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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 187

ページ: 187

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【欄外】    豊橋市史談  (松平信明と外交関係)                    三百四十六 【本文】        信明(のぶあき)の発議(はつぎ)であつたが伊達家(だてけ)に於ても大(おほい)に悦(よろこ)で挙(あげて)藩命(はんめい)に応(おう)じたと云ふ事である       トコロで今度(このたび)の露船(ろせん)の処為(しよゐ)と云ふものは前(まへ)にも申述(まをしの)べた如く実(じつ)に無法(むはう)極(きは)まるのみならず昨年(さくねん)は我戌卒(わがじうそつ)       を四人までも擒(とりこ)にして去(さ)つたと云ふ次第(しだい)であるから事 茲(こゝ)に至(いた)つては幕府(ばくふ)もヨモヤ善隣(ぜんりん)に対(たい)する体度(たいど)で       は居られぬ訳(わけ)であるソコで文化(ぶんくわ)四年既に海岸(かいがん)の各藩(かくはん)に命(めい)じて守備(しゆび)を厳重(げんぢう)にせしめ且(か)つ 《割書:文化四年六|月廿八日の|対外命》    万(まん)一 怪敷船(あやしきふね)相見(あひみ)え候(そうら)はば諸事(しよじ)寛政(かんせい)三年 相達候趣相心得(あひたつしそろおもむきあひこゝろえ)取計可申候(とりはからひまをしべくそろ)       と命(めい)じたのであるモツトモ此(この)寛政(かんせい)三年の達(たつし)と云ふのは極端(きよくたん)なる攘夷令(ぜうゐれい)ではないので異国船(ゐこくせん)を見付(みつ)けた       ならば先(ま)づ見分役(けんぶやく)を以(もつ)て十分なる取調(しらべ)をなし若(も)し之(これ)を拒(こば)むだ場合(ばあひ)には船(ふね)も人も打払(うちはら)つて差支(さしつかい)ないが併(しか)       し之(これ)を拒(こば)まぬものに対(たい)しては然(しか)るべき計策(けいさく)を以て船(ふね)を繋(つな)ぎ留(と)め乗組員(のりくみゐん)をば上陸(ぜうりく)せしめて厳重(げんぢう)に取締(とりしま)り       万一にも之(これ)を承知(せうち)しなかつたなら止(やむ)を得(え)ず召捕(めしと)つてもよいから其上(そのうへ)で早速(さつそく)幕府(ばくふ)に伺(うかゞ)ひ出(い)づるやうに致       せと云ふ意味(いみ)であつたのであるそれを又々(また〳〵)今度(このたび)適用(てきよう)した次第(しだい)であつたが何故(なにゆゑ)か其後(そのご)と云ふものは絶(たへ)て        露国船(ろこくせん)の来航(らいかう)を見(み)なかつたのである然(しか)るに文化(ぶんくわ)八年に至(いた)つて其(その)五月 又々(また〳〵)蝦夷(えぞ)の国後(くにじり)にやつて来(き)たので 《割書:幕吏露船の|乗組員を檎|にす》  あるが今度(このたび)は警備(けいび)の幕吏(ばくり)が前年(ぜんねん)の暴挙(ばうきよ)に報(むく)ゆる為(ため)にうまく欺(あざむい)て船員(せんゐん)を上陸(ぜうりく)せしめ其(その)八人を捕虜(ほりよ)にし       たのである而(しか)して其(その)八人の内(うち)には例(れい)の船長(せんてう)ゴ、ローインと云ふ人も居(を)つたのであるが当時(たうじ)の顛末(てんまつ)は有名(ゆうめい)       なる彼(か)れが自記(じき)の日本遭難記事(にほんそうなんきじ)に詳(くわし)いとの事であるトコロで其(その)露船(ろせん)の乗組員(のりくみゐん)は同行(どうかう)の内(うち)八人を捕虜(ほりよ)に       せられて大(おほい)に驚(おどろ)いたが到底(たうてい)力(ちから)の及(およ)ばないものと見(み)たのであろう遂(つひ)に之(これ)を見捨(みす)てゝ急(きふ)に帆(ほ)を揚(あ)げて去(さ)つ 《割書:高田屋嘉兵|衛》  て仕舞(しま)つたのである然(しか)るに其(その)翌々年(よく〳〵ねん)に至(いた)つて彼(か)の有名(ゆうめい)なる高田屋嘉兵衛(たかだやかへゑ)の船(ふね)が蝦夷(えぞ)の近海(きんかい)で露船(ろせん)に襲(おそ)       はれた事件(じけん)があつて其五月に露船(ろせん)は此(この)嘉兵衛(かへゑ)を伴(ともな)つて国後(くにじり)に来(きた)り前年(ぜんねん)の入寇(にふかう)は暴民(ばうみん)の処為(しよゐ)であつて決(けつ)       して露国政府(ろこくせいふ)の知(し)る処ではない今(いま)政府(せいふ)は其(その)暴民(ばうみん)を罰(ばつ)したから宥(ゆる)して貰(もら)ひたいと云ふ意味(いみ)で書(しよ)を送(おく)り捕(ほ) 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】        虜(りよ)交替(かうたい)の事を申込(まをしこ)むだのであるソコで松前奉行(まつまへぶぎよう)は急使(きふし)を幕府(ばくふ)に送(おく)つて指揮(しき)を待(ま)つたが幕府(ばくふ)に於ては松(まつ)        前奉行(まへぶぎよう)をして捕虜(ほりよ)の交替(かうたい)を許(ゆる)さしめ且(か)つ叮嚀(ていねい)に我国(わがくに)が之(これ)迄(まで)鎖国(さこく)であると云ふ其(その)訳(わけ)を詳(くは)しく説(と)かしめた 《割書:信明の対外|政策》   上(うへ)米塩酒食(へいゑんしゆしよく)などをも手厚(てあつ)く供給(けうきふ)して去(さ)らしむることとしたのである勿論(もちろん)此(この)当時(たうじ)は信明(のぶあき)が幕府(ばくふ)に於(お)ける主(おも)       なる責任者(せきにんしや)であつたのであるから此(この)処置(しよち)こそ実(じつ)に信明(のぶあき)の意見(いけん)から出(い)でたものであると見(み)るのが当然(たうぜん)で       あるが本章(ほんせう)に於て段々(だん〳〵)と申述(まをしの)べて来(き)た処の述斉(じつさい)の意見(いけん)などゝ比較対照(ひかくたいせう)して見(み)ると明(あきらか)に信明(のぶあき)が此(この)外交方(ぐわいかうはう)        針(しん)と云ふものは分(わか)るように信(しん)ずるのである        即(すなは)ち当時(たうじ)に於ける右(みぎ)の処置(しよち)は最(もつと)も其(その)当(たう)を得(え)たので露船(ろせん)に於ても能(よ)く〳〵我意(わがい)を了解(れうかい)したものと見(み)へる       が其(その)後(ご)と云ふものは絶(た)へて我国(わがくに)に来航(らいかう)しなかつたのである従(したがつ)て多年(たねん)纏綿(てんめん)として連続(れんぞく)し来(きた)つた此(この)露国(ろこく)と       の外交関係(ぐわいかうぐわんけい)と云ふものは兎(と)に角(かく)茲(こゝ)に一 段落(だんらく)を告(つ)げた次第(しだい)であつたが此(この)事実(じじつ)は誠(まこと)に歴史上(れきしぜう)に於ける大(たい)        切(せつ)の事柄(ことがら)として特筆大書(とくしつたいしよ)するに価(あたひ)あるものと確信(かくしん)して疑(うたが)はぬのである 北海の警備 トコロで一 方(ぱう)に於ては前(まへ)に申述(まをしの)べた如くで蝦夷経営(えぞけいえい)の事は着々(ちやく〳〵)最初(さいしよ)の方針(はうしん)通(とほ)りに実行(じつかう)せられたのであ       るが之(これ)には意外(いぐわい)に費用(ひよう)を要(えう)し其(その)割合(わりあひ)には収入(しうにふ)の少(すくな)かつた処から非難(ひなん)も段々(だん〳〵)あつた様子(やうす)である従(したがつ)て此(この)点(てん)       は幕府(ばくふ)に於ても頗(すこぶ)る苦心(くしん)した処であつたが併(しか)し此(この)経営中(けいえいちう)は遂(つひ)に外人(ぐわいじん)の窺窬(きゆ)を我(わ)が北海(ほくかい)に容(ゆる)さなかつた       のである即(すなは)ち千島列島(ちじまれつとう)は勿論(もちろん)我(わ)が威力(ゐりよく)と云ふものは遠(とほ)く樺太(かばふと)に迄(まで)も及(およ)むで居(ゐ)たのであるが之(これ)は実(じつ)に信(のぶ)        明(あき)が畢生(ひつせい)の大事業中(だいじげふちう)の一ともなすべものでかゝる有様(ありさま)であつたればこそ我国(わがくに)の版図(はんと)と云ふものも幸       に全(まつた)きを得(え)た次第(しだい)であるが其(その)余勢(よせい)は又た実(じつ)に維新(ゐしん)の当時(たうじ)にまでも及(およ)むで居たものと信(しん)ずべきである 《割書:信明の卒去|と共に政局|一変す》   然(しか)るに信明(のぶあき)は前(まへ)にも申述(まをしの)べた如く文化(ぶんくわ)十四年の八月十六日 年(とし)五十八で病(やまひ)を以(もつ)て卒去(そつきよ)と相成(あひな)つたのであ       るが其(その)卒去(そつきよ)後(ご)と云ふものは前(まへ)に屡々(しば〴〵)御話(おはなし)した通(とほ)り幕府(ばくふ)の政局(せいきよく)は全(まつた)く一 変(ぺん)し例(れい)の水野忠成(みづのたゞなり)は忽(たちま)ち老中格(らうちうかく) 【欄外】    豊橋市史談  (松平信明と外交関係)                    三百四十七

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(松平信明と外交関係) 三百四十六 【本文】 信明の発議であったが、伊達家においても大いに喜んで挙げて藩命に応じたということである。 ところで今度の露船の所為というものは、前にも申し述べたごとく実に無法極まるのみならず、昨年は我が守備兵を四人までも捕虜にして去ったという次第であるから、事ここに至っては幕府もよもや善隣に対する態度では居られぬ訳である。そこで文化四年既に海岸の各藩に命じて守備を厳重にせしめ、かつ 万一怪しき船相見え候わば、諸事寛政三年相達し候趣相心得、取り計らい申すべく候 と命じたのである。もっともこの寛政三年の達しというのは極端なる攘夷令ではないので、異国船を見つけたならばまず見分役を以て十分なる取り調べをなし、もしこれを拒むだ場合には船も人も打ち払って差し支えないが、しかしこれを拒まぬものに対しては然るべき計策を以て船を繋ぎ留め、乗組員をば上陸せしめて厳重に取り締まり、万一にもこれを承知しなかったなら止むを得ず召し捕ってもよいから、その上で早速幕府に伺い出づるようにいたせという意味であったのである。それを又々今度適用した次第であったが、何故かその後というものは絶えて露国船の来航を見なかったのである。 然るに文化八年に至ってその五月、又々蝦夷の国後にやって来たのであるが、今度は警備の幕吏が前年の暴挙に報いるためにうまく欺いて船員を上陸せしめ、その八人を捕虜にしたのである。而してその八人の内には例の船長ゴローインという人も居ったのであるが、当時の顛末は有名なる彼れが自記の日本遭難記事に詳しいとのことである。 ところでその露船の乗組員は、同行の内八人を捕虜にせられて大いに驚いたが、到底力の及ばないものと見たのであろう、遂にこれを見捨てて急に帆を揚げて去ってしまったのである。 然るにその翌々年に至って、彼の有名なる高田屋嘉兵衛の船が蝦夷の近海で露船に襲われた事件があって、その五月に露船はこの嘉兵衛を伴って国後に来たり、前年の入寇は暴民の所為であって決して露国政府の知る処ではない、今政府はその暴民を罰したから許してもらいたいという意味で書を送り、捕 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏はその該博なる知識と不尽の精力を傾け、豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際 【左頁】 【欄外】 この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し、参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 虜交替の事を申し込んだのである。そこで松前奉行は急使を幕府に送って指揮を待ったが、幕府においては松前奉行をして捕虜の交替を許させ、かつ丁寧に我国がこれまで鎖国であるというその訳を詳しく説かしめた上、米塩酒食なども手厚く供給して去らしむることとしたのである。 勿論この当時は信明が幕府における主なる責任者であったのであるから、この処置こそ実に信明の意見から出でたものであると見るのが当然であるが、本章において段々と申し述べて来た処の実斎の意見などと比較対照して見ると、明らかに信明がこの外交方針というものは分かるように信ずるのである。 即ち当時における右の処置は最もその当を得たので、露船においてもよくよく我が意を了解したものと見えるが、その後というものは絶えて我国に来航しなかったのである。従って多年纏綿として連続し来たったこの露国との外交関係というものは、兎に角ここに一段落を告げた次第であったが、この事実は誠に歴史上における大切の事柄として特筆大書するに価値あるものと確信して疑わぬのである。 ところで一方においては前に申し述べたごとくで、蝦夷経営の事は着々最初の方針通りに実行せられたのであるが、これには意外に費用を要し、その割合には収入の少なかった処から非難も段々あった様子である。従ってこの点は幕府においても頗る苦心した処であったが、しかしこの経営中は遂に外人の窺窬を我が北海に許さなかったのである。即ち千島列島は勿論、我が威力というものは遠く樺太にまでも及んでいたのであるが、これは実に信明が畢生の大事業中の一ともなすべきもので、かかる有様であったればこそ我国の版図というものも幸に全きを得た次第であるが、その余勢はまた実に維新の当時にまでも及んでいたものと信ずべきである。 然るに信明は前にも申し述べたごとく文化十四年の八月十六日、年五十八で病を以て卒去と相成ったのであるが、その卒去後というものは前に屢々御話しした通り、幕府の政局は全く一変し、例の水野忠成は忽ち老中格 【欄外】 豊橋市史談(松平信明と外交関係) 三百四十七

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Nobuaki and Foreign Relations) 346 **Main Text:** This was Nobuaki's proposal, and the Date family was greatly pleased and wholeheartedly responded to this domain order. Now, the conduct of the Russian ships this time was not only utterly lawless as mentioned before, but last year they had even taken four of our garrison soldiers as prisoners before departing. With matters having reached this point, the shogunate could no longer maintain a neighborly attitude. Therefore, in Bunka 4 (1807), they had already ordered the coastal domains to strengthen their defenses and commanded: "Should any suspicious ships be sighted, handle all matters according to the instructions issued in Kansei 3, keeping this in mind." However, this Kansei 3 directive was not an extreme exclusion order. If foreign ships were discovered, inspection officials were first to conduct thorough investigations. If the ships resisted, both ships and people could be driven away without concern. But for those who did not resist, appropriate strategies should be used to moor their ships, allow crew members to land under strict supervision, and if they absolutely refused to comply, they could be arrested as a last resort, after which immediate reports should be made to the shogunate. This was applied again this time, but for some reason, no Russian ships were seen visiting thereafter. However, in Bunka 8 (1811), in May, they came again to Kunashiri in Ezo. This time, the guard officials, seeking to retaliate for the previous year's outrageous acts, cleverly deceived the sailors into landing and captured eight of them. Among these eight was the famous captain Golovnin, and the details of these events are said to be recorded in his well-known account of his Japanese ordeal. The remaining Russian crew members were greatly alarmed to see eight of their companions taken prisoner, but apparently judging that resistance was futile, they ultimately abandoned them and hurriedly set sail. Two years later, the famous Takadaya Kahei's ship was attacked by a Russian vessel near Ezo waters. In May, the Russian ship came to Kunashiri with Kahei, claiming that the previous year's invasion was the work of unruly people and certainly not sanctioned by the Russian government, and that the government had now punished those unruly people, so they requested forgiveness and proposed an exchange of prisoners. **Margin:** Toyohashi Mayor Oguchi Kiroku, applying his extensive knowledge and inexhaustible energy, has devoted over a year to compiling Toyohashi city history, and now his manuscript is nearly complete... **Left Page:** **Margin:** This Toyohashi City Historical Discourse is published weekly (Tuesdays) and presented to readers of the Sanyo Newspaper. **Main Text:** The Matsumae Magistrate sent an urgent messenger to the shogunate awaiting instructions, and the shogunate allowed the Matsumae Magistrate to permit the prisoner exchange, carefully explaining in detail why Japan had maintained its policy of national isolation, and generously supplied rice, salt, sake, and food before allowing them to depart. Of course, at this time Nobuaki was the main responsible official in the shogunate, so it is natural to view this treatment as originating from Nobuaki's opinion. Comparing this with Jissai's opinions that have been discussed throughout this chapter, I believe it clearly reveals Nobuaki's foreign policy approach. Indeed, the treatment at that time was most appropriate, and it appears that the Russian ships thoroughly understood our intentions, as they never visited our country again thereafter. Thus, the long-entangled and continuous foreign relations with Russia came to a conclusion at this point. I firmly believe without doubt that this fact deserves special mention as a matter of great importance in history. Meanwhile, as mentioned earlier, the administration of Ezo was steadily implemented according to the initial policy, but this required unexpectedly high costs with relatively little income, leading to gradual criticism. Consequently, the shogunate was quite troubled by this point, but during this period of administration, they never allowed foreign reconnaissance of our northern seas. Not only the Kuril Islands, but our authority extended far to Sakhalin as well. This was truly one of Nobuaki's lifelong great undertakings, and it was precisely because of this situation that our national territory remained intact. I believe this influence continued even to the time of the Meiji Restoration. However, as mentioned before, Nobuaki passed away from illness on August 16, Bunka 14 (1817), at age fifty-eight. After his death, as frequently discussed before, the shogunate's political situation completely changed, and the aforementioned Mizuno Tadanari immediately became Senior Councilor **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Nobuaki and Foreign Relations) 347