え)        夷派遣(ぞはけん)としては若年寄(わかどしより)の堀田正敦(ほつたまさあつ)が幸に仙台藩主(せんだいはんしゆ)伊達政千代(だてまさちよ)の叔父(おぢ)であると云ふ処もあるからと云ふ 《割書:将軍の女浅|姫を伊達政|千代に嫁す》  ので此(この)人(ひと)に任(にん)ずる事となり政千代(まさちよ)には又た将軍(せうぐん)の姫君(ひめぎみ)浅姫(あさひめ)を嫁(か)せしむる事となつたのである之(これ)も実(じつ)は 【欄外】    豊橋市史談  (松平信明と外交関係)                    三百四十五

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(松平信明と外交関係) 三百四十四 【本文】 と存じ奉り候。残らず心底一杯に申し上げ置き申し候。よくよく御探謀立てなされ候様存じ奉り候。残念なる事は、先年長崎の時、閣下御在職にも候わばかくまでは相成り申すまじきや。今更申し候てもかえり申さぬ事に御座候。ただただこの上の失策を甚だ恐れ云々 と結んでいる。なおこの他にも一通の書簡があるが、やはりその中にも今度の事件を論じた処があるので左に御紹介したいと思う。 この度の事、たとえこの末平和に相成り候とて、カラフトの蕃人を生け捕り、丸小屋焼き払い、雑物奪取、今般また同断の取り計らい有り候上は、最早敵国のあしらいに相成り、中々隣誼を結び候主意は立ち申さず候。それを柔らかに取り扱い候ては、此方の弱きを示し候に相成り候間、この上ますます跋扈の志を生じ申すべくも計り難く云々 と論じた後、更に北海における我国鎮戍の不利なる点を挙げて、これに対する方法として 兵機は迅速を貴び候事、勿論の事にて、今日の事にても一廉立ち候儀、機会を失い候ては勝算は得難き儀に御座候。先んずる時は人を制し、後るる時は人に制せらるるの場合、緊要に御座候。 というように云っているが、これ等の意見は悉く信明の意に叶った事で、信明が常にこの方針によった事は段々事実の上においても現れているのである。 さて今度の事件について、露国船が最初択捉・ウルップあたりに寇した当時、南部・津軽・松前などの諸侯からはいずれも急使を以てこれを幕府に注進したのであるが、幕府においては将軍家斉を初め、これは容易ならぬ事であると心痛し、早速中奥において評議があったのである。その時信明が意見の一部分として伝わっているのは「露船が我北辺を窺う事は到底一朝一夕の事ではない。万一にも彼をして蝦夷又は佐渡に拠らしむるが如き事があったならば、それこそ実に国家の一大事である。そこでまず松前若狭守に関する一件を落着 【欄外】 発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千二百四十四号附録(大正元年十二月十七日発行) 【本文】 せしめて、更に奥羽両国の大名に命じ、津軽外ヶ浜から蝦夷松前に至るまでの固めを厳重にするのが急務である。殊に一人幕府から然るべき人物を蝦夷地に派遣して、その巡視に任じたい」ということにあったが、これは嵩岳君言行録などにも記してある処である。 もっとも右の内で松前若狭守に関する一件ということについては少しく説明を要するのであるが、これは例の松前侯転封問題である。元来この松前若狭守の先代章広という人は一橋治済の御気に入りで、定信補佐時代から注目されていた人であったが、身持ち放蕩の故を以てこの年の三月永蟄居を命ぜられたのである。そこで幕府では、これを機として当主若狭守からこの蝦夷地の全部を上地せしめて直接経営をしたいというのが、この問題の主なるものであったが、この際幕府はまずこれを実行したので、その時幕府から若狭守への申達書に 蝦夷地の儀は古来より其方家にて進退致し来たり候えども、異国へ接し候島々万端の手当て整え難き様子に付き、先達て東蝦夷上げ地仰せ出だされ、公儀より御処置仰せ付けられ候。西蝦夷の儀も非常の備え等、其方手限り行き届き難き段申し立て、外国の境容易ならざる事に思し召され候間、この度松前西蝦夷一円召し上げられ候云々 とあるので、その主旨は明瞭であると思うが、当時松前家に対する代償としては陸奥・上野両国の内で表面は九千石、事実は一万二千石許りもある土地を与えて、これで打ち切ったのである。それからはいよいよ幕府において蝦夷全島を直営することとなったのであるが、前にも申し述べたごとく最初は蝦夷奉行というのが置かれてあったのを、その後函館奉行と改められたが、今度はまた更にこれを松前奉行と改めて蝦夷全島の事を支配せしむるようになしたのである。 もっともこの信明の意見には老中の一人牧野忠精も大いに賛成したのであるが、蝦夷派遣としては若年寄の堀田正敦が幸に仙台藩主伊達政千代の叔父であるという処もあるからというので、この人に任ずることとなり、政千代にはまた将軍の姫君浅姫を嫁せしむることとなったのである。これも実は 【欄外】 豊橋市史談(松平信明と外交関係) 三百四十五

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Nobuaki and Foreign Relations) 344 **Main Text:** I humbly believe this to be the case. I have laid bare all my innermost thoughts completely. I hope you will thoroughly devise strategies accordingly. What is regrettable is that if Your Excellency had been in office during the Nagasaki incident years ago, things would not have reached such a state. Even now it is too late to undo what has been done. I can only fear the further mistakes that may follow, etc. Thus he concludes. There is yet another letter, which also contains discussion of the current incident, so I would like to introduce it below. "Regarding this current affair, even if peace should eventually be restored, given that we have captured Sakhalin natives, burned down their huts, seized their possessions, and now taken similar measures again, we are already treating them as an enemy nation, making it quite impossible to establish the intended neighborly relations. Yet if we handle this matter too gently, it will show our weakness, and there is no telling how much more their insolent ambitions may grow, etc." After this argument, he further points out the disadvantageous aspects of our nation's defense in the northern seas, and as a method to address this: "Military operations naturally prize speed, and even in today's situation, once a reasonable cause is established, victory becomes difficult to achieve if the opportunity is lost. When one acts first, one controls others; when one acts later, one is controlled by others - this is a crucial principle." These opinions were all in complete accord with Nobuaki's views, and that Nobuaki consistently followed this policy has gradually become evident in actual events. Now, regarding this incident, when Russian ships first raided the Etorofu and Urup areas, the lords of Nambu, Tsugaru, Matsumae and others all sent urgent messengers to report this to the shogunate. At the shogunate, beginning with Shogun Ienari, they were deeply concerned that this was no ordinary matter and immediately held deliberations in the inner chambers. What has been passed down as part of Nobuaki's opinion at that time was: "Russian ships reconnoitering our northern borders is certainly not a matter of a single day or night. Should they ever establish themselves in Ezo or Sado, that would truly be a national crisis. Therefore, we must first settle the matter concerning Matsumae Wakasa-no-kami **Margin:** Publisher and Printing Office: Sanyo Printing Company, 48 Konya-cho, Toyohashi City; Editor: Nakanishi Kenzo; Publisher and Printer: Kuno [?]kichi **Left Page:** **Margin:** Sanyo Newspaper No. 4244 Supplement (Published December 17, Taisho 1 [1912]) **Main Text:** and then order the daimyo of both Oshu provinces to strictly fortify from Tsugaru Sotogahama to Ezo Matsumae. Particularly urgent is dispatching a suitable person from the shogunate to Ezo to serve as inspector." This is also recorded in works such as the "Record of Lord Sugaku's Words and Deeds." However, the matter concerning Matsumae Wakasa-no-kami requires some explanation - this refers to the famous Matsumae lord's transfer issue. Originally, the previous generation, Akihiro, had been favored by Hitotsubashi Harusato and had attracted attention since Sadanobu's regency, but was ordered into permanent house arrest in March of this year due to his dissolute conduct. The shogunate seized this opportunity to confiscate all of Ezo from the current lord Wakasa-no-kami and establish direct administration - this was the main issue. The shogunate implemented this policy, and in their notification to Wakasa-no-kami stated: "Although Ezo has been administered by your house since ancient times, due to the difficulty of adequately defending the islands bordering foreign countries, Eastern Ezo was previously ordered to be surrendered and placed under direct government administration. Regarding Western Ezo as well, you have reported that emergency preparations and such cannot be adequately handled within your capabilities, and as the foreign borders are considered a matter of great concern, this time all of Matsumae and Western Ezo are to be confiscated, etc." The intent is clear from this. As compensation to the Matsumae house, they were given land in Mutsu and Kozuke provinces nominally worth 9,000 koku but actually about 12,000 koku, and the matter was concluded. From then on, the shogunate began direct administration of all of Ezo island. As mentioned previously, initially the "Ezo Magistrate" was established, later changed to "Hakodate Magistrate," but this time it was again changed to "Matsumae Magistrate" to govern all of Ezo island. Incidentally, Senior Councilor Makino Tadakiyo strongly supported Nobuaki's opinion, and for the Ezo mission, Junior Councilor Hotta Masaatsu was chosen partly because he was fortunately the uncle of Sendai domain lord Date Masachiyo, and Masachiyo was to receive the shogun's daughter Princess Asa in marriage. This too was actually **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Nobuaki and Foreign Relations) 345