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【欄外】
豊橋市史談 (松平信明の逸事) 三百四十八
【本文】
となり続(つゞい)て老中(らうちう)に任(にん)じ威権(ゐけん)並(なら)ぶものもないようになつたので茲(こゝ)に定信(さだのぶ)以来(いらい)信明(のぶあき)等(ら)が苦心経営(くしんけいえい)し来(きた)つた
善政美事(ぜんせいびじ)と云ふものは一 朝(てう)にして破壊(はくわい)さるゝに至(いた)つたのであるが此(この)蝦夷経営(えぞけいえい)の事も亦(ま)た信明(のぶあき)が卒去(そつきよ)後(ご)
《割書:蝦夷経営の|廃止》 僅(わづか)に五年目の文政(ぶんせい)四年には全(まつた)く廃止(はいし)せられて松前奉行(まつまへぶぎよう)は廃(はい)せられて復(ふたゝ)び彼(か)の松前章広(まつまへあきひろ)を封(ほう)じて蝦夷地(えぞち)
を与(あた)へたのである此(こゝ)に於て之迄(これまで)折角(せつかく)信明(のぶあき)が苦心(くしん)して経営(けいえい)した処の我(わが)北辺(ほくへん)の関門(くわんもん)と云ふものは又(ま)た元(もと)の
不締(ふしまり)に立戻(たちもど)つたので其後(そののち)露人(ろじん)は続々(ぞく〳〵)樺太(かばふと)に移住(いぢう)するようになつたのであるが遂(つひ)には千島諸島(ちじましよとう)に迄(まで)も及(およ)
むだのである然(しか)るに残念(ざんねん)な事には松前氏(まつまへし)の力(ちから)は到底(たうてい)之(これ)を如何(いかん)ともすることが出来(でき)なかつたのみならず擅(おしいまゝ)
に其(その)蠺食(さんしよく)に一 任(にん)するに至(いた)つたと云ふのは誠(まこと)に遺憾(ゐかん)千万の事であると思(おも)ふのである之(これ)に付(つ)けても私(わたくし)は
返(かへ)す〳〵信明(のぶあき)の功績(こうせき)の多大(ただい)なりしを思(おも)ふて止(や)まざるものである
⦿松平信明の逸事
信明(のぶあき)の事蹟(じせき)に就(つい)てはまだ〳〵御話(おはなし)すれば実(じつ)に数多(かずおほ)いことであるが私(わたくし)はいづれ之(これ)に就(つい)ては別(べつ)に一 冊子(さつし)とし
て記述(きじつ)して見(み)たいと思(おも)つて居(を)る次第(しだい)であるから此処(ここ)には先(ま)づ其(その)大要(たいえう)を申述(まをしの)ぶることとする考(かんがへ)であるソ
コで以上(いぜう)述(の)べ来(きた)つた事の外(ほか)は便宜上(べんぎぜう)此(この)逸事(いつじ)の中(なか)に於てボツ〳〵と御話(おはなし)して置(お)きたいと思(おも)ふのである
元来(がんらい)信明(のぶあき)と云ふ人は余程(よほど)厳格(げんかく)な性質(せいしつ)で苟(いやしく)も理屈(りくつ)に合(あ)はぬ事は聴容(きゝい)れなかつた実(じつ)に私(わたくし)のない正(たゞ)しい行(おこなひ)
《割書:信明の性行|に関する甲|子夜話の記|事》 ばかりであつたが例(れい)の甲子夜話(かしやわよばなし)の中(なか)にもコウ云ふ話(はなし)が記(しる)されてある
越後国(えちごのくに)新発田藩主(しばたはんしゆ)の溝口氏(みぞぐちし)は信明(のぶあき)とは近縁(きんゑん)の間柄(あひだがら)であつたが信明(のぶあき)が老中(らうちう)であつた時代(じだい)幼穉家督(ようちかとく)の事
があつて其(その)近臣(きんしん)の考(かんがへ)では主人(しゆじん)が余(あま)り幼年(ようねん)で表向(おもてむ)き都合(つごふ)が悪(わる)いからドウか二三 歳(さい)年齢(ねんれい)を増(ま)して官辺(くわんへん)へ
届出(とゞけい)でゝ置(お)きたいものであると云ふので内々(ない〳〵)之(これ)を信明(のぶあき)に相談(さうだん)したのであるトコロが信明(のぶあき)が言(い)ふにはそ
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千二百四十九号附録 (大正元年十二月廿四日発行)
【本文】
れは以(もつ)ての外(ほか)の事で姑息(こそく)と云ふものである断然(だんぜん)相成(あひな)り難(がた)き儀(ぎ)であると一 言(げん)の下(もと)に刎(は)ね付(つ)けたので之(これ)を
聞(き)いた溝口氏(みぞぐちし)の近臣(きんしん)は心(こゝろ)蜜(ひそ)かに後悔(こうかい)したとの事である又(ま)た同書(どうしよ)に或時(あるとき)能楽(のうがく)の催(もよほし)があつて賜餐(しさん)の時(とき)老(らう)
臣(しん)等(ら)が御用部屋(ごようべや)に来(き)て休息(きうそく)して居(を)つたが或(ある)老臣(らうしん)が御同朋頭(ごどうほうかしら)の荻原林阿弥(をぎはらりんあみ)と云ふ人に此(こ)の次(つぎ)の能(のう)は何(なん)で
あるかと云つて番組(ばんぐみ)を問(と)ふたスルト此(この)林阿弥(りんあみ)と云ふ人は軽率(けいそつ)の性(せう)であつたから問(とひ)に応(おう)じて此(この)次(つぎ)は執着(しゆうちやく)
と云ふ能(のう)でありますと答(こた)へた然(しか)るに此(この)執着(しゆうちやく)と云ふ名(な)は坊間歌舞伎(ぼうかんかぶき)などで付(つ)けた俗(ぞく)の名(な)で能楽(のうがく)の石橋(しやくきよう)
から作(つく)り替(か)へたものであるから元(もと)より能(のう)にはソンな名(な)はない即(すなは)ち石橋(しやくきよう)と答(こた)ふべき処を突然(とつぜん)の答(こたへ)に執(しゆう)
着(ちやく)と云つたので人々(ひと〴〵)ドツト笑(わら)ひ出(だ)したが此(この)時(とき)はサスがに平常(へいぜう)厳然持重(げんぜんぢちよう)の信明(のぶあき)でも耐(た)へ兼(か)ねたと見(み)へて
遂(つひ)に噴(ふ)き出(だ)したと記(しる)してあるのである之(これ)に依(よ)つて見(み)ても此(この)書(しよ)の著者(ちよしや)たる松浦静山侯(まつうらせいざんかう)の如(ごと)きですら信明(のぶあき)
を以(もつ)て厳然持重(げんぜんぢちよう)の人と評(へう)して居(を)る位(くらゐ)で此(この)話(はなし)などは実(じつ)によく其(その)平常(へいぜう)が推(お)し測(はか)られるように思(おも)わるゝので
ある
信明の仁慈 此(かく)の如(ごと)く信明(のぶあき)は誠(まこと)に鹿爪(しかつめ)らしい人であつたが又(ま)た一 方(ぱう)には実(じつ)に慈悲深(じひふか)い処のあつた人で殊(こと)に下々(しも〳〵)の者(もの)
に向(むか)つては仁心(じんしん)の厚(あつ)かつたものである矢張(やはり)甲子夜話(かしやは)の中(なか)にある話(はなし)であるが信明(のぶあき)が老中(らうちう)たりし時(とき)両番衆(れうばんしう)
に弓削田新右衛門(ゆげだしんうゑもん)と云ふ人があつて夫(それ)が或(あ)る事件(じけん)に座(ざ)して遂(つひ)に切腹(せつぷく)を仰付(あふせつ)かつたのである其(その)時(とき)検使(けんし)に
行(い)つた目付(めつけ)の某(それがし)と云ふものがヤツト役目(やくめ)を済(す)まし夜陰(やゐん)に及(およ)むだが規定(きてい)であるから直様(すぐさま)復命(ふくめい)の為(ため)に先(ま)づ
若年寄(わかとしより)某(それがし)の邸(やしき)に行(い)つたのであるトコロが既(すで)に門(もん)が鎖(とざ)されて居(ゐ)て入(い)る事がで出来(でき)なかつたがヨウ〳〵開(かい)
門(もん)してからも急(きふ)に燭台(しよくだい)を玄関(げんかん)に持出(もちだ)すやら狼狽(らうばい)の体(てい)が見(み)へたのであるソコで検使(けんし)の思(おも)ふには此(この)様子(やうす)で
は今(いま)から老中(らうちう)の邸(やしき)に行(い)つた処で余程(よほど)門前(もんぜん)で待(ま)たされる事であろうから其(その)覚悟(かくご)で行(ゆ)かねばなるまいと考(かんが)
へたのであつたが信明(のぶあき)の邸(やしき)へ行(い)つて見(み)ると案(あん)に相違(さうゐ)してチヤント開門(かいもん)してあつたのみならず主人(しゆじん)の信(のぶ)
【欄外】
豊橋市史談 (松平信明の逸事) 三百四十九
現代語訳
【欄外】
豊橋市史談(松平信明の逸事) 三百四十八
【本文】
となり、続いて老中に任じられ、威権並ぶものもないようになったので、ここに定信以来、信明等が苦心経営してきた善政美事というものは一朝にして破壊されるに至ったのである。この蝦夷経営の事もまた、信明が卒去後わずかに五年目の文政四年には全く廃止されて、松前奉行は廃止されて再び彼の松前章広を封じて蝦夷地を与えたのである。
ここにおいて、これまで折角信明が苦心して経営した処の我が北辺の関門というものはまた元の不締りに立ち戻ったので、その後露人は続々樺太に移住するようになったのであるが、遂には千島諸島にまでも及んだのである。然るに残念な事には、松前氏の力は到底これをいかんともすることができなかったのみならず、恣に其の蚕食に一任するに至ったというのは誠に遺憾千万の事であると思うのである。これにつけても私は返す返すも信明の功績の多大なりしを思って止まざるものである。
⦿松平信明の逸事
信明の事跡について話せば実に数多いことであるが、私はいずれこれについては別に一冊子として記述してみたいと思っている次第であるから、此処ではまずその大要を申し述べることとする考えである。そこで以上述べ来った事の外は、便宜上この逸事の中においてぼつぼつと御話して置きたいと思うのである。
元来信明という人は余程厳格な性質で、苟も理屈に合わぬ事は聞き入れなかった。実に私のない正しい行いばかりであったが、例の甲子夜話の中にもこういう話が記されてある。
越後国新発田藩主の溝口氏は信明とは近縁の間柄であったが、信明が老中であった時代、幼稚家督の事があって、その近臣の考えでは主人が余り幼年で表向き都合が悪いから、どうか二三歳年齢を増して官辺へ届出でて置きたいものであるということで、内々これを信明に相談したのである。ところが信明が言うには、そ
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編集人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千二百四十九号附録(大正元年十二月二十四日発行)
【本文】
れは以ての外の事で姑息というものである。断然相成り難き儀であると一言の下に撥ね付けたので、これを聞いた溝口氏の近臣は心密かに後悔したとのことである。
また同書にある時能楽の催しがあって賜餐の時、老臣等が御用部屋に来て休息していたが、ある老臣が御同朋頭の荻原林阿弥という人に、この次の能は何であるかといって番組を問うた。するとこの林阿弥という人は軽率の性であったから、問いに応じてこの次は執着という能でありますと答えた。然るにこの執着という名は坊間歌舞伎などで付けた俗の名で、能楽の石橋から作り替えたものであるから、元より能にはそんな名はない。即ち石橋と答えるべき処を、突然の答えに執着といったので、人々どっと笑い出したが、この時はさすがに平常厳然持重の信明でも耐え兼ねたと見えて、遂に噴き出したと記してあるのである。
これによって見ても、この書の著者たる松浦静山侯のごときですら信明を以て厳然持重の人と評している位で、この話などは実によくその平常が推し測られるように思われるのである。
此のごとく信明は誠に堅物らしい人であったが、また一方には実に慈悲深い処のあった人で、殊に下々の者に向っては仁心の厚かったものである。矢張り甲子夜話の中にある話であるが、信明が老中たりし時、両番衆に弓削田新右衛門という人があって、それがある事件に座して遂に切腹を仰せ付かったのである。その時検使に行った目付の某というものが、やっと役目を済まし夜陰に及んだが、規定であるから直様復命のためにまず若年寄某の邸に行ったのである。
ところが既に門が鎖されていて入ることができなかったが、ようやく開門してからも急に燭台を玄関に持出すやら狼狽の体が見えたのである。そこで検使の思うには、この様子では今から老中の邸に行った処で余程門前で待たされることであろうから、その覚悟で行かねばなるまいと考えたのであったが、信明の邸へ行って見ると案に相違してちゃんと開門してあったのみならず、主人の信
【欄外】
豊橋市史談(松平信明の逸事) 三百四十九
英語訳
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (Anecdotes of Matsudaira Nobuaki) 348
**Main Text:**
and subsequently became Senior Councilor, with unrivaled authority. Thus, the good governance and fine administration that had been painstakingly developed by Sadanobu, Nobuaki, and others since Sadanobu's time was destroyed in a single morning. This Ezo administration was also completely abolished in Bunsei 4 (1821), just five years after Nobuaki's death. The Matsumae Magistrate was abolished, and Matsumae Akihiro was again enfeoffed and given the Ezo territory.
At this point, the northern frontier gateway that Nobuaki had so painstakingly developed returned to its former laxity. Subsequently, Russians began migrating to Sakhalin in succession, eventually extending even to the Kuril Islands. Unfortunately, the Matsumae clan's power was completely inadequate to deal with this situation, and they allowed this encroachment to proceed unchecked, which I believe was truly regrettable beyond measure. This makes me reflect all the more on the magnitude of Nobuaki's achievements.
⦿Anecdotes of Matsudaira Nobuaki
There are indeed numerous stories about Nobuaki's deeds, and I intend to eventually compile them into a separate booklet. Therefore, here I will only outline the main points. Beyond what has been discussed above, I would like to share various anecdotes for convenience.
Originally, Nobuaki was a person of considerable strict character who would not accept anything unreasonable. He was truly a person of upright conduct without personal bias. The famous Kashi Yawa (Midnight Tales) also records such a story:
The Mizoguchi clan, lords of Shibata domain in Echigo Province, were closely related to Nobuaki. During Nobuaki's time as Senior Councilor, there was a matter of a young heir succession. The retainers thought that since their lord was too young, it would be inconvenient for official purposes, so they privately consulted Nobuaki about possibly adding two or three years to his age when reporting to the authorities. However, Nobuaki said that
**Margin:**
Publisher and Printing Office: Sanyo Printing Partnership Company, 48 Konyacho, Toyohashi City; Editor: Nakanishi Kenzo; Publisher and Printer: Kuno [?]kichi
**Left Page:**
**Margin:**
Sanyo Newspaper Issue 4,249 Supplement (Published December 24, Taisho 1 [1912])
**Main Text:**
this was absolutely outrageous and expedient behavior, firmly rejecting it outright. The Mizoguchi clan's retainers who heard this secretly regretted their request.
The same book also tells of a time when there was a Noh performance and during the banquet, senior retainers were resting in the duty room. One senior retainer asked Ogiwara Rin'ami, the head of the dōbōshū, what the next Noh play would be, inquiring about the program. This Rin'ami was of hasty temperament, so he responded to the question saying the next play would be "Shūchaku" (Attachment). However, this name "Shūchaku" was a vulgar name given by popular kabuki theaters, adapted from the Noh play "Shakkyō" (Stone Bridge), so there was originally no such name in Noh. He should have answered "Shakkyō," but in his hasty response said "Shūchaku," causing everyone to burst into laughter. Even Nobuaki, who was usually stern and composed, apparently could not contain himself and finally burst out laughing.
From this we can see that even the author of this book, Lord Matsura Seizan, evaluated Nobuaki as a stern and composed person, and this anecdote really allows us to imagine his usual demeanor.
**Nobuaki's Benevolence**
Thus Nobuaki was indeed a very serious person, but on the other hand, he was also truly compassionate, especially showing great benevolence toward those of lower station. Another story from Kashi Yawa tells that when Nobuaki was Senior Councilor, there was a man named Yugeta Shin'uemon among the guard units who was involved in some incident and was ultimately ordered to commit seppuku. The inspector who went to witness this finally completed his duty as night fell, but according to regulations, he had to report immediately, so he first went to a certain wakadoshiyori's residence.
However, the gate was already locked and he could not enter. Even after it was finally opened, there was a flurried appearance as they hurriedly brought out candles to the entrance. The inspector thought that in this state, if he went to the Senior Councilor's residence now, he would probably be kept waiting at the gate for quite a while, so he prepared himself accordingly. But when he went to Nobuaki's residence, contrary to his expectations, the gate was properly open, and moreover, the master Nobu-
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (Anecdotes of Matsudaira Nobuaki) 349