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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 191

ページ: 191

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【欄外】    豊橋市史談  (松平信明の逸事)                    三百五十四 【本文】 文学の奨励  又(ま)た信明(のぶあき)が其(その)在職中(ざいしよくちう)頻(しき)りに武道(ぶどう)を激励(げきれい)して一たび堕(お)ちたる士気(しき)を興奮(こうふん)せしめた事は前(まへ)にも屡々(しば〴〵)申述(まをしの)べ       た如(ごと)くであるがそれのみならず信明(のぶあき)は一 方(ぱう)に文学(ぶんがく)の奨励者(せうれいしや)で之(これ)を以(もつ)て世道人心(せどうじんしん)に益(えき)した事も少(すくな)からざ       るのである勿論(もちろん)之(これ)に関(かん)しては定信(さだのぶ)の発意(はつい)になつたものもあるのではあるが定信(さだのぶ)は前(まへ)にも申述(まをしの)べた如(ごと)く        要職(えうしよく)にある事(こと)僅(わづか)に七年に過(す)ぎなかつたのであるから其(その)後(のち)は全(まつた)く信明(のぶあき)が之(これ)を受継(うけつ)いで総(すべ)ての経営(けいえい)に任(にん)じ       たのである先(ま)づ彼(か)の聖堂(せいどう)の振興(しんこう)であるがそれも大成(たいせい)したのは信明(のぶあき)が主(しゆ)として責任者(せきにんしや)たるの時代(じだい)である 《割書:信明と古賀|精里》  モツトモ彼(か)の有名(いうめい)なる尾藤(びとう)二 州(しゆう)、柴野栗山(しばのりつざん)両人(れうにん)の召(め)されたのは定信(さだのぶ)がまだ在職(ざいしよく)の当時(たうじ)であつたが古賀(こが) 《割書:寛政重修諸|家譜の編纂》  精里(せいり)の召出(めいだ)されたのは信明(のぶあき)が老中(らうちう)主席(しゆせき)たるの時代(じだい)である又(ま)たズツト前(まへ)に詳(くは)しく申述(まをしの)べてある寛政重修(かんせいぢうしう)       諸家譜(しよかふ)の編纂(へんさん)と云(い)ふものは実(じつ)に信明(のぶあき)の事業(じげふ)と云つてもよいので此(この)書物(しよもつ)は寛永系図(かんえいけいづ)、貞享書上(ぢようけうかきあげ)に継(つい)で其(その)       誤謬脱漏(ごびやうだつろう)を補正(ほせい)したものであるが武家(ぶけ)の歴史(れきし)に取(と)つては唯(ゆ)一つ資料(しれう)で最(もつと)も大切(たいせつ)のものと相成(あひな)つて居(を)る       次第(しだい)である之(これ)は実(じつ)に一千五百二十五 巻(くわん)と云ふ大部(だいぶ)のもので前(まへ)にも御話(おはなし)した事のある堀田正敦(ほつたまさあつ)と云ふ人       が其(その)編纂(へんさん)に関(かん)する総裁(そうさい)を命(めい)ぜられたのであるが林述斉(はやしじつさい)は監修(かんしう)の役(やく)に当(あた)り成島司直(なるしましちよく)、屋代弘賢(おくしろこうけん)などの学(がく)       者(しや)が之(これ)に関与(かんよ)したものである其(その)事業(じげふ)は最初(さいしよ)寛政(かんせい)十一年から始(はじ)まつて文化(ぶんくわ)九年に至(いた)りヨウ〳〵巧(こう)を竣(かわ)つ       たのであるから其(その)間(あひだ)十四ケ年を費(つひや)した次第(しだい)であるが此(この)十四ケ年の中(うち)僅(わづか)に享和(けうわ)三年十二月から文化(ぶんくわ)三年       五月まで二ケ年半(ねんはん)許(ばかり)の外(ほか)は悉(こと〴〵)く信明(のぶあき)が老中(らうちう)の上座(ぜうざ)たるの時代(じだい)であるから此(この)事業(じげふ)に対(たい)する信明(のぶあき)が統括(とうかつ) 《割書:徳川実記並|に朝野旧聞|裒稿の編纂》  誘掖(ゆうえき)の功(こう)と云ふものは容易(ようゐ)ならざるものがあつた事と確信(かくしん)するのであるそれのみならず御承知(ごせうち)の徳川(とくがは)       実記(じつき)並(ならび)に朝野旧聞裒稿(てうやきうぶんほうかう)の編纂(へんさん)と云ふものも矢張(やはり)述斉(じつさい)だの司直(しちよく)だのゝ関係(かんけい)したのであるが之(これ)は文化(ぶんくわ)六年       即(すなは)ち信明(のぶあき)が老中(らうちう)上座(ぜうざ)として最(もつと)も勢力(せいりよく)のあつた時代(じだい)に起(おこ)つた事業(じげふ)で嘉永(かえい)二年に至(いた)つて出来上(できあが)つたのであ       る之(これ)亦(ま)た孰(いづ)れも大部(だいぶ)の書物(しよもつ)で今日(こんにち)に於(おい)ても徳川時代(とくがはじだい)に関(かん)する歴史上(れきしぜう)の一 大宝典(だいほうてん)となつて居(を)るものであ 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       る蓋(けだ)し其(その)時代(じだい)を通(つう)じて文学上(ぶんがくぜう)の大事業(だいじげふ)として之程(これほど)のものは他(た)になかつた事と信(しん)ずる 《割書:信明と伊能|忠敬》  又(ま)た伊能忠敬(いのうたゞよし)が海岸(かいがん)を測量(そくれう)して我国(わがくに)の地図(ちづ)を製作(せいさく)したのも多(おほ)くは信明(のぶあき)が権勢(けんせい)を握(にぎ)れる当時(たうじ)の事である       が其(その)製図(せいづ)の見事(みごと)なものが今(いま)も大河内家(おほかうちけ)に残(のこ)つて居(を)る事などは既(すで)に前章(ぜんせう)に於て申述(まをしの)べた如(ごと)くであるが勿(もち)       論(ろん)之(これ)にも信明(のぶあき)が多大(ただい)の関係(かんけい)を有(ゆう)して居(を)つた事は明(あきらか)なる事実(じじつ)である其他(そのた)太田錦城(おほたきんじやう)を初(はじ)めて自藩(じはん)の儒者(じゆしや)       として採用(さいよう)したのも信明(のぶあき)であるが此(この)錦城(きんじやう)のことに就(つい)ては後章(こうせう)に於て詳(くは)しく申述(まをしの)ぶる考(かんが)へである又(ま)た前(まへ) 日光山殖林 にも段々(だん〳〵)申述(まをしの)べた如(ごと)く彼(か)のに日光山(につかうざん)並(ならび)に其(その)街道(かいどう)多数(たすう)の杉樹(さんじゆ)を殖(う)へ付(つ)けたのは信綱(のぶつな)の叔父(おぢ)で正綱(まさつな)と云ふ人       であるが此(この)杉苗(すぎなへ)は毎年(まいねん)其(その)中(なか)に何分(なにぶん)づゝ枯(か)れるものなどが出来(でき)たので正綱(まさつな)の子孫(しそん)たる大多喜(おたき)の大河内家(おほかうちけ)       に於(おい)ては代々(だい〳〵)之(こ)れが植継(うゑつぎ)の為(ため)には苦心(くしん)もし又(ま)た費用(ひよう)をも投(とう)じたものであるが信明(のぶあき)も又(ま)た此(この)祖先(そせん)の遺業(ゐげふ)       に倣(なら)つて享和(けうわ)元年(がんねん)矢張(やはり)此(この)日光山(につかうざん)に殖林(しよくりん)の事業(じげふ)を計画(けいくわく)したのである其(その)当時(たうじ)信明(のぶあき)が殖林地(しよくりんち)へ建設(けんせつ)した碑(ひ)が       あるが此(この)刻文(こくぶん)は左(さ)の如(ごと)くである        下野国河内郡針谷村之東大谷川之南塩野室村之西矢野口村之北有地曰萱野今界弐拾五町捌反歩植松        桧等壱拾五万株又鑿渠環之以備野焼庶幾待以歳月修茂一拱抱以充日光山 両廟修繕之材云       私(わたくし)はまだ遺憾(ゐかん)な事には此(この)碑(ひ)を実見(じつけん)する機会(きくわい)を得(え)ないから今日(こんにち)も尚(な)ほ之(これ)が現存(げんぞん)して居(を)るや否(いな)やは明言(めいげん)が       出来(でき)兼(か)ぬるのである併(しか)し或人(あるひと)の話(はなし)によると此(この)森林(しんりん)は今(いま)実(じつ)に繁殖(はんしよく)して莫大(ばくだい)の価値(かち)あるものとなつて居(を)る       と云ふ事である其外(そのほか)信明(のぶあき)が事に就(つい)てはまだ御話(おはなし)すれば中々(なか〳〵)尽(つ)きぬのであるが尚(な)ほ一二 大切(たいせつ)の事を申述(まをしの)      べて一 先(ま)づ此(この)章(せう)を終(をは)りたいと思(おも)ふのである之(これ)は信明(のぶあき)がズツト若(わか)い時(とき)の事で寛政(かんせい)七年に行(おこな)はれたものであ       るが前(まへ)にも申述(まをしの)べた如(ごと)く当時(たうじ)田沼(たぬま)弊政(へいせい)の後(あと)を受(う)けて世(よ)の中(なか)が実(じつ)に遊惰(ゆうだ)に流(なが)れつゝあるので大(おほひ)に士気(しき)を 《割書:小金原の狩|猟》  鼓舞(こぶ)する必要(ひつえう)があると云ふ処から其(その)三月五日 将軍(せうぐん)家斉(いへなり)が自(みづか)ら出馬(しゆつば)して小金原(こがねがはら)で大(おほひ)に狩(かり)をした事がある 【欄外】    豊橋市史談  (松平信明の逸事)                    三百五十五

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(松平信明の逸事) 三百五十四 【本文】 **文学の奨励** また信明がその在職中頻りに武道を激励して一たび堕ちた士気を興奮させた事は前にも屡々申し述べたごとくであるが、それのみならず信明は一方に文学の奨励者で、これを以て世道人心に益した事も少なからざるのである。勿論これに関しては定信の発意になったものもあるのではあるが、定信は前にも申し述べたごとく要職にある事僅かに七年に過ぎなかったのであるから、その後は全く信明がこれを受け継いで総ての経営に任じたのである。先ず彼の聖堂の振興であるが、それも大成したのは信明が主として責任者たる時代である。 **信明と古賀精里** もっとも彼の有名なる尾藤二州、柴野栗山両人の召されたのは定信がまだ在職の当時であったが、古賀精里の召出されたのは信明が老中主席たる時代である。 **寛政重修諸家譜の編纂** またずっと前に詳しく申し述べてある寛政重修諸家譜の編纂というものは実に信明の事業と言ってもよいので、この書物は寛永系図、貞享書上に継いでその誤謬脱漏を補正したものであるが、武家の歴史に取っては唯一つ資料で最も大切のものと相成っている次第である。これは実に一千五百二十五巻という大部のもので、前にもお話した事のある堀田正敦という人がその編纂に関する総裁を命ぜられたのであるが、林述斎は監修の役に当たり、成島司直、屋代弘賢などの学者がこれに関与したものである。その事業は最初寛政十一年から始まって文化九年に至りようやく功を竣えたのであるから、その間十四ヶ年を費やした次第であるが、この十四ヶ年の中、僅かに享和三年十二月から文化三年五月まで二ヶ年半ばかりの外は悉く信明が老中の上座たる時代であるから、この事業に対する信明が統括誘掖の功というものは容易ならざるものがあった事と確信するのである。 **徳川実記並に朝野旧聞裒稿の編纂** それのみならず御承知の徳川実記並に朝野旧聞裒稿の編纂というものも矢張り述斎だの司直だのの関係したのであるが、これは文化六年即ち信明が老中上座として最も勢力のあった時代に起こった事業で、嘉永二年に至って出来上がったのである。これまたいずれも大部の書物で、今日においても徳川時代に関する歴史上の一大宝典となっているものである。 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏はその該博なる知識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際[以下判読不能] 【左頁】 【欄外】 この豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 蓋しその時代を通じて文学上の大事業としてこれほどのものは他になかった事と信ずる。 **信明と伊能忠敬** また伊能忠敬が海岸を測量して我国の地図を製作したのも多くは信明が権勢を握れる当時の事であるが、その製図の見事なものが今も大河内家に残っている事などは既に前章において申し述べたごとくであるが、勿論これにも信明が多大の関係を有していた事は明らかなる事実である。その他太田錦城を初めて自藩の儒者として採用したのも信明であるが、この錦城のことについては後章において詳しく申し述ぶる考えである。 **日光山殖林** またずっと前にも段々申し述べたごとく、彼の日光山並にその街道多数の杉樹を殖え付けたのは信綱の叔父で正綱という人であるが、この杉苗は毎年その中に何分かずつ枯れるものなどが出来たので、正綱の子孫たる大多喜の大河内家においては代々これが植継のためには苦心もしまた費用をも投じたものであるが、信明もまたこの祖先の遺業に倣って享和元年矢張りこの日光山に殖林の事業を計画したのである。その当時信明が殖林地へ建設した碑があるが、この刻文は左のごとくである。 「下野国河内郡針谷村之東大谷川之南塩野室村之西矢野口村之北有地曰萱野今界弐拾五町捌反歩植松桧等壱拾五万株又鑿渠環之以備野焼庶幾待以歳月修茂一拱抱以充日光山両廟修繕之材云」 私はまだ遺憾な事にこの碑を実見する機会を得ないから、今日も尚これが現存しているや否やは明言が出来兼ぬるのである。併し或人の話によるとこの森林は今実に繁殖して莫大の価値あるものとなっているということである。 その外信明が事については、まだお話すれば中々尽きぬのであるが、尚一二大切の事を申し述べて一先ずこの章を終りたいと思うのである。これは信明がずっと若い時の事で寛政七年に行われたものであるが、前にも申し述べたごとく当時田沼弊政の後を受けて世の中が実に遊惰に流れつつあるので、大いに士気を鼓舞する必要があるという処から、その三月五日将軍家斉が自ら出馬して小金原で大いに狩をした事がある。 **小金原の狩猟** 【欄外】 豊橋市史談(松平信明の逸事) 三百五十五

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Anecdotes of Matsudaira Nobuaki) 354 **Main Text:** **Encouragement of Literature** As I have frequently mentioned before, Nobuaki actively encouraged martial arts during his tenure to revive the fallen samurai spirit. However, he was not only that - he was also a great promoter of literature and contributed significantly to improving public morals and hearts through this means. Of course, some of these initiatives originated from Sadanobu's ideas, but as I mentioned earlier, Sadanobu held important positions for only seven years. After that, Nobuaki took complete charge of all these enterprises. First, regarding the revival of the Confucian Academy (Seidō), its completion was achieved primarily during Nobuaki's tenure as the responsible leader. **Nobuaki and Koga Seiri** While the famous scholars Bitō Jishū and Shibano Ritsuzan were summoned during Sadanobu's term, Koga Seiri was called to service during Nobuaki's time as senior councilor. **Compilation of the Kansei Genealogies** The compilation of the Kansei Revised Genealogies of Various Houses (Kansei Chōshū Shokafu), which I described in detail much earlier, can truly be called Nobuaki's achievement. This work followed the Kan'ei Genealogies and Jōkyō Records, correcting their errors and omissions. It has become the sole and most important source for the history of warrior families. This massive work consists of 1,525 volumes. Hotta Masaatsu, whom I mentioned before, was appointed as the chief editor, while Hayashi Jussai served as supervisor, and scholars like Narushima Shizhoku and Yashiro Kōken participated in the project. The work began in Kansei 11 and was finally completed in Bunka 9, taking fourteen years. Of these fourteen years, except for about two and a half years from December of Kyōwa 3 to May of Bunka 3, Nobuaki served as senior councilor throughout. I am convinced that Nobuaki's leadership and guidance played an indispensable role in this enterprise. **Compilation of Tokugawa Jitsuroki and Chōya Kyūbun Hōkō** Furthermore, the well-known compilation of the "True Records of the Tokugawa" and "Collection of Old Stories from Court and Country" also involved Jussai and Shizhoku. This project began in Bunka 6, when Nobuaki held the most influence as senior councilor, and was completed in Kaei 2. These too are massive works that remain important historical treasures for the Tokugawa period today. **Margin:** Toyohashi Mayor Ōguchi Kiroku has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling the Toyohashi City History for over a year, and now that the manuscript is nearly complete... [text unclear] **Left Page:** **Margin:** This Toyohashi City Historical Discourse is published once weekly (Tuesdays) and presented to readers of the Sanyo Newspaper. **Main Text:** I believe there were no other literary enterprises of such magnitude throughout that entire era. **Nobuaki and Inō Tadayoshi** Inō Tadayoshi's coastal surveys and creation of maps of our country also took place largely during Nobuaki's time in power. As I mentioned in the previous chapter, magnificent maps still remain with the Ōkōchi family today. Naturally, Nobuaki had significant involvement in this project as well. He was also the first to employ Ōta Kinjō as a Confucian scholar for his domain, but I plan to discuss Kinjō in detail in a later chapter. **Afforestation at Mount Nikkō** As I mentioned extensively before, the person who planted numerous cedar trees at Mount Nikkō and along its roads was Masatsuna, the uncle of Nobusuna. Since some of these cedar saplings died each year, the Ōkōchi family of Ōtaki, descendants of Masatsuna, had to work hard and spend money on replanting for generations. Following this ancestral legacy, Nobuaki also planned an afforestation project at Mount Nikkō in Kyōwa 1. A monument that Nobuaki erected at the afforestation site still exists, with the following inscription: "In the land called Kayano, located east of Harigaya Village in Kawachi District, Shimotsuke Province, south of the Ōya River, west of Shionoshi Village, and north of Yanoguchi Village, within boundaries of 25 chō and 8 tan, planted 150,000 pine and cypress seedlings. Also dug irrigation channels around them to prevent wildfires, hoping that with time they will grow thick enough to embrace, serving as materials for repairing the two mausoleums at Mount Nikkō." Unfortunately, I have not yet had the opportunity to see this monument myself, so I cannot state definitively whether it still exists today. However, according to someone's account, this forest has now flourished and become tremendously valuable. There are still many more stories about Nobuaki's achievements, but I would like to conclude this chapter after mentioning one or two more important matters. This concerns something from Nobuaki's much younger days, carried out in Kansei 7. As I mentioned before, following the corrupt Tanuma administration, society had become truly indolent, so there was great need to inspire the samurai spirit. For this reason, on March 5th of that year, Shogun Ienari personally led a great hunt at Kogane Plain. **The Hunt at Kogane Plain** **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Anecdotes of Matsudaira Nobuaki) 355