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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 190

ページ: 190

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【欄外】    豊橋市史談  (松平信明の逸事)                    三百五十二 【本文】       の御召(おめし)であると云(い)ふので使(つかひ)が来(き)たのである佐藤(さとう)はイヨ〳〵事(こと)面倒(めんだう)になつたと信(しん)じて恐(おそ)る〳〵決心(けつしん)して        罷出(まかりいで)た処(ところ)が信明(のぶあき)は最前(さいぜん)に似(に)も付(つ)かず打(う)つて変(かは)つた機嫌(きげん)で佐藤(さとう)を側近(そばちか)く招(まね)き先刻(せんこく)の諫言(かんげん)は身(み)にしみて有(あり)        難(がた)く思(おも)ふから向後(かうご)は汝(なんぢ)の言(い)ふ如(ごと)く必(かなら)ず禁酒(きんしゆ)する就(つい)ては其印(そのしるし)として之(これ)迄(まで)自分(じぶん)が用(もち)ゐ来(きた)つた盃(さかづき)は残(のこ)らず        纏(まと)めて其方(そのはう)に遣(つか)はすと云(い)ふので悉(こと〴〵)く之(これ)を佐藤(さとう)に下(くだ)し賜(たまは)つたのである之(これ)を聞(き)いた佐藤(さとう)は実(じつ)に嬉(うれ)しさ堪(た)へ       かねて深(ふか)く感涙(かんるい)にむせむだと云(い)ふ事(こと)であるが其(その)時(とき)下賜(かし)の盃(さかづき)は今(いま)も尚(なほ)佐藤(さとう)の家(いへ)に伝(つた)はつて居(を)ると云ふ       ので其(その)佐藤(さとう)の直話(ぢきわ)が矢張(やはり)嵩岳君言行録(すがくくんげんかうろく)の中(なか)に載(の)せられてあるのである古来(こらい)名君(めいくん)と云(い)はれた人(ひと)には必(かなら)ず        人(ひと)の諌(いさめ)を容(い)れた話(はなし)があるが信明(のぶあき)の此(この)話(はなし)も又(ま)た実(じつ)に一 美談(びだん)として伝(つた)ふべきであると思(おも)ふ 信明の精力  又(ま)た信明(のぶあき)と云(い)ふ人(ひと)は実(じつ)に偉大(ゐだい)なる精力家(せいりよくか)であつたと云(い)ふ事(こと)を此処(こゝ)に御話(おはなし)したいと思(おも)ふのである先(さき)にも        一寸(ちよつと)申述(まをしの)べた如(ごと)く信明(のぶあき)は幼少(えうせう)の頃(ころ)から既(すで)に能書(のうしよ)であつたが廿 歳(さい)の時(とき)自(みづか)ら公沢(かうたく)の千 文字(もんじ)を模写(もしや)したもの       が今(いま)も大河内家(おほかうちけ)に遺(のこ)つて居(を)るのである而(しか)して其(その)奥書(おくがき)を見(み)ると        (前略)欲模写以為範、奈何晝日公私鞅掌、以是燈下模写、二夜卒業、謂之書癖亦所不辞也       コウ書(か)いてある実(じつ)に之(こ)れ丈(だけ)のものを二夜(ふたよ)で書(か)き上(あ)げて仕舞(しま)ふと云ふ精力(せいりよく)は驚(おどろ)くべきであると思(おも)ふ又(ま)た        篆刻(てんこく)にも巧(たくみ)であつた人で自刻(じこく)の石印(せきいん)木印(もくいん)扁額(へんがく)などは矢張(やはり)大河内家(おほかうちけ)に何(なん)十 個(こ)となく今(いま)遺(のこ)つて居(を)るが孰(いづ)れ       も見事(みごと)な出来(でき)で到底(たうてい)専門家(せんもんか)も及(およ)ばぬ程(ほど)のものが多(おほ)いのである其他(そのた)詩(し)を賦(ぶ)し歌(うた)を読(よ)み詩集(ししう)なども残(のこ)つて        居(を)るのである何(なに)をしても相当(さうとう)には成績(せいせき)が上(あが)つて居(を)るので何事(なにごと)につけても終始(しうし)絶倫(ぜつりん)の精力(せいりよく)を傾注(けいちう)したも       のであることは伺(うかゞ)ひ知(し)る事が出来(でき)るのであるが殊(こと)に日夜(にちや)政務(せいむ)多端(たたん)で天下(てんか)の事に鞅掌(わうせう)し而(しか)も其(その)職務(しよくむ)に対(たい)し       ては前(ぜん)より段々(だん〳〵)申述(まをしの)べ来(きた)つた如(ごと)く実(じつ)に其(その)天才(てんさい)を発揮(はつき)して居(を)るのであるから其(その)精力(せいりよく)は誠(まこと)に驚(おどろ)くべきであ       ると思(おも)ふ 【欄外】        発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千二百五十八号附録    (大正二年一月七日発行) 【本文】 信明の質素  又(また)信明(のぶあき)が常(つね)に質素倹約(しつそけんやく)を旨(むね)とした人であることは言(い)ふまでもないのであるが常(つね)に袴(はかま)などはワザ〳〵作(つく)る       には及(およ)ばぬ上下(かみしも)の下(しも)を用(もち)ゐて置(お)けばよいと云(い)はれた程(ほど)で従(したがつ)て其(その)遺物(ゐぶつ)の如(ごと)きはドレを見(み)ても全(まつた)く飾(かざ)り気(け)       のないもの計(ばか)りである終生(しうせい)大好物(たいかうぶつ)であつた篆刻(てんこく)の如(ごと)きでも只(たゞ)の蠟石(ろうせき)へ彫(ほ)り付(つ)けたもの計(ばか)りで一つも修(しう)        飾(しよく)などを加(くは)へたものはない併(しか)しながら又(ま)た決(けつ)して吝嗇(りんしよく)などの行(おこな)はれなかつたものである必用(ひつよう)の費用(ひよう)と       あれば少(すこ)しも惜(おし)まず支出(ししゆつ)したのであるが御承知(ごせうち)の如(ごと)く信明(のぶあき)が世(よ)に立(た)つた頃(ころ)は所謂(いはゆる)田沼時代(たぬまじだい)の後(あと)であつ       たから只管(ひたすら)其(その)弊風(へいふう)を打破(だは)して士気(しき)を奮起(ふんき)せしめようと勉(つと)めたもので或(あるひ)は馬術(ばじつ)を奨励(せうれい)し或(あるひ)は鷹野(たかの)を催(もよほ)し       などして惰弱(だじやく)に流(なが)れたる人気(にんき)を振興(しんこう)せしめむとしたのであるソコで僅(わづ)か七万石の家(いへ)でありながら自(みづか)ら        馬(うま)三四十 頭(とう)に鷹(たか)の二三十 羽(ぱ)は養(やしな)つて置(お)いたものである此(かく)の如(ごと)き性行(せいかう)の人(ひと)であつたから一 方(ぱう)に於(おい)ては        又(ま)た極(きは)めて清廉(せいれん)の質(しつ)であつた事は言(い)ふ迄(まで)もないが之(これ)にも伝(つた)ふべき一 美談(びだん)があるのである 信明の廉潔 ソレは信明(のぶあき)が老中(らうちう)上座(ぜうざ)であつた頃(ころ)の話(はなし)であるが米津小太夫(よねづこたいう)と云ふ旗本(はたもと)があつて宝飯郡(ほゐぐん)の牛久保(うしくぼ)を領(れう)し       て居(を)つたのであるが其(その)領地(れうち)は恰(あたか)も信明(のぶあき)の領地(れうち)即(すなは)ち吉田領(よしだれう)の間(あひだ)に狭(はさ)まつて居(を)つたのみならず至極(しごく)肥沃(ひよく)で       あつたから吉田領(よしだれう)の方(はう)では万事(ばんじ)に不便(ふべん)極(きは)まる上(うへ)にそれが肥沃(ひよく)であつて見(み)れば何(なん)とか換地(かへち)の法(ほう)を立(た)てゝ        米津(よねづ)を外(ほか)へ廻(まは)し牛久保(うしくぼ)をば吉田領(よしだれう)へ入(い)れる事に致(いた)したいものであると云(い)ふので国家老(くにからう)から其(その)事(こと)を信明(のぶあき)      に申出(まをしい)でたのである然(しか)るに信明(のぶあき)は之(これ)を聴(き)き入(い)れずして云(い)ふにはソレは我儘(わがまゝ)と云(い)ふものである元来(がんらい)小禄(せうろく)       の給所(きうしよ)は縄(なは)の延(の)びて居(を)るもので事実(じじつ)は表面(へうめん)よりも余計(よけい)に上(あが)り高(だか)のあるようになつて居(を)るのであるそれ       を比較的(ひかくてき)切詰(きりつ)めて自分(じぶん)の領地(れうち)と引替(ひきかへ)にせむと云ふのは誠(まこと)に心(こゝろ)のない仕業(しわざ)であるソンナ事(こと)はいらざ       る義(ぎ)であるから捨(す)てゝ置(お)けと斥(しりぞ)けたのでサスガの国家老(くにからう)も其(その)仁慈(じんじ)あると廉潔(れんけつ)なるとに服(ふく)したと云ふ事       であるが之(これ)亦(ま)た信明(のぶあき)の人格(じんかく)を伺(うかゞ)ふ上(うへ)に於(おい)て面白(おもしろ)き話(はなし)であると思(おも)ふ 【欄外】    豊橋市史談  (松平信明の逸事)                    三百五十三

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(松平信明の逸事) 三百五十二 【本文】 の御召しであるということで使いが来たのである。佐藤はいよいよ事態が面倒になったと信じて恐る恐る決心して罷り出た処が、信明は先刻とは似ても付かぬほど打って変わった機嫌で、佐藤を側近く招き「先刻の諫言は身にしみて有り難く思うから、今後は汝の言う如く必ず禁酒する。ついてはその印として、これまで自分が用いて来た盃は残らず纏めてその方に遣わす」ということで、悉くこれを佐藤に下し賜ったのである。これを聞いた佐藤は実に嬉しさ堪えかねて深く感涙にむせんだということであるが、その時下賜の盃は今も尚佐藤の家に伝わっているということで、その佐藤の直話が矢張り嵩岳君言行録の中に載せられてあるのである。古来名君と言われた人には必ず人の諫めを容れた話があるが、信明のこの話もまた実に一美談として伝うべきであると思う。 **信明の精力** また信明という人は実に偉大なる精力家であったということをここにお話ししたいと思うのである。先にも一寸申し述べたごとく、信明は幼少の頃から既に能書であったが、二十歳の時自ら公沢の千文字を模写したものが今も大河内家に遺っているのである。而してその奥書を見ると 「(前略)欲模写以為範、奈何晝日公私鞅掌、以是燈下模写、二夜卒業、謂之書癖亦所不辞也」 こう書いてある。実にこれだけのものを二夜で書き上げてしまうという精力は驚くべきであると思う。また篆刻にも巧みであった人で、自刻の石印、木印、扁額などは矢張り大河内家に何十個となく今遺っているが、いずれも見事な出来で到底専門家も及ばぬほどのものが多いのである。その他詩を賦し歌を読み、詩集なども残っているのである。何をしても相当には成績が上がっているので、何事につけても終始絶倫の精力を傾注したものであることは伺い知る事が出来るのであるが、殊に日夜政務多端で天下の事に鞅掌し、而もその職務に対しては前より段々申し述べ来たごとく実にその天才を発揮しているのであるから、その精力は誠に驚くべきであると思う。 【欄外】 発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千二百五十八号附録(大正二年一月七日発行) 【本文】 **信明の質素** また信明が常に質素倹約を旨とした人であることは言うまでもないのであるが、常に袴などはわざわざ作るには及ばぬ、上下の下を用いて置けばよいと言われたほどで、従ってその遺物のごときはどれを見ても全く飾り気のないものばかりである。終生大好物であった篆刻のごときでも、只の蠟石へ彫り付けたものばかりで一つも修飾などを加えたものはない。併しながらまた決して吝嗇などの行われなかったものである。必要の費用とあれば少しも惜しまず支出したのであるが、御承知のごとく信明が世に立った頃は所謂田沼時代の後であったから、ひたすらその弊風を打破して士気を奮起せしめようと勉めたもので、或いは馬術を奨励し、或いは鷹野を催しなどして惰弱に流れたる人気を振興せしめんとしたのである。そこで僅か七万石の家でありながら、自ら馬三四十頭に鷹の二三十羽は養って置いたものである。かくのごとき性行の人であったから、一方においてはまた極めて清廉の質であった事は言うまでもないが、これにも伝うべき一美談があるのである。 **信明の廉潔** それは信明が老中上座であった頃の話であるが、米津小太夫という旗本があって宝飯郡の牛久保を領していたのであるが、その領地は恰も信明の領地即ち吉田領の間に挟まっていたのみならず至極肥沃であったから、吉田領の方では万事に不便極まる上にそれが肥沃であって見れば、何とか換地の法を立てて米津を外へ廻し牛久保をば吉田領へ入れる事に致したいものであるということで、国家老からその事を信明に申し出でたのである。然るに信明はこれを聴き入れずして言うには「それは我儘というものである。元来小禄の給所は縄の延びているもので、事実は表面よりも余計に上り高のあるようになっているのである。それを比較的切り詰めて自分の領地と引き替えにせんというのは誠に心のない仕業である。そんな事はいらざる義であるから捨てて置け」と斥けたので、さすがの国家老もその仁慈あると廉潔なるとに服したということであるが、これまた信明の人格を伺う上において面白き話であると思う。 【欄外】 豊橋市史談(松平信明の逸事) 三百五十三

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Anecdotes of Matsudaira Nobuaki) 352 **Main Text:** A messenger came saying there was an urgent summons. Sato, believing the situation had become even more troublesome, fearfully resolved himself and appeared before his lord. However, Nobuaki's mood was completely transformed from earlier - he called Sato close to his side and said, "Your earlier remonstrance touched me deeply and I am grateful for it. Henceforth I will abstain from alcohol as you advised. As a token of this, I will give you all the sake cups I have used until now." He bestowed all of them upon Sato. Upon hearing this, Sato was overcome with joy and wept tears of gratitude. The cups bestowed at that time are said to still be preserved in the Sato family home today. This direct account from Sato is also recorded in the Sugaku-kun Genkoroku (Record of Lord Sugaku's Words and Deeds). Throughout history, rulers known as wise lords always have stories of accepting remonstrance, and this tale of Nobuaki should also be passed down as a truly beautiful story. **Nobuaki's Energy** I would like to speak here about how Nobuaki was truly a person of tremendous energy. As I mentioned briefly before, Nobuaki was already skilled in calligraphy from his youth, and a copy he made of Kosawa's Thousand Characters at age twenty is still preserved in the Okochi family today. Looking at the postscript, it reads: "(omitted)...wished to copy it as a model, but during the day was busy with public and private affairs, so copied it by lamplight, completing it in two nights. Even if called an obsession with writing, I do not refuse it." The energy to complete such work in just two nights is truly remarkable. He was also skilled in seal carving, and dozens of his self-carved stone seals, wooden seals, and plaques still remain with the Okochi family today. All are magnificently done, many at a level that even professional artisans could not match. He also composed poetry and waka, leaving behind poetry collections as well. Whatever he undertook showed considerable achievement, indicating that he devoted extraordinary energy to everything he did. Particularly considering that he was busy day and night with governmental affairs and dealing with national matters, while displaying his genius in his official duties as I have described previously, his energy was truly remarkable. **Margin:** Publisher and Printer: Sanyo Printing Partnership Company, 48 Konya-cho, Toyohashi City; Editor: Nakanishi Kenzo; Publisher and Printer: Kuno □kichi **Left Page:** **Margin:** Supplement to Sanyo Newspaper Issue 4,258 (Published January 7, Taisho 2) **Main Text:** **Nobuaki's Frugality** It goes without saying that Nobuaki always made frugality and economy his principle. He would say there was no need to specially make hakama trousers - one could simply use the lower portion of a kamishimo formal outfit. Accordingly, all his remaining possessions show no decorative touches whatsoever. Even in seal carving, which was his lifelong passion, he carved only on plain soapstone, never adding any ornamentation. However, he was never miserly. When expenses were necessary, he would spend without hesitation. As you know, when Nobuaki rose to prominence, it was after the so-called Tanuma era, so he strove to break that corrupt influence and revive the samurai spirit. He encouraged horsemanship and organized hawking expeditions to reinvigorate the people who had grown weak and complacent. Thus, despite his domain being only 70,000 koku, he personally maintained thirty to forty horses and twenty to thirty hawks. Being a person of such character, he was naturally of extremely honest disposition, and there is another beautiful story worth telling about this. **Nobuaki's Integrity** This is a story from when Nobuaki was senior councilor. There was a hatamoto (direct retainer of the shogun) named Yonezu Kotaifu who held the territory of Ushikubo in Hoi District. His domain was not only sandwiched between Nobuaki's territory (the Yoshida domain) but was also extremely fertile. This caused great inconvenience for the Yoshida domain in all matters, and given its fertility, the domain's senior retainer proposed to Nobuaki that they should arrange a land exchange to move Yonezu elsewhere and incorporate Ushikubo into the Yoshida domain. However, Nobuaki refused to consider this, saying: "That would be selfish. Originally, small stipend holdings extend beyond their nominal boundaries, so their actual yield exceeds what appears on paper. To force him to exchange his comparatively compact territory for our land would be truly heartless. Such an action is unnecessary - abandon the idea." Even the domain's senior retainer was impressed by Nobuaki's benevolence and integrity. This too is an interesting story for understanding Nobuaki's character. **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Anecdotes of Matsudaira Nobuaki) 353